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大晦日の銭湯は大賑わい(鹿屋市吾平町)

午前中に神棚の掃除をし、午後は少し小雨のぱらつく冷たい西風の中、門松を立てた。今年は松とユズリハだけのごくシンプルな門松だった。そのあと、玄関前の軒先に注連飾りを渡して、3時ごろには終了。

――やれやれ今年も何とか無事に終わったな。

 というわけで、2009年最後の銭湯行きとなった。行き先は吾平町「湯遊ランド」。わが家から4キロばかり東に走る。

 姶良川を渡ってすぐ右手にあるのだが、駐車場を見た途端、「お、けっこう込んでいる」と思った。いつもの休日の午後とは明らかに違う。1231yuyurando_001

 第一、県外ナンバーの車が多い。

 神戸、大阪、福岡、佐世保などが目に付く。

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 玄関口にはなんと、年明けから13日まで休みなし、と張り紙がしてある。

 2年前から鹿屋市の直営を離れ、指定管理者のJAが運営するようになって、営業時間が延び、休日も少なくなった。

 利用者にはうれしいサービスだ。

 だが、中に入って驚いた。下足箱がほぼ一杯なうえ、はみ出して土間にまでたくさん置いてあるではないか。

 風呂も大混雑だろうと思ったが、案の定だった。

 なにしろ、脱衣場のコインロッカーは完全に空きがなく、真ん中に置かれている2段の脱衣カゴの棚もぽつんぽつんとしか空いていない状態なのだ。この温泉で脱衣カゴを使うのは、これまで5、60回は来ているが、初めてのことだ。

 湯屋の中も混雑は半端ではなかった。湯の蛇口のある洗い場は一杯で、何人かが空くのを待っている。仕方なく、掛け湯だけして、空いていた気泡風呂に飛び込んだ。10分入って見ていたが、洗い場の空く様子はないので、湯船近くに腰を下ろし、桶で湯船の湯を汲みながら体と頭を洗った。

 そのあと、血圧が高いため最近はめったに入らないサウナを覗くと、2,3人は座れそうな空きがあったので、ガラス戸を開けて中に入った。長湯(長サウナ)は禁物と、汗がじわっとにじんだところで外に出た。

 それから2,3分「薬湯」に漬かり、湯屋を後にしたが、こんなに「からすの行水」のような銭湯体験は初めてだった。1231yuyurando_004  

 玄関ロビーの休憩所も満杯だ。

 家族連れの子どもたちは決まって低学年以下の子たちで、冷たい物をおねだりしている。

 そうだろう、高学年になったらもう「お父さんと一緒なんていや」とそっぽを向かれるのがおちだ。

 だから、せいぜい今のうちに・・・。

 皆さん、よいお年を!

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降灰と黄砂のダブルパンチ(鹿屋市田淵町)

今朝の上空は、夜明けとともに良い天気を連想させる青さが広がっていたのだが、すっかり明るくなってから見回すと、周囲の山々は霞んでいた。

 冷え込んだ朝などに、冷たい大気が降りてきて、まだ温かい地上の水蒸気が冷やされて霧のようになることはよくあるが、今朝のは春霞のようにもやがかかっている状態である。

 昼過ぎ、葉書を出しに単車で走って行くと、いつも高隈山の連山が絵のように眺められる田淵町の茶畑の向こうに、その姿が無い。1226kouhaitokousa_003

 空は結構青いのにこの始末。

 さっきの昼のニュースでは大陸からの黄砂が飛んで来ている、ということだったが、こっちにもやって来たのか。

 しかし、黄砂でこんなに見えなかったことはない。それに黄砂なら空一面が赤っぽくなるはずだろう。 1226kouhaitokousa_001_2 

 茶畑を回り込み、望遠で写してみると、どうやら輪郭だけはぼんやりと見えている。

 真ん中の一番高い輪郭は「御岳(みたけ)」で、1182mあり、主峰の「大箆柄岳(おおのがらだけ)」(1256m)に次ぐ名峰だ。1226kouhaitokousa_002_2

