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国連総会のカダフィ大佐

9月15日から開かれた「第64回国連総会」は、新しく首相になった鳩山由紀夫民主党党首の外交デビューとなった。「気候変動に関する協議」で、日本が二酸化炭素の25パーセント削減を訴えたときには、大きな拍手が起こっていた。

 日本の首相の演説に対して、大きな拍手が巻き起こるなんて初めてのことではないだろうか。

 また、意外なことにアメリカ新大統領のバラク・オバマが、安全保障理事会においてアメリカの大統領として初めて議長役を務めたという。

 日米がともに注目を集めた今回の国連総会は、新たな1ページを追加したと言ってよい。

 しかし聴衆の度肝を抜いたのは、23日の総会一般演説に登場したリビアのカダフィ大佐だったろう。

 彼の長広舌は以前から有名だったようだが、15分の持ち時間を6倍も越えた90分のほとんどを「国連批判」に費やしていた。

 『国連憲章』を読み上げ、<加盟各国は平等でなければならない>との下りでは「いったい何が平等だと言うのか、特に安全保障理事会など一部の国が全くの優越権を与えられているではないか」、と憤った挙句、手にしていた『国連憲章』をうしろに放り投げてしまった。

 多くの聴衆(各国の首脳)は唖然としただろうが、内心、拍手を贈っていたに違いない。

 カダフィ大佐(何でいつまでも大佐のままなのだろう?)の言わんとすることはよく分かるが、そもそもアメリカが加盟していなかった国際連盟に代わって、新しく国際連合がうまれ、その本部がアメリカの中心都市ニューヨークに置かれた、という経緯でおおむねの事情は分かろうというものである。

 要するに英米を基軸とする第二次世界大戦(太平洋戦争を含む)における勝者が中心になって設立されたのが国際連合であって、大戦中の「大西洋憲章」「カイロ宣言」「ヤルタ会談」「ポツダム宣言」が下敷きになって創立されている。

 勝者の英米プラス反日の中国、反独のソ連、フランスが戦後の安全保障体制の枢軸国家と規定されたが故に、国連において特別のポストが与えられたわけなのである。いわゆる「ヤルタ体制」と呼ばれるものだが、当時の中国は蒋介石の国民党政府であって、今の中共政府ではなかったし、ソ連も今日のロシアに政治体制が変わってしまっている。

 それなのに中国、旧ソ連がそのまま変更もなく引き継がれているのは、おかしいと言わざるを得ない。

 また、鳩山首相は「東アジア共同体」構想を明言したが、中国共産党政府が乗ってくるとは思えない。それどころか日本の常任理事国入りには徹底的に反対するだろう。

 また、アメリカの本音は「日本と中国が手を結んだらえらいことになる」だから、いつまでも軍事基地をおいて日中の離間策をとっているわけで、中国のそうした反日的姿勢を黙認している。

 ええ!アメリカが軍事基地をおいているのは、日本を周辺の非自由諸国の強国・中共と旧ソ連から守ってくれているのではないのか?――などと言う人がいたらお目出度い人だ。

 実際、ソ連が崩壊し、ニクソンが対中国融和に動いたのに、日本国内の米軍は減りはしなかった。もう30年ほど前になろうか、ソ連のミグ戦闘機が日本の領海を犯して侵入(亡命)したことがあったが、米軍は何にもしなかった。つまり日本を敵機の侵入から守ってくれなかったのであった。あれは「亡命」であったからよかったが、核搭載のミサイルでもぶっ放されたら酷いことになっていただろう。

 アメリカは本気になって日本を守ろうなどとは思っていない。ただ、太平洋戦争の勝者として地政学的にふるまっているに過ぎない。

 カダフィ大佐の憤りは、第二次大戦での勝者への憤りでもある。「勝者のおごり」という批判でもある。批判の矛先になっている超大国アメリカのオバマ大統領はそれにどう答えるか、ここ1、2年が山場だろう。

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谷山・清泉寺跡

指宿の義父を見舞った帰り道、鴨池フェリーを使ったので、途中、谷山に残る「清泉寺跡」を訪れた。

清泉寺は文字通り「清らかな泉が湧く」場所であった。922seisenji_012

四角く切り取った泉からは、滾々と清水が湧き出して流れ、それを汲みに来ている人がいた。

 サンダル履きだから近所の人に違いない。昔はこの水を焼酎の原料として使っていたそうだ。922seisenji_011

清水の湧く所から、奥の方へ行くと100メートルくらいで川(野頭川)に出る。

 振り返ると左手のうっそうと茂った森が清泉寺跡の入り口で、道路を挟んだ反対側のコンクリートの建物は「鹿児島市清泉寺水源地」。

 この水は市の水道に一役買っているのだ。

 でも水道になってしまうと消毒液が入ってしまう――というわけで、近くの人たちはポリタンクで原水を汲みに来る。手間ひまはかかるが、美味しい上に安心して飲めるというわけだ。

