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市成(いちなり)界隈(鹿屋市輝北町市成)

東京からやって来ていた姪を鹿児島空港まで送ったあと、帰り道に輝北町の市成地区を巡ってみた。

 まずは高みからの見物ということで、登見ノ丘(どげんのおか)に上ってみた。登見ノ丘は市成麓を通る国道504号線の信号から右へ(鹿屋からだと左へ)折れ、200㍍ほど行くと右手に急な坂道があるので登って行く。輝北天球館への道である。

 ちょうど1キロほど登ると、右手に丘に到るという案内表示があり、100㍍ほどで丘の頂上に着く。ここからの眺めはよい。1017nanatoichinari_018

 標高556mからの展望。

 手前の杉木立の合間に展開する集落が、藩政期まで機能していた麓集落で、ここに市成郷の仮屋(郷の庁舎)があった。

 真ん中を右上から左下へ走るのが国道504号線で、鹿屋方面では俗に「空港道路」と呼んでいる。

 現在の市成地区の中心地はこの国道沿いに集中している。1017nanatoichinari_023

頂上の西のはずれに、石塔が並んでいた。(右の鳥居の奥には「早馬社」がある。馬頭観音の神社版だ)1017nanatoichinari_021

近くへ行くと、一基が抜きん出て高い。説明板によるとこれは「市成領主・土岐姓・敷根忠頼の墓」で、石塔の分類では<宝篋印塔>だそうである。

 台座まで入れると2㍍近い、堂々たる作りである。

 忠頼は父が初代・敷根久頼、母は島津家18代の家久の娘であり、若くして亡くなったその死を惜しみ、このように立派な石塔を建てた――とある。

 (敷根氏の前身は土岐氏であるが、戦国時代末期に曽於郡の敷根郷を領有したため姓を改めている。)

 市成における本城は「垂野城」で、そこを居城としたのが市成氏であったため、ここが市成と呼ばれるようになった。鎌倉時代初期のことらしい。

 この石塔群はもとからここにあったのではなく、垂野城近くの寺にあったのを廃仏毀釈による損壊をおそれて移されたのだそうだ。

 登見ノ丘を下り、道をさらに輝北天球館方面に向かう。1017nanatoichinari_024

1キロちょっとで奇抜なデザインの「輝北天球館」に着く。

 馬にまたがった現代のドン・キホーテが何やら「宇宙へのメッセージ」を送っている姿――に見えてしまうから不思議だ。

 向こうに見える三基の風車は「地上のメッセージ(風)」を受けているが・・・。1017nanatoichinari_026  

天球館の道を下り、市成の麓地区を通ると、石垣と石段の鉤型の入り口を見つけた。

 中世・現代・未来を眺め、今度はまた近世に逆戻りする。1017nanatoichinari_017

郷士屋敷から再び国道504号線の信号に戻ると、道の向こうに広がる下方(しもほう)墓地の中に<六地蔵塔>が建っている。

 薩摩における六地蔵の起源は朝鮮の役(1592年・1596年)の戦没者を供養するためだが、これは江戸時代中期のもので完形の珍しいものだそうである。1017nanatoichinari_013

信号から南へ(鹿屋方面へ)向かうと500㍍ほどで手押し信号機のある小さな交差点があるからそれを左折し、300㍍走ると、左手に「市成小学校」が見える。

 明治の<郷校制度>時代からある古い学校だ。昭和30年代には300名ほどいた生徒も、昨今は50名いるだろうか。来年度からは同じ輝北町内の百引小学校に統合されるようだ。

 小学校からさらに2キロほど行くと、県道<仮屋―宮園線>にぶつかる。それを左折して朝倉集落に向かう。

 「朝倉の隠れ念仏洞」を見るためだが、途中で道を聞いた農家の子牛が可愛かった。1017nanatoichinari_004

おそらく昨日かおとといくらいに産まれたのだろう。まだ人見知りをしないようで、近寄ってカメラを向けても動じないでいた。1017nanatoichinari_007

隠れ念仏の洞の入り口は、朝倉公民館前の集落道を南へ200㍍ほどの所にあった。立派な説明板が建つ。

 そこから谷に向かって下ること200㍍で洞に到る。1017nanatoichinari_006

ひと一人がかがんでやっと入れる程度の入り口が、ぽっかりと開いていた。

 中は意外に広く8畳ほどの広さがあるという。

 灯明を持ち込み、入り口を柴の束や茣蓙むしろで厳重に閉じた中、「南無阿弥陀仏」の声がくぐもって聞こえただろう。

 ふたたび朝倉公民館前に戻り、そこから県道に出て右折し、もと来た道を引き返す。1017nanatoichinari_012_2

さっきのT字路の前方にこのあたりの高原状にフラットに広がる一帯(八重山台地)には似つかわしくない丘が見える。

 地図には「二子塚」とあるので行ってみる。

 今、稲刈りの真っ最中だ。こんな高原のような所で水があるのかと思ったが、二子塚のそばまで行くとちゃんと「開田の碑」というのが建っていた。先人の米作りへの執念が伝わってくる光景だ。1017nanatoichinari_010

丘のすぐ下の道路に車を停め、蜘蛛の巣を払い、腰の辺りまで茂った草をかき分けながら山道を登る。

 比高で25㍍くらいか、頂上は150坪位の平坦地になっていたが、ここも草ぼうぼうだ。1017nanatoichinari_009

二子塚というからには、何らかの墓だと思うのだが、何しろ草だらけでよく分からない。

 傍らに小さな石の祠が二基あるので、間違いはないだろう。1017nanatoichinari_016

二子塚を調べたあと、再び国道504号線に戻り、手押し信号の所を左折し、鹿屋方面に走る。

 300㍍ほどで左手に神社の赤い屋根と鳥居が目に入る。

 標柱に「太玉神社」とある。1017nanatoichinari_014

「太玉命」は天孫降臨の五伴緒(いつとものを)の神々の一人で、忌部(斎部)氏の祖神とされている。

 市成郷の郷社というわけではないようだが、ここを開拓した最初の領主である「市成氏」の祖先であるとすれば、市成氏は忌部氏の出自ということになる。1017nanatoichinari_015

由緒があるということは、鳥居を入った左右に随身宮(摂社)があったり、石の灯篭が寄進されていることからも分かるが、「太玉命」がここに祭られている理由は謎と言ってよい。 

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コメント

はじめまして^^
市成を離れて早20年近くになります。
たまに帰ってはいますが、日記を拝見して懐かしくなりコメントした次第です。

機会があれば是非またレポートしてください^-^

投稿: RQ | 2012年1月22日 (日) 00時58分

RQさんコメントありがとうございます。遅ればせながら・・・。
 実は沖縄楽器の三線(さんしん)を習い始めて3年目ですが、お師匠さんは市成出身の元自衛官のW氏です。
 W氏は沖縄に2年間単身赴任している時に、近所にいた師匠に習ったそうで、その後鹿屋に帰任し、間もなく退職してからさらに技芸を磨き、今は鹿屋で三線のお師匠さんです。
 縁は異なもの、不思議なものです。

投稿: kamodoku | 2012年2月12日 (日) 19時32分

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