« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

菊とコスモス

2、3日前から、朝の体操をするたびに、蕾をふくらませているなと気になって目にしていた菊が、ついに咲いた。1031kikutokosumosu_001

 庭の東の一角にある大きな石の横の一株が、一年ぶりに目を覚ました。

 例によって蕾は濃い藤色で、開くと内側はやさしい藤色である。1031kikutokosumosu_002

 この一株だけが際立って早い目覚めだが、あとのはまだ固い蕾のままだ。

 いつもなら11月に入ってから花を咲かすのだが、今年は九月後半にやや寒い日があり、今月もここ一週間くらいぐっと冷え込んできたせいだろうか。1031kikutokosumosu_003

 その一方で、九月以来、ずっと花を咲かせ続けていたコスモスがようやくかげりを見せ始めている。ところどころにタネの塊が着きだしたので、タネを採取しておいた。1031kikutokosumosu_004

 赤いコスモスも、花びらからすっきりとしたシャープさが失われている。

 「コスモス」とは「宇宙」だが、「グローバルスタンダード」と言い換えることもできる。

 そのグローバルスタンダード(GS)が現在、あやふやになって、焦点が定まらないように見える。

 アメリカ主導のGSが金融恐慌勃発で揺らいだ分、日本の民主党の掲げる「対米対等外交」が勢いをつけるはずだったが、アメリカは防衛問題を中心に、日本政府に対して強硬姿勢を貫こうとしている。今月来日するオバマ大統領が、そこをどう調整するかが見ものだ。

 菊は日本を代表する花で、香りも良い。コスモスがシャープさを失う時、菊の出番が来るような気がする。なにしろ根強い花で、孤高と協調を併せ持った属性は他の追随を許さない。

 

 

| | コメント (0)

祓川の八月踊り(鹿屋市祓川町)

旧暦の八月は10月7日で終わっているのだが、鹿屋の祓川町では10月25日の日曜日に「八月踊り」が奉納された。1025haraigawahatigatuodori_015

 10時に祓川集落センターに着くと、すでに神事が始まっていた。1025haraigawahatigatuodori_007

八月踊りは、旧暦の八月に稲が実を付け始める頃に、水が枯れないことを願う水神祭が元になっている。

 いつもは集落センターの外で行う神事が、小雨のため中で催されることになったようだ。

 (集落の各分野の代表が玉串奉奠をしているところ)1025haraigawahatigatuodori_008

玉串奉奠がすみ、神主が最後の祝詞を上げたあと、拝礼をしつつ祭壇の中に置いてある五色の紙で巻いてある竹の束の所に行く。1025haraigawahatigatuodori_009

祓川町内会は13の班に分かれており、それぞれの班長さんが班毎にその竹串の束を持ち帰る。1025haraigawahatigatuodori_010

聞くところによると、竹串は水神様の依り代で、自宅の水回り(昔なら井戸)に向けて差したり、田んぼの取水口に差して水の豊かなることを願うそうだ。

 実に素朴にして簡素な風俗だ。1025haraigawahatigatuodori_011

椅子が片付けられると板の間には踊り連が、正面の舞台には唄い手や太鼓・三味線の使い手が勢揃いする。八月踊り保存会のメンバーだ。1025haraigawahatigatuodori_012  

踊り連が輪になり、いよいよ八月踊りが始まった。1025haraigawahatigatuodori_013

歌詞の大方はよく分からないが、「大阪土産」などという演目があり、

 大阪みやげに なにもろた・・・

から始まって、次々にいろいろな地方の風物が唄い込まれたようなものがあった。1025haraigawahatigatuodori_014

水神への祈りとは直接関係ないような唄の内容だが、江戸時代から続く祭りと思うと、当時の人々の興味がどの辺にあるかが垣間見えて面白い。

 今日は先月の「敬老の日」も兼ね合わせて開催されたそうで、ご馳走の出る昼食時までかかって踊り続けられるのだろう。

 11時半にセンターを後にした。

| | コメント (0)

