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高千穂神社の夏越し祭り(鹿屋市花岡町)

7月31日は鹿屋市の花岡町に鎮座する「高千穂神社」の夏越(なごし)祭りが行われた。

高千穂神社は祭神「ニニギノミコト」で、花岡郷の旧郷社。731takachihojinjanagoshimaturi_019

花岡郷は享保9年(1724)に、花岡島津家が第20代藩主・綱貴の二男・忠英(久とも=人偏に寿の旧字)によって創設されてから生まれた新郷で、それまでは木谷村といった。

 明治維新までに7代続いたが、2代目久尚の正室・お岩(岩子夫人)が最も有名である。

 彼女はこの地方に水流が少なく、田が開かれないのを見かねて高須川上流から4キロの水路を造らせている。

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拝殿前の手水舎に「夏越大祓い」のノボリが立つ。731takachihojinjanagoshimaturi_013

本殿は1680年代に造られたといい、330年近く経つにしては優美なつくりだが、これまで何回も来ているのに屋根の突端に鬼の面(鬼瓦?)が据えられているのに今日はじめて気付いた。

 かなり大きな代物で、瓦葺時代の名残かもしれない。731takachihojinjanagoshimaturi_011

その鬼瓦の下、横壁の真っ赤に塗られた垂木を眺めて、またびっくり。

 垂木の下の桁に歯を食い込ませるかのように「小鬼面」が刻まれている。こんなのは見たことがない。

 よほど魔除けが必要だったのだろうか?それにしても造った宮大工の工夫は面白い。731takachihojinjanagoshimaturi_015

神事が始まったのは8時半だった。

 花岡地区の氏子・崇敬者が集まったところで、まずは一礼から。731takachihojinjanagoshimaturi_018

修祓のあと、大祓詞(おおはらいのことば)が神主から読み上げられた。大祓詞はゆっくりと全部唱えると15分から20分はかかる。

 今日は「夏越大祓(なごしのおおはらい)」の祭礼とあって、省略することなく読み上げられた。

 そのあと町内会長など氏子代表が数人、玉串を奉奠して直会となる。731takachihojinjanagoshimaturi_020

拝殿での神事が終わると、神輿の巡行だ。花岡の麓に当たる古江港まで「浜下り」に出ると言う。

 昔は(40年位前まで)、神輿は若者が担ぎ、町内を練り歩きながら古江の海岸まで下ったそうだ。

 この祭礼は曜日に関係なく「7月31日」と決まっているため、「若者が居ないわけではなく、勤めの関係で人が集まらない」ので、こういう形になった、という。731takachihojinjanagoshimaturi_025

スピーカーを取り付け、太鼓を載せた軽トラの前でそろいの法被を着る。731takachihojinjanagoshimaturi_026

3台の軽トラックにすべてを載せ込み、浜下りの準備が整ったのは10時。

 さあ、いよいよ出発だ。731takachihojinjanagoshimaturi_029

神楽の音を流しながら一行が集落の中を進んでいくと、人々が角々に待っていて、賽銭箱に何がしかのお金を投げ入れ、その代わりに御幣の付いた榊を一本もらう。731takachihojinjanagoshimaturi_030

