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卑弥呼の宮殿?

今夜のNHK『クローズアップ現代』では、今年になって奈良県の纒向遺跡で発掘された巨大な宮殿状の建物は邪馬台国の卑弥呼の宮殿ではないか、そう考えると邪馬台国は大和にあったという説が有力になる――との紹介を行っていた。1116himikonokyuuden_003

 キャスターの国谷裕子さんには悪いが、「NHKお前もか!」と叫びたくなる。

 朝日新聞を頂点とする大新聞は、おおむね邪馬台国は大和地方にあった、という説に傾いているのだが、NHKはこの手の発掘事象には距離を置いて「・・・という出土品は邪馬台国畿内説を裏付けるもの、などと研究者は言っています」というような冷静な報道をしていた。

 しかし、今夜は驚いた。有り得ようもない邪馬台国畿内説を、NHKが後押ししたかのような報道であった。1116himikonokyuuden_002

考古学者、とくに奈良、大阪の人たちは「邪馬台国は大和で決まり!発掘すればするほど証拠があがってくる」と執念を燃やしている(写真は現・兵庫県立考古博物館館長の石野博信氏)。

「ご当地ナショナリズム」の本家本元のようになっているのだが、奈良大和は古代史では紛れもなく「中心地」であったから、うっかりすると「それもそうだなあ」と引きずり込まれるてしまうが、邪馬台国は断じて大和ではない。1116himikonokyuuden_001

 写真は当時の纒向遺跡だが、ここを邪馬台国の中心としたい研究者は、右隅に見える「箸墓古墳」をどうしても卑弥呼の墓にしたいので、20年位前は4世紀前半の構築だとしていたのが、10年前には3世紀末、そして5年前になると3世紀半ばとどんどん時代を上げ、卑弥呼の時代に合わせて行った。

 そして今度の発見であるから、鬼の首でもとったように「やはり邪馬台国は大和、それも纒向遺跡が中心」と大騒ぎだ。1116himikonokyuuden_004

 確かに復元した宮殿らしき建物は巨大である(横約20m、縦13mの80坪くらい)が、大きさだけで言えば、すでに縄文時代約4000年前の三内丸山遺跡でも同じような巨大な集会所的な建物が建てられていた。

 ここより300年近く古い佐賀県吉野ヶ里遺跡でも、大きさはこれほどではないが、宮殿様式の建物は存在している。1116himikonokyuuden_005

 <宮殿状の巨大な建物の他に、古代飛鳥で確立した「直列した宮殿」と同じプランで、4つの建物群が一直線で並んで建設されているから、これは王宮である>との説は受け入れるにしても、これが「邪馬台国女王・卑弥呼の宮殿」である必然性はない。

 九州島の邪馬台国だけでなく、当時列島の到るところに「卑弥呼もどきの女王(男王でもよい)」がいたと考えて何らおかしくはない。この宮殿もその「卑弥呼もどきの王」の宮殿であったのだろう。

 邪馬台国はなぜ畿内にはない、と言えるのか?

 それは『魏志倭人伝』の半島の帯方郡から邪馬台国までの行程(道順と所要日数)を素直に解釈すればそうなる。

 結論だけを言うと、「帯方郡から女王国までの総距離は1万2千里(=水行10日、陸行1月)」「帯方郡から九州北岸の末盧国までの総距離は1万里(=水行10日)」の二つの命題から、「九州北岸の末盧国から女王国までは2千里(陸行1月)」と解けるからで、末盧国からはもう水行はしない、つまり陸行2千里の距離のところにあり、所要日数は1ヶ月であると言っている。すなわち、

 <九州北岸からは歩いて1ヶ月、距離にして2千里のところが「邪馬台国」の所在地

 これが『魏志倭人伝』による結論で、したがって九州島の内部にあるという事になる。であるから「畿内説」など成り立つ余地は全くない。

 どうしても畿内に3世紀の当時に立派な王朝があったと主張したいのであれば、ここはもう『魏志倭人伝』など無視して、あの本居宣長のように(正確に言えば弟子の鶴峰茂甲だが)「魏に使いしたのは九州の女酋長で、蛮夷でありながら、大和王朝をかたらって勝手に朝貢したのである。大和王朝はそれとは関係なく大和地方に厳然と存在した」(『襲国偽僣考』)というような説を唱えてもらいたいものだ。

 『魏志倭人伝』には、九州島の東、海を千里渡った所にも「倭種(人)」がいる、と書いてある。倭人は何も九州島だけに限ったものではない、とちゃんと触れている。ただ国交が無かったから詳しく書かなかっただけの話なのである。だから当時の九州島の邪馬台国はじめ狗奴国、投馬国に匹敵する王国が畿内初め諸処に存在したのであって、その中でも大和の纒向遺跡周辺にあった「○○王国」がかなりの国力を有していたことを否定するものではない。

 私見では、3世紀の九州島の邪馬台国に匹敵する当時の大和の王国は、『山城国風土記』にあるように南九州から渡っていった「鴨建角身(カモタケツヌミ)」の開いた葛城王国の分派だろうと考えている。1116himikonokyuuden_006

 今度の発掘では列島各地の土器とともに、「舟形木製品」が多数発見された。

 これなどはまさに、九州島から船で到来した記憶がつくらせた造形品ではなかろうか?

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コメント

これで邪馬台国論争は一気に畿内説が勢い付きますね。
私はもともと邪馬台国九州論者だったんですが。。。

投稿: 3号佐竹 | 2009年11月16日 (月) 22時50分

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