 この清泉の場所は、七ツ島交差点から山手方向にに、わずか1キロかそこらしかない。はるか昔は、ほとんど海岸べりに湧き出していたことになるだろう。船人にはありがたい湧水だったに違いない。922seisenji_007

史跡地には似つかわしくないコンクリート製の「清泉寺水源地」の向かい側が、清泉寺跡の入り口だ。

 金属製の塀が入場を拒んでいるかに見えるが、左手の門扉に錠前はかかっていないので、貫きを外して開け、見学させてもらった。922seisenji_006

よく手入れされた見学路を30メートルも行くと左を流れる小川の対岸に、「ミニ磨崖仏」が見える。

 さらに同じくらい行くと、向こうに石段があり、その奥は竹林になっている。922seisenji_004_2

 昼なお暗い竹林の階段を上がっていくと、ようやく竹が途切れ、少しの空間が見えた。手前には禅寺ではよく見かける「無縫塔」という僧侶の墓が2基建っている。

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ここが清泉寺の本堂があったところだろう。

 今は真ん中に巨大な五輪塔が建つ。922seisenji_002

高さ優に2mはあるこの五輪塔墓の主こそは、新城島津家初代当主「島津久章」である。

 新城は大隅半島の垂水市の一部だが、その領主の墓がなぜここにあるかと言えば、話は少し長くなるが・・・

――時代は江戸の初期の寛永16年(1639)、島津本家第19代・光久が新しく藩主となり、23歳の久章が江戸の将軍家へ報告方々使者にたった。

 久章が田舎者だったせいもあるのだろう、御三家の一つ紀州家に挨拶に行った際、篭に乗ったまま玄関先につけてしまった。それは非常に無礼なこととして叱責を受け、捕縛されて本国送還になった。

 本家でも藩主光久の怒りは大きく、久章は、はじめ川辺の寺院に蟄居させられ、後にこの清泉寺へ幽閉された。数年後の正保2年(1645)、今度は遠島処分を言い渡されたが、久章は反抗し、派遣された来た本府の執行役人の前で自害して果てた。(あるいは斬り合いになって殺された、とも言う)――。

 これが、ここに新城島津家の久章の墓がある理由である。久章の死の背景には、17代義弘の子孫である本家と垂水家(16代義久の娘が室に入っている)との内紛があったという説がある。久章の父であり垂水家4代目の久信が、青年期に2度にわたって徳川方へ人質として立てられたことによる本家への恨み感情が解けなかったことも大きかったのかもしれない。その久信は鹿屋へ隠居の末、久章の死に先立つ8年前の寛永14年(1637)に毒殺されている。

 東軍の徳川氏に敗れた西軍の島津であったから、島津家の内紛は下手をすれば「お家取り潰し」の口実になる。今度の久章の不手際はその糸口になりかねないので、厳しく罪をかぶせたのではなかろうか。

 しかしながら、新城家そのものは断絶されず、一応、嫡男の忠清が継ぐが、島津姓から「末川」に改められ、その後には藩主・光久の七男が養子入りして本家のコントロール下に組み込まれる。922seisenji_010

清泉寺跡を出て、水源地の向こうの川崖に「金剛力士像」が彫り込まれているが、軍配のようなものを持ったその姿は、そんな時代の是々非々を裁く仁王様のように見えた。

(清泉寺跡の説明板に「清泉寺は百済の僧・日羅上人が建立した」とあるが、日羅は正確に言うと倭人の父が渡海した先の百済で生まれ、百済官僚の最高の地位「達率(たっそつ)」に就任した人物で、僧侶ではない。

『敏達天皇紀』によると、百済から日本に呼ばれ、任那再興の建策を与えようとしたが、同行の百済人に妨害され殺されそうになった。その度に強い炎のようなオーラ状の物が体から発して殺されなかったが、ついに大晦日の日にオーラが小さくなり殺害されてしまった、とある。

 この「強い炎のようなオーラ」を発したということで、よく修行した僧侶であるかのように勘違いされたのだろう。実際には日本で言えば左大臣クラスの高官であった。)

