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晩秋の野の道(鹿屋市野里町)

すっかり秋が深まり、霜月も今日で終り。

 鹿児島では常緑広葉樹がほとんどを占めているため、晩秋・初冬の木の葉を落とした寂しげな、しかし、味わい深い風景は少ない。

 だが、ここだけは違う。黄葉のイチョウがはらはらと舞い散り、その向こうにカラマツに近い樹林帯がすっかり紅く葉を染めている。1129hirakikijinja_031

ガードレール(と電柱)が無ければ、ヨーロッパのどこかを思わせないだろうか?1129hirakikijinja_032

 惜しむらくはやはりガードレール。

 しかしここは通学路。さらさらと流れる用水路に小学生が落ちては危ないのだろう。

 

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事業仕分け

民主党政権になって最大の見せ場が「事業仕分け」だ。

 予算計上された国の3000ほどの事業を「ムダはないか」の観点から、予算案が国会審議に付される前に、政治主導でやっておこうというもので、それ自体は素晴しいものである。

 なにしろ一般国民には目に入らなかった予算計上の合理性・不合理性を公開の場で「仕分け」しようというのだから、国民の耳目を引かずにはおかない。

 450くらいの仕分けが済んで、削り取った金額は一兆円規模になった。民主党は3兆円までは行けるだろうと意気込んでいたようだが、そこまでは無理だろう。

 ムダを省くというのは一般論としては歓迎するが、科学や教育振興の分野にはムダも必要だ。というのは、科学は膨大な実験や資料の集積があってはじめて成り立つ分野だからだ。その膨大な実験や資料の蒐集には、相当な金と暇がかかる。

 今回、科学者、中でもノーベル賞受賞者や大学学長などから批判が相次いでいる。当然のことだろう。

 もしこの事態が本当になれば、つまり「科学研究への投資はムダ」という事態になったら、喜ぶのは中国をはじめとする後発先進国だろう。というのは、予算が付かないことで日本の科学技術研究が遅れれば、その間に彼等が研究をどんどん先に進めるだろうからだ。

 しかし、それより怖いことがある。それは、日本の先端科学者の引き抜きである。

 「あなたの研究にたっぷり予算を付けてあげますから、わが国に来ませんか」と、中国をはじめインド、ブラジルなどの後発先進国が金の糸目をつけずに招聘を申し出たら、かなりの先端科学者は行くのではないだろうか?彼等はてぐすねを引いて結果を見守っているかもしれない。

 そんなことは杞憂であって欲しいが、世界が競い合っている先端技術の分野では、この先、何があってもおかしくない。かなり以前からそうだが、科学の分野に国境はなく、アメリカなどではそうやって優秀な科学者を集めたのである。

 あまりに近視眼的な事業仕分けは、日本の将来に禍根を残しはしないだろうか?

 

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生目古墳群(宮崎市大字跡江)

11月15日(日)に西都原市の考古博物館で開催された「玉と王権」へ行く途中、宮崎西インターで降り、向かった先に「生目古墳群」があった。

 この古墳群は、大淀川が高岡町から東に流れて、大きく北へ迂回し半円状を描いて再び東に向かって流れていくちょうどその半円の中に展開している。

 宮崎西インターから国道10号線を東(宮崎市方面)に走り、2キロほどで「生目」信号にかかるから、それを左折し約1.5キロ行くと今度は「跡江」信号に着く。これを左折して500㍍ばかり行くと、右手に「生目古墳群・遊古館」の看板が見える。その上の台地が古墳群だ。

 左側には広い田んぼ地帯の向こうに「生目運動公園」があり、大きなドームも見える。今、ソフトバンク・ホークスのオフシーズンのキャンプが行われているらしく、そこの道案内が道路沿いに点々と立っている。1115saitobarutoikimekofun_008

 古墳群のある丘から眺めた「生目運動公園」。白いドームが印象的だ。

 丘のすぐ下の建物は「遊古館」といい、宮崎市の埋蔵文化財センターである。ここがとても勉強になった。

 というのも、丘の上に上がっても、広い駐車場の周りに、古墳らしきものは一つも見えないのだ。古墳群を俯瞰した畳一枚くらいの図版がぽつんとあるだけだった。

 そこで下の遊古館に行ってみたのだ。1115saitobarutoikimekofun_009

幸いにも遊古館の広いエントランスの床に、生目古墳群の巨大な航空写真が刷り込まれていたので、写真に撮ることができた。

 左の道路脇にあるのが「一号墳」で、長さは136メートルあり、生目古墳群の8基ある前方後円墳の内では2番目に大きいそうだ。

 道路はすぐ脇を走っているように見えるが、古墳の造営された丘より25~30㍍も低い。要するに生目古墳群は、大淀川が削り残したシラスの台地に築かれているのである。このことは現地に来てはじめて分かった。来る前に眺めた地図で判断した限りでは、10メートル程度の河岸段丘に営まれているものとばかり思っていたのだ。