 ところが連山の西外れ(左手)を写すと、そこは一層霞み方がひどい。

 ビニールハウスの上あたりに、見通しがよければ桜島の頂上部分がちょこんと見えるのだが、まったく影も形も見ることができない。

 やはり犯人は桜島だったのだな。黄砂も少しはやって来ているのだろうが、その影響は微々たるものに過ぎないようだ。

 桜島は一昨日、年間最多噴火回数を塗り替えたそうだ。最高記録は12,3年前の476回か7回で、今日でもう490回くらいまで記録を伸ばしている。イチローや魁皇ならファンはこぞって最多安打や最多出場回数を喜ぶところだが、いくら桜島のファン(?)でも「あと10回噴いてくれ。500回になるぞ」などとは行くまい。

 でも、この分だと行きそうだ。

 桜島は今から96年前の大正3(1914)年1月に大噴火を起こし、島を大隅半島に引っ付けている。桜島はもともと大隅国に属していたし、大正時代のことだからそれはそれでうまく収まったのだが、万事にインフラが進んだ現在、そんな噴火を起こされたら大変な騒ぎになるだろう。

 鹿児島市という50万都市の真ん前に、こんなに活発に活動する火山があるのは、よく言われるように「世界の奇跡」であるに違いない。しかし、どんどん噴き上げたら、観光客がわんさか、というのもどうだか・・・。

 

 

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冬至のビータロー

冬至の日。今朝の寒さはこの冬2番目か、朝7時に玄関先の温度計は氷点下1、5度を示していた。庭の菜園の大きなタアサイが真っ白になっている。1222toujitobiitarou_003

 日課の体操をしたあと、老犬ビータローに給餌。今日は温めた牛乳をかけて食べさせた。1222toujitobiitarou_001

 犬は犬舌だが、買い餌の方は冷たいので、ちょうどぬるくて食べやすいようだ。

 手前の白っぽいガラスのようなものは、ビータローの給水バケツに張っていた氷。1222toujitobiitarou_004

 食べ終わった空の器に氷を入れてみる。

・・・な、何ですかな、これは。

―氷だよ。向こうに見えるお前の水バケツに張っていたんだ。1222toujitobiitarou_005

・・・ヒャー、驚いたね、どうも。こんなもの食べられるんですかい?

―そんなに大袈裟に腰を抜かさないでくれよビータロー。お前は何でも食うのが健康の秘訣だって、言って・・いや、行動で示していたじゃないか。

(これまで、大根や人参なんか、よく食べたよな)1222toujitobiitarou_006

―ほら!

・・・どれ、どれ、ほう、匂いはあまりしないけどね。

 と口にくわえ、ちょっと齧ってみせたビータローであった。

 (もうすぐ、年が明ければ17歳になる愛犬ビータロー)

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崩れつつある「邪馬台国畿内説」

畿内大和では最も古いと言われ、卑弥呼の死亡年代の3世紀半ばに築造されたと認定されている奈良県桜井市の「ホケノ山古墳」。

 そのすぐ東隣りにある「堂ノ後(どうのうしろ)古墳」は4年前のレーダー探査により前方後円墳であることが分かり、しかも、ホケノ山古墳の周濠の造成で一部が削り取られているため、ホケノ山古墳よりさらに古い――と、当時、一大発見視された。(ニュース1

 しかし、今年になって桜井市教育委員会の発掘調査で、前方部から「葺き石」と「埴輪」などが見つかり、その製作年代からは5世紀後半であることが確実になった。(ニュース2

「ニュース2」の産経新聞の記事では、堂ノ後古墳を一部削り取って造成したホケノ山古墳と近くの纏向(まきむく)石塚古墳とを挙げて

<これによって、最古の前方後円墳は、ホケノ山古墳をはじめ、約1キロ北西にある纏向石塚古墳などに絞られることになった。>

 と書くが、ホケノ山古墳は記事にもあるように、堂ノ後古墳を削っているのだから、堂ノ後古墳より新しくなければなるまい。つまり5世紀後半をさかのぼることはない古墳だということがはっきりしたわけで、なぜ「堂ノ後古墳はホケノ山古墳より200年以上新しいことが分かった」とするのだろう。まだ、「ホケノ山は最古級」という先入観が記者の頭にこびりついて離れないようだ。学問的(客観的)ではない。