     清泉寺付近の地図

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稲刈り(鹿屋市池園町)

わが家から1キロちょっと行った大姶良川沿いの田んぼ地帯。

稲刈りのちょうど終わった田んぼと、今まさに稲刈りの最中という田んぼの両方があった。

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ここはもう掛け干しが終り、あとは屋根のビニールが飛ばないように黒いビニール紐で結わえているところ。920higanbanatoinekari_006

少し行った道路の反対側の田んぼでは、今まさに稲刈りの最中。

 夫婦ではなく、母と息子が 粛々と仕事をしていた。920higanbanatoinekari_007

「バインダー」という刈り取りながら同時に紐で括っていく機械で、田んぼの手前から向こうへ。920higanbanatoinekari_008

ぐるっと一周して来た。短冊状に刈り取り、それをくるくる回りながらゼロの状態にして行く。

(要するに、長方形の田んぼの端から、細切れに刈り取って行く)

 お母さんに今年の出来を聞くと「虫が入ったが、収量はまあまあ」ということだった。

 「虫」とは「カメムシ」のことで、実が入る初期の頃に中身を吸いに来るので、モミにに茶色の斑点を残し、一等米にはならなくなるのである。

 しかしまあ、雨が極端に少なかったこの夏にしてはまずまずの出来ではなかろうか。

  

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彼岸花(鹿屋市池園町・萩塚町)

昨日、秋の彼岸入りをした。

彼岸といえば、律儀にこの頃になると花を咲かせるのが「彼岸花」。稲刈りが行われているかどうか、大姶良川沿いの田んぼを見に行ったら、途中の集落道で彼岸花を見つけた。920higanbanatoinekari_003

田園地帯では、彼岸花は主に田んぼの畦に咲いている。

 ここは集落の中道だ。

 赤いのが普通だが、ここでは白花も黄花もある。三種混合。920higanbanatoinekari_002

赤い花ばかりだとちょっと毒々しいが、白の清楚と、黄色の明るさが観賞を誘っている。

 白は赤の突然変異から生まれたが、黄色の花は欧米に持っていかれた彼岸花の改良種らしい。

 だからもともとは日本に無かった種類なのだが、園芸好きの人によって各地に球根が普及したのだろう。920higanbanatoinekari_001

その改良種がお好みなのか、カラスアゲハが一匹、さっきから黄色の花に顔を突っ込んでいる。

 赤い花のほうが似合うと思うのだが、こっちのほうが甘いのか。

―池園町にて―920higanbanatoinekari_009

田んぼ地帯をぐるっと回っての帰り道。

 萩塚町の通りを走っていると、通りに面した住宅の車庫の脇に彼岸花が明るい。

 車庫の近くには「ダチュラ」という珍しい花も咲いている(テッポウユリのように長い花が下向きに垂れ下がっている。ここのはクリーム色)。920higanbanatoinekari_010

なんと、ここのも三種混合で咲いている。

 よく見ると黄花のほうが茎も太く、花びらもこってりしている。蜜も甘くこってりしているのだろうか。

 欧米から逆輸入された黄色種に取って代わられるのはつまらない。

 緑の田園には、毒々しくても赤が似合う。別名が曼珠沙華だから・・・

 ・・・北原白秋のあの

   「ゴンシャン、ゴンシャン 何処へゆく

    赤い お墓の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

     きょうも 手折りに 来たわいな」

とうたわれた花のイメージが無くなってしまうわいな。

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藤の狂い咲き?

ここ10日ほど、朝の最低気温が20度くらいになり、空気が清々しく、すっかり秋めいてきた。

 庭のコスモスが爽やかな風に揺らめいているのを撮ろうかと、庭を眺めていた。すると、向こうの菜園との境にある藤の、夏の間にもじゃもじゃと伸び放題になった蔓の葉影に、「ええっ」と目を疑う物が見えるではないか。918fujigasaku_003

茂みになった部分の上方に、確かに一輪というか一房の花がある。918fujigasaku_001

マジかよ、5月に咲くのが普通の藤が、今咲いてどうするんだ――と独り言。

 桜の狂い咲きというのがあって、あれは秋に強い台風に遭って葉っぱをことごとく落としてしまったような場合、もう冬が来たんだと勘違いした桜が、11月の小春日和なんかを春と思い込んで、花を咲かせる現象だ。918fujigasaku_002

