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新城麓界隈(垂水市新城)

鹿屋市から垂水市へは国道220号線を北西に走るが、鹿屋市花岡町から海岸のまさかり(地名)へ直接下りるバイパスが開通したので、古江町を通る車はめっきり減った。

 まさかり交差点をそのまま直進すると、200㍍ほどで「新城麓」交差点に差し掛かり、それを過ぎて100㍍余りで左にガソリンスタンドを見るが、その向かい側(山手)一帯が新城麓の中心だった「仮屋地区」である。828shinjoukaiwai_004

田んぼの中にビニールハウスの骨組みが建っているが、旧領主「新城島津家」の領主館はその後ろの方にあった。

 後方の岡には「松尾城跡」がある。828shinjoukaiwai_005

仮屋集落を流れるのが「馬形川」で、長さ数キロの小河川だが、新城麓の田園を潤す大切な川だ。(写真はその河口。錦江湾越しにうすく薩摩半島が見える)828shinjoukaiwai_006

「馬形橋」を渡り、ほんの50㍍も行くか行かない右手に細い路地が見える。

 これが「領主館」への道だ。(小さなコンクリート電柱の脇に白い道しるべがあるが、ほとんど用をなしていない)809shinjoukaiwai_002

150㍍ほど行くと、左手に石垣が並んでいる一角があるが、そこが領主館跡。(ただし案内板はない。真っ直ぐした道路は馬場を兼ねているようである。前面には田んぼが広がっている)809shinjoukaiwai_001

ただの空き地になっている領主館跡から、松尾城を望む。

 新城島津家が島津一門家の垂水島津家から分立したのは、江戸時代に入って30年ほどしてからだから、その頃、松尾城は廃城になっていた。

松尾城の建設者は島津氏に敗れた伊地知氏である。828shinjoukaiwai_007

領主館跡から元来た道を引き返し、再び国道に出て垂水方面に少し走ると、右手に二つの蔵のような建物が見えるが、その間の細い路地を入って行く。

後方の岡は松尾城の尾根の先端。またさらにうしろには高隅山系の白山が望まれる。828shinjoukaiwai_009

細い路地を抜けて行くと、きれいに舗装された道路に出る。これは旧大隅線の線路跡である。

 左手を眺めると左端に旧大隅線「新城駅跡」が見える。また写真の真ん中の墓地の一角には「新城島津家墓地跡」がある。

 さらに右手の岡の写真では切れているあたりには「新城様の墓」がある(後出)。828shinjoukaiwai_008

左手への道をとり少し行くと、「新城鉄道記念公園」の入り口に回る。ここに昭和62年まで「新城駅」があった。(大隅線開通から15年足らずの短いだお役目だったが・・・)

 公園の裏の山麓に、さっきの墓地がある。828shinjoukaiwai_010

墓地の入り口にちょっととまどったが、元来た道をやや引き返し、四辻に出たら左に細い墓への小道が見えたので上がってみる。

 仮屋集落の一般の墓地でもあり、墓石の間を縫うように行くと、島津家のは一番奥にあった。

 島津家とはいっても訳あって「末川姓」になっているが、ここは間違いなく新城島津家歴代の墓があったところである。828shinjoukaiwai_011_2

ここには「浄珊寺(じょうさんじ)」という寺が建っていた。

 例によって廃仏毀釈で壊されるが、寺があった証拠がこの石仏だ。文政9年(1826)に造られている。住職の供養仏だろう。809shinjoukaiwai_003 

墓地を出て、今度は「新城」の名の由来となった「新城様」の墓へ回る。

 さっきの墓地の後の岡の裏側にあり、約200㍍くらいで、左手に白い標柱が立っている。

 入っていくと比高にして7~8㍍の高さの所が、数百坪の広さで平らに開かれていた。

 新城様の墓の他に2基の大きな五輪塔が建っている。809shinjoukaiwai_005_2

この巨大五輪塔は歴代領主のうち二人のもので、「新城様」のは右手にロケットのように見えている。こちらのは「宝挟印塔(ほうきょういんとう)」である。

「新城様」とは初代新城島津家の当主「島津久章(ひさあき)」の祖母で、16代義久の次女であった。

 この姫が垂水島津家第3代・彰久(あきひさ)に嫁いだ際、「(化)粧田」(=持参金)3千石を持ってきたのを、子の第4代・久信にはやらずに、孫の久章にやって新しく家を興させたのだが、その「新城様」の居宅が新城島津家の領主館になり、当地も「新城」になった。浄珊寺も、かって亡き父・義久のために建てた「貫明寺」が改称されたもので、女性でありながら大活躍した人であった。809shinjoukaiwai_009

さっきの鉄道記念公園に戻り、正面から見て左手の山合いを入って行くと、石の鳥居が見え、石段を上がった所には、朱と白に塗り分けられた上品な感じの神社がある。

 これは「神貫神社(かみぬきじんじゃ)」で、新城地区の総廟と言われている。

 祭神は不明だが「神貫」とは「神主」のことだから、天孫降臨の「五伴緒(いつとものお)」の系統の神かと思われるが、不詳である。809shinjoukaiwai_008

