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新城麓界隈(垂水市新城)

鹿屋市から垂水市へは国道220号線を北西に走るが、鹿屋市花岡町から海岸のまさかり(地名)へ直接下りるバイパスが開通したので、古江町を通る車はめっきり減った。

 まさかり交差点をそのまま直進すると、200㍍ほどで「新城麓」交差点に差し掛かり、それを過ぎて100㍍余りで左にガソリンスタンドを見るが、その向かい側(山手)一帯が新城麓の中心だった「仮屋地区」である。828shinjoukaiwai_004

田んぼの中にビニールハウスの骨組みが建っているが、旧領主「新城島津家」の領主館はその後ろの方にあった。

 後方の岡には「松尾城跡」がある。828shinjoukaiwai_005

仮屋集落を流れるのが「馬形川」で、長さ数キロの小河川だが、新城麓の田園を潤す大切な川だ。(写真はその河口。錦江湾越しにうすく薩摩半島が見える)828shinjoukaiwai_006

「馬形橋」を渡り、ほんの50㍍も行くか行かない右手に細い路地が見える。

 これが「領主館」への道だ。(小さなコンクリート電柱の脇に白い道しるべがあるが、ほとんど用をなしていない)809shinjoukaiwai_002

150㍍ほど行くと、左手に石垣が並んでいる一角があるが、そこが領主館跡。(ただし案内板はない。真っ直ぐした道路は馬場を兼ねているようである。前面には田んぼが広がっている)809shinjoukaiwai_001

ただの空き地になっている領主館跡から、松尾城を望む。

 新城島津家が島津一門家の垂水島津家から分立したのは、江戸時代に入って30年ほどしてからだから、その頃、松尾城は廃城になっていた。

松尾城の建設者は島津氏に敗れた伊地知氏である。828shinjoukaiwai_007

領主館跡から元来た道を引き返し、再び国道に出て垂水方面に少し走ると、右手に二つの蔵のような建物が見えるが、その間の細い路地を入って行く。

後方の岡は松尾城の尾根の先端。またさらにうしろには高隅山系の白山が望まれる。828shinjoukaiwai_009

細い路地を抜けて行くと、きれいに舗装された道路に出る。これは旧大隅線の線路跡である。

 左手を眺めると左端に旧大隅線「新城駅跡」が見える。また写真の真ん中の墓地の一角には「新城島津家墓地跡」がある。

 さらに右手の岡の写真では切れているあたりには「新城様の墓」がある(後出)。828shinjoukaiwai_008

左手への道をとり少し行くと、「新城鉄道記念公園」の入り口に回る。ここに昭和62年まで「新城駅」があった。(大隅線開通から15年足らずの短いだお役目だったが・・・)

 公園の裏の山麓に、さっきの墓地がある。828shinjoukaiwai_010

墓地の入り口にちょっととまどったが、元来た道をやや引き返し、四辻に出たら左に細い墓への小道が見えたので上がってみる。

 仮屋集落の一般の墓地でもあり、墓石の間を縫うように行くと、島津家のは一番奥にあった。

 島津家とはいっても訳あって「末川姓」になっているが、ここは間違いなく新城島津家歴代の墓があったところである。828shinjoukaiwai_011_2

ここには「浄珊寺(じょうさんじ)」という寺が建っていた。

 例によって廃仏毀釈で壊されるが、寺があった証拠がこの石仏だ。文政9年(1826)に造られている。住職の供養仏だろう。809shinjoukaiwai_003 

墓地を出て、今度は「新城」の名の由来となった「新城様」の墓へ回る。

 さっきの墓地の後の岡の裏側にあり、約200㍍くらいで、左手に白い標柱が立っている。

 入っていくと比高にして7~8㍍の高さの所が、数百坪の広さで平らに開かれていた。

 新城様の墓の他に2基の大きな五輪塔が建っている。809shinjoukaiwai_005_2

この巨大五輪塔は歴代領主のうち二人のもので、「新城様」のは右手にロケットのように見えている。こちらのは「宝挟印塔(ほうきょういんとう)」である。

「新城様」とは初代新城島津家の当主「島津久章(ひさあき)」の祖母で、16代義久の次女であった。

 この姫が垂水島津家第3代・彰久(あきひさ)に嫁いだ際、「(化)粧田」(=持参金)3千石を持ってきたのを、子の第4代・久信にはやらずに、孫の久章にやって新しく家を興させたのだが、その「新城様」の居宅が新城島津家の領主館になり、当地も「新城」になった。浄珊寺も、かって亡き父・義久のために建てた「貫明寺」が改称されたもので、女性でありながら大活躍した人であった。809shinjoukaiwai_009