 こびりついて離れない――と言えば、「箸墓古墳は卑弥呼時代のもの。それどころか卑弥呼の墓そのもの」という先入観も邪馬台国畿内説を支持する研究者やファンの頭にデンと居座っている。

 そもそも「魏志倭人伝」の道程記事を行程と日数と方向を改変せずに読む限り、邪馬台国が九州島を離れることはありえない。

 それなのに、「大和(やまと)=ヤマタイ」としたい「大和王朝畿内自生論」を大前提とした畿内説は、どうしても自説を補強したいがために考古学を援用し、「最古の列島の王者の墓、つまりホケノ山古墳などのような最古の前方後円墳が畿内大和にあるじゃないか」と言い続けてきたが、今回その支え柱の一角が崩れることになった。

 「いや、まだ箸墓はじめ纏向石塚古墳などがある」と強弁は可能だが、ホケノ山古墳の築造年代の決め手となった周濠などで発見される木の一部の「年輪年代法による測定」も、果たして正確なのかどうかあやしくなってきた。

 私見は九州説で、邪馬台国は福岡県八女市周辺だろうと考えている。八女市には3世紀の巨大古墳も、たいした発掘物もあるわけではないが、それは南の熊本県にあった狗奴国によって併呑されたが故に、暴かれて破壊され、持ち去られたと考えることもできる。

 そして投馬国という戸数5万戸の国が「古日向」にあったとも考えている。古日向とは今の鹿児島県と宮崎県を併せた領域である。とてつもなく広いが故に5万戸もあったのだ。さらに言えば、その火山性風土のため、どうしても交易(海上交易)が欠かせなかった国で、航海的生業に突出した国柄であった。そのことが「鴨着く島(かもどくしま)」と言われたゆえんである。

 いずれにしても、邪馬台国は畿内にはなかった。「じゃあ、なぜ、大和(やまと)?」と言われるかもしれないが、逆に質問したい。

 「なぜ、大和(タイワ)が、や・ま・と、なのか」と。

 大和の前身は「大倭(タイワ)」であり、その大倭(国)は北九州にあった。倭人伝には「市が立って国々は交易をしているが、その監視をしているのが大倭であった」というふうに書いてある。「大倭」の謂れは書いてないが、おそらく「倭人国家連合」のようなものだろう。

 それを当事者の倭人たちが「われわれは大倭だ」と言ったのか、倭人伝を書いた陳寿のような史官が造語したのかの判断はつきかねるが、その大倭こそが朝鮮半島に帯方郡が置かれ、魏王朝の圧制の南下が企てられた頃(3世紀半ば)に、九州北部から畿内大和へ王権を遷した。それゆえ大和地方に「大倭王権」が誕生し、のちに「倭」を「和」と変えたのである。

 さて、その「大和(タイワ)」を「やまと」と呼んだのは、邪馬台国(の女王・卑弥呼)にちなんでいる。これについては大和王権畿内自生説論者と変わるところはない。

 九州で狗奴国に併呑されて滅んだとはいえ、邪馬台国は当時最大の王朝・魏から「親魏倭王」という倭人では最高級の王権であると認められたのである。その「ヤマタイ(→ヤマト)」を残したのだろう。襲名した、と言ってもよい。

 で、「ヤマタイ」とは何か?

 私見では「アマツヒ」という倭語の「漢語訳」である。「アマツヒ」とは漢字で書けば「天津日」であり、ようするに「太陽になぞらえられる天上の日」のことで、「日」は「霊」と置き換えてもよい。この「amatuhi」の語頭に「y」が付けられて「yamatuhi」と発音され、漢字で「邪馬台」と卑字的に表現されたのだ。

 「yamatuhi」と発音したのは、当時の中国人使者だったか、倭人伝を書いた史官だったかは不明だが、とにかく倭人の「アマツヒ」が「ヤマツヒ」となり「ヤマト」と変化した。そして、畿内大和に遷った北部九州の「大倭王権」が自らを「タイワ」ではなく「ヤマト」と呼ぶようになり、漢字も「大倭」から「大和」と、好字に改めたのである。