花岡地区を10分ほど巡行した後、一行は急坂を下り、古江の西北部・小島地区のはずれの海岸に到着。

 向こうの小山は「弁天島(山)」だそうだ。準備の間に登ってみると、頂には小さな祠がぽつんと立っていた。

 かってここは島だったのではないかと思う。731takachihojinjanagoshimaturi_033

「古江西町」の崇敬者・集落代表者の人たちが、準備のできた祭壇の前に頭を垂れて神事が始まる。

 内容はさっき拝殿で行われたのと同じだ。731takachihojinjanagoshimaturi_036

出席者が次々に参拝(玉串奉奠)をして、神事は無事終了する。

 このあと直会(なおらい)で、しばし歓談の時を過ごし、再び巡行に移る。

 昔はここで神舞などがあったそうだが、若者が居なくなってからはやっていない、という。731takachihojinjanagoshimaturi_040

一行は海沿いに展開する小島地区を、次の目的地「御座所」に向かって進む。

 道々、神主は手にした水を笹の葉で撒きながら行く。

「露払い」だそうだ。731takachihojinjanagoshimaturi_041

古江の港を中心に、ゆるやかに町内をまわり、その途中にある「高千穂神社・御座所」で小休止。

 ここは御祭神「ニニギノミコト」が、霧島に降臨した後、この地まで巡行し、石に腰を掛けてから薩摩半島の阿多の笠沙に向かって出発した所だそうだ。

 かってはこのあたりまで海岸で、「石」はもう無くなりかけてはいるが、まだちょこんと顔を覗かせていた。(右手のお父さんの直下のコンクリートに小石が4つ置かれているのが見えるが、その4つの小石の真ん中に守られている。赤っぽい凝灰岩のようだ)731takachihojinjanagoshimaturi_043

現在の古江港。古江は大隅半島と薩摩半島を結ぶ拠点だった。(写真の岸壁から、かっては鹿児島への定期船が出ていた)

 ニニギノミコトがここから笠沙へ渡ったとすれば、2000年も前のことだが、神話の真偽は別として、その頃ここから薩摩半島への手漕ぎ舟の航路があったことを否定する理由はない。

 高千穂神社の浜下りは「ニニギノミコトの浜下り」と言ってよく、であれば「浜下り」は実は「天下り」のことなのかもしれない。

 一行は近くの「みなと公園」で昼食を兼ねた大休止をとったあと、花岡まで帰るという。途中の神事はもうないとのことなので、一足先に帰ることにした。

 

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おおすみ祭礼と行事」カテゴリの記事

コメント

日々多忙な為じっくり拝読できませんが、合間合間に大隅風土の貴ブログを楽しく拝読させて頂いています。
在郷は高校時代まで、郷里の歴史は知らないことばかりでその点貴ブログは助かります。

古江港懐かしいですね。
多分昭和20数年頃、親戚に鹿児島まで連れていってもらったことがあり、(当時は今で云えばアメリカ否ブラジルかアフリカにでも旅行できる気分でしたが)串良から車掌付きボンネットバスで古江港に着き、ここから小さなポンポン船で船出、大波に揺られ怖かった思い出があります。

ところで当時の国道は今の体育大学前からの道でしょうか?
長い下り道を下りて、古江街入り口には確か大隅線の陸橋があったと記憶していますが。

この古江港は、北の牛根港と並んで大隅平原の年貢米を鹿児島城下に納める為の集積港だったそうですね。
小生の父母など(明治生まれ)も、何の用だったか串良から手車でこの地まで来たことがあり、長い坂道に往生したと話していました。

「古」江ということは、余程昔からの港だったのでしょうね。

この地に高千穂神社があること、その由来を初めて知りました。
ところで、「夏越祭り」といえば、串良の月読神社の「ナゴイドン」を思い出します。
昭和20年代の半ばの記憶ですが、村人総出で柏原海岸まで神輿を担いで出かけ海岸際に注連縄を架けて神事が行われていました。
多分当時以来あの「ナゴイドン」は行われていないのではないでしょうか?
「夏越祭り」は古来各地神社で行われているようですが、
海岸潮水で清める神事の由来はいつ頃からのものでしょうか?古事記伝承の遥か以前来の、黒潮北流縄文人の文化感覚が思われてならないのですが。

小生は、この20数年、縄文古人の「感性力」への願望があり、特に日本語の語韻の成り立ちに関心があります。
日本語の成り立ちについては学問上不明とされ、大野氏のインドドラビタ語族との関係もいわれているようですが、
小生にはそんな遠方からではなくどうもせいぜい東南アジア系黒潮北流縄文古人のそれが基流にあり、それが四季自然豊なこの日本列島の中で自然との共感のなかで育まれたと思うのですが、、、