 生目古墳群は海抜30㍍ほどの台地上に、25の高塚古墳と50余りの地下式横穴墳が築かれ、最大の前方後円墳「3号墳」は143メートルもあり、しかも古式の古墳でおそらく4世紀初頭のものだろうという。

 古式の100メートル級の前方後円墳が3つもある古墳群というのは、九州で最も早いもののようである。同じ県内の西都原古墳群を造営した王者より古い王者級の勢力が、ここに存在した可能性が考えられている。

 ところで生目古墳に来たら、どうしても見ておきたかったのが「生目神社」だ。生目古墳群に近いものとばかり思っていたが、神社は古墳群の南方3キロもの所にあった。1115saitobarutoikimekofun_007

 さっき通った「生目」信号をそのまま南下し、橋を渡って左折するとやがて「東九州自動車道」の高架をくぐれば、突き当りが神社の丘だ。

 生目古墳の丘陵ほどではないが、周囲より15,6メートルは高い。

 左に回りこむと駐車場があり、そこからは歩いて行く。なだらかな階段状の道から石段を上がると、一の鳥居がある。1115saitobarutoikimekofun_006_2

 ここから小砂利の参道を100㍍弱行くと、右手に門構えこそ無いが立派な石垣と塀をもつ宮司宅を見る。1115saitobarutoikimekofun_005

 参道の雰囲気といい、この宮司宅といい、由緒の古さを感じさせる。1115saitobarutoikimekofun_002

 社殿のある境内へはさらに7,8段の階段を上る。1115saitobarutoikimekofun_003

 拝殿の後ろの本殿。本殿を廻る屋根付きの回廊型の塀があるのは珍しい。相当な格式を思わせる。

 この神社のあるところこそが「大字生目」であった。しかも小字を「亀井山」と称する。

 社殿地や塚のある小山に多いいわゆる「亀山」と同じだろう。間違いなく誰かの墳墓に違いない。

 祭神は「八幡さま=応神天皇」と「藤原(平)景清」で、社名がもともと「生目八幡宮」だったそうだから、前者の祭神こそが本来のものだろう。

 それはそれでいいとして、問題は「生目(活目とも書く)」の名称だ。

 神社発行の「日本一社 生目神社御由緒」というパンフレットによると、三つの説があるという。

 1、景清が日向に下向し、ここに居を構えてやがて死んだ。その後、景清の「生けるがごとき霊眼(目)を斎き祭った」ので名が付いた。

 2、昔から眼病に霊験があり、その神徳を称えて名付けた。

 3、活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこいそさちのみこと=垂仁天皇)を奉祭したので付けられた。

 このうち私見では3を採るが、必ずしも垂仁天皇ばかりではなく、「活目」は他にもたくさんいたと思う。

「いきめ」とは魏志倭人伝に出てくる役人の正式名で、邪馬台国の官制のトップに挙げられている「伊支馬(いきま)」のことだろう。それを漢字で「活目(目を活かす)」と当てているが、それはずばりこの役職の意味を表している。江戸時代で言えば「大目付」のことで、漢の制度では都督、つまりGHQのようなものである。

 邪馬台国に都督を置いたのは北部九州の「大倭」であったが、それと同様にここに都督を置いたのはやはり「大倭」であったろう。どこを監視するかといえば、それは南九州に一大勢力を持っていた「投馬国」をである。その時期は邪馬台国時代(3世紀前半)にもかかるがもう少し前の「倭の大乱」の時代(2世紀後半)ではなかっただろうか。

 西都原古墳群時代にさかのぼること1世紀~2世紀前の話である。

 

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西都市を歩く(宮崎県西都市)

西都原考古博物館を訪れたついでに、西都市の見どころをいくつか回ってみた。

 まずは考古博物館のある西都原台地。海抜は平均70メートル、面積約1000ヘクタールに広がる古墳群は、3世紀から7世紀にわたって造られ続けた。

  前方後円墳はじめ円墳、方墳などの古墳は300を超えており、その数は一ヶ所としては日本一である。中でも「男狭穂」「女狭穂」という二基の巨大古墳は、九州では最大を誇る。1115saitobarutoikimekofun_043