熊襲・隼人シンポジウム(黎明館)

鹿児島市の黎明館で開催中の『古代のロマン~三内丸山vs上野原』の案内チラシに24日(土)「熊襲・隼人の時代を語る」というシンポジウムがあったので出かけてみた。

 桜島フェリーに行く道中で目の当たりにする桜島は、ずうっと灰を噴き出していた。1024reimeikan_001

 垂水市の早崎大橋から望む桜島。

 折からの北寄りの強い風で、灰は南へ流れていた。これはちょっとまずいな、と思った。何となれば、桜島港へはまさに桜島の南側の道路を通って行くからだ。1024reimeikan_002

 「有村熔岩展望所」まで走った。ここはもう桜島の南部だが、噴煙はやって来ていなかったので、ほっとした。時間は十分あるので、珍しく降りて、展望所を歩いてみる。

 展望所の最高点には高野素十の句碑があったのだった。

 初蝶の 熔岩につき当たり つき当たり

という句だが、初蝶とは春になって初めて目にする蝶だろうが、その初蝶が「熔岩につき当たりながら飛んでいる」という風景は、思い描きにくい。場違いに過ぎる。・・・それがかえってこの句の狙いなのか。

 確かに、逆に桜島の持つ荒々しさと原始の無骨さが、可憐な蝶を配する事によって、より一層際立ってくる。――「熔岩」をここでは「ラバ」と読む。1024reimeikan_006

途中、東桜島町あたりで降灰に遭ったが、さほどのこともなく無事フェリーに乗り込み、鹿児島の桜島桟橋まで15分。

 桟橋を出て、黎明館のある鶴丸城跡まで歩く。10分ちょっとで着く。歩いて黎明館に来たのは初めてというわけで、東側の西郷さんが最期を迎えた「岩崎谷」に通じる道路沿いに行ってみた(写真の右手の道路)。1024reimeikan_008

 東入り口のすぐ上に以前はなかった(と思う)薩摩義士前バス停と観光スポットの案内表示があった。

 向こうに見える石灯籠の階段を上がった所には、江戸時代の宝暦年間に、遠く岐阜の木曽川・長良川分水工事に幕府厳命の「お手伝い普請」として駆り出され、向こうで命を落とした「義士」が50数名祭られている(ただし石塔のみ。実際の墓は向こうのいくつかの寺に分かれて存在する)。1024reimeikan_014

 まずは黎明館の2階で開催されている「三内丸山遺跡と上野原遺跡」の比較展示をゆっくりと時間を掛けて見た。

 三内丸山は縄文中期(4000~5000前)であり、上野原は縄文早期(7000~10000前)で、時代はかみ合わないのだが、ともに比較的新しく発見されてその古さ・巨大さ・先進さが耳目を集め、即座に国指定の遺跡になったという似た経緯がある。

 また、たまたまどちらも日本列島の最辺縁部に位置するという共通点もある。1024reimeikan015

 遺物の点ではやはり上野原遺跡の「縄文早期の先進性」が際立っている。

 何しろ縄文早期の7500年前にすでに「壺(型土器)」が作られていたのだ。

 写真は右が上野原と同じ7500年前のもの。宮崎県でも出ている。左は栃木県で明治大学の調査で発掘された2100年前(弥生中期)の壺(優品で重要文化財だそうだ)。

 とても5000年古いようには見えないのが、上野原を代表とする土器群だ。唖然とする他ない。桜島と硫黄島起源の降灰の堆積のおかげで年代が明確になり、南九州の縄文時代の先進性が明らかになったが、同時にこの降灰こそが弥生時代になって米作りを滞らせた主な原因であり、ために南九州が「遅れた野蛮な熊襲の国」として「記紀」で貶められる元になってしまったのは、まさに歴史的な皮肉というほかない。(館内は撮影禁止ということで、上の写真はチラシから写し撮ったもの)1024reimeikan_013