 以上が私見の概要だが、よく言われるような「九州北部の邪馬台国そのものが畿内大和に遷った」という「邪馬台国東遷説」を私は採らない。あくまでも邪馬台国とは別に北部九州にあった「大倭」(倭人国家連合)が遷ったという考えである。この年代は3世紀後半で、記紀では「祟神天皇(ミマキイリヒコイソニヱ)」がその当事者であったろう。

 またこれより先に南九州から畿内への移住者集団がいた。その主体は投馬国(古日向)であった。これを記紀は「神武東征」と描くが、その時の王こそ神武天皇の皇子と書かれた投馬国王・タギシミミである。タギシミミとは「タギシ」の「ミミ」で、「タギシ」は「船の舵(かじ)」、「ミミ」は倭人伝にあるように「投馬国の王」で、併せてみると「(投馬国の)船舵王」つまり「航海王」を意味する。船団を組んで移住するには、うってつけの王であり、王名でもある。

 この点について、賛同者は少ない。なにしろ五万戸もある投馬国が「素寒貧のあの南九州」にあるわけがない、というおなじみの「南九州=クマソ国=大和王権に逆らうソジシの空っぽの貧しい地域」という先入観が頑として受け付けないでいる。

 もうそろそろ目を覚まして欲しい。海からの視点で歴史を振り返るべきだ。なにしろ大陸からあるいは半島から「高文化がやって来た」としながら、それが航海民を仲介としなければやって来るはずもないのに、その航海民について「そんなの関係ねー」では済まないだろう。

 そのような航海民を束ねる王者は、南九州発祥の「鴨族」、北部九州の「安曇族」「宗像(胸形)族」など、九州島の海民たちの中から輩出している。その一人が古日向の投馬国王・タギシミミであった。(未完だが、今日はここまで)

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桜島の「屁」の臭い!

数日前のこと、朝、家内が庭へ野菜を採りに行って戻ってくるなり、

 「お父さん、何か臭うのよね」

―何が臭う?

 「硫黄みたいな臭いが・・・」

―う、・・・・・。(しまった!―しかし、何で?)

(まさか、そんなに鼻がいいとは思わなかったな・・・。)

 いつものように朝の6時半頃から「バーベル負荷付きラジオ体操」をしている。第一、第二と約10分間を、この12月で1年経過したのであるが(すごい!けれども、肝心の五十肩は治っていない)、体操の途中でよくあることだが、例のガスを噴出したのであった。

 ごく稀であるが、かなり臭いやつも出る。たいてい前の日に飲みすぎたり、ご馳走を食べ過ぎたりが原因だが、それでも、その朝は、放ってから5、6分は経っていたはずだ。

(それが、まだ、残っていたのかよ・・・)

 と、その時、「このごろ、よく同じ臭いがするんだわ」と家内。

―よくって、昨日もか?

 「うん}

―本当に?

 「うん」

(それは、変だ。昨日は断じてしていない!・・・ああ、そうか!)

―分かった。桜島だ!昨日はずい分降って、道路にうっすら積もっていたよ。灰の臭いだな。

 「なるほど、灰(へ)の臭いなんだ」

 家内も納得したようであった。(やれやれ、嫌疑は晴れたぞ)

 鹿児島弁では「灰(はい)」は「へ」と発音する。ちなみに「蠅(はえ)」も「へ」だ。

 桜島は今日もまた「屁(へ)」をこき、北西の風で大隅半島に「へ(灰)」を送り届けている。

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鴨着く島(かもどくしま=肝属川河口)

出水の荒崎新田地区には今年も「万羽鶴」が越冬にやって来ている。越冬鶴はもとは九州各地や山口県の熊毛郡あたりにはよくやって来たそうだが、何時の頃からか鹿児島の出水平野に集中して冬を過ごすことになってしまった。

 マナヅルはわずかでナベヅルがほとんどだが、世界のナベヅル生息数のかなりの部分が出水に飛来しており、万が一伝染病などに罹ったら絶滅の危機に瀕するとかで、毎年話題になっている。その対策は難しいようで、なにしろ下手に分散処置など取れば、ツルにはストレスとなり生態系に悪影響を及ぼしかねない。

