枚聞神社(指宿市開聞町)
11月の28日、29日に指宿の義父を見舞ったとき、久しぶりに枚聞神社を参拝した。
枚聞神社は「薩摩国一の宮」と呼ばれる古い神社で、貞観16年に枚聞神社の後方に聳える開聞岳が噴火して大災害になったとき、大宰府を通じて都に知らされ、山の神霊を鎮めるために「封戸20戸」が定められた―と古書に記されているのが、記録上の初見である。
祭神はオオヒルメムチ。太陽神で、天照大神の分身かと言われている。
開聞町の中心の交差点を北(左)にとると、300mほどで森が見えてくる。先に行くと神社入り口を過ぎて右に、駐車帯があるのでそこに停め一の鳥居に向かった。
一の鳥居をくぐると二の鳥居がある。この鳥居は両脚に補強の仕掛けがしてある。
一の鳥居より小さく見えるが、それは隣に生えているクスが大きいからで、実際にはほとんど変わらない。
朱塗りの社殿は南九州特有で、派手すぎるように思われるが、実は南九州の古墳時代には、石棺などに朱が大量に使われており、赤や朱は当時から神聖な色という認識があった。
境内横には「宝物殿」がある。
もうかれこれ20年前に来た時は、あったのかどうか覚えていないが、入館してみた。
いろいろ見るべきものは多いが、島津氏17代の義弘が奉納したという甲冑が目に付いた。
慶長15年(1610)に今の社殿の基礎を造営した義弘が完成を祝って奉納したものである。
慶長14年(1609)に名高い薩摩軍の琉球侵攻があった。
その後、薩摩の属領と化した琉球から毎年、朝貢船が送られて来るようになったが、長い船路の安全を願い、目通し山である開聞岳とそれを祭る枚聞神社へ琉球王から贈られた物である。
この彩色鮮やかな扁額は、「朝融王」の奉納とあるが、これは琉球王ではなく、明治時代の皇族「久邇宮朝融王」のものだろう。
朝融王は昭和天皇妃「良子皇后」の兄に当たる人だ。太平洋戦争の完遂を祈って奉納したと思われる。
蒔絵入りのこの漆器は「松梅蒔絵化粧箱」、別名「玉手箱」と言われる物で、国の重要文化財に指定されている。
小箱がいくつも入っているが、すべてに蒔絵が施された優品で、どのような経緯でここに奉納されたのかは不明である。
神社を出て、北に300mほど行った右手に「玉の井」がある。
ここで天孫二代目のホホデミと海神の娘・トヨタマヒメが巡り会ったのだという。
つまり竜宮城がここにあったというのであるが、どこを見回しても畑の真っ只中だ。
中に入っていくと「日本最古の井戸・玉の井」が現存する!!
覗いてみたが5メートルくらいの深さしかなかった。
神話は神話で楽しむのがいいのだが、何かを象徴して語っていることが多いので、これはこれで尊重しておこう。
枚聞神社から1キロ余り東へ行くと直径200m位の「鏡池」がある。風が無く波が立っていないので、水面はまるで本物の鏡のように、逆さ開聞が映っていた。
この池は爆裂火口(マール)に水がたまったのが成因で、近くの「鰻池」も同じ現象でできている。
静まり返った池を眺めていたら吸い込まれそうで、ここを竜宮への入り口としたら、神話がそれらしく見えるのではないかなどと思われて来た。
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