その意味で貴殿の「鹿屋」語源論(これは半島流れ起源論?)にも関心があり、そのほか「クシラ」「エラ」「ホヨシ」「サタ」「アタ」など郷土の地名由来についても関心があります。
が、所詮学問的な知識は無く、感覚的な手探りです。
その意味で、文字表記以前来の大隅地の地名由来について御教授いただけたら幸いです。

投稿: | 2009年8月 8日 (土) 12時23分

隅さん、返事が遅れてしまいましたが、分かる範囲でご返答します。

 まず国道220号の件ですが、明治37年に発行された五万分の一地形図でも、現在の体育大学前から古里を通過していわゆる「古江坂」を下りて行く道がメインルートになっています。

 「古江港」は確かに古いのですが、南の「高須(高洲)港」の方には「波ノ上神社」があり、その神社の横にある石塔に刻まれた「正平年号」(南北朝時代=約650年前)からすれば、高須港のほうが(文字史料的には)古いようです。

 古江の上方台地に鎮座する「高千穂神社」は由緒からみれば相当に古さを感じさせますが、やはり文字資料では「享保11年=1726)をさかのぼることはできません。

 この神社の「夏越祭り」は「夏越大祓」とも言い、串良の月読神社の「潮の禊ぎ」的な意味合いがあるものと思われます。宮司さんの話では、昔は若い衆が神輿を担いだまま、海水に漬かったそうで、そうであればなおさら「禊ぎ」でしょう。

 禊ぎの起源は記紀神話の中の「イザナギノ命」が、「日向の橘の小戸のアワギ原」(今日の宮崎市海岸)で海水の禊ぎを行ったのが最初だとしてあります。日向ですから日本列島では南の、しかも黒潮洗う海岸べりなので、南方からの習俗伝播かもしれませんが、確証はありません。日向オリジンとしてもよいのではないかとも思います。

 縄文人というと、当然、縄文時代ですから、今から約2500年以前の倭人を指して言うのでしょうが、縄文人の起源は列島では、少なくとも12000年前にさかのぼれるようです。つまり「縄文土器」の起源と重ねて見るのが歴史(というより考古)的な見方です。

 一口に縄文時代といっても約1万年の長期にわたっており、地域差は小さくありません。特に南九州では縄文時代草創期・早期の土器文化に目を見張るものがあり、7500年前に既に立派な「壺(壺型土器)」を作っていますが、これは世界最古と言えるものです。
 
 ところが残念なことに約6500年前に噴出した「鬼界カルデラ」の火砕流と噴出物により、その高度に発達した土器文化は途絶えてしまいます。私見では熊本に顕著な前期土器文化(6000年前~5000年前)がかろうじてそれを伝えていると考えていますが、詳しくは分かりません。

 これは空想に近い見方ですが、南米エクアドルのバルディビア遺跡に出土する土器は、その熊本によく出る前期土器群のひとつ「曽畑式土器」とそっくりだそうで、もしかしたら南九州を覆い尽くした火山灰から逃れて、はるばる海を渡り、漂着したのかもしれない――とも思っています。

 鬼界カルデラの噴出が南九州を全滅させたとは思いませんが(洞窟などに逃げれば何とか生き延びれる)、それに近い状態になったことは確かでしょう。

 ところで、地名などの起源ですが、「クシラ」は「奇しき浦(大変素晴しい浦=港)」、「エラ」は「アイラ(アヒラ)」のことで「アヒのラ(土地・場所)」。「アヒ」は「アビ」と同義で「鴨」を指す言葉と考えています。

 「ホヨシ」は「甫余志岳」の「ホヨシ」のことでしょうか。「ヨシ」は「養子」で「わが子を養う」という説がありますが、よく分かりません。また「サタ(佐多)」はおそらく「狭いタ=場所」の意味かと思いますが、「アタ」は不明です。「タ」は「場所」と見当が付くのですが、「ア」は余りにも単純すぎてかえって意味を取りにくいのです。アとタに分けずに「ワタ=海」の転訛とする考えもあります。