 さりとて、荒崎新田のツルへは人工的に餌が与えられているため(補助的にという名目だが・・・)、それも不自然(非生態的)と言えないこともない。これまでそのようにして一度もトラブルがなかった――ということで、慣例的にずっと続けられているのだが、常に伝染病と生態系の改変という一種の後ろめたさが付きまとっているのは事実だろう。

 そこへ行くと、肝属川に飛来するカモ族は生態系の想定内にある。「万羽鴨」かどうかは分からないが、結構な数は来ているようである。今朝、肝属川河口まで見に行ってきた。しかし、この頃は想定外の事態が起きている。桜島の灰が北西の風に乗ってやって来ているのだ。1219kamotohai_001

 高山川が肝属川に注ぐ直近の「下之園橋」から上流を眺めると、国見山系は春霞に覆われているように見えるが、あれは桜島の降灰である。

 今度は下流を見ると、左1219kamotohai_002 に国土交通省 河川管理事務所・高山出張所があるが、そのすぐ左手から薄黒い霧のような物が近づいているのが分かる。

 あれの正体は桜島の灰である。1219kamotohai_009

 「波見大橋(第2)」から見る肝属川河口のランドマーク「権現山」(320m)も降灰の霞の中にあった。1219kamotohai_004

 強い北西風を避けるためだろう、護岸用のテトラポット近くに10羽ほどのカモの群れが浮かんでいる。1219kamotohai_006

 頭の色がやや赤い種類のカモだ。1219kamotohai_007

 肝属川と、大崎町から流れてくる「汐入川」との間を仕切る中州の葦原は、カモ族の格好のねぐらに違いない。(遠方の連山は大姶良山系)1219kamotohai_008

 中州は左岸の船溜り近くまで伸びており、そこにもカモがたくさん憩っていた。1219kamotohai_010

 肝属川河口からの帰り道、串良町下小原(しもおばる)にある「下小原池」に寄ってみた。河口から5キロほど、広大な肝属平野の中を北西に走った岡崎台地の南にある池で、元は水田用の溜め池だったのを、平成8年に改修して公園にしている。1219kamotohai_011

 公園化したときに、奥の方にバンガローを造り、キャンプやボート遊びができるようにしたというが、キャンプはどうか分からないが、もう5,6年近くを通るたびに注意しているのだが、ボートが浮かんでいるのを見たことがない。1219kamotohai_012

 その代わりと言っては何だが、カモが浮かんでいる。それもかなりの数である。下小原池というより「鴨池」だ。

 そう言えば、鹿児島市の鴨池地区も、昔は冬になると鴨が飛来するような池(汽水域)があったのだろう。1219kamotohai_013

 カモ族は足に広い足掻きを持っているので、その水力で水の上をスイスイ動き回ることができる。

 それになぞらえたのが「オールで力強く水を掻いて進む船子」通称「カコ(水手)」で、そのような生業を我が物とした航海民を「鴨族(加茂族)」と呼んだ。

 鹿児島の語源は「鴨島」で、要するにはるか昔から「鴨族の島(地域)」だったのだ。

 薩摩半島もだが、大隅半島もこのような「鴨族」の蝟集する地域だった。しかも鴨が朝鮮半島を経由して満州や沿海州方面に渡ったように、ここの「鴨族」も満州までとは言わないが、少なくとも朝鮮半島へは渡っていたに違いないのである。

 鹿児島の鴨池地区は埋め立てられてのちに飛行場(「鴨池空港」)になるが、鴨は泳ぎが上手なばかりではなく、本来は鳥であるから飛ぶことはお手の物だ。まさかそれをなぞったわけではあるまいが、そんな歴史を念頭に入れてみると、飛行場の名として悪くはない。少なくとも「溝辺」よりはましなのではあるまいか。

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赤いイリュミネーション(鹿屋市田崎町)

いま鹿屋地区では、あちこちでクリスマス用のイリュミネーションが飾られている。それはそれなりに綺麗なのだが、自然界も負けてはいない。1216oosumisen_026