しかしこちらは台風には遭遇しておらず、いきおい蔓も葉も茂り放題の藤だ。

 「何で咲いたの?」

     と聞けど答えぬ藤の花

918fujigasaku_004 もっとも今がお似合いのコスモス、夏の初め頃から咲いていたっけ。

 これもオカシイ。

 でも、うつくしい。

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案山子(かかし=鹿屋市名貫町・川東町)

「かかし」というと、さだ・まさし世代なら名曲「案山子」を思い浮かべるだろう。

 中学か高校を出た我が子を、都会へ進学または就職させた親(特に母親)の気持ちを切々と謳い上げていて、ジンと胸に迫る歌だ。カラオケに行ったときには、欠かせない持ち歌でもある。

 『 銀色の毛布着けた 田んぼにポツリ 置き去られて 雪をかぶった 案山子がひとり 

 お前も都会の 雪景色の中で ちょうど あの案山子のように 寂しい思い してはいないか 身体を壊しては いないか―― 

 さだ・まさしは南国長崎の出身で、雪をかぶった案山子など見たことがなかったろうが、たしかに上信越や東北の雪深い田園では、その昔、よく見られた光景であった。たぶん彼も学生時代などに冬の東北などを旅して、雪に埋もれたような田園地帯で、こんな風景を目の当たりにしたに違いない。

 今の東北や信越地方に現実にあるかどうかは知らないが、仮にあるとして、「案山子」が活躍するのは実りの秋たけなわの頃だろう。そのにぎやかな季節を唄わずに、置き去られ忘れられたような「冬の時代」に焦点を合わせたその着眼は、さすがにセンチメンタリスト「さだ・まさし」の面目躍如たるものがある。

 さて鹿児島の案山子やいかに――。912kakashikumoimo_001

 いやはや、何がセンチメンタルだ。

 おやおや左手には何やら・・・ゴルフでもしようってえのかい?

 まあ陽気でいいわな。

(名貫田んぼで)912kakashikumoimo_003

 定番のオヤジ案山子。でも最近のは顔を書かないんだ。

 昔は「へのへのもへじ」だったがね。

(川東田んぼで)912kakashikumoimo_002

 最近増えたように見える「おっかさん案山子」。

 そういえば、田んぼによく来て、草取りなんかに精を出しているのは、農婦のほうが多いような気がする。スズメにはにらみが効くんだろう。

 案山子は、遠い昔、「山田の曾富謄(そほど)」と言った、と古事記にある。

 もっと古くは「久延(くえ)ひこ」と言ったらしい。クエヒコは「足は行かねども、天下の事を、ことごとく知れる神」だそうだ。(『古事記・上巻・出雲神話』より)

 現代なら情報通信の神と言ったらいいだろうか。 畏るべし、米を守る「案山子」。

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だっきしょ(落花生)

落花生を鹿児島では「だっきしょ」と言うのだが、他県人が聞いたら何のことか分かるまい。

 鹿児島弁では「ラ」言葉が、「タ(ダ)」と発音されることが多い。「知らん(知らない)」が「シタン」と発音されたりする。したがって「らっかせい」が「だっきしょ」となる(「しょ」は「生」を「しょう」と呼んでいて、「う」が脱落したのである)。

 しかしそもそも「落花生」とは不思議な命名だが、実はこれは落花生というマメ科植物の風変わりな生態に基づく名前なのである。そこで、知人の畑で落花生を引き抜いてもらってその生態を観察してみた。912kakashikumoimo_008

一株の落花生。これを引き抜くと912kakashikumoimo_009

土の中から、見えてきた。912kakashikumoimo_011

鈴生りのピーナツ。

このピーナツはいかにも土の中から現れるので、実の成り始めから土の中にあったものと勘違いされる。

 実は・・・・・912kakashikumoimo_013

この写真の真ん中にぶら下がっているピーナツをよく見ると、へその緒のような管にぶら下がっていることが分かる。

 この管が出ている茎のところに、写真左上に見えているような黄色の花がまず咲く。

 それが受粉すると、受精卵を持った花から、するすると管が10センチも下の方に伸び、ついに土に中に入って行く。そこで光合成による養分を溜め込んで、一人前のピーナツになるという仕組みだ。

 その時、花が土まで落ちるように見えるので「落花生」と名付けられたのである。

 この落花生にまつわる面白い話がある。先日、花岡学習センターで頂いた『花岡郷土史』を読んでいて、ある箇所でふと思い出したのだ。むかし、まだ指宿に住んでいた時に、ある歴史に詳しい人から聞いていたことである。あの時は何のことやら分からなかったが、今は理解できる。