境内の一角から、鹿児島湾の出口が望まれたのには驚いた。(左手が佐多岬方面。右手は指宿の魚見岳あたり)

 すぐ下は新城島津家墓地のある「浄珊寺跡」。びわの木が広がっている。828shinjoukaiwai_016

神貫神社を出て、田んぼの中を海岸へ向かうと再び国道220号線だ。

 右折して垂水方面へ少し行くと、右手に新城小学校がある。生徒数は少ないと思うが、今でも地域の中心の役割を果たしている(と思う。小学校はどの世代にとっても懐かしいので・・・)。809shinjoukaiwai_016

新城小学校の前をさらに行くこと100㍍弱、右手に消防団の建物があるが、その横の路地の奥に巨大な木が見える。

 アコウの大樹だ。高さは20メートルほどか。枝振りと言い、幹のよじれ具合と言い、なかなかの美樹である。樹齢はこれでも300年くらいで、大きさの割には若い。809shinjoukaiwai_013

そのアコウ樹とは目と鼻の先にあるのが「妙蓮寺」だ。この妙蓮寺も新城様が建立しているが、当時の宗旨は法華宗だったのだが、現在は浄土真宗である。

 廃仏毀釈で一度はつぶれたのを、明治以降、浄土真宗教団が再興したものだろうか。中身が違うからと言えば違うが、名だけは江戸の初期から続いていることになる。珍しい例には違いない。828shinjoukaiwai_013

妙蓮寺のある宇住庵を過ぎて、諏訪に入るとすぐ「小谷川」に差し掛かる。

 下を流れる小谷川は「松崎川」ともいい、新城ではしっかりとした流れである。

 川の周囲は比較的広い田園地帯になっている。828shinjoukaiwai_015

「新城諏訪」のバス亭付近からは、垂水方向に桜島の頭が少し見えていた(道路の延長に白い雲がまとまって浮かんでいるが、あれは桜島の噴煙)。828shinjoukaiwai_014

さらに行くと「宮脇のアコウ並木」だ。諏訪を過ぎて間もなく始まるアコウの並木は1キロほど続き、単調な国道の景観に、貴重な潤いを与えてくれる。(右手の国道の向こうは、垂水南中学校)

 並木を抜けた先は「柊原(くぬぎばる)」で、垂水地区に入って行く。

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政権選択か国策選択か

8月30日は衆議院議員選挙の投票日。

 今度の選挙は、あの小泉改革の本命「郵政民営化」を問うて行われ、自民党が圧勝した前の選挙とは全くおもむきを変え、民主党圧勝という見出しがメディアを席捲している。

 1955年(昭和30年)に「自由党」と「民主党」が合同して保守磐石の基盤を作り、戦後の政界をリードしてきた自由民主党が、今回大変な危機にさらされている。おそらく民主党優位は動かないだろう。

 民主党が政権をとれば、保守合同の逆の動きが遂行されることになる。しかも今回の立役者が、当時の鳩山、吉田両首脳の孫に当たる人たちなのであるから、歴史は繰り返すと言うべきか、「江戸の仇を、長崎で討つ」と言うべきか、はなはだ興味がある。

 しかし今度の各陣営のマニュフェストに踊る文字はちんまりとしている。特に少子化対策の「子ども手当て」などの「アメ」には閉口させられる。

 消費税を上げなければ資金の目途はつくまいに、民主党は「無駄を省けばよい」の一点張りだ。

 そもそも日本の「少子化」の原因は、「女も経済的自立を得てはじめて男女平等になるのだから、勉強して立派なキャリアウーマンにならなければならぬ」「子どもなど産んでいたら仕事上、男に遅れをとるから産まないほうがよい」というような戦後の浅はかな風潮にあったことを思い出さないといけない。

 今回、そのような視点で訴えている政党がなかったのは残念だ。

 女は唯一、男には逆立ちをしてもできないものを持っている。それが「子産み(お産)」だ。女の「お産」がなくなったら、人類は地球上からいなくなる。極論だが、真実だろう。

 「お産」を甘く見るな、子育てを甘く見るな。皆、そこを通って今があるではないか。

 先日のNHKの番組「心に残る歌謡曲」で、何が一番歌われていたかというと、「母」にまつわる歌だったのは、そのことを裏付けている。

 中でも二葉あき子の『岸壁の母』には泣けた。自分には無縁の出来事を歌っているのだが、「母の子を想う気持ちの純粋さ」に泣かされた。(誰か英語に訳して、世界中で歌うようにしてもらえぬものか・・・。この歌を聴いていたら、戦争をしようなどという気は起こらないに違いない)