 鹿屋市の田崎運動公園にはかなり大きなサザンカが植えられているが、赤い花が鈴なりに咲き輝いている。1216oosumisen_029

 並んで植えられているイチョウがすっかり葉を落としたのと入れ替わるように、多量の花を着けたサザンカ。今年は例年に増して花の着きがよい。1216oosumisen_027_2

 この公園はサッカーコートが一面取れるほど広いが、昼間、高齢者がグラウンドゴルフをする姿を見るだけで、家族連れや若者の利用はとても少ない。

 鹿屋はシラス台地ではあるが、平坦地が多い土地柄で、このように整備された公園がむやみに多い。1216oosumisen_028

 公園を利用する人々が少ないのももったいないが、こんな美しい花を愛でる人が少ないのはもっとmottainai!

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オバマ大統領のオスロ演説

ノーベル平和賞の授賞式がノルウェーのオスロで行われ、アメリカのオバマ大統領が受賞者演説を行ったが、「平和より戦争を容認している」とのクレームがついた。1211obamafusai_002

 写真は、授賞式が行われたオスロ市庁舎のバルコニーで観衆に手を振るオバマ大統領夫妻。(TBSテレビ画面より転写)

 「平和を実現するためには戦争も辞さない」という論法だが、これはかのクラウゼビッツの『戦争論』つまり「戦争は政治の一手段である」――を思い出させる。これが、帝国主義的世界大戦を引き起こした元凶とまでは行かないが、大きな促進要因となった史実がある。 

 おいおい、オバマさんよ、大丈夫かいな。場所を弁えろよ、と言いたくなるが、彼の受賞理由は「核廃絶宣言」(プラハ宣言)であったから、「プラハでは戦争に絶対、核は使わないために廃絶するとは言ったが、通常の戦争を止めるなんて一言も言っていない」と開き直ることは可能である。

 平和賞受賞決定後に「アフガンへの兵士増派3万人」を打ち出していながら、ノーベル平和賞の授賞取りやめなんてこともなかったので、オバマも調子に乗って文字通り開き直ったのだろう。

 鳩山総理の、母親からの寄付だか貸付なんだか分からない多額の資金流入に対して、経緯は十分承知しているくせに「調査の結果、寄付金であったと認定されたら、それなりの措置はします(加算税とやらを払いさえすればいいんでしょう)」と、開き直っているのと好一対だ。

 しかしこっちはみみっちい話だ。マザコンというだけの話ではないか。

 だが普天間基地移設問題では、相当にアメリカに対して開き直っている。これは歓迎する。そんなことをやってアメリカを怒らせたらどうする、という声が聞こえそうだが、アメリカが怒るとどうなるのだろうか?

 普天間はもとより沖縄からの米軍撤退を招く。

――そうなりゃ、沖縄人には最高だろう。

 いや、日本の安全保障上、極めて憂慮すべき状態になる。仮想敵国の中国・ロシアの侵攻を招く。

――じゃあ、聞くが、もしそうならアメリカが撤退した台湾なんてとっくの昔に中国に侵攻されて、中国の一省になっていそうなものだが・・・。中国は以前から「台湾は中国の一部である」と国際的にも宣言しているのだから、攻め込んでも「侵略」とは言われないだろう。なぜ、侵攻しないのだろう?

 台湾が核ミサイルを持っているからだ。

――核だけのことだろうか。もし中国が本気で攻めようと思えば「肉を切らせて骨を斬る」というように、相当の被害は覚悟の上で攻め込めば、陥落は訳もないだろう。中国が本当に怖いのは実は国際世論なのではないか。今日のように全世界的に情報の共有化が進んだ社会では理不尽な暴力か否かの判定は即座に知れ渡り、落ち度のない国(この場合は台湾)への侵攻は完全否定されるだろう。まして日本に対しては何の理由があって攻めてくるというのだろうか?<アメリカ様は共産主義の脅威から日本を守ってくれている。米軍がいなくなったらそれこそ大変だ>と洗脳され過ぎているのではないだろうか?

