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生目古墳群(宮崎市大字跡江)

11月15日(日)に西都原市の考古博物館で開催された「玉と王権」へ行く途中、宮崎西インターで降り、向かった先に「生目古墳群」があった。

 この古墳群は、大淀川が高岡町から東に流れて、大きく北へ迂回し半円状を描いて再び東に向かって流れていくちょうどその半円の中に展開している。

 宮崎西インターから国道10号線を東(宮崎市方面)に走り、2キロほどで「生目」信号にかかるから、それを左折し約1.5キロ行くと今度は「跡江」信号に着く。これを左折して500㍍ばかり行くと、右手に「生目古墳群・遊古館」の看板が見える。その上の台地が古墳群だ。

 左側には広い田んぼ地帯の向こうに「生目運動公園」があり、大きなドームも見える。今、ソフトバンク・ホークスのオフシーズンのキャンプが行われているらしく、そこの道案内が道路沿いに点々と立っている。1115saitobarutoikimekofun_008

 古墳群のある丘から眺めた「生目運動公園」。白いドームが印象的だ。

 丘のすぐ下の建物は「遊古館」といい、宮崎市の埋蔵文化財センターである。ここがとても勉強になった。

 というのも、丘の上に上がっても、広い駐車場の周りに、古墳らしきものは一つも見えないのだ。古墳群を俯瞰した畳一枚くらいの図版がぽつんとあるだけだった。

 そこで下の遊古館に行ってみたのだ。1115saitobarutoikimekofun_009

幸いにも遊古館の広いエントランスの床に、生目古墳群の巨大な航空写真が刷り込まれていたので、写真に撮ることができた。

 左の道路脇にあるのが「一号墳」で、長さは136メートルあり、生目古墳群の8基ある前方後円墳の内では2番目に大きいそうだ。

 道路はすぐ脇を走っているように見えるが、古墳の造営された丘より25~30㍍も低い。要するに生目古墳群は、大淀川が削り残したシラスの台地に築かれているのである。このことは現地に来てはじめて分かった。来る前に眺めた地図で判断した限りでは、10メートル程度の河岸段丘に営まれているものとばかり思っていたのだ。

 生目古墳群は海抜30㍍ほどの台地上に、25の高塚古墳と50余りの地下式横穴墳が築かれ、最大の前方後円墳「3号墳」は143メートルもあり、しかも古式の古墳でおそらく4世紀初頭のものだろうという。

 古式の100メートル級の前方後円墳が3つもある古墳群というのは、九州で最も早いもののようである。同じ県内の西都原古墳群を造営した王者より古い王者級の勢力が、ここに存在した可能性が考えられている。

 ところで生目古墳に来たら、どうしても見ておきたかったのが「生目神社」だ。生目古墳群に近いものとばかり思っていたが、神社は古墳群の南方3キロもの所にあった。1115saitobarutoikimekofun_007

 さっき通った「生目」信号をそのまま南下し、橋を渡って左折するとやがて「東九州自動車道」の高架をくぐれば、突き当りが神社の丘だ。

 生目古墳の丘陵ほどではないが、周囲より15,6メートルは高い。

 左に回りこむと駐車場があり、そこからは歩いて行く。なだらかな階段状の道から石段を上がると、一の鳥居がある。1115saitobarutoikimekofun_006_2

 ここから小砂利の参道を100㍍弱行くと、右手に門構えこそ無いが立派な石垣と塀をもつ宮司宅を見る。1115saitobarutoikimekofun_005

 参道の雰囲気といい、この宮司宅といい、由緒の古さを感じさせる。1115saitobarutoikimekofun_002

 社殿のある境内へはさらに7,8段の階段を上る。1115saitobarutoikimekofun_003

 拝殿の後ろの本殿。本殿を廻る屋根付きの回廊型の塀があるのは珍しい。相当な格式を思わせる。

 この神社のあるところこそが「大字生目」であった。しかも小字を「亀井山」と称する。

 社殿地や塚のある小山に多いいわゆる「亀山」と同じだろう。間違いなく誰かの墳墓に違いない。

 祭神は「八幡さま=応神天皇」と「藤原(平)景清」で、社名がもともと「生目八幡宮」だったそうだから、前者の祭神こそが本来のものだろう。

 それはそれでいいとして、問題は「生目(活目とも書く)」の名称だ。

 神社発行の「日本一社 生目神社御由緒」というパンフレットによると、三つの説があるという。

 1、景清が日向に下向し、ここに居を構えてやがて死んだ。その後、景清の「生けるがごとき霊眼(目)を斎き祭った」ので名が付いた。

 2、昔から眼病に霊験があり、その神徳を称えて名付けた。

 3、活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこいそさちのみこと=垂仁天皇)を奉祭したので付けられた。

 このうち私見では3を採るが、必ずしも垂仁天皇ばかりではなく、「活目」は他にもたくさんいたと思う。

「いきめ」とは魏志倭人伝に出てくる役人の正式名で、邪馬台国の官制のトップに挙げられている「伊支馬(いきま)」のことだろう。それを漢字で「活目(目を活かす)」と当てているが、それはずばりこの役職の意味を表している。江戸時代で言えば「大目付」のことで、漢の制度では都督、つまりGHQのようなものである。

 邪馬台国に都督を置いたのは北部九州の「大倭」であったが、それと同様にここに都督を置いたのはやはり「大倭」であったろう。どこを監視するかといえば、それは南九州に一大勢力を持っていた「投馬国」をである。その時期は邪馬台国時代(3世紀前半)にもかかるがもう少し前の「倭の大乱」の時代(2世紀後半)ではなかっただろうか。

 西都原古墳群時代にさかのぼること1世紀~2世紀前の話である。

 

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