さっきの鉄道記念公園に戻り、正面から見て左手の山合いを入って行くと、石の鳥居が見え、石段を上がった所には、朱と白に塗り分けられた上品な感じの神社がある。

 これは「神貫神社(かみぬきじんじゃ)」で、新城地区の総廟と言われている。

 祭神は不明だが「神貫」とは「神主」のことだから、天孫降臨の「五伴緒(いつとものお)」の系統の神かと思われるが、不詳である。809shinjoukaiwai_008

境内の一角から、鹿児島湾の出口が望まれたのには驚いた。(左手が佐多岬方面。右手は指宿の魚見岳あたり)

 すぐ下は新城島津家墓地のある「浄珊寺跡」。びわの木が広がっている。828shinjoukaiwai_016

神貫神社を出て、田んぼの中を海岸へ向かうと再び国道220号線だ。

 右折して垂水方面へ少し行くと、右手に新城小学校がある。生徒数は少ないと思うが、今でも地域の中心の役割を果たしている(と思う。小学校はどの世代にとっても懐かしいので・・・)。809shinjoukaiwai_016

新城小学校の前をさらに行くこと100㍍弱、右手に消防団の建物があるが、その横の路地の奥に巨大な木が見える。

 アコウの大樹だ。高さは20メートルほどか。枝振りと言い、幹のよじれ具合と言い、なかなかの美樹である。樹齢はこれでも300年くらいで、大きさの割には若い。809shinjoukaiwai_013

そのアコウ樹とは目と鼻の先にあるのが「妙蓮寺」だ。この妙蓮寺も新城様が建立しているが、当時の宗旨は法華宗だったのだが、現在は浄土真宗である。

 廃仏毀釈で一度はつぶれたのを、明治以降、浄土真宗教団が再興したものだろうか。中身が違うからと言えば違うが、名だけは江戸の初期から続いていることになる。珍しい例には違いない。828shinjoukaiwai_013

妙蓮寺のある宇住庵を過ぎて、諏訪に入るとすぐ「小谷川」に差し掛かる。

 下を流れる小谷川は「松崎川」ともいい、新城ではしっかりとした流れである。

 川の周囲は比較的広い田園地帯になっている。828shinjoukaiwai_015

「新城諏訪」のバス亭付近からは、垂水方向に桜島の頭が少し見えていた(道路の延長に白い雲がまとまって浮かんでいるが、あれは桜島の噴煙)。828shinjoukaiwai_014

さらに行くと「宮脇のアコウ並木」だ。諏訪を過ぎて間もなく始まるアコウの並木は1キロほど続き、単調な国道の景観に、貴重な潤いを与えてくれる。(右手の国道の向こうは、垂水南中学校)

 並木を抜けた先は「柊原(くぬぎばる)」で、垂水地区に入って行く。

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コメント

新城に30年くらい前にすんでいました。
神貫神社でもよくあそんでいました。
神殿の右側戦没者の慰霊碑のところから少しくだると
空堀があったのをおぼえています。
また 神社の右側から道をのぼって山頂までいくと(約15分)
佐多岬 新城海側一帯 桜島 高隈連山が一望できます。
馬おいのときはここに旗をたてました。その時は各集落(麓、大浜、大都、浦川内、諏訪、宮脇等)ごとの山に旗をたてる
ので、それも一望できました。
今は、人もいないのでやってないでしょうね。寂しくなりました。

投稿: tanaka | 2009年9月11日 (金) 14時11分

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