 午後1時半からのシンポジウムの登壇者は、写真向かって左の二人目が隼人研究の第一人者・中村明蔵氏、右へ考古学者の橋本達也氏、そして埋蔵文化財センター次長の池畑耕一氏で、まずそれぞれ20分ずつ持論を展開したあと、会場参加者の質問用紙に基づいて発言がなされた(左端は司会者の永山修一氏)。

 中村氏のは図表を交えた説明が多く、数々の著作も読んでいるので分かり易かったが、橋本氏のは「南九州に特有の地下式古墳を隼人・熊襲の古墳とし、前方後円墳は畿内からの派遣統治者のもの、と色分けするのはこれまでの発掘の結果から見ておかしい。これからの古墳研究に熊襲・隼人という概念は必要ない」というもので、これにはやや驚かされた。

 シンポジウム後の茶話会でも、橋本先生はそう強調していたが、「熊襲はどうもいかんが、隼人はいい」などと洗脳(?)されて来た歴史愛好家には耳が痛いかもしれない。

 センター次長の池畑氏は発掘の専門家として鹿児島のあらゆる埋蔵文化に通じている人だが、今回は奈良時代以降の役所・官道・木簡などに限定して話を展開していた。橋本氏の南九州古墳研究への上述の提言をどう思っているのか、もう少し聞きたいところだった。

 なにしろ時間が少なかったように思う。三人の専門的な講演をそれぞれ別個の日に設け、その上で改めてシンポジウムを開催することはできなかったのだろうか・・・。でも、今日はその糸口だったのだと思えばよいかもしれない。

 

| | コメント (0)

ノーベル平和賞がオバマ大統領へ

今年のノーベル平和賞は、アメリカ大統領バラク・オバマに決まった。

 ええ!そりゃ早過ぎるだろう―とは誰しも思う。功績としては西欧を歴訪していた途中のプラハで宣言した「核廃絶に向けて、アメリカには道義的責任がある」としたことだが、まだ宣言しただけで、実質的な取り組みは端緒についたばかりだ。

 そんな状況の中でのノーベル賞受賞だから、みんな驚いた。

 うがった見方をすれば、オバマ大統領が受賞決定後に述べていたように、「道義的責任を感じるといった大統領の私を選んだ国民に与えられた」のだろう。

 もっとうがった見方をすると、オバマ大統領が「道義的責任を感じるような世界初のそして最後の核兵器の犠牲になった広島・長崎を持つ日本へのレクイエム」ではなかったか。

 ・・・まあ、しかし、そこまで自己中的な深読みをするのは行き過ぎかもしれない。

 私見では、世界随一の超大国であるアメリカで、かっては公民権という基本的人権すら与えられなかった黒人(といっても白人とのハーフだが)が、堂々と選挙戦を戦って最高権力者に躍り出た驚きと賛意が、ノーベル平和賞選定委員会の大勢を動かしたと見る。

 思えばアメリカ黒人の公民権獲得への道のりは長かった。リンカーンによる「奴隷解放宣言」が出された1862年(文久2年)から、実に100年余りかかってようやく人種による差別は建前だけではなく、実質的になくなった。その証拠がオバマ大統領の就任である。

 ところが日本ではまだ色の黒い人たちへの偏見が根強い。というのも明治維新以後の近代日本を作り上げたときの先進文明は白人による文明だったからだ。それをお手本にして今日の日本があるわけだし、太平洋戦争で負けた相手国・米国による占領(洗脳)政策により、日本人のほとんどは「白人国家アメリカ様は素晴しい。自由と民主主義のモデルだ。しかも終戦後何もない日本に食糧やら何やら支援してくれた。何であのような国と戦争したのだろう。馬鹿な戦前の指導者には騙された」と思い込まされたので、根底に白人への畏敬・憧憬が根付いてしまっている。

