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"友愛”がこんな所に!

一週間ほど前に所用で訪れた「鹿児島県立鹿屋農業高校」。このとき、「あれ!何でこんな所に?」と目に入ったのが”友愛の碑”であった。鳩山新首相のキャッチフレーズではないか・・・!
 
 その時はカメラなど持っていなかったので、今日の午後、改めて訪ねてみた。
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 鹿屋市を通り抜ける国道269号線の農高前信号の先から左側に校門があり、それを入るとロータリーの向こうに本部棟が建つ。
 
 件の”友愛の碑”はロータリーの左の奥にある。近づいてみると、不思議な色合いと模様の石に彫り込まれていた。
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 下に別の石(プレート)に細々と文字が刻まれている。
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 建立者は「台湾同窓生卒業記念碑建立委員会」で、平成10年11月11日とある。「ほう、台湾からの留学生がいたんだ」というのが率直な感想で、ほとんど念頭になかった事柄であった。

 よく読んでいくと――農高は平成10年までの卒業生は2万2千人を数える伝統校だが、昭和7年から21年まで台湾からの入学生が34人おり、その台湾同窓生は現在でも農高への絆が強く、各界で活躍しているが、本校関係者が台湾に行ったりすると非常な歓迎を受ける。その「友愛の精神」を称えて平成10年に建立した――というような内容である。
 
 そう言えば、今年の何月だったか、そんな同窓生の息子(といってもかなりの年配者だ)が、日本を訪れた折に父親から折に触れて聞いていた農高に足を運んだ、というニュースが流れていた。

 使われていた石は台湾産の原石とあるから、もしかしたら台湾同窓生の寄贈なのかもしれない。たぶん間違いないだろう。碑文の中に「台湾同窓生」とあって「台湾留学生」としていないが、これも親日だからだろう。実際、彼等が農高にやって来たときは、台湾は日本の一部だったのだから、「台湾留学生」はあり得ないのである。

 これがもし「朝鮮同窓生」だったらどうだろうか? おそらく「同窓生」は使わないはずで、使ったら<朝鮮は日本の一部だった>という「忌まわしく、忘れ去りたい過去の日韓併合」を認めたことになってしまう。しかし、その前にまず「朝鮮出身者」が学んでいたのかどうかが不明だが・・・。
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 入り口のロータリーの反対側には農業高校らしく<農魂>の碑があり、隣には<創立100周年記念碑>(平成7年建立=幅約2㍍)がでんと建っている。

 鹿屋農業高校の歴史は古い。何と明治28年(1895)に「県(立)農学校」として設立されている。県営の就学施設としては鹿児島県で最も古いものである。面白いことに、他県でも県立では農業高校の歴史が一番のようだ。明治の殖産興業政策の一翼を担っていたのだろう。

 卒業生は多岐にわたり、どうも古い卒業生ほど優秀な人材が多かったようで、今の鹿屋市長(74歳)はこの学校の出身者であるし、知人の伯父はここを出て東京に遊学し、今は弁護士として活躍していると聞く。

 
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 ロータリーの中心の円形花壇には巨大なソテツの株がある。

 "友愛”は何も台湾同窓生のものだけではない。この農業高校にともに学び、ともに汗し、ともに過ごした3年間は何にも替えがたい友情の期間で、卒業後は懐かしい”友愛”に恵まれるだろう。

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おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

先の「隼人の月読信仰」の拙稿への御レスへに対しまだお礼も叶わぬままですが、
鹿屋農高についての記事を拝見し、同校の創立にかねてよりの思いがありました故、また同校に台湾卒業生との感動記事があいました故、こちらに関し先に寄稿させて頂きます。
(例によって一方的な思い込み投稿で申し訳ありません。)