 政権選択もいいが、国策(国家のビジョン)こそが大切で、日本は世界にどう貢献したいのかを明確に宣言してもらいたいものだ。

 歴史的に見ると、日本の特質は「融合」「融和」と言うに尽きる。何でも取り入れて自家薬籠中のものにしてしまう能力は際立っている。アメリカが人種の坩堝なら、日本は文化の坩堝だろう。音楽、絵画、文学そして宗教までもが、日本文化の基層に融合させられている。こんな国はそうざらにはない。

 外に向かって「融合」「融和」の旗印を掲げて、世界平和のために邁進することのできる国は日本をおいて他にない。政権のたらいまわしより、ここは大同小異で連携し、そのビジョンを遂行して欲しい。

 

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田崎神社の夏越し祭(鹿屋市田崎町)

旧暦の6月末日(29日)は今年は新暦で8月19日だったが、田崎神社では旧暦通りの「夏越し祭(なごしまつり)」が行われた。

 花岡町の高千穂神社でもそうだったが、6月末日は年の前半の穢れを祓う「夏越大祓い」の日である。かってはどこの神社や集落などでも 「みそぎぞ 夏のしるしなりける」 という古歌にあるように、禊ぎ祓いで身を清めて無病息災を祈る行事があったらしい。

 今日は水行の禊ぎはお目にかからなくなったが、祓いの神事は各神社で行われている。田崎神社(正式名:七狩長田貫神社=ななかりおさ・たぬきじんじゃ)ではまず拝殿で氏子総代などを中心に祓いの神事を行ったあと、神社から高須の浜へ下り、そこで再び夏越祓い神事を行う。819tasakijinjnagosimaturi_003

10時半から神事が行われるが、その30分も前に法被を着た中学生が7人、談笑していた。聞くと田崎中の2年生だと言う。

 この子達は今日の行事の中で、「はなたかどん」と呼ばれる7つの「神能面」を掲げ、道中の行列に参加するそうだ。819tasakijinjnagosimaturi_004

10時過ぎに、神事が始まった。819tasakijinjnagosimaturi_005

神輿の扉を開け、入神のための祝詞をあげる。819tasakijinjnagosimaturi_006

町内会長ら氏子代表が玉串奉奠をする。819tasakijinjnagosimaturi_007

拝殿での神事が20分ほどで終わったあと、いよいよ巡行に出発。

 竹ほうきに似た物を持った「露払い」を先頭に、拝殿を後にする。

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中学生7人の掲げた「はなたかどん」は、田崎神社の正式名の「七狩長(ななかりおさ)」の象徴であるという。

 鼻が高いので「はなたかどん」だが、どうも天孫降臨の時にニニギ命一行の前に現れた「国津神・サルタヒコ」の故事に付会した面の造りのように思われる。

 「浜下り」は「天下り」ではないかと考えた果ての推論だが、いかに・・・。

 後ろに見える巨大な木の幹は大クスで、樹齢900年である。田崎神社本殿の由来は京都の加茂神社の分社というが(神社再建の棟札には鹿屋を支配した肝付支族・鹿屋兼明の永正元年=1504年=のがあったというので、再建後少なくとも500年は経っている)、この七狩長の時代から霊地として存在したのではないか、という思いも頭の中をよぎる。

 本殿の横に「西宮」(えびすさん)があるが、祭神コトシロヌシは天孫降臨より前に国譲りをしたオオクニヌシとは兄弟で、そうなるとサルタヒコ以前の話だ。819tasakijinjnagosimaturi_009

神輿が鳥居を出ると、昔ならそのまま担がれて行ったそうだが、今は軽トラックに載せられて「浜下り」に移る。819tasakijinjnagosimaturi_010

神社から車に揺られて到着した先は「高須三文字」という交差点の手前だった。

 ここから高須の旧国道220号線にそって、町の中を練り歩いていく。

 左手に見える岡には高須の総廟「波之上神社」がある。

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高須川に架かる「高須大橋」を渡る一行。819tasakijinjnagosimaturi_013

波之上神社前を通る。819tasakijinjnagosimaturi_014_2

高須三文字交差点から、ほぼ一直線に1キロばかり、国道が大きく左へカーブする所から海辺に向かう(白い建物は高須駐在所)。 819tasakijinjnagosimaturi_015

高須の浜はすぐ目の前だ。819tasakijinjnagosimaturi_016_2

海水浴場の砂浜を通って、右手に見える岡の麓まで行く。

 大潮でしかも干潮とあって、海水浴客はほとんどいない。819tasakijinjnagosimaturi_017

岡の麓とは言っても、岡とは独立した小さな岩礁(赤色凝灰岩)の手前で一行は止まった。819tasakijinjnagosimaturi_019

岩礁の手前の側面に神輿が置けるだけのスペースが設けてあり、うまく収まった。

 七面のはなたかどんもやれやれといった表情をしている(?)。819tasakijinjnagosimaturi_018

左に目をやると、いつもなら潮が洗っている「立神岩」も、歩いていけそうに見える。819tasakijinjnagosimaturi_023

11時半きっかりに、浜辺での神事が始まった。819tasakijinjnagosimaturi_024

隣りでかしこまる子どもたち。

 祓い清めの修祓や祝詞奏上、玉ぐし奉奠など20分ほどの神事のあいだ、チビちゃんたちがこのままの姿勢でいるのには感心させられた。819tasakijinjnagosimaturi_025

