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チリの巨大地震

2月27日、チリ沖でマグニチュード8.9という大きな地震が発生。1960年の三陸大津波の再来かと危惧されたが、幸い、さほどの津波ではなかった。

 それにしても大地震が立て続けに起こっている。ついこの間の一月半ばには、同じアメリカ州の中央ハイチで、大地震のために20万人以上が犠牲になったばかりだ。あそこはマグニチュード7.0と小さ目だったが、首都のすぐ近くの浅い地層で発生したため、被害が甚大になってしまった。

 今度のは、詳しいデータは分からないが、死者は300人規模だと言われている。海底の深いところで起きたのだろうか。それならマグニチュードの巨大さにかかわらず、激震は避けられたのだろう。

 どちらにしても正確な情報はこれからだ。日本で50年前の大津波の悪夢の再現が無かったのは救いだった。

    閑話休題

 オオジシンかダイジシンか――前のハイチ地震の時も問題にしたが、ニュースでは「大地震」を「おおジシン」と読む。私は「ダイジシン」と読む。何故かというと「地震」に「大中小」の形容をした時、「中」は「なか」とは言わず「チュウ」と読むだろうし、「小」は「こ」と言わず「ショウ」と読むだろうからだ。「大」だけを訓読みで「おお」とし、「おおジシン」と読むのはおかしい。

 今日のニュースでは「チリで巨大地震が発生」と言っていた。この「巨大地震」は「キョダイジシン」とすべて「音読み」で読んでいる。つまり、地震の規模を区別するとき、

     小地震・・・ショウジシン(こジシンとは読まないだろう)

     中地震・・・チュウジシン(なかジシンとな読まないだろう)

     大地震・・・ダイジシン(ニュースでは、おおジシンと読んでいる)

    巨大地震・・・キョダイジシン(ニュースで、おお・おおジシンとは読んでいない)

 以上から、「大地震」だけ「おおジシン」と読むのはおかしいことが分かる。なぜ「ダイジシン」と読まないのか不思議でならない。

 序でに言うと「大地震」による大きな災害を「大震災」と書くが、もし「大地震」を「おおジシン」と読むとすると、これは「おおシンサイ」と読まなければならないが、これについては例外なく「ダイシンサイ」と言っている。一貫性がないではないか。

 皆さん、「大地震」は「ダイジシン」とちゃんと音で読むべし。

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浅田真央は銀!

期待された日本の銀盤の舞姫たち。浅田真央が銀メダル、安藤美姫は惜しくも5位でメダルには届かなかった。Asadamaosilvermedal (写真はヤフースポーツから転載)

 それにしても、韓国のキム・ヨナは「金よ、なー」coldsweats01 だ。抜群の安定感の前に、さすがの真央も及ばなかった。

 でも韓国はキム・ヨナだけだ。後に続く選手がいない。それに比べると日本は、2位、5位、8

位と、団体戦があったとしたら、金メダルだった。

 もし、新聞の見出しを任されたら、こう書いてみたい。

 『 浅田真央、惜しくも2位に沈む!

 浅田真央選手のコメント:

     「でも、蓮坊さんには、納得してもらえると思います!」 』

 (蓮坊議員はスパコン予算をめぐる事業仕分けの席で「2位ではいけないんですか!」と叫んだ)

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都萬神社の春祭り(曽於郡大崎町仮宿)

『かごしま暦』という鹿児島県神社庁が発行している暦がある。各月が見開き2ページに収まり、日毎に祭りや行事の書き込みがあるが、今日2月25日に「都萬神社春祭り」とあったので、宮司さんに時間などを確かめてから出かけてみた。