 男狭穂塚。宮内庁により陵墓参考地に指定されているため、柵に囲まれて入ることはできない。

 杉木立の向こうに、巨大な墳丘がかすかに見える。

 墳長155m、高さ19mで、国内最大の帆立貝型古墳という。1115saitobarutoikimekofun_044

 男狭穂塚のすぐ西隣りに築かれているのが「女狭穂塚」で、こちらは典型的な前方後円墳で、5世紀半ば近くの造営である。

 畿内の河内地方の巨大古墳とよく似た造りだそうだ。

 墳長176m、高さ15m。後円部の径は96mもある。

 この墳墓も参考地となっていて入ることはできない。写真では杉木立の間に前方部の一部が見えている。

 地元の伝承では、男狭穂塚には「ニニギノミコト」が、女狭穂塚には后の「コノハナサクヤヒメ」が眠っているという。ロマン溢れる伝承だが、そうなると台地上にたくさんあるもっと古い前方後円墳には誰が埋葬されているのかの説明がつかない。ニニギノミコトが天から降ってくる前から地上にいたオオクニヌシの一統ということになるのか・・・。1115saitobarutoikimekofun_045

 西都市街地から上がってくると、広大な景観が広がるが、その入り口に近いところにはコスモスが見事に咲き揃い、多くの家族連れで賑わっている。

 その中に風変わりな「鬼の窟(いわや)古墳」というのがある。真ん中に直径37mの円墳があり、それを取り囲むように外堤を廻らしてある。この古墳は最も新しく、7世紀初頭に造られたようだ。

 西都原に祭られた最後の首長だろうと言われている。

 西都原台地から市街地に下り、国道219号線の信号を左へとり、妻北小学校のところの信号を右折すると、間もなく左手に「都萬神社」の入り口がある。1115saitobarutoikimekofun_022

 社殿の下まで来ると上はずい分賑わっている。そうか、今日は11月15日で七五三参りの日だった。1115saitobarutoikimekofun_021

 階段を上がり、鳥居をくぐると正装の親子連れが目立つ。

 女の子は特に美しく着飾っている。ここの祭神は「コノハナサクヤヒメ」だからという訳でもなかろうが、「この子の七つのお祝いに・・・」などという唄を思い出した。

 社殿の造りは荘重で、なるほど日向五社の一つとしての由緒を感じさせる。1115saitobarutoikimekofun_023

 社殿の裏の駐車場への路地に生えているさほど大きくない杉の木に幣飾りがしてあった。

 よく見ると「日下部塚跡」とある。日下部氏といえば古代日向の首長家の一つだ。ここに代々の墓地があったのだろうか。手前の石組みが、何だかそれを思わせる。1115saitobarutoikimekofun_014

 次に「日向国分寺跡」に向かった。

 都萬神社をでて、さっき来た妻北小学校の交差点を曲がらずにそのまま行き、稚児ヶ池まで行ったら左折する。

 そのままずっと南下して行き、「三笠」という信号を右折する。突き当たりの台地の上に国分寺跡はあるのだが、右手からクランク状に上がるので、ちょっと分かりにくい。付近の人に聞くのが一番。

 瀟洒な和風建築が見えたら、そこが国分寺跡だ。1115saitobarutoikimekofun_018

 国分寺跡といっても礎石の跡だけが残るばかり。しかもその規模は小さい。

 向こうに見えるのは「木喰館」で、江戸時代に有名な木喰上人が当地に滞在し、数々の木像仏を残したが、そのうちの6体の仏像を安置してある。1115saitobarutoikimekofun_020

 木喰上人は若くして出家し、55歳の時に日本全国回遊行を発心し、70歳の時に、日向にやって来たという。

 そしてこの国分寺に来た時、請われて住職を9年務めたが、その時に刻んだのが、「木喰堂」に残る大日如来像ほか五体の仏像であるらしい。顔に独特の柔和さがあるので、厳かというより親しみを感じる仏たちである。しかし仏像自体は思ったよりかなり大きい。

 日暮れも近くなってきたが、最後に西都市一帯を育んだ母なる「一ツ瀬川」を眺めておこうと思い、車を東に走らせた。「三笠」信号から道を東北にとる(寿屋デパート方面)と、一本道で市街地を抜け、10分ほどで「山角橋」に到る。1115saitobarutoikimekofun_046