高須地区の氏子総代たちが玉串を奉奠する。819tasakijinjnagosimaturi_026_2

珍しいのは「遺族代表」の玉串奉奠だ。最初「遺族」と聞いたとき、終戦記念日も近いので「戦争遺族」のことかと思ったが、よく聞くと「初盆遺族」なのであった。

 要するに去年の盆以後に亡くなった人の遺族で、その代表者が玉串を捧げて、故人の冥福をいのるのだ。

 これは珍しい。よく祭事で一緒になる肝付町のKさんに話すと、旧暦6月末日がお盆の頃(旧盆)に重なり、それに故人や残された者の「大祓い」の意味が加味されたのだろう、とのことだが、同感である。819tasakijinjnagosimaturi_027

すべての神事が終了すると、参列者がビニール袋を持って神輿の横に集まっていった。お供え物をもらって帰るのかと思ったが、近寄ってみると三角すいに積み上げた砂を崩して袋に入れている。

 いったい何を? と近くの人に尋ねると、この砂を洗面器に入れ、それに水を満々と張って家の周囲に笹の葉で振り掛けて回ると言う。

 なるほど清めの意味だろうと合点する。『魏志倭人伝』に倭人の習俗として――死者を出した家では10日余りのモガリの後に死者を埋葬してから、一家揃って水辺で「操浴する」――とあるが、そんな遠い昔のことがかすかに思い出された。

 このあとそれら遺族を中心に故人をしのぶ「宴会」のような昼食となったようである(上のKさんの報告による)。

 仕事があったので最後までは見られなかったが、帰路はやはり車で戻り、田崎地区に入って一箇所の「御旅所」において神事を行い、その後は練り歩いて神社に戻ったそうだ。

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ツバメの集団(鹿屋市下堀町)

朝6時頃に起きるのが習わしだが、庭に出てきのう定植した菊の苗に水をやり、愛犬ビータローに餌をやったあと寝室に戻り、北の窓を開けると、何やら向こうの電線に黒い小さな物がたくさん見える。

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どうやらツバメのようだ。急いでデジカメを取りに行き、4倍の望遠で写したが、ぼけてしまった。

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仕方がない、あわてて家を飛び出し、県道の向こうの電線にとまっているのを写した。

 電柱から手前に伸びる5本の電線に、まるで「目白押し?」だ。

 朝日を正面に見て、ツバメは何かを語りあっているように見える。818tubame_003

朝夕がだいぶしのぎ易くなってきたためか、一族郎党で南へ帰る相談でもしているのだろう。

「子どもたちも大きくなったから、そろそろ帰らなくてはならんなあ」

と親ツバメ。

「とうちゃん、まだ早か! 3000キロも飛び続ける自信は、無か!」

 と鹿児島生まれの子ツバメ。

「それは飛んでみないと分からないよ。飛ぶうちに、どんどん羽の力もついてくるさ」

「そげんもんな。とうちゃんも去年はそげんじゃったとお?」

 と鹿児島っ子の子ツバメ。

「そうだったよ。なんくるナイサー(おっと、これは沖縄方言で、「なんとかなるさ」)」

 親ツバメは去年、鹿児島から沖縄を経て、海南島や台湾、ボルネオ方面に帰っていたので、沖縄方言も達者だったのだ。(???)

 秋冷とともに去ってゆくツバメたちよ。また来年おいで。

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イチジクの豊作

庭の南西に植えたイチジクが、どうやら豊作のようである。813ichijiku_001

去年もかなり実ったが、気温が高過ぎたせいか、赤く熟れてはすぐにパカッと割れ、そこに蜂やらアリがたかってしまい、食えたもんではなかった。

 今年はやや低温が利したものか、赤くなってもすぐには割れない。813ichijiku_002

このイチジクは6年前に家を新築したときに植えた。その前の借家時代に、ある通信販売で手に入れ、借家時代にはバケツ植えしていたものだ。

 新築後に庭造りの第一号果樹として今の場所に移植したのだが、その時の丈はわずかに7~80センチほどだった。

 植えつけた3本のうち、2本がもう5メートルを超えている。

 奥に見える「オオバベニガシワ」の葉が薄汚れ、しょぼくれてくるのとは対照的に、次々に枝を伸ばしては、みずみずしい新葉を広げている。

 土が合ったのか、気候に合ったのかはイチジクに聞かないと分からないが、今のところ病害虫にも遭わず、元気そのものだ。813ichijiku_004

大きいのは直径6センチ、長さ8センチにもなっている。

 彩り鮮やかで見ているだけでも面白い。

 2日くらい冷蔵庫で冷やしたのを食べると、水っぽさが取れて甘味が増す。

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浦上天主堂撤去の「密約」

昨夜のKKB(朝日テレビ)で、「長崎への原爆投下で無残にも破壊され、その残骸が13年もの間さらされていた『浦上天主堂』が、昭和33年に完全撤去されて建て替えられたのは、アメリカと長崎市との間の密約による」という内容の特集が放映された。