 アメリカにも白人中心主義の「KKK」というようなナチス張りの極端な組織があるが、大方のアメリカ人は既に黒人への差別意識は非常に薄い。だが、逆に日本人のほうに差別意識が強い。「悪いことをするのはクロちゃんが多い」と、10年ほど前にあるアメリカ短期留学(研修)した先生が口にしていたのを覚えているが、おそらく彼の内にある黒人への偏見が言わせたのだろう。

 こういった偏見は「周圏文化論」で説明できる。<本家本元で醸成されていた支配的な文化様態が、そこでは失われても、以前からその文化様態を受け入れ(受け入れさせられ)た周囲の文化圏では意外にも形を変えずに根強く残っている>というものだが、黒人への偏見はまさにそれである。

 かって日本の満州帝国設立への肩入れのスローガンは「五族協和」であった。これは大久保利通の二男で牧野家へ養子に入った牧野伸顕が、ベルサイユ条約の直後に行われた国際連盟創立会議において提議した<人種差別撤廃議案>の東アジア版であった。

 皮肉にも、その差別撤廃案を他の議案については多数決で承認されていたにもかかわらず「満場一致ではないので、認められない」と葬り去ったのが、当時のアメリカ大統領ウィルソンで、彼は国際連盟創立の立役者としてその年のノーベル平和賞を受賞している。

 つまり当時、白人以外の人種への差別は当たり前だったのだ。この史実はそれを端的に示す。また国際連盟はあくまでも第一次大戦の当事国である西欧諸国間の連盟であり、それへ有色人種が容喙するのを許そうとしない当時の世界情勢が透けて見える。

 今回のオバマへの平和賞授与は、ウィルソンへの平和賞授与時代にはまったく機能していなかった「黒人を含む有色人種への平等感」がようやく世界的に権威のあるレベルにまで到達したことへの証として歓迎する。

 

| | コメント (2)

うらなりスイカ

夏に食べたスイカの種が、生ゴミとして埋めた庭の一角に芽生え、そのままにしておいたところ、見事に実がなった。1019uranarisuika_001

大きさは手のひらにちょうどすっぽり乗るくらい、直径18センチというところか。

 形は非の打ち所がないほどに真ん丸だ。1019uranarisuika_003

 黒い筋も完璧に入っている。

 2日ほど仏前に供え、今日カットしてみた。1019uranarisuika_004

皮が厚く、色合いもぱっとしないが、真ん中あたりをスプーンで食べてみると結構甘い。

 最低気温10度くらいの日が2回くらいあったので、ツル自体が枯れてしまったので、これ以上大きくはならないが、寒さが来る前にビニールで覆って保温すればもっと大きく、あわよくば30センチくらいのスイカになったのではないだろうか。

 来年は試してみよう。

| | コメント (0)

市成(いちなり)界隈(鹿屋市輝北町市成)

東京からやって来ていた姪を鹿児島空港まで送ったあと、帰り道に輝北町の市成地区を巡ってみた。

 まずは高みからの見物ということで、登見ノ丘(どげんのおか)に上ってみた。登見ノ丘は市成麓を通る国道504号線の信号から右へ(鹿屋からだと左へ)折れ、200㍍ほど行くと右手に急な坂道があるので登って行く。輝北天球館への道である。

 ちょうど1キロほど登ると、右手に丘に到るという案内表示があり、100㍍ほどで丘の頂上に着く。ここからの眺めはよい。1017nanatoichinari_018

 標高556mからの展望。

 手前の杉木立の合間に展開する集落が、藩政期まで機能していた麓集落で、ここに市成郷の仮屋(郷の庁舎)があった。

 真ん中を右上から左下へ走るのが国道504号線で、鹿屋方面では俗に「空港道路」と呼んでいる。

 現在の市成地区の中心地はこの国道沿いに集中している。1017nanatoichinari_023

頂上の西のはずれに、石塔が並んでいた。(右の鳥居の奥には「早馬社」がある。馬頭観音の神社版だ)1017nanatoichinari_021

近くへ行くと、一基が抜きん出て高い。説明板によるとこれは「市成領主・土岐姓・敷根忠頼の墓」で、石塔の分類では<宝篋印塔>だそうである。

 台座まで入れると2㍍近い、堂々たる作りである。

 忠頼は父が初代・敷根久頼、母は島津家18代の家久の娘であり、若くして亡くなったその死を惜しみ、このように立派な石塔を建てた――とある。

 (敷根氏の前身は土岐氏であるが、戦国時代末期に曽於郡の敷根郷を領有したため姓を改めている。)

