« 桜島の「屁」の臭い! | トップページ | 冬至のビータロー »

崩れつつある「邪馬台国畿内説」

畿内大和では最も古いと言われ、卑弥呼の死亡年代の3世紀半ばに築造されたと認定されている奈良県桜井市の「ホケノ山古墳」。

 そのすぐ東隣りにある「堂ノ後(どうのうしろ)古墳」は4年前のレーダー探査により前方後円墳であることが分かり、しかも、ホケノ山古墳の周濠の造成で一部が削り取られているため、ホケノ山古墳よりさらに古い――と、当時、一大発見視された。(ニュース1

 しかし、今年になって桜井市教育委員会の発掘調査で、前方部から「葺き石」と「埴輪」などが見つかり、その製作年代からは5世紀後半であることが確実になった。(ニュース2

「ニュース2」の産経新聞の記事では、堂ノ後古墳を一部削り取って造成したホケノ山古墳と近くの纏向(まきむく)石塚古墳とを挙げて

<これによって、最古の前方後円墳は、ホケノ山古墳をはじめ、約1キロ北西にある纏向石塚古墳などに絞られることになった。>

 と書くが、ホケノ山古墳は記事にもあるように、堂ノ後古墳を削っているのだから、堂ノ後古墳より新しくなければなるまい。つまり5世紀後半をさかのぼることはない古墳だということがはっきりしたわけで、なぜ「堂ノ後古墳はホケノ山古墳より200年以上新しいことが分かった」とするのだろう。まだ、「ホケノ山は最古級」という先入観が記者の頭にこびりついて離れないようだ。学問的(客観的)ではない。

 こびりついて離れない――と言えば、「箸墓古墳は卑弥呼時代のもの。それどころか卑弥呼の墓そのもの」という先入観も邪馬台国畿内説を支持する研究者やファンの頭にデンと居座っている。

 そもそも「魏志倭人伝」の道程記事を行程と日数と方向を改変せずに読む限り、邪馬台国が九州島を離れることはありえない。

 それなのに、「大和(やまと)=ヤマタイ」としたい「大和王朝畿内自生論」を大前提とした畿内説は、どうしても自説を補強したいがために考古学を援用し、「最古の列島の王者の墓、つまりホケノ山古墳などのような最古の前方後円墳が畿内大和にあるじゃないか」と言い続けてきたが、今回その支え柱の一角が崩れることになった。

 「いや、まだ箸墓はじめ纏向石塚古墳などがある」と強弁は可能だが、ホケノ山古墳の築造年代の決め手となった周濠などで発見される木の一部の「年輪年代法による測定」も、果たして正確なのかどうかあやしくなってきた。

 私見は九州説で、邪馬台国は福岡県八女市周辺だろうと考えている。八女市には3世紀の巨大古墳も、たいした発掘物もあるわけではないが、それは南の熊本県にあった狗奴国によって併呑されたが故に、暴かれて破壊され、持ち去られたと考えることもできる。

 そして投馬国という戸数5万戸の国が「古日向」にあったとも考えている。古日向とは今の鹿児島県と宮崎県を併せた領域である。とてつもなく広いが故に5万戸もあったのだ。さらに言えば、その火山性風土のため、どうしても交易(海上交易)が欠かせなかった国で、航海的生業に突出した国柄であった。そのことが「鴨着く島(かもどくしま)」と言われたゆえんである。

 いずれにしても、邪馬台国は畿内にはなかった。「じゃあ、なぜ、大和(やまと)?」と言われるかもしれないが、逆に質問したい。

 「なぜ、大和(タイワ)が、や・ま・と、なのか」と。

 大和の前身は「大倭(タイワ)」であり、その大倭(国)は北九州にあった。倭人伝には「市が立って国々は交易をしているが、その監視をしているのが大倭であった」というふうに書いてある。「大倭」の謂れは書いてないが、おそらく「倭人国家連合」のようなものだろう。

 それを当事者の倭人たちが「われわれは大倭だ」と言ったのか、倭人伝を書いた陳寿のような史官が造語したのかの判断はつきかねるが、その大倭こそが朝鮮半島に帯方郡が置かれ、魏王朝の圧制の南下が企てられた頃(3世紀半ば)に、九州北部から畿内大和へ王権を遷した。それゆえ大和地方に「大倭王権」が誕生し、のちに「倭」を「和」と変えたのである。

 さて、その「大和(タイワ)」を「やまと」と呼んだのは、邪馬台国(の女王・卑弥呼)にちなんでいる。これについては大和王権畿内自生説論者と変わるところはない。

 九州で狗奴国に併呑されて滅んだとはいえ、邪馬台国は当時最大の王朝・魏から「親魏倭王」という倭人では最高級の王権であると認められたのである。その「ヤマタイ(→ヤマト)」を残したのだろう。襲名した、と言ってもよい。

 で、「ヤマタイ」とは何か?

 私見では「アマツヒ」という倭語の「漢語訳」である。「アマツヒ」とは漢字で書けば「天津日」であり、ようするに「太陽になぞらえられる天上の日」のことで、「日」は「霊」と置き換えてもよい。この「amatuhi」の語頭に「y」が付けられて「yamatuhi」と発音され、漢字で「邪馬台」と卑字的に表現されたのだ。

 「yamatuhi」と発音したのは、当時の中国人使者だったか、倭人伝を書いた史官だったかは不明だが、とにかく倭人の「アマツヒ」が「ヤマツヒ」となり「ヤマト」と変化した。そして、畿内大和に遷った北部九州の「大倭王権」が自らを「タイワ」ではなく「ヤマト」と呼ぶようになり、漢字も「大倭」から「大和」と、好字に改めたのである。

 以上が私見の概要だが、よく言われるような「九州北部の邪馬台国そのものが畿内大和に遷った」という「邪馬台国東遷説」を私は採らない。あくまでも邪馬台国とは別に北部九州にあった「大倭」(倭人国家連合)が遷ったという考えである。この年代は3世紀後半で、記紀では「祟神天皇(ミマキイリヒコイソニヱ)」がその当事者であったろう。

 またこれより先に南九州から畿内への移住者集団がいた。その主体は投馬国(古日向)であった。これを記紀は「神武東征」と描くが、その時の王こそ神武天皇の皇子と書かれた投馬国王・タギシミミである。タギシミミとは「タギシ」の「ミミ」で、「タギシ」は「船の舵(かじ)」、「ミミ」は倭人伝にあるように「投馬国の王」で、併せてみると「(投馬国の)船舵王」つまり「航海王」を意味する。船団を組んで移住するには、うってつけの王であり、王名でもある。

 この点について、賛同者は少ない。なにしろ五万戸もある投馬国が「素寒貧のあの南九州」にあるわけがない、というおなじみの「南九州=クマソ国=大和王権に逆らうソジシの空っぽの貧しい地域」という先入観が頑として受け付けないでいる。

 もうそろそろ目を覚まして欲しい。海からの視点で歴史を振り返るべきだ。なにしろ大陸からあるいは半島から「高文化がやって来た」としながら、それが航海民を仲介としなければやって来るはずもないのに、その航海民について「そんなの関係ねー」では済まないだろう。

 そのような航海民を束ねる王者は、南九州発祥の「鴨族」、北部九州の「安曇族」「宗像(胸形)族」など、九州島の海民たちの中から輩出している。その一人が古日向の投馬国王・タギシミミであった。(未完だが、今日はここまで)

|

« 桜島の「屁」の臭い! | トップページ | 冬至のビータロー »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 桜島の「屁」の臭い! | トップページ | 冬至のビータロー »