 「密約」とは物々しいが、要するにキリスト教国であるアメリカが、よりによってキリスト教徒が多く、教会等の施設も多い長崎市に原爆を投下し「キリスト教を信仰する無辜の民」を殺戮したことが世界に「バレる」のを封じたかった――ということのようである。

 そういう密約があったことを当の長崎市民は知らされていないらしく、多くの市民が不信感を述べていた。

 2個目のリトルボーイを積んだエノラ・ゲイは、軍事施設が多くエネルギー産業も盛んだった福岡県の小倉を第一目標にしていたが、8月9日の投下予定時間帯に小倉が厚い雲に覆われていたため、同じく軍事施設や軍需工場などを抱えている長崎を第二目標(候補)として落としたのであった。

 同じ長崎でも海軍軍港のあった佐世保ではなく、県都でもあり、より人口の多い長崎なら殺傷者数が多く、日本に大きな打撃を与えられると判断しての投下だった。

 その長崎が日本でも稀に見るキリスト信仰の土地であったことを、アメリカ側は知らなかったらしい(いつものことながら、敵を知らぬアメリカよ)。

 『浦上天主堂』の破壊は、神父2名を含む信者数千人の命も奪う結果となり、戦後すぐ「原爆投下は対日戦争の終期を早め、犠牲者を少なくするためだった」というプロパガンダで日本人および世界世論を封じ込めようとしたアメリカにとって、致命傷になりかねなかった。

 長崎市は「戦争の惨禍」を世に伝えるため、残骸のまま残しておきたかったようだが、アメリカ首脳部が撤去を急がせたそうである。<キリスト教を根底に据えた自由主義国アメリカが、いくら自由とはいえ、同じ信仰を貫く長崎のキリスト信者をみすみす焼き殺した>とあっては大国アメリカの名が廃るからだろう。

 あれが『浦上天主堂』でなく、仏教寺院だったり神社であったら、何の音沙汰もなかったろう。現に広島の旧『産業奨励館』(原爆ドーム)には何のお咎めもない。身勝手なものだ。

 日本人には宗教上の差別ないし差別感はほとんどないが、アメリカをはじめとする欧米(列強)では、いまだに「キリスト教こそが上位宗教」といった雰囲気が強い。雰囲気というより「囚われ」と言うべきか。

 日本も戦時中は「皇国主義」に染まりすぎて、朝鮮や台湾などで神社建設と参拝強要に走ってしまったが、といって各地の民俗宗教を弾圧したわけではない(むしろ国内の大本教などへの弾圧が熾烈だった)。

 宗教にはいたって寛容なのが本来の日本人だ。なにしろ日本の古神道には「教祖」がおらず、宗派を興す弟子もいないから「喧々囂々」の宗派論争などとも無縁だ。

 仏陀(シャカムニ)を教祖とする仏教は、公式には「欽明天皇13年(552年)10月」に「百済の聖明王が、釈迦仏の金銅像一体と経論を献じてきた」のが最初の伝来だが、それ以降、仏弟子たちの解釈によりあまたの宗派が生まれ、時には宗論や対立を生んできた。

 神道はそれに巻き込まれて、やれ「本地垂迹」だとか「反本地垂迹」だとかいう争論は起きたが、「いわしの頭も信心から」とか「心こそ誠の道に適うなら」といったように「神ながらの心」が大事(根幹)なのであって、あとは枝葉末節のことと捉える傾向が強い。これこそが世界宗教、いや「世界の心」だろう。

 こういう「世界の心」を持った日本を大切にして行きたい。

 今日は、――不幸にして英米という列強を相手に戦い、敗れはしたが、東洋はじめ多くの植民地と差別されてきた有色人種解放への大きなステップとなった「太平洋戦争」――の終結記念日。未来永劫、人種差別・宗教差別による争いの無いことを願う。

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瀬戸内の豪雨・東海の地震

このところ不順な天候続きだが、山口県防府市で8月2日から始まった「ミゾユー(未曾有=みぞうう)」の豪雨は、同じ瀬戸内海沿いの兵庫県の山間部に飛び火した。

 今のところ兵庫県佐用町を中心に、死者14名、行方不明16名、合計で30名ほどの被害者を出しているようだが、いつもなら雨の少ないはずの瀬戸内の人々にとってはまさに「寝耳に水」だろう。

 平成5年の鹿児島大風水害では死者は100名を優に超えたが、毎年夏から秋にかけて風水害で10~20名が犠牲となっている鹿児島に比べ、瀬戸内で30名というのは、これまでほぼゼロだったことを考えると、文字通り「前代未聞」の椿事といってよい。