 橋の向こうは西都原市街地。はるかに西都原台地の低い丘が見える。1115saitobarutoikimekofun_047

 さすがに宮崎県では大淀川に次ぐ大河。河口までまだ15キロ以上あるのに、川幅はすでに100㍍近く、ゆったりとした流れである。

 この川によって育まれた一大勢力が、西都原台地にたくさんの墳墓を造ったに違いない。

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西都原考古博物館で「玉と王権」講演会を聴く

11月15日(日)の午後1時から4時まで、宮崎県の西都原考古博物館で展示中の特別展「玉(ギョク)と王権」に関して講演会があったので、片道3時間近くかけて出かけてみた。

 途中、東九州自動車道の宮崎西インターで降り、4キロほど行った所にある「生目古墳群」と「生目神社」に立ち寄ったり、西都原市内の「国分寺跡」や「都萬神社」などを見学したのだが、それらは別の日にものすることにして、ここでは講演会にしぼって書いておく。1115saitobarutoikimekofun_042

 国道219号線にしたがって西都市に入り、目抜き通りを行くと、西都原古墳群入り口の信号があるから、それを左折してしばらく坂道を上がっていくと、広大な西都原台地に出る。

 考古博物館は台地の北寄りにある。

 しばらく常設展と「玉と王権」展を見学したあと、館内の3階にある食堂で昼食をとった。

 講演会は予定通り午後1時に始まった。

 聴衆は150人くらいだったろうか、詰めればまだ50人は入れそうな、こじんまりとしたホールで行われた。講演者は次の三人であった。

 ① 東アジア古代の玉器  岡村秀典=京都大学人文科学研究所教授

 ② 日向国玉璧の啓示   トウ・シュクヒン=台湾・故宮博物館

 ③ 韓国の玉文化      ノ・キスク=韓国・国立中央博物館

 ②と③の講師はどちらも女性で、トウ氏は50代、ノ氏は40代と見えた。日本の岡村教授は1957年生まれの52歳である。専門は「中国考古学」。

 最初の岡村教授は、「玉」とは古代においてどんな役割をしていたか、から始め、分かりやすく聴衆に語りかけていた。その一方で、後の二氏は通訳付での講演だったので、いまいちぴんと来ないものがあったのだが、それは致し方あるまい。問題は内容だ。1115saitobarutoikimekofun_039

 「玉と王権」展には台湾の故宮博物館からの出品の「玉璧(ギョクヘキ)」が多数展示されていたが、岡村教授によるとこの「玉(ギョク)」こそは「金銀」に勝る漢代の王位者への下賜品だという。1115saitobarutoikimekofun_040

 実は宮崎県串間市からは、このような玉璧が江戸時代の文政年間に発掘されていた。

 上の二点はどれも外側のみ文字のような刻み帯があるだけだが、串間出土のものには、さらに真ん中にも刻み帯が施されている。

 大きさも直径33センチという特大の優品である。1115saitobarutoikimekofun_025

 岡村教授によれば、刻み文様は外側のは「龍文」、内側のは「鳳凰文」だそうだ。

 両方あわせて「龍鳳文」で、王者級の人物に対して、漢の皇帝が授与した物に間違いない、という。 

 串間の玉璧の正体が分からずにいたところ、今から25年前に中国広州市で見つかった「南越王墓」から、同じような玉璧が40枚以上発見され、そのうち最大級の33センチほどある玉璧は、大きさといい文様といい、串間のとそっくりであることが分かった。 

 このことから岡村教授は、串間のも南越王と同じように漢の皇帝からの下賜品であろうと考えている。ただ串間へは漢王朝から直接あたえられたのではなく、紀元前108年に朝鮮半島に楽浪郡が置かれたときに滅んだ「衛満氏朝鮮王」の所有していたのが、半島から九州への亡命者によって渡来し、さらに時が経て串間に到来したのではないかとする。

 その証拠が北朝鮮で発見された玉璧ではないか、と提示した。1115saitobarutoikimekofun_027

(写真は北朝鮮・石厳里9号墓出土のもの)

 北朝鮮ではこの石厳里ともう一箇所から出ているが、南朝鮮からは一枚も出ていない。

 そのことから、北朝鮮を治めていた「朝鮮王」が初めたくさん下賜されたが、朝鮮王が漢に敗れたあと、玉璧は亡命その他の要因で四散し、その最大の物が串間までやって来たと考えられる――とする。