 大崎町の中心部までわが家から22キロあり、車での所要時間は40分ほどだった。

 都萬神社は持留川の沖積平野に広がる中心部から、国道220号線を台地に上って行ったその突端近くにある。まだ台地の平坦地に上がらない前に、30段ほどの階段があり、大きなコンクリートの鳥居をくぐると、境内の向こうに社殿が建つ。祭神は「コノハナサクヤヒメ」と「トコシロヌシ」で、後者は「コトシロヌシ(事代主)」のことらしい。22225tumajinjaharumaturi_001  神事は9時きっかりに始まった。22225tumajinjaharumaturi_004  神官は5名、うち女性神官がひとり。その神官が祓いの幣(ぬさ)の前で「筑紫のひむかの橘の小戸のアワギヶ原に・・・・・・」と祓い詞をあげ、幣に「祓い戸の大神」(と思う)を降神する。それを持って参列者を祓って回る。22225tumajinjaharumaturi_003  神官も宮司も、氏子参列者もすべて祓いを受ける。(人間を祓う前に、神前に行っておそなえ物を祓ったようだが、それは見ることができなかった。)22225tumajinjaharumaturi_005  そのあと、宮司が神前に行き、祝詞(寿詞)を読み上げる。22225tumajinjaharumaturi_006  祝詞奏上の後、まず宮司から玉串を受け、神前に向かった。宮司だけかと思ったら、神官が全部続いて拝殿奥に入って行った。22225tumajinjaharumaturi_007 大隅半島南部のたいていの神社の祭りでは、神官2、3人が普通であるが、5人ともなると重々しく感じられる。22225tumajinjaharumaturi_008  神官団の玉串奉奠のあとは、氏子代表の玉串奉奠だ。氏子総代がひとり玉串を受け、参列者全員が一緒に神前に拝礼した。22225tumajinjaharumaturi_010  神事そのものは3,40分で終わり、その後、宮司さんにお話を聞いた。宮司は山下氏。何と、歴史界では知らない人はないあの鹿児島大学教授・原口泉氏の叔父である。山下さんの実姉が原口教授の母堂なのだそうだ。原口教授は去年、大崎町で講演会を開いているが、なるほど縁があったわけだ。

 ところで、この都萬神社、去年の11月半ば、ちょうど七五三の祭礼日に、宮崎県西都市の「さいまんさま」こと都萬(妻)神社に詣でたが、その4社ある末社の一つで、神社としての格式は曽於郡で一番高いそうだ。

 「それでも旧官・国弊社(現在は別表神社)を除くと、一般の神社は1級から7級まであって、ここは4級なんです。なにしろ曽於郡60余社の中で、この社殿が最も大きいんですから、せめて2級くらいには・・・」とは、山下宮司の言葉。

 その社殿は大正5年に全面的に作り替えられ、比較的新しい建造物なのだが、去年、町の文化財審議委員たちが、国に「有形登録文化財」指定を申請したところ、指定認可が下りたという。拝殿・本殿・摂社4棟までひっくるめての登録だそうである。境内の裏に回って本殿を眺めると、確かに大きくて立派だ。軒下の彫り物も工夫が凝らしてある。22225tumajinjaharumaturi_013

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『行幸記念碑』(鹿屋市吾平町吾平山陵)

吾平山陵の参道入口から50㍍ほどで山陵の案内板があり、そこから橋を渡って行くと山陵への長い参道だが、橋の手前左側に周りに小さな花崗岩の柵をめぐらせた石碑が建っている。22220gyoukoukinenhi_001 『行幸記念碑』と書かれた異様に赤味がかった石碑だが、その正面の字(題字)は「公爵 島津忠重」が書いている。忠重は島津藩最後の殿様・第29代忠義の子で、30代の島津家当主であった。

 行幸とは「天皇自らお出ましになる」ということで、それなら戦後は天皇は植樹祭だ、国体だと一年のうちに何度も各地へお出でになるから、何と仰々しい石碑かと思われるかもしれないが、この碑は戦前の昭和11年に建てられたものである。

 この碑の裏に、なぜ建てられたか、の由緒がつづられ掘り込まれている。

22220gyoukoukinenhi_005  それによると、昭和天皇は昭和10年11月9,10日にわたって行われた宮崎・鹿児島における「陸軍特別大演習」に元帥として統監され、終了後の18日にこの吾平山陵に参拝されている(御親拝)。明治維新後、大日本帝国憲法の下にあって、天皇は「神聖にして侵すべから」ざる存在であるとともに「陸海軍の総司令官(大元帥)」でもあった。

 白馬に跨り、元帥服を身に纏った若き天皇は、軍人の崇敬の的でもあった(今の北朝鮮の”将軍様”が、その残影かもしれない)。その天皇が「わが皇祖の墳墓」ということで参拝されたのである。その時、いわゆる「山陵道路」(国鉄大隅線・吾平駅前から山陵までの、当時としては広い道路)が、突貫工事で造成された、と聞く。22220gyoukoukinenhi_006  この碑文を撰進したのは「従五位・勲六等 池田俊彦」で、長く中央官僚として令名を馳せた人。今、手元で読んでいる『永田良吉伝』によれば、永田良吉(元衆議院議員・鹿屋市長)の長兄と並んで旧大姶良村が生んだ秀才の双璧だったようである。