 『花岡郷土史』の中の「主な農産物とその由来」のところで、<花岡落花生>について書かれた中で、明治の終り頃と思うが、当時の村長の上村精之助が農産物の販売促進をしに東京に行った時、とある会合で、こう演説をぶったそうだ。

あたいげんむらん だっきその 生産は あばてんねもんごわす

と・・・。

 おそらく多くの人は「生産は」という部分だけは分かるだろうが、あとは「チンプンカンプン」に違いない。その会合には鹿児島県出身者が多数来ていたと思うが、鹿児島1世なら容易に理解できた演説も、東京生まれの2世たちには全く聞きなれない言葉だったろう。そのため後々まで、この演説は語り草になったそうだ。

 標準語に訳すと 「私の村の 落花生の 生産は 相当なものでございます」 だが、たしかに当時の花岡は「多い農家では5、6反(5~6000㎡)は耕作していた」とあるように、栽培は非j常に盛んであった。

 「だっきしょ」は掘り上げたあと、しばらく天日干しをしてから食膳にのぼり、「焼酎のシオケ」になる。「シオケ」とは「塩気」で、「酒の肴(つまみ)」のことである。秋の夜長の酒肴に、鹿児島独特の「煮ピーナツ」もいいもんだ。

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カライモの収穫(鹿屋市下堀町)

我が家の近くでもカライモ(サツマイモ)の収穫が始まった。

県道を隔てた道の向こうに機械の音が響く。イモを畝から堀り上げるトラクターの音だった。912kakashikumoimo_023

トラクターの後に装着した掘り起こし機で、走った後にはイモがごろごろ浮かび上がる。912kakashikumoimo_022

収穫作業に当たっているのは三人。いずれも高齢者だ。912kakashikumoimo_020_2

高齢者と言っても、身動きは素早い。生涯現役。

 イモの蔓と根をちぎりながらイモだけを箕に盛り、奥の別のトラクターの前にぶら下げた大きな袋に入れて行く。912kakashikumoimo_021_2

これは「マルチビニール巻き取り機」。イモの成長促進と雑草を抑えるために畝に張ったビニールを剥いでいく機械だ。

 昔は人間が剥いで行ったものだが、この機械だと剥ぎながら巻き取っていくので後始末が非常に楽で、おまけにそのまま再生処理工場に持っていける。

 しかし、何にしてもこの頃の農業は機械がフル稼働する。ここでもトラクターが2台とこの巻き取り機それにツル切り機と、機械のオンパレードだ。しかも高齢者が軽々と扱っている。

 いま収穫しているのは「コガネセンガン」といって、澱粉用のイモだが、これは最低価格が保証されているので、こんな機械の数々を導入できるのだろう。912kakashikumoimo_019

農業の楽しい時代になったものだ。

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低すぎるクモの巣

ここ一週間くらいになるだろうか、コガネグモが馬鹿に低いところに巣を張っている。それも別々の場所に二匹・・・。

一匹は自転車・単車格納用パイプ車庫のシルバーテントの内側。912kumo_001

一回は巣を払ったのに、またすぐに作り直した。時間を計ったわけではないが、数時間後には「ここがあっしのショバでがんす」とばかり、再現していた。

 感心したので、もう払わないことにした。912kakashikumoimo_014

黄色と黒の縞模様の胴体、それと長い手足。結構、バランスが取れている。

 「加治木のクモ合戦」に連れて行くか・・・。

 もう一匹は畑のキュウリネットの下の方に作っている。912kumo_002

こっちのほうがグラマーだ。畑に飛んでくる虫のほうが、家の片隅のパイプテントの内側より多いにきまっている。912kakashikumoimo_018

やがてキュウリが伸びてきて、このコガネグモの巣を覆うかもしれないが、彼女はそれを承知で巣をかけたのか。とすればなかなかのクモだ。キュウリやその他の野菜を狙ってやって来る昆虫は一網打尽だろう。

 農薬を使わない家庭菜園にとっては強い味方だ。

 それにしても、この二匹。今までこんなに低い所に巣を張ったのは見たことがない。たいていは軒下か、樹木のやや低い所(と言っても人の背丈よりは高い)に作るのが普通のはず。

 よく「蜂が低い所に巣を作ると台風が近い」と言われるが、クモはどうなのか。

 クモに聞かないと分からない? その通り。

「よくぞ聞いてくれやした(オスだとこうだが、メスなら、よくぞ聞いてくんなました、か)。巣、巣とおっしゃいますが、あっしら(メス:わちきら)はこれを巣とは言いやしません。仕事に使う網(あみ=ネット)と言っておりやす(メス:おりんす)。したがいまして『蜂が低い所に巣を作ると』うんぬんとは根本的に違う現象でござんす。どうか安心して下され(メス:くんなまし)」

と言ったとか、言わなかったとか・・・。

 

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三党合意を超えよ!