 私見だが、この岡村教授の「串間出土の玉璧は朝鮮半島北部から到来した」という説には、おおむね賛成である。ただ、敗れた朝鮮王を衛満の系統としたのは疑問だ。衛満が燕から朝鮮に亡命したときに朝鮮王だったのはワイ(さんずいに歳)にいた「箕氏準」だったのである。その準王を衛満が駆逐して南朝鮮に亡命させたのは紀元前200年頃だった。

 だから、北朝鮮(楽浪)から串間出土の玉璧を持参したのは、箕氏準の系統である、とすれば、以上の岡村説は整合を得ることになる。

 しかしどうして北九州ではなく、南の外れに近い宮崎の串間なのか、は依然として謎である。

 一方で、二番目のトウ女史は結論として、「私は日本の歴史に疎いが、串間に玉壁をもたらしたのは、徐福で、徐福こそは神武天皇その人でしょう。発掘場所の王之山の石棺に眠っていたのは、その神武天皇だと思います」と言っていた。

 本当に日本史には疎い人だ。神武天皇を取り上げるのなら「神武東征」にも触れなければ片手落ちだ。串間に埋没されては困る。

 最後のノ女史の講演は、もっぱら韓国出土の「勾玉・管玉・丸玉」などの出土地と年代の話に終始していたので、ちょっと的外れのように思った。韓国からは玉壁が出土していない以上、やむをえないことかもしれない。

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卑弥呼の宮殿?

今夜のNHK『クローズアップ現代』では、今年になって奈良県の纒向遺跡で発掘された巨大な宮殿状の建物は邪馬台国の卑弥呼の宮殿ではないか、そう考えると邪馬台国は大和にあったという説が有力になる――との紹介を行っていた。1116himikonokyuuden_003

 キャスターの国谷裕子さんには悪いが、「NHKお前もか!」と叫びたくなる。

 朝日新聞を頂点とする大新聞は、おおむね邪馬台国は大和地方にあった、という説に傾いているのだが、NHKはこの手の発掘事象には距離を置いて「・・・という出土品は邪馬台国畿内説を裏付けるもの、などと研究者は言っています」というような冷静な報道をしていた。

 しかし、今夜は驚いた。有り得ようもない邪馬台国畿内説を、NHKが後押ししたかのような報道であった。1116himikonokyuuden_002

考古学者、とくに奈良、大阪の人たちは「邪馬台国は大和で決まり!発掘すればするほど証拠があがってくる」と執念を燃やしている(写真は現・兵庫県立考古博物館館長の石野博信氏)。

「ご当地ナショナリズム」の本家本元のようになっているのだが、奈良大和は古代史では紛れもなく「中心地」であったから、うっかりすると「それもそうだなあ」と引きずり込まれるてしまうが、邪馬台国は断じて大和ではない。1116himikonokyuuden_001

 写真は当時の纒向遺跡だが、ここを邪馬台国の中心としたい研究者は、右隅に見える「箸墓古墳」をどうしても卑弥呼の墓にしたいので、20年位前は4世紀前半の構築だとしていたのが、10年前には3世紀末、そして5年前になると3世紀半ばとどんどん時代を上げ、卑弥呼の時代に合わせて行った。

 そして今度の発見であるから、鬼の首でもとったように「やはり邪馬台国は大和、それも纒向遺跡が中心」と大騒ぎだ。1116himikonokyuuden_004

 確かに復元した宮殿らしき建物は巨大である(横約20m、縦13mの80坪くらい)が、大きさだけで言えば、すでに縄文時代約4000年前の三内丸山遺跡でも同じような巨大な集会所的な建物が建てられていた。

 ここより300年近く古い佐賀県吉野ヶ里遺跡でも、大きさはこれほどではないが、宮殿様式の建物は存在している。1116himikonokyuuden_005

 <宮殿状の巨大な建物の他に、古代飛鳥で確立した「直列した宮殿」と同じプランで、4つの建物群が一直線で並んで建設されているから、これは王宮である>との説は受け入れるにしても、これが「邪馬台国女王・卑弥呼の宮殿」である必然性はない。

 九州島の邪馬台国だけでなく、当時列島の到るところに「卑弥呼もどきの女王(男王でもよい)」がいたと考えて何らおかしくはない。この宮殿もその「卑弥呼もどきの王」の宮殿であったのだろう。

 邪馬台国はなぜ畿内にはない、と言えるのか?