 だが、もしもということがある。その時はどうする?

――日本も非核は守りつつ、自国を守るための軍隊は整備し、万が一に備えるのは当然だ。そうした上で、もし、万が一、彼等が攻めてきたら、まずは緊急体制を敷いて防戦し、そうした上で国連安全保障理事会へ提訴する。

 提訴なんかしている間に完全制圧されてしまうよ!!

――いや、それでも提訴だけはしておかなくてはならない、たとえ制圧されても。日本に戦闘の意思がないのに攻め込むのは、完全な侵略だ。国際世論がそれを許すはずがない!!

 制圧されてからじゃ、遅いだろ。あんたには国を本当に守ろうっていう意志がないのかね。

――いや、アメリカに守ってもらおうっていう意志がないだけだ。自分の国は自分たちで守る!

 オバマ演説から、連想が連想を呼んでしまったが、私見では、アメリカが本当に中・露の侵攻から日本を守ってくれるのかというと、相当にあやしいと思う。

 なにしろ、米・中・露はかっての連合国の仲間で、国連では英・仏を加えた五大理事国のメンバーなのである。駐留米軍は日本を守るためにあるのではなく、かっての敵国として、再び軍事的に大きくならないための監視の意味合いが強いのだ。それを証明するのが、未だになくなっていない国連憲章上の「敵国条項」である。

「もう一度戦争をしてアメリカに勝てば、そんなのは消えてなくなる」という考えもあるが、そんなことはもう不可能だ。

 それより鳩山さん、開き直りついでに、オバマより大きく世界にこう言ってしまいなさい。

「2010年1月1日をもって、日本は武装永世中立国家となります」――と。アメリカが慌てても構わずに、国連に承認を求めなさい。国連加盟の多くの国は賛成するだろう。なぜなら、ふさわしいからだ。日本は戦後64年間、一度も他国へ侵攻したことも、それを匂わすようなことすら言ったことがないし、もちろんやったこともない世界でも稀な平和国家なのである。

 おそらく米英仏中露の常任理事国も積極的に「反対する」とは言わないだろう。いや、言えないだろう。なにしろ理由がないから。戦後の日本の実績をつぶさに検討したら、日本ほど全世界の中で、平和を基軸にして動いて来た国はない。堂々たる平和国家なのである。文句を言われる筋合いは微塵もない。

 その際、米軍に代わって「国連軍」の駐留を求めればよい。また、武装の内容も国連の査察に委ねればよい。やましいことは何にもないと堂々と披瀝すればよい。

 来年の初夢はこれで決まり。

 

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霜の朝

ここ一週間ほど、セキと痰に悩まされている。

 ことの始めは強烈な喉の痛みだった。唾を飲み込むのも痛いほどだったが、それは二日で取れた。しかしそのあと鼻から膿汁が出て、痰も絡むようになった。

 熱は平熱より1℃までは高くなるが、それ以上にはならない。悪寒は全く無い。だから仕事は普通にできるし、さほどの疲労感もない。

 「ただの鼻風邪くらいなのだ、心配するな」と心の中の強気な自分が言っている・・・ので、そういうことにしておこう。

 ところで、昨日は暦の上の「大雪」だった。それに合わせたかのように鹿屋地方は厳しい霜が降った。最低気温はこの冬初めて氷点下を記録した(気象台発表では-0.6℃)。惜しむらくは、写真に撮れなかったことだ。

 寒さのため、夜中に二度もトイレに起きてしまったtoilet。で、ご想像通りの朝寝坊think。大慌てで職場に向かう途中の畑の白さにびっくり、後悔しきり。

 今朝は6時半には起きて、すぐ庭に出てみると、はるか南側の畑がうっすらと白いではないか。老犬ビータローに餌をやるとすぐに走って行った。1208shimonoasa_001

 昨日ほどではないが、それでも十分に降っている。

 玄関先の寒暖計では4℃を超えているのにこの霜は、放射冷却のせいか。1208shimonoasa_002

 それにしても植物は強い。モチクサ(ヨモギ)の葉が一見すると雪の結晶のような鮮やかな縁取りを見せていた。

 去年の初霜はちょうど12月1日で、前半は寒い冬だった。今年もそんな気配がする。

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枚聞神社(指宿市開聞町)