民主党308名に対し、弱小政党の国民新党・社民党合計10名とが、今回の衆議院選の選挙協力と参議院での多数派協力のため「三党合意」に署名した。

 国民新党と社民党から1名ずつ、新しい内閣に入ることと、経済運営、なかでも、子ども手当て、失業対策、高速道無料化などに合意を得たようだが、外交と安全保障を巡っては波乱があった。

 結局、社民党の「米軍基地縮小・移転」の是非を問うものだったが、これについては「そのような改定を考慮する」というような、いつもながらの「玉虫色決着」で済ませたようだ。

 社民党はかっての党首村山氏が自民・さきがけ・社会の三党協力の時に、ようやく「非武装中立」の書生論から「自衛隊は認めます」という現実路線に踏み出したのだが、思考傾向としての「武装によらない平和中立」の旧社会党の党是は変えていない。

 したがって「日本駐留の米軍を排除したら、本当に丸腰で日本の安全は守れるのか? ソ連や中共が侵攻してきたらどうするつもりか?」という疑問にはまともに答える事が不可能であった。

 しかし現実路線で「自衛隊は認める、つまり専守防衛の軍事組織は必要だ」となったわけだから、今度は上のような疑問からは解放されたことになる。

 自分としては社民党に肩入れするつもりはないが、沖縄をはじめ日本各地に展開する米軍基地は縮小の方向に持っていくのが筋だと思う。なにしろ日本はアメリカに負けたとはいえ、1956年に国際社会に独立国として完全復帰しているのだ。いつまでも米軍基地が置かれているのはおかしい。

 「負けたんだからしょうがない。もし米軍が去ったら、またぞろ帝国主義者が現れて、かっての忌まわしい軍国主義が復活するからな」

 こんな根も葉もない危惧論が、社会党を含めたかっての「革新政党・革新路線」プロパガンダに使われ続けてきた。そういう勢力をのさばらせないためにも米軍のプレゼンスは必要だ、とされたのである。

 その一方でこれまでの自民党外交は、ごく手短に言えば「ソ連や中共などの非自由諸国から、アメリカに守ってもらっているのだ。その分、経済活動に専念できるじゃないか」という一貫した従米路線で、現今の国際社会が唖然とするほどの「顔のない」と言うより「アメリカ人のお面をかぶった」非独立国家ぶりであった。

 この元になったのが実は吉田外交なのである。

 朝鮮動乱が発生したとき、当時のアメリカの国務長官アチソンは首相だった吉田に「日本も軍隊を持ったらどうだ」と言われ、即座に「そんな(金のかかる)ことをしたら、疲弊しきった日本の経済はめちゃくちゃになる」といって反対した。そのことは当時のマスコミ論調で「当然だ。日本は武装放棄をして戦わない国になったのだから」とさも当然という好感をもって迎えられている。

 つまり吉田首相は軍事力は捨ててでも経済を優先させた。それが結果としては日本の驚異的な戦後復興と高度成長をもたらしたのだが、実はそのことで米軍のかくも長きにわたるプレゼンスは不動のものとなったのである。

 今度の選挙で、自民党の麻生党首は「経済立て直し政策」を最優先に掲げて敗れた。祖父・吉田茂に倣ったのかもしれないが、今度は通用しなかった。

 時代は変わった。今、求められているのはコンピューターで計算できる経済政策ではない。経済政策は規制緩和の当然の底流の中では、どの政党が天下を取ろうと、そう変えられるものではない。3万円のこども手当てが2万5千円になる位なものだ。

 遠い昔なら、「一握りの大地主や大金持ちと金融資本家」を打ち倒して貧しい庶民に分配すればよかったが、今の一億総中流(下流も増えてきたが)意識と、手厚い(手薄いと感じる人もいるが)社会保障制度の中では、ただの混乱を招くだけだ。ただし、官僚主義の悪弊が年金制度において墳出したが、これは民主党政権がどうにかするだろう。