 それは『魏志倭人伝』の半島の帯方郡から邪馬台国までの行程(道順と所要日数)を素直に解釈すればそうなる。

 結論だけを言うと、「帯方郡から女王国までの総距離は1万2千里(=水行10日、陸行1月)」「帯方郡から九州北岸の末盧国までの総距離は1万里(=水行10日)」の二つの命題から、「九州北岸の末盧国から女王国までは2千里(陸行1月)」と解けるからで、末盧国からはもう水行はしない、つまり陸行2千里の距離のところにあり、所要日数は1ヶ月であると言っている。すなわち、

 <九州北岸からは歩いて1ヶ月、距離にして2千里のところが「邪馬台国」の所在地

 これが『魏志倭人伝』による結論で、したがって九州島の内部にあるという事になる。であるから「畿内説」など成り立つ余地は全くない。

 どうしても畿内に3世紀の当時に立派な王朝があったと主張したいのであれば、ここはもう『魏志倭人伝』など無視して、あの本居宣長のように(正確に言えば弟子の鶴峰茂甲だが)「魏に使いしたのは九州の女酋長で、蛮夷でありながら、大和王朝をかたらって勝手に朝貢したのである。大和王朝はそれとは関係なく大和地方に厳然と存在した」(『襲国偽僣考』)というような説を唱えてもらいたいものだ。

 『魏志倭人伝』には、九州島の東、海を千里渡った所にも「倭種(人)」がいる、と書いてある。倭人は何も九州島だけに限ったものではない、とちゃんと触れている。ただ国交が無かったから詳しく書かなかっただけの話なのである。だから当時の九州島の邪馬台国はじめ狗奴国、投馬国に匹敵する王国が畿内初め諸処に存在したのであって、その中でも大和の纒向遺跡周辺にあった「○○王国」がかなりの国力を有していたことを否定するものではない。

 私見では、3世紀の九州島の邪馬台国に匹敵する当時の大和の王国は、『山城国風土記』にあるように南九州から渡っていった「鴨建角身(カモタケツヌミ)」の開いた葛城王国の分派だろうと考えている。1116himikonokyuuden_006

 今度の発掘では列島各地の土器とともに、「舟形木製品」が多数発見された。

 これなどはまさに、九州島から船で到来した記憶がつくらせた造形品ではなかろうか?

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更なる進化―七族協和?

朝日の中に匂う菊たち・・・と言っても、花粉症アレルギーの影響で著しく嗅覚が劣ってしまったわが鼻にはほとんど匂わないのだが、今朝、よく調べてみると、花弁の種類は五種をこえて七種になっていた。

 まずは、原種。11147shunokiku_001

 6年前、新築の家の庭に10本ほど植えたのが、この色の菊で、癒される藤色である。11147shunokiku_002

 2年後に現れたのが純白。清々しい。11147shunokiku_005 

 その翌年には、ツートンカラーの自称「日の出菊」が作出(?)された。

 真ん中部分は藤色の原種そのものだが、花弁の先端部は白。上の2種の自然交配かなと考えている。

 ところがよく見ると、下の4,5花は黄色に変化しつつある。真ん中の藤色が薄れて、先端に移行し、その結果先端の白を含め全体が黄色くなって行っている。11147shunokiku_004

 黄色はすでに去年の段階で作出されていた。

 これが去年からの株だが、隣りのピンク系に押されて、やや小ぶりの元気のない花を咲かせている。黄色と言うよりクリーム色と言ったほうが良い。

 で、そのピンクが今年は優勢だ。11147shunokiku_003

 ピンク色の菊が、かなり勢力を伸ばしてきた。11147shunokiku_007

 ピンク系は八重咲きも現れた。

 庭の水道の蛇口に近い犬走りのコンクリートと、砂利の間に落ちた種から伸びた株である。日当たりだけは良いが、逆境に近い環境から、よくぞここまで。

 「根性ピンク菊」と名付けるか・・・。11147shunokiku_006

 一方で、数は少ないが、濃厚な藤色もちらほら現出している。

 これは殖やしたい一品である。来年の春、挿し芽をしてみよう。 

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五族協和な菊たちー2009

おとといの夜、9時10分くらい前だったか、ブログを書こうとしていたら近所に落雷があって、インターネットが不通になってしまった。

 7時半頃から雨足が強くなり、遠くでかすかな雷鳴と光が見えていたが、まさか近所までやってくるとは思わなかった。しかもあと15分くらいは大丈夫だろう、10分してからコンセントを抜けばいい、と思っていた矢先にいきなりの轟音とともに光が走り、停電になった。

 幸いパソコンに異常はなく、その代わり電話回線の取り入れ口がやられたようだ。翌朝、NTTに連絡をいれ、夕方までには復旧した。隣家では電話回線だけでなく、家庭電源口までがやられたとのことで、今朝も電気工事業者がやってきている。雷は隣家を直撃したのかもしれない。