 気の毒を通り越して、いったいこれからどうなるのか、という地球全体の異常気象に思いが馳せる。

 そんなことを思い浮べている矢先に、今度は「駿河湾沖地震」だ。8月12日5時7分発生。最大震度6弱、マグニチュード6,5。こちらは「寝耳に大揺れ」だったようだ。

 死者1名、負傷者120名弱、で済んだ、と言うべきだろうか。しかしこの地震は「判定会議」によると、怖れられている「東海地震」とはメカニズムの違う地震だったらしい。しかし素人目でも全く同じ領域で起きていることなのであるから「関係ネー」はないだろうと思う。

 どっちにしても、あの「安政大地震」(安政2=1855年)以来、150年鳴りを潜めていた東海地震の震源域が目を覚ました、もしくは目を覚ましつつある前兆と捉えて構わない。備えあれば憂いなし―で、今度の地震を期に、一段と備えの態勢をとっておくに越したことはない、必ずやって来るのだから。813ichijiku_005

テッポウユリが風に揺れる(玄関先にて)

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浜田海水浴場(鹿屋市浜田町)

台湾へ上陸した台風8号の遠い影響か、日が差したり曇ったり、今にも雨が降り出しそうになったりと妙な天気だ。湿度が高いので、家の中で少し動いても汗をかく。

 昼飯に残り物のおかずでと思い、冷蔵庫を覗くと「なめこパック」があった。急になめこ汁が食べ(飲み)たくなり、高校野球をちらほら見ながら、鍋を用意して作ってみた。われながら「グー!」な出来栄えであった。

 しかしふうふう言いながら飲み終えると、汗だくになってしまった。それで高校野球の第一試合「常総学院対九州国際大付属」で、九州国際大付属が勝ったのを見届けてから、海水浴に行くことにした。

 浜田海水浴場は、わが家から15分ほどの錦江湾(鹿児島湾)沿いにある。

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今では珍しい黒松が海岸に沿って2~300メートルは立ち並ぶ、昔なつかしい海水浴場だ。808hamadakaisuiyokujou_001

北の方の湾曲した部分には「高須海水浴場」もある。車で5分もあれば行ける。

 よく見ると、海に突き出た岬の付け根のはるか向こうに、桜島が望まれる。南岳の噴煙が頂上を覆っているようだ。808hamadakaisuiyokujou_003

西の薩摩半島に目をやると、開聞岳が美しい。

 その右の台形の島は指宿の「知林ヶ島」で、干潮時には砂州で陸続きになることで知られている。808hamadakaisuiyokujou_004

帰省客が多いのか、単に土曜日だからか、結構な人の出だ。5,60人はいるだろう。

 これで多い方、と聞いたら湘南ボーイは「ひったまがる」(驚く)に違いない。

 夏休みとはいえ、週日だったら、まず15,6人が関の山だ。

 一時間ばかり、泳いだり、ぷかぷか浮いたり、時には規制ブイ近くまで泳いできた子どもに注意したり、とすっかり汗もひいたところで、松林に上がった。湯加減(?)はちょうどよく、塩湯の冷泉に入ったような気分だ。

 帰りに浜田地区の田んぼ地帯を通ると、ちょうど脱穀をしている光景に出くわした。808hamadakaisuiyokujou_006

農家の人は知るまいが、この田園地帯、1000年以上昔は「潟湖(ラグーン)」だった。

 さっきの黒松の海岸が波よけとなるうえ、浅いので、船を係留するには絶好の場所だったのだ。

 ここで船を捨て、向こうの7~80メートルの丘を越えると、そこは「大姶良平野」であり、南北朝時代の攻防の城「大姶良城」が築かれていた。

 島津家第6代氏久(陸奥守)の居城であり、子の第7代元久はそこで生まれている。808hamadakaisuiyokujou_007

ハーベスター(脱穀機)を操る田んぼの主に聞くと「早期米の実入り(収量)はまずまず」とのこと。

 盆の帰省者には、さっそくこの新米がふるまわれることだろう。

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広島・長崎原爆忌

オバマ大統領が「世界で初めて(広島・長崎へ)核兵器を使用した道義的責任を感じている」とのプラハ声明を出したというのに、「エノラ・ゲイ」機の搭乗者で生き残っている人物は、相変わらず「原爆を使用することで、太平洋戦争の終結を早めた。日本占領時の犠牲者が少なくて済んだ。謝罪する必要はない」と言ってはばからない。

 それなら聞くが、なぜ軍事施設に限定して落とさなかったのか? なぜ学校も病院も何もかも民生用に存在する一般都市のど真ん中に落としたのか? 