 さて、碑文によれば、明治天皇即位の5年目、天皇は特使をこの山陵に遣わし、さらに明治40年にも、鹿児島県内にある可愛山陵・高屋山陵とともにそれぞれ勅使が代参している。その後も、皇太子による「行啓」があった。

 しかし、天皇自らの参拝、すなわち「行幸」は他の二山陵を差し置いて、この吾平山陵だけなのであり、これは特筆しなければなるまい。

 碑文の最後の方には、辺民(辺地に暮らす民百姓)が「天顔」を拝する機会を与えられて、大いに「仁澤(じんたく=温かな恩恵に浴する)」を得て喜ばしい――というような内容が書かれているが、昭和10年当時はまだ天皇の真顔を直接見ることができたようだ。その後、大政翼賛会の成立を経て、天皇は雲の上の「現人神(あらひとがみ)」に祀り上げられ、一般人は見てはならぬ存在と化してしまったわけである。

 大東亜(東および東南アジア)解放の「聖戦遂行のため」とはいいながら、あまりに神がかり的な発想であった。ために当時の「国民小学校」の児童たちは、「御真影」に頭を下げ、教育勅語と歴代天皇名の暗唱に励まされた、という。

 私的なことだが、妻の祖父は当時同じ吾平町内の下名国民小学校の校長をしており、天皇行幸に付き従ったことと、生徒たちに神がかりな天皇の存在、すなわち民主主義とは相容れない「皇国民教育」を施した責任者ということで「公職追放」にあい、戦後は教育現場に戻ることはできなかった。22220gyoukoukinenhi_011    内容の穿鑿はそれくらいにし、この石碑がなぜこんなに赤味がかっているのか、その理由を付しておこう。

 それは、前を流れる姶良川にある。というのもこの石碑、平成2年にこの川の川底から再発見されたものなのである。その年に見てのとおり石積みの護岸・親水工事に取り掛かっていたところ、川の土砂の中からこの石碑が見つかった。

 石碑が建てられたのは、昭和天皇行幸の1年後の昭和11年11月。ところがその2年後の昭和13年(1938)10月に、大隅地方は台風の襲来を受け、未曾有の大水害をこうむったのであった。大隅全域で、死者が450名出たというから、近代最悪の被害と言ってよい。その時の洪水は吾平川河岸にあったこの碑をも、海の藻屑ならぬ<川の土砂屑>にしてしまった。

 それから実に52年経った平成2年(1990)に、石碑は再び日の目を見ることになった。その間、鉄分を含んだ河水にずっとさらされていたため、このように赤くなってしまったのだ。碑に付着した赤さびは、いわば「近代大隅史上最大のあの昭和13年大水害を忘れるなかれ」という教訓を今に物語る色なのである。

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月読神社春祭り(鹿屋市串良町)

鹿屋市串良町下大塚原の月読神社では、今年から春祭りの祭礼日を2月第2日曜日に決めて行うことにしたそうである。

 3,4日前に串良町内を通ったとき、そう幟旗に書いてあったので、ゆうべ上原宮司に電話をして確かめたら、その通りだと言われ、今朝行って来た。22214tukiyomijinjaharumaturi_016  月読神社は、串良町の旧役場のある中心部から北に500㍍くらい行ったシラスの舌状台地の上に鎮座する。

 祭神は無論、月読命で、天照大神とスサノオノミコトとともに、イザナギノ尊が妻であるイザナミノミコトの死後の世界に入り込み、その凄惨な腐乱死体を見たために穢れた心身を清めようと、「筑紫の日向の橘の小戸のアワギ原」で禊ぎ祓いをしたときに生まれたいわゆる「三貴神」の一人である。

 天照大神はイザナギの左目から、月読命は右目から、そしてスサノオは鼻から生まれている。22214tukiyomijinjaharumaturi_002  90段近い石段を登り、振り返ると串良町中心部が見える。街の中に突出しているのは中世の「鶴亀城跡」のある小山で、昔は右手に尾根が続き、今の串良小の校庭までが鶴亀城であったらしいが、道路で分断されてしまった。22214tukiyomijinjaharumaturi_001  神事は10時からで、もう境内には地元の人たちが集まっていた。22214tukiyomijinjaharumaturi_009  拝殿までの5,60㍍はあろうかという長い参道の途中には、田植え祭りで使う木製の黒牛(べぶ)と真新しい木の鋤が置かれていた。22214tukiyomijinjaharumaturi_004 一緒に中で祭式に加わるよう宮司さんに言われ、拝殿の中へ入る。