 今日は午前中、仕事が休みなので書いているが、おととい何を書こうとしていたか、テーマは思い出すのだが、どんな筋書きで書くはずだったのか忘れてしまった。・・・ので、朝、体操のついでに、庭の菊を撮ったのを載せることにし1112gozokukyouwakiku2009_003 た。

 ようやく菊日和、と言うには、この頃やけに雨が多いが、それでも順調に咲き始めている。今年は「日の出菊」(オリジナル命名)の中に純白の菊がちらほら見えている。去年は黄色のが現れたが、今年は白だ。

 花びらの形や付き加減は「日の出菊」とほぼ同じだが、色は真っ白。真黄色よりは気品が感じられる。1112gozokukyouwakiku2009_001

 玄関先に咲き揃いつつある五種類の菊。名付けて「五族協和の菊たち」がそれぞれの色や形を現している。1112gozokukyouwakiku2009_004

 これら五種は右手にある藤色の八重の菊が元になっている。

 写真では分かりにくいが、手前が「日の出菊」、その左上が色の濃い八重菊、さらにその左上の一叢が薄いピンク色、そして原種と濃い八重菊の間に7,8本の純白の菊が見えている。

 原種を入れて、都合、五種。オリンピックだ。オリンピックは肌の色を超えてともに汗を流し合おう――と始まった。

 日本の満州統治も、五種の民族(日本・朝鮮・漢・満州・蒙古)の違いを超えて仲良く発展しよう――が理念だった(日本が戦争に敗れたので、負ければ賊軍とばかり、あの統治を侵略だなんだかんだ、と言われるが、極東軍事法廷=東京裁判で、満州については何の罪にも問われなかった。調べても人種差別や虐待などなかったからだろう)。

 清々しい朝に、戦後の誤った戦前観を非難するのは本意ではないが・・・・・、あ、今、思い出した。

 あれだ、11月8日(日)の夜、NHKで放映された『秘録・北朝鮮の核をめぐる交渉』とかいう番組だった。

 小泉総理のとき、2回平壌を訪れて、北朝鮮最高指導者・金正日と結構長い会談を持ったが、その中で小泉総理が「核を放棄すれば、国際社会から相当な援助が期待できるのだから、是非そうしなさい」と言っていた。そのことは当然考えられる内容だが、私は次の総理の言葉に引っ掛かるものを感じたのである。

 「日本も、戦前は孤立化の道を歩み、そのために戦争を引き起こす羽目になった・・・」

 戦前、日本がことさら「孤立化の道」を歩んだなどと言うのは、全く歴史認識が誤っている。なぜなら1902年に結んだ「日英同盟」はちゃんと保持しているし、1941年の4月には「日ソ中立条約」を結んでいる。

 また、軍事的な交渉では、1921年にワシントン条約、1930年にはロンドン条約を締結している。

 今、北朝鮮がやっていること(というか条約や協定をそもそも結ぼうとしないこと)と戦前の日本が正式に交渉をしていたこととを、一緒にしてもらっては困るのだ。北朝鮮はクリントン国務長官が指摘したように「耳を貸そうとしない、駄々っ子」であって、戦前、日本が欧米流の外交交渉にまずは真面目に対応してきたのとは全く違っており、比較にすらならない問題なのである。

 むしろ戦前の日本は、欧米流の国際法なり外交交渉なりをちゃんと取り入れて発展したのだが、発展しすぎたために欧米(主流は英米だが)から非白人・非キリスト教という観点から異端視されたこともあり、「孤立化させられた」のである。

 「俺たちの植民地分捕りゲームに、東洋の黄色いおかしな野郎が入り込んできたが、あんなのつまみ出してやれ」とばかり、じわじわと包囲網が作られたのだ。

 早い話がこういうことであった。

 こんな真実も、対米戦争に負けたために、オセロゲームのごとく、すっかりひっくり返され「日本から進んで孤立したのだ」「日本から進んで侵略したのだ」という「すべて戦争への道を進めていったのは日本のせいだ歴史観」がまかり通っている。一国の総理にしてしかりだ。情けない。

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夫婦別姓

鳩山内閣の千葉景子法務大臣は「夫婦別姓」に非常に前向きと聞く。

 「夫婦別姓」の論議は、もう20年位前になるだろうか、ある大学教授だったか講師だったかは忘れたが、学会の発表論文などで結婚前の姓名が定着しているので自分はこれからも「旧姓」を通したい――という趣旨で裁判に訴えた女性研究者がいて、随分話題になった、と記憶する。あれから別姓論議がやかましくなったと思う。