 市成における本城は「垂野城」で、そこを居城としたのが市成氏であったため、ここが市成と呼ばれるようになった。鎌倉時代初期のことらしい。

 この石塔群はもとからここにあったのではなく、垂野城近くの寺にあったのを廃仏毀釈による損壊をおそれて移されたのだそうだ。

 登見ノ丘を下り、道をさらに輝北天球館方面に向かう。1017nanatoichinari_024

1キロちょっとで奇抜なデザインの「輝北天球館」に着く。

 馬にまたがった現代のドン・キホーテが何やら「宇宙へのメッセージ」を送っている姿――に見えてしまうから不思議だ。

 向こうに見える三基の風車は「地上のメッセージ(風)」を受けているが・・・。1017nanatoichinari_026  

天球館の道を下り、市成の麓地区を通ると、石垣と石段の鉤型の入り口を見つけた。

 中世・現代・未来を眺め、今度はまた近世に逆戻りする。1017nanatoichinari_017

郷士屋敷から再び国道504号線の信号に戻ると、道の向こうに広がる下方(しもほう)墓地の中に<六地蔵塔>が建っている。

 薩摩における六地蔵の起源は朝鮮の役(1592年・1596年)の戦没者を供養するためだが、これは江戸時代中期のもので完形の珍しいものだそうである。1017nanatoichinari_013

信号から南へ(鹿屋方面へ)向かうと500㍍ほどで手押し信号機のある小さな交差点があるからそれを左折し、300㍍走ると、左手に「市成小学校」が見える。

 明治の<郷校制度>時代からある古い学校だ。昭和30年代には300名ほどいた生徒も、昨今は50名いるだろうか。来年度からは同じ輝北町内の百引小学校に統合されるようだ。

 小学校からさらに2キロほど行くと、県道<仮屋―宮園線>にぶつかる。それを左折して朝倉集落に向かう。

 「朝倉の隠れ念仏洞」を見るためだが、途中で道を聞いた農家の子牛が可愛かった。1017nanatoichinari_004

おそらく昨日かおとといくらいに産まれたのだろう。まだ人見知りをしないようで、近寄ってカメラを向けても動じないでいた。1017nanatoichinari_007

隠れ念仏の洞の入り口は、朝倉公民館前の集落道を南へ200㍍ほどの所にあった。立派な説明板が建つ。

 そこから谷に向かって下ること200㍍で洞に到る。1017nanatoichinari_006

ひと一人がかがんでやっと入れる程度の入り口が、ぽっかりと開いていた。

 中は意外に広く8畳ほどの広さがあるという。

 灯明を持ち込み、入り口を柴の束や茣蓙むしろで厳重に閉じた中、「南無阿弥陀仏」の声がくぐもって聞こえただろう。

 ふたたび朝倉公民館前に戻り、そこから県道に出て右折し、もと来た道を引き返す。1017nanatoichinari_012_2

さっきのT字路の前方にこのあたりの高原状にフラットに広がる一帯(八重山台地)には似つかわしくない丘が見える。

 地図には「二子塚」とあるので行ってみる。

 今、稲刈りの真っ最中だ。こんな高原のような所で水があるのかと思ったが、二子塚のそばまで行くとちゃんと「開田の碑」というのが建っていた。先人の米作りへの執念が伝わってくる光景だ。1017nanatoichinari_010