 一同本殿に向かって立礼の後、かしこまっていると、まずは若い神官が参会者に対して「修祓(しゅうばつ)」を行った。22214tukiyomijinjaharumaturi_005  つぎに宮司による「大祓い詞」があり、本殿にお供え物をした後、「祭詞」が奏上された。内容は、大神の御神徳によりここに集う者たちの福徳円満、そしてもちろん今年の豊作を願うものであった。22214tukiyomijinjaharumaturi_006  その後は、まず神官による玉串奉奠、そして、引き続いて参会者(氏子代表など)の玉串奉奠が行われた。

 それが済むと、いよいよ境内に出て「田植え祭り(打ち植え祭り)」が催されるのだが、その前に、拝殿の正面にかけられた『玉兔宮(ギョクトグウ)』の扁額が気になった。初めて目にする宮名である。宮司さんに問うと、「月読命の月とウサギは縁がある」とのこと。(月の中にウサギを見る伝承の通りのようだ)22214tukiyomijinjaharumaturi_010  みんなが外に出るとさっそく笛・太鼓が奏でられ、田植えの始まりだ。「べぶ」の前に置かれているのは「白樫の葉」だそうだ。

22214tukiyomijinjaharumaturi_011_2  べぶの曳き手と、鋤の持ち手は、他の神社などでは掛け合い漫才のように、面白おかしく曳き回るのだが、その点ここのはただ回るだけだ。22214tukiyomijinjaharumaturi_013 ただ、変わっているのは、さっきべぶの前に置かれていた白樫の葉の上に、木製の長い三宝のような容器に入れてあった「ツタ、クサギ」などのツルや葉っぱが混ぜられ、どうするのかと見ていると、若い神官がその葉っぱの上に乗ったのである。22214tukiyomijinjaharumaturi_014 そして椅子に座った神官の持つ三宝のモミを掴み、葉っぱを踏みしめて回りながらモミを播く。22214tukiyomijinjaharumaturi_015   その間、宮司は、神々に豊穣を祈る独特の誉め言葉をちりばめた「祝詞」を、滔々と唱えていた。

 宮司さんによると、遠い昔はこの神社でも春祭り(祈年祭)には、鹿屋市内のいくつかの神社で盛大に行われている「かぎ引き行事」のようなものがあったのではないか、いずれ復活したい、とのお話であった。

 盛大にとは言わないが、近隣中がそこそこに賑わう行事になって欲しいと思いながら、11時に神社を後にした。

 

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加藤タキ講演会(鹿屋市文化会館)

テレビのコメンテイターでありコーディネイターでもある加藤タキ(1945年生:現在65歳)の講演会があり、じっくり聴かせてもらった。

 講演は鹿屋市教育委員会主催の「生涯学習大会」の呼び物として企画された。朝から真っ黒な雲が覆ういやな天気で、案の定、講演の始まる1時半前後になると、激しい風と雨が吹きすさんだ。

 それでも観客は集まり、500人近くになったそうだ。22211katotaki_003  講演のテーマは「命ある限り、心で学ぶ」。

 結構、身振り手振りで明るく話す。22211katotaki_004  加藤タキと言えば、美しい銀髪で有名だが、決して染めようとしなかったのは、自身がコーディネーターとして日本に呼んだ、かの大女優オードリー・ヘップバーンの影響かもしれない。

 講演でも、オードリーの素顔に触れ、「オードリーは、ローマの休日をはじめ数々の大ヒットを飛ばした銀幕の女王だったが、オードリーは年をとって皺が増えても、一本たりとも整形で伸ばそうなんて考えない人だった」と言う。

「銀幕の中のオードリーは、演技してなんぼの世界だから、あれはあれだけのこと。本当の自分じゃなかった。それに比べて皺だらけでも今の自分は、本当の自分なのよ」だったそうである。「自然のまま、あるがままに飾らない」のは東洋的だ。道理でオードリーは「前世は日本人だった」と言ったとか、言わなかったとかいう話を聞いたことがある。22211katotaki_006  話の中ごろだったか、加藤さんは演壇を離れて前に出てきた。聞いているとこういうことだった。

 「私は戦後初めての女性国会議員だった加藤シヅエの48歳の時の娘なのですが、3歳ごろのある時、したたかに転んで膝をすりむいたかして、はじめて間近に見る出血に驚いて騒いだんです」

 「すぐに来て抱っこしてなだめてくれると思った母が、そばに来て腰を下ろしてこんなことを言ったのですが、それは言葉としてではなく直接わたしの心に響いたようで、60年以上経ってもはっきりと覚えています」