 自民党政権では、「別姓にすると家族の一体感が薄れる」という考えが支配的で、結局日の目を見ることはなかったが、今度の法務大臣は違う。やる気まんまんのようだ。

 実は別姓論議にはフェミニストの後押しがある。千葉法務大臣の別姓へのモチベーションもそこに根拠があるのかもしれない。

 しかしよく考えて欲しい。現在の日本人の姓は確かに男系で、おそらく結婚したカップルの95パーセントは夫の姓を名乗っているし、妻の姓を名乗る場合でも、実はその姓は妻の父方の姓がほとんどなのだ。

 何のことはない、女性の側でも結局は男系であり、ただ自分が幼少のころから馴染んでいる姓だから、父方の姓をそのまま名乗りたいというだけに過ぎない。そこには自分の母方への配慮はない。母よ怒れ!

 もし、公平に姓を選択するのなら、夫方の父母の二つの姓と、妻方の父母の二つの姓の都合四つの姓から選択をしなければなるまい。

 それに子どもはどうする? たとえば20歳になって自分の希望の姓を選択するというのでは、もしそれまでと違った姓を選択した場合、彼(彼女)のそれまでは何だったの??という疑問にさいなまれるだろうし、親の希望と合わなかったりしたら親子喧嘩も頻発するだろう。まして「何とか相続」などが絡んでくると、紛争はより大きくなるだろう。

 そこまでして別姓にする意味が分からない。

 そもそも姓なんてそんなに大切なものなのだろうか?「いやあ、俺のうちはもと貴族でね。姓で分かるだろう?」というような手合いがはびこるだけではないか。だいいち日本国で最も高貴なる家系である天皇家には姓はない。

 明治になって万人に姓が付いたわけだが、その志やよし。どうしても別姓をという人には明治の造姓に見ならい「ペンネーム」(今ならブログのネームか)という形でどんどん名乗ったらいいのだ。わざわざ法制化する必要はあるまい。

 

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火事と満月

夕方の6時になり、焼酎を片手にNHKの6時のニュースを見始めた。

 全国ニュースが終り、鹿児島のニュースになる。そこでは、宮崎市の小学生が一昨日の土曜日に家族とともに登った韓国岳(霧島連山の最高峰=1700㍍)で行方不明になったが、今日の昼過ぎに稜線の下で倒れているのが見つかった。しかし残念ながら意識が戻らずに死亡した・・・そんな可愛そうなニュースがトップに報じられていたのだが、遠くで何やらサイレンが聞こえてきた。

 最初は消防車のものとは思わなかったが、東から南から、だんだんサイレンの音が増えてきたようだった。ついにはわが家の近くの県道を東から西へ、けたたましく消防車が走り去っていく。

 今日は朝から強い西風が吹いていて、日暮れとともにぐんと気温が下がってきたので、10軒ある隣り近所ではないのは確かなのだから、わざわざ出て見る必要はなかろう――とは思いつつも、やはり野次馬根性は健在(?)であった。

 庭に出てみても、夕空にそれらしいあかるみは見えない。ところが門口(といっても実物の門はないのだが)まで行くと、ほぼ真西の水平線方向がうっすらとオレンジ色に火照っている。しかも近くには消防の赤色回転灯の明かりが見えるではないか。

 5分もすると、オレンジ色の模様の中から炎が立ち昇り始めた。わが家とは直線距離にして1キロ弱、ほぼ平坦な畑地帯で、間にはビニールハウスが十数棟立ち並んでいるが、そのビニールハウス越しに、炎は見る間に高くなっていった。 1102kajitomangetu_001

 折からの強い西風で、時おり炎が這うように左へとなびく。

 1102kajitomangetu_005 

 西風に乗って、消防に当たる人の大声が聞こえてくる。

 木が燃えてはじけるのだろうか、パキパキという音も耳に入る。

 15分後くらいの炎が最も高かった。寒くていったん家の中に入り、さらに15,6分してから再び目にしたときには、かなり鎮火していた。

 今年一番の冷え込みが、火事を誘ったというわけではないだろうが、焼け出された人たちにはお気の毒と言うしかない。1102kajitomangetu_003

 振り返って東の空を見ると、どうやら旧暦9月15日の満月のようだ。

 やはり秋の月は、どこか物悲しい・・・。

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