 紛れもなく「戦時国際法」違反だ。無辜の大衆が死傷するような場所に対する戦闘行為は避けなければならないのが原則だ。

 勝てば官軍で、何をやっても構わないでは済まない。打った弾が「勢い余って非戦闘区域に飛び込み、仕方なく死傷者を出してしまった」といったレベルの問題でもない。

 人類史上稀な「残虐非道」が行われたのだ。明らかに一般住民の暮らす町のど真ん中を狙い済まして落としたのが「核弾頭リトル・ボーイ」で、その結果どのようなことになるかも、先刻ご承知の「人体実験」が目的だったろう。そこには有色人種(非白人)への蔑視が横たわっていたのだ。

 まさに、ナチスの「ユダヤ人大虐殺」に匹敵する「非道」であった。

 『江戸の仇を、長崎で討つ』ということわざがあるが、アインシュタインやトルーマンなどユダヤ人が、「ユダヤ人大虐殺を行ったナチスへのあだ討ちを、日本人へ。それも広島・長崎で討った」のだとすると、奇妙にも<長崎>が符合するから不思議だ。いや、不思議というより、身の毛がよだつ。

 こんなことは、もうこれっきりにしてもらいたい。オバマ大統領のような非白人は、自身の体験から「あんなひどいことをしたのは、有色人種である日本人に対する差別があったからだ。どう考えても、同じ白人に対してはしなかったろう。恥ずかしいことだ」と、今度アメリカの指導者として初めて「道義的な罪」は認めた。

 もちろん「実質的な罪」は認めようとしないだろう。認めたら、被爆者から「損害賠償請求」が出されるからだ。その額は天文学的な数字になるはずだ。

 エノラ・ゲイの生き残り搭乗者が、いつまでも「戦争終結を早め、犠牲者を少なくした」と言い張るのであれば、たとえば広島・長崎で雲散霧消した死者のうち、罪の無い児童生徒を原告にして「損害賠償」を国際司法裁判所へ訴える手もある。

 児童生徒自身にはアメリカへの怨念はなかろうが、そうすることが世界平和を希求する国際世論を喚起する大きな手立てにはなるだろう。

 

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裁判員より政治裁判員を!

鳴り物入りで始まった「裁判員制度」。

きょう東京地裁で、裁判員が臨む初の公判が開かれた。

戦前に一時あった「陪審員制度」、戦後間もないころ開かれたという名前も同じ「裁判員制度」は、いずれも長続きしないで終わった。

 なぜか?結局、適用すべき「法律」が、ややこしいというより解釈上、感情移入がしにくいようにわざと回りくどく、しかも難解な語彙で書かれているからだ。要するに単刀直入ではないので、普通の感情をもった世の人々の共通認識に全くなりえていない――ことが挙げられる。

 さらには、「盗人にも五分の魂」のことわざ通りで、殺人者にもそれなりの理由があるから「無下には極刑は適用できない」という風潮と三審制度が、公判を延々と長引かせている。「災害は忘れたころにやって来る」ではなく、「判決は忘れたころにやっと出る」という「遺族感情を無視した(舐め切った)」公判ののろさが批判され続けてきた。

 以上の経緯から「裁判を分かりやすく、迅速に」をモットーに、裁判員制度が制度化されたわけだが、20歳以上の一般国民なら誰でも裁判員に選ばれたら法廷で人を裁かなければならない――という「義務制」は勇み足だったように思う。

 せめて「登録制」もしくは「志願制」にすればよかったのだ。

 というのは、そもそも裁判に臨むのは「司法試験」に合格したエリートであるわけで、その彼等がなぜ「分かりやすく、迅速に」できなかったのかについての十分な議論はなされていない。おかしいではないか?彼等こそ自白・証拠・証人尋問を取った上での「論点整理」はお手の物ではないか?「論点整理」したうえで、それを「ポイント化」して判決を下せばよいことだろう、感情移入せずに。

 まさか裁判を長引かせて 

 ①極刑を臨む市民感情が和らぐまで待って極刑を出さない ②弁護士とぐるになって「仕事」を確保し続ける

 のではないか・・・。そう勘繰りたくもなるこれまでの裁判であった。

 「論点整理のポイント化による自動判決」を考えて欲しい。

さて、裁判員制度よりもっと役に立つ制度がある。それは「政治裁判員制度」だ。

選挙の時だけ有権者に大騒ぎさせておいて、当選したら知らん顔の政治では「国民主権」が泣く。

「政治裁判員」は当選者の任期中の実績を吟味するのを仕事とする。これには20歳以上の有権者だれが選ばれても差し支えないはずだ。

「政治裁判員」が「裁判員」と紛らわしければ、「政治評定員」とでもすればよいだろう。

 

 

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高千穂神社の夏越し祭り(鹿屋市花岡町)

7月31日は鹿屋市の花岡町に鎮座する「高千穂神社」の夏越(なごし)祭りが行われた。

高千穂神社は祭神「ニニギノミコト」で、花岡郷の旧郷社。731takachihojinjanagoshimaturi_019

花岡郷は享保9年(1724)に、花岡島津家が第20代藩主・綱貴の二男・忠英(久とも=人偏に寿の旧字)によって創設されてから生まれた新郷で、それまでは木谷村といった。