 そんなことより「国是」、すなわち、これからの国際社会の中で日本をどのような国家にしたいのか明確に宣言することではないか。その中には当然、米軍の余りにも大きな存在が言及されてしかるべきだ。

 今月の下旬に、鳩山新総理が国連で演説をするが、「日本は武装永世中立国になる道を選択しました」は無理にしても、「日本は国際社会において、これまでの対アメリカ中心の外交の基軸から、アジアをはじめ国際社会全体にも広げる努力をしていきたい」くらいなことは言って貰いたいものだ。

 アメリカはつい最近まで、世界のスーパーパワーとして、つまりたった一握りの「大金持ち・大軍事力・大金融力(国際通貨の発行国)」であったが、今度の金融危機とオバマ民主党政権の誕生により大きく「チェンジ」しつつある。この機会を逃す手はない。スーパーパワー・アメリカの一極支配は過去のものとなりつつある。

 今度こそ、日本は過去の経験を踏まえた平和国家として「国際社会に名誉ある地位を」示していかねばなるまい。

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はたけに船(鹿屋市田淵町)

「わたりに船」とは聞いたことがあるが、「畑に船」なんて見たことも聞いたこともない。

それがあった。905hatakenifune_004

わが家の愛犬ビータローが元気な頃は、このあたりまで散歩をしたことがあったが、久しぶりに通ってみたら芋畑の一角に船が置いてあった。905hatakenifune_003

後ろに回ると、れっきとした漁船らしく「かきゆう丸」と書いてある。

 これから農作業に出かけようと一輪車に道具を積んでいるおばさんがいたので聞いてみると、この芋畑の持ち主が船を修理するためにここへ運んだらしい。

「それにしても、長く放ってあるヨナ。いつ修理するんじゃろかいち思ちょったば・・・」

 と、首をかしげていた。

 港の近くでは、よく庭先にこんな状態で置かれているのを目にすることはあるが、海から5キロは離れていて、しかも台地の上である。

「渡りに船」は万事好都合に行くことのたとえだが、「畑に船」は何だろう? よかったら考えてみてね。

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日中共同歴史研究の発表の延期

きのう9月4日に発表されるはずだった「日中共同歴史研究」の総括的な発表が、中国の一方的な「延期したい」という連絡で延期になったという。

 「日中共同歴史研究」は、小泉内閣の時にギクシャクした日中関係を是正しようと、安部内閣になった平成18年に中国側に呼びかけて開始された研究である。

 その研究の総論的な発表が9月4日に予定されていたが、中国が何の理由も示さずに一方的に延期を申し入れてきたそうだ。

 中国側の真意は透けて見える。――日本の政権交代で民主党政権が発足しつつある。民主党はアジアに基軸をおいた外交戦略を構築しようとしている。つまりは中国シンパ(支持)だ。自民党の中国共産党政権への評価よりかは格段によくなるだろう。ここはあと2週間もすれば黙っていても「中国に反発はしない民主党」が天下をとるから、自民党などに意見をあわせた歴史認識をわざわざ発表する必要などない――というものだろう。

 いつもながら、ご立派な外交戦略だ。われわれ日本人から見れば「汚い、その場しのぎの外交路線」だ。そこには「信義」のかけらも見えない。メタミドホスの食品汚染、メラミンによる食品偽装、模倣商品の山々、古代中国の聖人・孔子様が見たら何と言うだろうか。

 中国で戦国時代(紀元前5~6世紀)のその当時、道(道義・道理)が行われないのを嘆いた孔子は弟子に向かってこう言ったそうだ。

 「こうも道が行われないのなら、いっそ船を浮かべて九夷(日本を含む東夷諸国のこと)に行ってしまいたいものだ」と。

 今日もそう変わっていない中国を見るにつけ、暗澹とさせられる。中国でもし政権交代がなされたら、大量の難民が発生し、大挙して日本に押し寄せてくるだろう。孔子様のような人たちばかりだったらいいのだが・・・。

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民主党の圧勝で政権交代

民主党が単独過半数の241議席を超えるどころか、308議席も獲得して今回の衆議院選挙は終わった。

それにしても小選挙区制の「破壊力」はすさまじい。約3倍の民主党議員を一気に誕生させ、自民党は3分の1になった。今回もあの前回の「郵政選挙」同様、「刺客候補」が各地に擁立され、その役目を果たしたが、昔で言えば「落下傘候補」というのがあったことを思い出した。

 考えてみるとこれらは「天下り候補」にほかならない。官僚の天下りを廃止しようという動きに逆行しないだろうか?