丘のすぐ下の道路に車を停め、蜘蛛の巣を払い、腰の辺りまで茂った草をかき分けながら山道を登る。

 比高で25㍍くらいか、頂上は150坪位の平坦地になっていたが、ここも草ぼうぼうだ。1017nanatoichinari_009

二子塚というからには、何らかの墓だと思うのだが、何しろ草だらけでよく分からない。

 傍らに小さな石の祠が二基あるので、間違いはないだろう。1017nanatoichinari_016

二子塚を調べたあと、再び国道504号線に戻り、手押し信号の所を左折し、鹿屋方面に走る。

 300㍍ほどで左手に神社の赤い屋根と鳥居が目に入る。

 標柱に「太玉神社」とある。1017nanatoichinari_014

「太玉命」は天孫降臨の五伴緒(いつとものを)の神々の一人で、忌部(斎部)氏の祖神とされている。

 市成郷の郷社というわけではないようだが、ここを開拓した最初の領主である「市成氏」の祖先であるとすれば、市成氏は忌部氏の出自ということになる。1017nanatoichinari_015

由緒があるということは、鳥居を入った左右に随身宮(摂社)があったり、石の灯篭が寄進されていることからも分かるが、「太玉命」がここに祭られている理由は謎と言ってよい。 

| | コメント (11)

金木犀の香り

一昨日あたりからほのかに香り始めたあの花の馨り。トイレの芳香剤には持って来いのあの薫り。

 今日になって一段と増してきた良香は、金木犀。1014kinmokusei_001

一昨年の春の木市で買い求めたキンモクセイが、2年半してようやくたくさんの花を着けた。

 夏から秋の変わり目のころ、木の花類は俄然少なくなる。

 つい最近までよく咲いていたのが百日紅(サルスベリ)だったが、台風が過ぎ去るとともにさすがに萎れてきた。1014kinmokusei_002

この頃少なくなった木の花の中では、このキンモクセイは貴重と言えるが、なにせ見栄えのする花ではない。

 もし馥郁たる香りのない花だったら、誰が庭木に植えようか。

 木犀とは「木の肌が動物の犀の肌に似ている」というので付けられた。とても風流とはいえない名でもある。1014kinmokusei_003  

小さな花はオレンジ色と山吹色の中間のような色合いだが、日の当たった花は金色に近く耀く。

 それで金・木犀。1014kinmokusei_006

そういえば一昨日、老犬(16歳)ビータローが、昼間、寝ころびながら妙に鼻をくんくん嗅いでいたが、どうやらキンモクセイが犯人だったのだ。

 人間の1万倍とも10万倍ともいう嗅覚の犬にとって、この香りはいったいどう匂っているのだろうか。

 表情から察すれば、さほど好感を持っているようには見えないが・・・。

| | コメント (0)

小さい秋見つけた(ホトトギス)

昼の2時間ほどしか日の差さないわが家の西の一角、隣家との境に、今年もホトトギスが咲いた。1012hototogisusaku_001

朝の11時頃、ちょうどそこへ日が差し、けっして鮮やかとはいえないが、独特の花弁が見えた。

 ちょっと芸がなく、ただ単に広げた感じの葉っぱの列の真ん中に、今年はよく密集して花を付けている。1012hototogisusaku_002

ホトトギスとは、花弁の中の模様が鳥のホトトギスの首から腹にかけての紋様にそっくりなことから名付けられたそうだが、面白いのは花弁の真ん中から飛び出したおしべ・めしべにも同じ模様があることだ。1012hototogisusaku_003

地面に近い一枝にはこれ一輪しか咲いていないが、目一杯に大きな花を咲かせている。1012hototogisusaku_004

隣家の垣根に向かって四、五本の長い茎が伸び、それぞれが多数の花を咲かせている。

 今年は少雨乾燥が続いたので、葉っぱが黄ばむのではないかと心配したが、どうやら杞憂だった。例年よりむしろ青々としている。

 ホトトギスの花は、高隈山が有名で「タカクマホトトギス」という固有種があるくらいだが、これは肝属郡旧田代町の大原地区に自生していたのを採取して、持ってきた。今年で10年目の株だが、ようやく鹿屋の平地の気候に合ったのだろうか。