 明治維新までに7代続いたが、2代目久尚の正室・お岩(岩子夫人)が最も有名である。

 彼女はこの地方に水流が少なく、田が開かれないのを見かねて高須川上流から4キロの水路を造らせている。

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拝殿前の手水舎に「夏越大祓い」のノボリが立つ。731takachihojinjanagoshimaturi_013

本殿は1680年代に造られたといい、330年近く経つにしては優美なつくりだが、これまで何回も来ているのに屋根の突端に鬼の面(鬼瓦?)が据えられているのに今日はじめて気付いた。

 かなり大きな代物で、瓦葺時代の名残かもしれない。731takachihojinjanagoshimaturi_011

その鬼瓦の下、横壁の真っ赤に塗られた垂木を眺めて、またびっくり。

 垂木の下の桁に歯を食い込ませるかのように「小鬼面」が刻まれている。こんなのは見たことがない。

 よほど魔除けが必要だったのだろうか?それにしても造った宮大工の工夫は面白い。731takachihojinjanagoshimaturi_015

神事が始まったのは8時半だった。

 花岡地区の氏子・崇敬者が集まったところで、まずは一礼から。731takachihojinjanagoshimaturi_018

修祓のあと、大祓詞(おおはらいのことば)が神主から読み上げられた。大祓詞はゆっくりと全部唱えると15分から20分はかかる。

 今日は「夏越大祓(なごしのおおはらい)」の祭礼とあって、省略することなく読み上げられた。

 そのあと町内会長など氏子代表が数人、玉串を奉奠して直会となる。731takachihojinjanagoshimaturi_020

拝殿での神事が終わると、神輿の巡行だ。花岡の麓に当たる古江港まで「浜下り」に出ると言う。

 昔は(40年位前まで)、神輿は若者が担ぎ、町内を練り歩きながら古江の海岸まで下ったそうだ。

 この祭礼は曜日に関係なく「7月31日」と決まっているため、「若者が居ないわけではなく、勤めの関係で人が集まらない」ので、こういう形になった、という。731takachihojinjanagoshimaturi_025

スピーカーを取り付け、太鼓を載せた軽トラの前でそろいの法被を着る。731takachihojinjanagoshimaturi_026

3台の軽トラックにすべてを載せ込み、浜下りの準備が整ったのは10時。

 さあ、いよいよ出発だ。731takachihojinjanagoshimaturi_029

神楽の音を流しながら一行が集落の中を進んでいくと、人々が角々に待っていて、賽銭箱に何がしかのお金を投げ入れ、その代わりに御幣の付いた榊を一本もらう。731takachihojinjanagoshimaturi_030

花岡地区を10分ほど巡行した後、一行は急坂を下り、古江の西北部・小島地区のはずれの海岸に到着。

 向こうの小山は「弁天島(山)」だそうだ。準備の間に登ってみると、頂には小さな祠がぽつんと立っていた。

 かってここは島だったのではないかと思う。731takachihojinjanagoshimaturi_033

「古江西町」の崇敬者・集落代表者の人たちが、準備のできた祭壇の前に頭を垂れて神事が始まる。

 内容はさっき拝殿で行われたのと同じだ。731takachihojinjanagoshimaturi_036

出席者が次々に参拝(玉串奉奠)をして、神事は無事終了する。

 このあと直会(なおらい)で、しばし歓談の時を過ごし、再び巡行に移る。

 昔はここで神舞などがあったそうだが、若者が居なくなってからはやっていない、という。731takachihojinjanagoshimaturi_040

一行は海沿いに展開する小島地区を、次の目的地「御座所」に向かって進む。

 道々、神主は手にした水を笹の葉で撒きながら行く。

「露払い」だそうだ。731takachihojinjanagoshimaturi_041

古江の港を中心に、ゆるやかに町内をまわり、その途中にある「高千穂神社・御座所」で小休止。

 ここは御祭神「ニニギノミコト」が、霧島に降臨した後、この地まで巡行し、石に腰を掛けてから薩摩半島の阿多の笠沙に向かって出発した所だそうだ。

 かってはこのあたりまで海岸で、「石」はもう無くなりかけてはいるが、まだちょこんと顔を覗かせていた。(右手のお父さんの直下のコンクリートに小石が4つ置かれているのが見えるが、その4つの小石の真ん中に守られている。赤っぽい凝灰岩のようだ)731takachihojinjanagoshimaturi_043

現在の古江港。古江は大隅半島と薩摩半島を結ぶ拠点だった。(写真の岸壁から、かっては鹿児島への定期船が出ていた)

 ニニギノミコトがここから笠沙へ渡ったとすれば、2000年も前のことだが、神話の真偽は別として、その頃ここから薩摩半島への手漕ぎ舟の航路があったことを否定する理由はない。

 高千穂神社の浜下りは「ニニギノミコトの浜下り」と言ってよく、であれば「浜下り」は実は「天下り」のことなのかもしれない。

 一行は近くの「みなと公園」で昼食を兼ねた大休止をとったあと、花岡まで帰るという。途中の神事はもうないとのことなので、一足先に帰ることにした。

 

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