 小生の「鹿屋(カノヤ)=カヤ説」は、魏志倭人伝をはじめとする中国古史料を解釈する中から生まれたもので、その起源は弥生時代の中期頃(約2000年前)にまでさかのぼるのではないかと考えています。

 以上、言い残しは多々ありますが、一応これまでとします。まだまだ解明すべき古代史・上代史は山積みされています。道のりの長いことは、覚悟してかからなければならないと思います。

投稿: kamodoku | 2009年8月15日 (土) 23時20分

遅ればせながら、丁重なるご教示有難うございます。

やはり高須港の方が古いですかね。
大姶良川の上流に近く高須川の河口という地形上からも頷けます。

「ラ」は「場所・位置」は成る程。 ただ「タ」も「狭いタ=場所」とは初見。
小生は勝手な思い込みから、「タイ」、台湾の「タイヤル」、種子島の「タ」、佐多の「タ」、田代の「タ」、「アタ」などを黒潮の流れから想像していました。(加計呂麻島にも「阿多」の小字名が・・・)
もっとも言葉はその源流はともあれ、その土地土地で永年の間に育まれてきたものでしょう。
まだじっくり読んではいませんが、大隅の地名由来については、
「日本語の源流/地名考古学」http://www.imaken.biz/ も参考にしたいと想います。

蛇足ですが、かってビデオで観た映像で、航海術で有名なミクロネシヤの「サタワル島」の舞踊で、装束踊りしぐさが郷里に「棒おどり」とそっくりなのに驚いたことがあります。
また小生がある団体で永年交流している台湾高砂族の歌謡(研究家によればグレゴリヤ聖歌を超えるそうですが)では、「ア」「ハ」「ヤ」「オ」「ホ」など数語であらゆる情景が歌われ、それは「ハンヤ節」の源流ではとびっくりしました。

「禊ぎ」にも関心ありますが、それに関連して
「隼人たちの月読信仰」http://www5f.biglobe.ne.jp/~dayfornight/index.html や、
「海人の国、日本」http://homepage2.nifty.com/amanokuni/index.htm サイト氏の論考などからも、我が大隅の地が如何に歴史の宝庫か!を想わざるを得ません。
正に「日の本の故郷」の感ひとしおです。

そこで、筑紫野辺からその思いへの一端、駄洒落歌をひとつ。
「大住ハヤトおはら節」替歌
    ハヤト大住 日の本の故郷
    神武天皇の オハラハー 産まれ里       ハヨイヨイヨイヤサーと
    北に高千穂 南に国見
    西に高隈 オハラハー 南風(ハエ)渡る    ハヨイヨイヨイヤサーと
    大塚山(ウッカヤマ)には桜が薫り  
    串良川には オハラハー 月映える       ハヨイヨイヨイヤサーと
    志布志の浜にゃ黒潮寄せる
    沖にゃ メリケン(米国)オハラハー 溺れよる  ハヨイヨイヨイヤサーと
    笠之原で ハヤトが舞えば
    ワタ者オハンに オハラハー 腰を振る     ハヨイヨイヨイヤサーと
    種子のロケットは宇宙を巡り 
    おいどま オハンの オハラハー 穴巡る     ハヨイヨイヨイヤサーと
    夜毎(ヨゴト)夜毎に ナンコに負けちゃ
    もうイッペ給うはんか オハラハー チョコが空 ハヨイヨイヨイヤサーと
    猪口じゃ足らんど 風呂釜で飲もうかい
    地下にゃ 万古の オハラハー 甘露酒      ハヨイヨイヨイヤサーと
    西郷隆盛 死んではおらぬ
    島を枕に オハラハー 寝てござる         ハヨイヨイヨイヤサーと

(注)
:*呑み助はワザとナンコに負ける。
*「大隅」とは、元来京田辺市の「大住」に同じく「我が皇祖のかっての大いなる住み家」の意が秘められているのでは?

失礼しました。
今後ともよろしく     隅 南風人 拝

投稿: 隅南風人 | 2009年8月21日 (金) 16時55分

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