 といいながら、加藤タキは母と同じように腰を下ろした。22211katotaki_007 「母はおおむねこうわたしに言いました。――たきちゃん、あなたとお母さんの私は違うでしょ。周りの人とも、たきちゃんは違うでしょ。それどころか、世界中の金髪の人も、色の黒い人もみんな違っている。でもね、たきちゃんが流した血はね、どんな人も同じでしょう。どんな人も血を流したら痛かったり悲しかったりする。それはたきちゃんもおんなじ。だから、たきちゃんが痛いことはみんなも同じように痛い。あなただけではないのよ――。私はよく分からないながらも、こんなことで自分だけがイタイイタイって騒いではならないって、思いました。そして、私が泣き止み、一人で立ち上がると、今度はわたしを思いっきり抱きしめてくれたのです・・・」

 これはさすがにすごいと思った。戦後はアメリカナイズされ、<子どもが少し転んだくらいで親は手を出すな>などと教育されてきたものだが、加藤シヅエとなるとそのさらに一歩先を行っていたようだ。

 ちなみに加藤シヅエ(1897~2001)は戦前、裕福な人物と結婚したのだが、戦時中に離婚し、社会主義者でこちらも戦後、衆議院議員になった加藤勘十(1892~1977)と再婚している。夫婦揃って衆議院議員というのは戦後でも10例あるかないかだろう。両方とも社会党となると他に例がないのではないか。もっとも加藤シヅエは82歳ごろ、日本社会党を離党して、新進党などを応援したという。22211katotaki_008  講演終了後の著書サイン会にて。50人くらいに応じていた。誰とでも気さくに話す。肌つやのよいチャーミングな人だ。22211katotaki_010  著書は『50歳からの自分磨き』

 講演でも言っていたが、「人間何歳からでもこれをしたいと思った日が人生の初日」だそうだ。104歳で看取った母・加藤シヅエの人生が、まさにそうだったと言う。

 ある人が貰った著者サインを見せてもらった。

 右ページ真ん中が座右の銘 『梅花 春に魁(さきが)けて 咲く』

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灰神楽(鹿屋市池園町)

朝9時過ぎ、このところ溜まっている大隅史談会の53号会誌用の記事のパソコン打ちを始めたところ、窓の外が何か変だった。強い西風が吹いているらしく、砂塵のような煙のような物が素早く流れていく。

 立ち上がって窓に近寄って見て、驚いた。遠くに見えるビニールハウスの屋根からも盛んに、ちょうどドライアイスが風で煽られて行くように、砂塵が舞い上がっているではないか。

22206haikagura_004  いやはや、春先によく南シナ海にやってくる低気圧に向かって強い東風が吹いて乾燥しきった畑から砂塵の舞い上がることはあるが、西風で砂塵が舞い上がるなんて初めてだ。と思ったら、これは砂塵ではない。灰なのであった。文字通り、灰神楽(はいかぐら)だ。

22206haikagura_001_2  桜島からの灰は北西の風に乗って鹿屋方面に飛んでくる。去年は年間で550回ほどの噴火があり、過去最多だったそうだが、今年は1月の一ヶ月だけで140回の爆発があったので、その記録を破ることは時間の問題だろう。もしかすると去年の3倍くらいになるかもしれない。

 灰神楽は東の方へ「舞い渡って」行った。民家の屋根も白くなっている。22206haikagura_002  庭の置石も真っ白。

  真ん中の黒い色が本来の色。22206haikagura_003_2  庭の菜園も大変だ。灰かぶりのターサイ。地面も白くなった。灰が厄介なのは酸性度が強いということだ。同じ灰でも石灰ならありがたいのだが・・・。

 いつまで続くやら、この灰神楽。

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満開の梅(鹿屋市下堀町)

下堀町のとある民家の庭から馥郁とした香りが漂ってくる。22202umegasaita_001_2 梅だ。道路にはみ出した梅の枝はほぼ満開になっている。22202umegasaita_002 50年くらいは経っていそうな大きな梅の木。隣りには花数は落としたものの、赤い椿がまだ咲き誇っている。コントラストが面白い。22202umegasaita_003 序でに紅梅はないものかと探していたらあった。・・・と思ったら「緋寒桜」だった。こっちも満開だ。22202umegasaita_004  紅梅は思わぬところに顔を出していた。緋寒桜から10㍍も行かない生垣の間から、かわいらしい枝垂れのピンク色の紅梅がすうっすうっと5,6本枝を伸ばしていた。

 もう間もなく立春を迎える。

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