その創立に関しては、明治の先人の郷土を思う偉大さを想わざるを得ません。
創立が明治28年とは日露戦争時、西南戦争から僅か18年後ですね。
西郷と共に下野した桐野利明が黙々と吉野の原野に鍬を入れていた魂魄の精神は生きて、大隅の大地に活かされんとしたのですね。
小生は残念ながら同校の出身ではなく、同校のその後につては知りませんが、無責任ながらつらつら思うに、大隅の地にあって真にその精神が今日まで活かされていたなら大隅の地は今頃輝かしい発展を遂げていたのではと思わざるを得ません。同校もあるいは立派な農業大学として発展し得ていたかも。
少なくともせっかく笠野原大地が灌漑されたに拘らず中央経済動向に翻弄されて人工芝畑や街路樹植林地転用に荒らされることは無かったのでは。
貴殿の先記事、サツマイモ畑での老夫婦の機械作業写真を拝見し暗然たる気になっていました。
これも戦後小生世代の無責任の証左でしょうね。
農高の発展を無視疎外してその後大隅の地には離郷の為の進学予備高校が作られ持て囃されてきた。郷里発展に何の寄与もできないその成れの果ての哀れな見本が小生みたいな愚人です。(涙)

さてその農高に戦前台湾の留学生があり交流の記念碑があるとのこと。
さすが我が郷里の農高とうれしくなりました。
実は、小生も当地にあって20年以上台湾高砂族の皆さんとの交流団体の末席を穢しております。
先の大戦中血書までして数百倍の競争志願して日本軍を助けてくれた高砂族。
「日本人以上の日本人」と云われ、その純真なこころの友情談は枚挙にいとまがありません。(その交流模様は小生のホームページでいずれ詳しく紹介したいと思っているのですが、私事に忙殺されて怠っております。)
余談ですが、その高砂族の台湾山中に我が日本人がとうの昔に失った、文字言葉など必要としなかった縄文古人の豊な感性の残影が偲ばれるのではないか、
その「そ」にそっと耳を傾けてみたい、それを育んできた山中の面影にカメラを向けてみたい、それが小生の余生唯一の願望です。
縄文古人の豊な感性力、それは台湾山中だけでなく日本本土では郷里大隈にも残っている!と信じたい。その感性力とそれによる叡智力の復元こそがわが大隅のみならず日本の蘇生に必要ではないかと愚考します。
それは小生に最も欠けた資質なればこそ願望するのみなのですが(涙)

鹿屋農高の御紹介有難うございます。
貴殿の郷里の風土記事や写真等楽しく有り難く拝見しています。
今後ともよろしく。

投稿: 隅南風人 | 2009年10月 3日 (土) 02時04分

どうもガサツ粗忽な男で申し訳ありません。

前の寄稿で、、「台湾留学生」は「台湾同窓生」の間違いでした。
単に「留学生」では、折角の仰る意味を曲解してしまいますね。
それと蛇足ですが、上記「台湾高砂族との交流団体」と記しましたが、「あけぼの会」と云って、門脇朝秀先生(95才)を中心とした未解明の戦中戦後史を解明研究する会で(会員は殆ど大陸南洋からの引き上げ者で高齢者のみ)、
台湾に関しては戦後初めて台湾山中に分け入り高砂各部族の皆さんとの心の交流の扉を開き、今では高砂族だけでなく台湾の各界各層の方々と交流親交しています。
「同窓生」の皆さんとも交流関係があるかも。
(追加蛇足ー門脇先生は終戦直後大連に幽閉された邦人25万人を決死の脱出行で米大統領に嘆願救出されたり、朝鮮中国現地民とも交流、満州残留孤児引き上げの先鞭をつけられた方としても有名)

もう一つの間違い。
「サツマイモ畑での老夫婦」ではなく、「三人の高齢者」でした。
別の稲刈りの「母と息子」画も老夫婦と勘違いしていました。
小生も農家出身ですが、どうも先年帰鹿した折、郷里の農家の悲惨な実態やご苦労振り話を聞かされ過ぎていたもので・・・

大変失礼しました。

「サツマイモ畑での老夫婦」は「三人の高齢者」の

投稿: 隅南風人 | 2009年10月 4日 (日) 13時41分

明治28年「日露戦争」は「日清戦争」の間違い。
再々の間違い訂正御念。

投稿: 隅南風人 | 2009年10月 4日 (日) 15時56分

隅南風人さんへ。

今回へのレスではないのですが、以前にお尋ねの串良の寺について、今年から始めた『三国名勝図会』の解読講座「おおすみ歴史講座」の9月<第四回おおすみ歴史講座:高隈郷と串良郷>が参考になると思いますので、以下のホームページをご覧下さい。

 「鴨着く島おおすみ」=http://kamodoku.dee.cc.ne.jp/

投稿: kamodoku | 2009年10月 5日 (月) 22時46分

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