谷山・清泉寺跡
指宿の義父を見舞った帰り道、鴨池フェリーを使ったので、途中、谷山に残る「清泉寺跡」を訪れた。
四角く切り取った泉からは、滾々と清水が湧き出して流れ、それを汲みに来ている人がいた。
サンダル履きだから近所の人に違いない。昔はこの水を焼酎の原料として使っていたそうだ。
清水の湧く所から、奥の方へ行くと100メートルくらいで川(野頭川)に出る。
振り返ると左手のうっそうと茂った森が清泉寺跡の入り口で、道路を挟んだ反対側のコンクリートの建物は「鹿児島市清泉寺水源地」。
この水は市の水道に一役買っているのだ。
でも水道になってしまうと消毒液が入ってしまう――というわけで、近くの人たちはポリタンクで原水を汲みに来る。手間ひまはかかるが、美味しい上に安心して飲めるというわけだ。
この清泉の場所は、七ツ島交差点から山手方向にに、わずか1キロかそこらしかない。はるか昔は、ほとんど海岸べりに湧き出していたことになるだろう。船人にはありがたい湧水だったに違いない。
史跡地には似つかわしくないコンクリート製の「清泉寺水源地」の向かい側が、清泉寺跡の入り口だ。
金属製の塀が入場を拒んでいるかに見えるが、左手の門扉に錠前はかかっていないので、貫きを外して開け、見学させてもらった。
よく手入れされた見学路を30メートルも行くと左を流れる小川の対岸に、「ミニ磨崖仏」が見える。
さらに同じくらい行くと、向こうに石段があり、その奥は竹林になっている。
昼なお暗い竹林の階段を上がっていくと、ようやく竹が途切れ、少しの空間が見えた。手前には禅寺ではよく見かける「無縫塔」という僧侶の墓が2基建っている。
ここが清泉寺の本堂があったところだろう。
高さ優に2mはあるこの五輪塔墓の主こそは、新城島津家初代当主「島津久章」である。
新城は大隅半島の垂水市の一部だが、その領主の墓がなぜここにあるかと言えば、話は少し長くなるが・・・
――時代は江戸の初期の寛永16年(1639)、島津本家第19代・光久が新しく藩主となり、23歳の久章が江戸の将軍家へ報告方々使者にたった。
久章が田舎者だったせいもあるのだろう、御三家の一つ紀州家に挨拶に行った際、篭に乗ったまま玄関先につけてしまった。それは非常に無礼なこととして叱責を受け、捕縛されて本国送還になった。
本家でも藩主光久の怒りは大きく、久章は、はじめ川辺の寺院に蟄居させられ、後にこの清泉寺へ幽閉された。数年後の正保2年(1645)、今度は遠島処分を言い渡されたが、久章は反抗し、派遣された来た本府の執行役人の前で自害して果てた。(あるいは斬り合いになって殺された、とも言う)――。
これが、ここに新城島津家の久章の墓がある理由である。久章の死の背景には、17代義弘の子孫である本家と垂水家(16代義久の娘が室に入っている)との内紛があったという説がある。久章の父であり垂水家4代目の久信が、青年期に2度にわたって徳川方へ人質として立てられたことによる本家への恨み感情が解けなかったことも大きかったのかもしれない。その久信は鹿屋へ隠居の末、久章の死に先立つ8年前の寛永14年(1637)に毒殺されている。
東軍の徳川氏に敗れた西軍の島津であったから、島津家の内紛は下手をすれば「お家取り潰し」の口実になる。今度の久章の不手際はその糸口になりかねないので、厳しく罪をかぶせたのではなかろうか。
しかしながら、新城家そのものは断絶されず、一応、嫡男の忠清が継ぐが、島津姓から「末川」に改められ、その後には藩主・光久の七男が養子入りして本家のコントロール下に組み込まれる。
清泉寺跡を出て、水源地の向こうの川崖に「金剛力士像」が彫り込まれているが、軍配のようなものを持ったその姿は、そんな時代の是々非々を裁く仁王様のように見えた。
(清泉寺跡の説明板に「清泉寺は百済の僧・日羅上人が建立した」とあるが、日羅は正確に言うと倭人の父が渡海した先の百済で生まれ、百済官僚の最高の地位「達率(たっそつ)」に就任した人物で、僧侶ではない。
『敏達天皇紀』によると、百済から日本に呼ばれ、任那再興の建策を与えようとしたが、同行の百済人に妨害され殺されそうになった。その度に強い炎のようなオーラ状の物が体から発して殺されなかったが、ついに大晦日の日にオーラが小さくなり殺害されてしまった、とある。
この「強い炎のようなオーラ」を発したということで、よく修行した僧侶であるかのように勘違いされたのだろう。実際には日本で言えば左大臣クラスの高官であった。)
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