11月の28日、29日に指宿の義父を見舞ったとき、久しぶりに枚聞神社を参拝した。

枚聞神社は「薩摩国一の宮」と呼ばれる古い神社で、貞観16年に枚聞神社の後方に聳える開聞岳が噴火して大災害になったとき、大宰府を通じて都に知らされ、山の神霊を鎮めるために「封戸20戸」が定められた―と古書に記されているのが、記録上の初見である。

 祭神はオオヒルメムチ。太陽神で、天照大神の分身かと言われている。

 開聞町の中心の交差点を北(左)にとると、300mほどで森が見えてくる。先に行くと神社入り口を過ぎて右に、駐車帯があるのでそこに停め一の鳥居に向かった。1129hirakikijinja_026_2

 一の鳥居をくぐると二の鳥居がある。この鳥居は両脚に補強の仕掛けがしてある。1129hirakikijinja_003_2

 一の鳥居より小さく見えるが、それは隣に生えているクスが大きいからで、実際にはほとんど変わらない。

 クスの手前のモミジが満開だった。1129hirakikijinja_005_2

 朱塗りの社殿は南九州特有で、派手すぎるように思われるが、実は南九州の古墳時代には、石棺などに朱が大量に使われており、赤や朱は当時から神聖な色という認識があった。1129hirakikijinja_019_2

 境内横には「宝物殿」がある。

 もうかれこれ20年前に来た時は、あったのかどうか覚えていないが、入館してみた。1129hirakikijinja_012_2

 いろいろ見るべきものは多いが、島津氏17代の義弘が奉納したという甲冑が目に付いた。

 慶長15年(1610)に今の社殿の基礎を造営した義弘が完成を祝って奉納したものである。

 次に目に入るのが鴨居に掲げられた扁額だ。1129hirakikijinja_018_3

 慶長14年(1609)に名高い薩摩軍の琉球侵攻があった。

 その後、薩摩の属領と化した琉球から毎年、朝貢船が送られて来るようになったが、長い船路の安全を願い、目通し山である開聞岳とそれを祭る枚聞神社へ琉球王から贈られた物である。1129hirakikijinja_017

 この彩色鮮やかな扁額は、「朝融王」の奉納とあるが、これは琉球王ではなく、明治時代の皇族「久邇宮朝融王」のものだろう。

 朝融王は昭和天皇妃「良子皇后」の兄に当たる人だ。太平洋戦争の完遂を祈って奉納したと思われる。1129hirakikijinja_009

蒔絵入りのこの漆器は「松梅蒔絵化粧箱」、別名「玉手箱」と言われる物で、国の重要文化財に指定されている。1129hirakikijinja_007_2

 小箱がいくつも入っているが、すべてに蒔絵が施された優品で、どのような経緯でここに奉納されたのかは不明である。1129hirakikijinja_023

 神社を出て、北に300mほど行った右手に「玉の井」がある。

 ここで天孫二代目のホホデミと海神の娘・トヨタマヒメが巡り会ったのだという。

 つまり竜宮城がここにあったというのであるが、どこを見回しても畑の真っ只中だ。1129hirakikijinja_021

 中に入っていくと「日本最古の井戸・玉の井」が現存する!!

 覗いてみたが5メートルくらいの深さしかなかった。

 神話は神話で楽しむのがいいのだが、何かを象徴して語っていることが多いので、これはこれで尊重しておこう。1129hirakikijinja_024

 それより、振り返って見た開聞岳がなかなかのものだった。1129hirakikijinja_030

 枚聞神社から1キロ余り東へ行くと直径200m位の「鏡池」がある。風が無く波が立っていないので、水面はまるで本物の鏡のように、逆さ開聞が映っていた。

 この池は爆裂火口(マール)に水がたまったのが成因で、近くの「鰻池」も同じ現象でできている。

 静まり返った池を眺めていたら吸い込まれそうで、ここを竜宮への入り口としたら、神話がそれらしく見えるのではないかなどと思われて来た。

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