 彼岸花と同じ時期に咲き始め、秋を告げる可憐な花である。

 「小さい秋」見つけた。

| | コメント (0)

台風一過(平成21年18号台風)

今朝6時過ぎに庭に出てみてホッとした。台風18号のツメアトなる物はほとんど無いようだ。

 ラジオ体操の第一、第二を念入りにやったあと(もちろん1キロバーベルの負荷付きで)、庭の菜園を見ると、キュウリは無事だった。1008taifuuikka_002

 一ヶ月前に播いてやっとここまで成長し、もうすぐ第一花が咲いて身をつけるころ。

 これなら何とか一果は食えそうだ。

 この間植え付けたばかりのブロッコリーも、少し寝ただけで、起こしてやれば何の問題もなさそう。1008taifuuikka_003

 11月下旬くらいに、真ん中に野球のボール位の、うまそうなグリーンの第一果ができるだろう。1008taifuuikka_001

 南東の空が明るくなってきた(右端の山は旧吾平町と旧大根占町の境にある「八山岳」)。1008taifuuikka_004

 ほぼ真東の雲に、旭日光が火照りはじめた(右端のレーダーサイトのある山は旧高山町の国見岳。その左手のピークは「高屋山上陵」のある「国見山」)。1008taifuuikka_005

 6時23分、朝日が顔を出して、東雲(しののめ)が透明になった。

 空気も透明だ。いや澄明と言うべきか。めでたし、メデタシ。

| | コメント (0)

どこも運動会(鹿屋市大姶良町・南町・飯隈町)

鹿屋市では今日、ほとんどの小学校で運動会が行われている。おとといまで不順だった天気も昨日から持ち直し、今朝は最低気温17度、薄く雲がかかってはいるものの、絶好の運動会日和となった。

 わが家から2キロ圏には三つの小学校がある。午前中、読みさしの歴史本を読み終えてから、その三校を回ってみた。1004undoukaidarake_003

まずは家から真東にある「大姶良小学校」。

 県道<佐多・鹿屋線>沿いにある生徒数400人台の中規模校だ。1004undoukaidarake_002

 紅白の飾り門がいい。1004undoukaidarake_001

 栴檀の木の下はちょうどよい木陰になっている。

 応援の保護者が多数、我が子の活躍を見守っていた。

 次に行ったのが「南小学校」。1004undoukaidarake_004

大姶良から南小へは、県道<佐多・吾平線>を通るが、南小のすぐ手前には今年完成した「新西南でんぷん加工場」(JAきもつき所属)が巨大な姿で建っている。1004undoukaidarake_005

 県道沿いの校門にはかわいらしい案内が立っていた。

 運動場は校舎の向こうなので、道路を反対側に回る。

 校庭の入り口で目にしたものは・・・・・1004undoukaidarake_006  

・・・入場門だが、何とも不思議な門だ。と思ってよく見ると・・・・・1004undoukaidarake_007

 ・・・本物の稲の束が架けられていた。

 しかも、モミが着いたままだ。いやはや驚いた!日の丸のような赤丸の中には「実りの秋 大運動会」と書いてある。

 なるほど、そうか。もしかしたら「学校田」で採れた稲か。「脱穀競争」なんて種目があったりして・・・。

 最後に訪れたのは飯隈町にある「西俣小学校」。1004undoukaidarake_010

 ここの入場門はすごい。立派な「杉門(緑門)」だ。なぜ杉の葉が使われるのか、その理由は分からないが、杉の葉で仕立てる学校が結構多い。1004undoukaidarake_008

 ここは生徒数100人足らずの小規模校だ。

 今、種目は障害物競走のようだ。走るのを待っている生徒の塊に比べて、校庭がえらく広く感じられる。1004undoukaidarake_009

 保護者の応援席にはブルーシートが隙間なく敷かれている。

 おまけに日除けの「永野田 敬老会」の横断幕が垂れ下がる。至れり尽くせりだ。

 小学校の運動会は地域の一大イベントで、ちょっと大げさに言えば、一族郎党が子どもの応援にやって来る。

 昼食時などは、まるで宴会のように話が弾む。

1004undoukaidarake_011 おっと、こちらでは生まれたばかりの赤ちゃんまで連れてきて、はや「飲ん方(宴会)」が始まっているようだ。

| | コメント (0)

"友愛”がこんな所に!