――「いや、官僚はこれまで国家公務員として税金で食ってきた上に、さらにまた余生を税金で造られた機構に就職して、税金を食うわけで、そういう経歴を持たず、しかも最大4年という任期しかない議員とはわけが違う」

 こんな反論があろうが、どんなものか。地方のことは地方でする(候補者もその地方の人間)という「地方分権」とも整合性はないではないか。多数をとるためには手段を選ばぬ「刺客ゲーム」が、小泉郵政選挙以来、常態化してしまった感がある。健全な民主主義とは言えまい。

 しかしまあ、いずれにしても、本格的二大政党になってから初めて、政権交代による新しい内閣が誕生する。

 今度の民主党に期待したいのは、経済でも少子高齢化対策でもない、アメリカとの対等外交だ。戦争に負けたにしても、余りにも長い「アメリカの傘の下の日本」であった。これを是非とも是正して欲しいものである。

 幸いにも、新首相に就任する鳩山由紀夫は戦後生まれで、対米英戦争の当事者ではない。もちろん前の麻生太郎にしても小泉純一郎にしても本人が戦ったわけではないが、戦争前の生まれであることで対米開戦に加担したかのような印象がある。

 その点、鳩山由紀夫はれっきとした戦後生まれで、あの対米開戦に肩入れしようもない世代のひとりである。

 対するアメリカ大統領のバラク・オバマも、47歳という若さであれば、対日戦争はおろかベトナム戦争さえ知らない世代である。ここは二人で戦後アメリカ追従体制の総決算をしてもらいたいものだ。

 その上で日本の国是として次の諸点を訴えたらどうだろうか。

    1 日本は永世中立国となり、アメリカの軍事基地は廃止する。

    2 武力は専守防衛に徹して、現有レベルの軍事力は保持する(ただし非核)。

    3 国連には加盟し、応分の負担はする。そして国連の軍事力への査察は定期的に受ける。場合によっては国連(多国籍)軍の常駐を受け入れる(もちろん日本軍との合同演習なども実施する)。

 「永世中立国」構想の歴史は古い。すでに1950年代初めにはあったビジョンである。自分の記憶では1960年代の終り頃まで、「あなたは日本がどこの国のようになったらいいと思いますか?」とか「あなたの一番好きな国はどこですか?」というような設問には、多くの人が永世中立国の「スイス」と答えていた。

 しかし、そのような設問自体がいつの間にか消えてしまった。今からその理由を斟酌してみると、スイスの「国民皆兵」制度がネックになっていたのだろうと思う。

 あの当時、左派系論調が一世を風靡しており、憲法9条が謳っているように「非武装・中立」がスタンダードな考えであった。スイスのようになりたいと思ってよく調べると「スイスは国民皆兵制度」であった。これは左派勢力(革新勢力とも言った。おもに社会党系の思想で、今日まで考えを変えていないのは社民党だけ)の主張と真っ向から対立していた。

 一切の武力は持たないという左派勢力からすればからすれば、「国民皆兵」など背筋が寒くなるほどおぞましいことであったろう。またスイスは州によっては「直接民主主義」を採用しており、女性の参政権(投票権)がない場合もあり、そのことも嫌悪すべき事態であったはずだ。

 そんなこんなで「永世中立国スイスが一番好きで、そのような国になりたい」という国民多数の願いは、左派への迎合に動いていた当時のマスコミからは、無視されてしまった(よく言えば「敬して遠ざけられた」)のである。

 今日の世界情勢を見、その中における日本の未来を考えると、日本は新しい「永世中立国」になるのが最もよいと思う。世界に根回しせずとも、一方的に「永世中立宣言」をしてしまえばよい。結果はあとから着いて来るだろう。つまりこの宣言で友好国から「国交断絶」などされるわけがないだろうし、上に挙げた2,3の条件なら何ら文句の言われる筋合いのものでもない。

 最も衝撃を受けるのはアメリカだろうが、オバマ政権の今なら可能と思う。4,50年前に真の自由はなかった黒人の政権なら、戦争に負けたからといって60年以上も経つのにアメリカからの真の独立のない日本の現状への理解はあるはずだ。そのさきがけが「プラハ宣言」で、彼は日本への原爆投下に対して「道義的責任がある」と明言した。

 今こそチャンスではないか。結局のところアメリカ迎合の自民党政権では望むべくもなかったが、民主党ならできそうだ。その意味で「頑張ってくれ!民主党!」。

 

 

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