一週間ほど前に所用で訪れた「鹿児島県立鹿屋農業高校」。このとき、「あれ!何でこんな所に?」と目に入ったのが”友愛の碑”であった。鳩山新首相のキャッチフレーズではないか・・・!
 
 その時はカメラなど持っていなかったので、今日の午後、改めて訪ねてみた。
1002kanoyanoukou_006_2
 鹿屋市を通り抜ける国道269号線の農高前信号の先から左側に校門があり、それを入るとロータリーの向こうに本部棟が建つ。
 
 件の”友愛の碑”はロータリーの左の奥にある。近づいてみると、不思議な色合いと模様の石に彫り込まれていた。
1002kanoyanoukou_001
 下に別の石(プレート)に細々と文字が刻まれている。
1002kanoyanoukou_002
 建立者は「台湾同窓生卒業記念碑建立委員会」で、平成10年11月11日とある。「ほう、台湾からの留学生がいたんだ」というのが率直な感想で、ほとんど念頭になかった事柄であった。

 よく読んでいくと――農高は平成10年までの卒業生は2万2千人を数える伝統校だが、昭和7年から21年まで台湾からの入学生が34人おり、その台湾同窓生は現在でも農高への絆が強く、各界で活躍しているが、本校関係者が台湾に行ったりすると非常な歓迎を受ける。その「友愛の精神」を称えて平成10年に建立した――というような内容である。
 
 そう言えば、今年の何月だったか、そんな同窓生の息子(といってもかなりの年配者だ)が、日本を訪れた折に父親から折に触れて聞いていた農高に足を運んだ、というニュースが流れていた。

 使われていた石は台湾産の原石とあるから、もしかしたら台湾同窓生の寄贈なのかもしれない。たぶん間違いないだろう。碑文の中に「台湾同窓生」とあって「台湾留学生」としていないが、これも親日だからだろう。実際、彼等が農高にやって来たときは、台湾は日本の一部だったのだから、「台湾留学生」はあり得ないのである。

 これがもし「朝鮮同窓生」だったらどうだろうか? おそらく「同窓生」は使わないはずで、使ったら<朝鮮は日本の一部だった>という「忌まわしく、忘れ去りたい過去の日韓併合」を認めたことになってしまう。しかし、その前にまず「朝鮮出身者」が学んでいたのかどうかが不明だが・・・。
1002kanoyanoukou_004
1002kanoyanoukou_005
 入り口のロータリーの反対側には農業高校らしく<農魂>の碑があり、隣には<創立100周年記念碑>(平成7年建立=幅約2㍍)がでんと建っている。

 鹿屋農業高校の歴史は古い。何と明治28年(1895)に「県(立)農学校」として設立されている。県営の就学施設としては鹿児島県で最も古いものである。面白いことに、他県でも県立では農業高校の歴史が一番のようだ。明治の殖産興業政策の一翼を担っていたのだろう。

 卒業生は多岐にわたり、どうも古い卒業生ほど優秀な人材が多かったようで、今の鹿屋市長(74歳)はこの学校の出身者であるし、知人の伯父はここを出て東京に遊学し、今は弁護士として活躍していると聞く。

 
1002kanoyanoukou_008
 ロータリーの中心の円形花壇には巨大なソテツの株がある。

 "友愛”は何も台湾同窓生のものだけではない。この農業高校にともに学び、ともに汗し、ともに過ごした3年間は何にも替えがたい友情の期間で、卒業後は懐かしい”友愛”に恵まれるだろう。

| | コメント (4)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »