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普天間基地問題と徳之島

鳩山首相は徳之島出身の有力者・徳田虎雄元衆議院議員と対談したが、徳之島への海兵隊ヘリ移設については取り付く島もなく断られた。

 徳之島の3町の町長も移設絶対反対の立場を貫く考えで、これで徳之島への「県外移設」は暗礁に乗り上げたことになる。

 私見では、沖縄の米軍基地縮小には大賛成であり、社民党(を支持しているわけではないが)案のように米領グアムへの移転が最良の案と考える。それでは沖縄を始め日本本土の防衛が手薄になってしまい、安全保障上、非常に危険であると言う向きがあるが、前にも書いたように中国の軍事的拡大は日本をターゲットにしたものではなく、「固い絆の日米同盟」への対抗策なのである。

 だから、沖縄の米軍基地縮小が日本の対東アジア防衛にとって致命的欠陥になろうとは少しも思わない。

 途中の論旨を飛ばして言うが、日本は早く「武装永世中立」を宣言すべきである。そういう国是を打ちたてて置いてから、とにかく米軍(米国)の過度のプレゼンスを是正する方向に持っていくべきであろう。

 日本の防衛は日本人の手で行うのが筋というものだ。といって何もかも自国の力で、というのではなく、足りない点は(おそらく米軍が中心となろうが)「国連多国籍軍」の駐留で補う。そういうやり方も「外交」の一環であり、手腕の見せ所と考えればよい。

 今度の徳之島移設問題でも、たとえば「10年したら米軍には引き上げてもらい、自衛隊が代わって駐留する」というような条件を付けて米国に認めさせるほどの駆け引きを鳩山首相に期待したいが、無理か。

 佐藤栄作首相は沖縄を米国の施政権から解放して「ノーベル平和賞」を授賞した。今度、沖縄を米軍の過度のプレゼンスから解放したらどうだろうか。同じ柳の下に、ドジョウはいるまいことか・・・。

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揖宿(いぶすき)神社の大楠

義父の二七日は近頃まれな好天に恵まれた。4月に入って晴天だったのは、確か小中学生の入学式の日(6日)以来だ。

 近くの揖宿神社のクスの若葉が陽光の中、あまりにも美しい。「殿様の湯」に行きがてら境内に入ってみた。22425ibusukijinjanokusu_010  鳥居をくぐり、さらに中門を入ったところから振り返る。神社東北角の大楠。22425ibusukijinjanokusu_009  東の大楠群。22425ibusukijinjanokusu_005  反対側の西の大楠と小楠。

 神社入口に立てられた説明板によると、大楠とよべる物は全部で8本あり、樹齢はどれも800年くらいだそうだ。

 ところが「神社明細帳」によると、もっと古い可能性がある。

 揖宿神社がまだ「葛城宮」と呼ばれていた貞観16(874)年、開聞岳の大噴火があり、その時に壊滅的打撃を受けた「開聞神社」がここへ一時的に避難して来たのだが、その際に開聞岳のクスを3本移植した、というのである。

 8本のうちとりわけ大きい3本がそれだとすると、樹齢は1130年を超えることになる。

 県内一のクスの巨木は「蒲生八幡神社」の大楠で、樹齢は1500年ほど。二番目は志布志市安楽の「山宮神社」の大楠で1300年くらい。その次が肝付町の塚崎にある塚崎1号墳(円墳)を覆うように立つ塚崎の大楠で、これも相当古く、蒲生のと同じく1500年は数えるだろう。

 それに比べると揖宿神社のは若いが、8本のどれもが高さ25メートルはあり、社域全体に満遍なく林立している様は見るものを圧倒する。22425ibusukijinjanokusu_012  揖宿神社の南側、義父宅の屋上から眺める大楠の社叢林。

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『大隅』第53号を発行

大隅史談会(事務局:鹿屋市池園町)では、会誌『大隅』の平成22年度版・第53号を発行した。22423oosumi53gou  投稿者11名、16篇と例年よりやや少ないが、それぞれ個性ある論稿を寄せている。

 目次は次の通り。

1  古代史の空白時代を推理する            武田悦孝

2  朝鮮半島の倭人                    松下高明

3  邪馬台国はどこ?                   松下高明

4  中世鹿屋の山城跡                   隈元信一

5  野里中島と祢寝重長について            隈元信一

6  中世からの内之浦                   江口主計

7  テコテン・テコテンダケ・テコテンドン         佐々木實然

8  大隅の水天                       中島勇三

9  地名散歩(9)                       中島勇三 

10 白銀堂物語                        閏野志郎

11 鎌倉建長寺と道隆寺跡                 福谷 平

12 明治時代の家屋普請について            竹之井 敏

13 小学校創立頃の高須の様子をたどる        上原義史

14 ドミニカ移民                       中島勇三

15 郷土資料及び其の利用方案             佐々木實然

16 高山と文化                        日高幹子

 【寄贈図書紹介】 『評伝 永田良吉』 大場 昇著

 以上の内容である。(155ページ:頒布価2000円)

 購入希望者は大隅史談会事務局宛て郵便振替で送料込み2290円を振り込むと、早速ゆうメールにてお送りします。

 〒893-0042

  鹿屋市池園町2245-5   

   大隅史談会事務局

 郵便振替 02000-2-11027

※ なお、大隅史談会のホームページ『鴨着く島おおすみ』の53号の紹介コーナーにおいて、上記のうち「古代史の井空白時代を推理する」と「邪馬台国はどこ?」を読むことができる。 ただし、無断引用・コピー(プリントアウトを含む)は禁じられている。

 

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宇宙飛行と新人類

宇宙飛行士・山崎直子さんが15日間の宇宙飛行を終えて無事に生還した。

 女だてらに、などとは言うまい―とは思っていたが、やはりつい思ってしまう。小学生頃から抱いていた夢であったそうだが、30年もの間思い続けてやっと2週間のフライトを得ただけである。一体何が彼女をそうさせたのか、オジサンには分からない。

 宇宙飛行をした女性は彼女が初めてではなく、向井千秋さんという女医さんが宇宙飛行士となって飛んでいる。アメリカ人ではもう二桁以上の女性飛行士が宇宙に行ったが、大変な訓練と歳月が必要な割には、無重力状態で何か人類に大きな福音をもたらすような発明なり、発見なりがあったのだろうか?

 もともとはアメリカとソ連(現ロシア)の宇宙開発競争と国威発揚に端を発した宇宙間遊泳であったのだが、今はもしかしたら地球が大天変地異を起こして人類が危うくなった時に逃げ延びるための技術を獲得するというようなミッションがあるのかもしれない。

 多くの新技術は一見ムダにみえることから発展して、ごく身近な役に立つ技術なり製品なりを生み、それが普及するに連れて価格も安くなり、誰もが利用できるところまで行くのだが、この宇宙関連技術がそのような経過をとって、身近な民生用の有用な技術に移転するとは到底思えない。

 いや、遠くない将来、必ず新しい技術へと発展するから長い眼で見てもらいたい――という声も聞こえないことはない。しかしオジサンには単なる国威発揚的パフォーマンスにしか見えない。以前、アメリカのレーガン大統領は「スペースウォー」を唱えたことがあった。宇宙開発で得た技術を軍事に転用しようというものであったが、幸いにも仇敵「ソ連」が崩壊したことで沙汰やみになっている。クワバラ、クワバラだ。

 話を元に戻す・・・。

 今回の山崎宇宙飛行士の父親は角野(すみの)氏で、鹿屋市は吾平町の出身らしい。また3代前(4人目)の日本人宇宙飛行士・若田光一氏は両親が曽於市大隅町の出身だそうだ。

 宇宙飛行を経験した日本人飛行士8人のうち2人が鹿児島と身近に縁のある人なのは面白い。大いに誇りとしてよいだろう(宇宙飛行に批判的なのはこの際棚上げ!)。

 やはり内之浦の東大(のち文部省)宇宙観測所や、種子島のロケット基地などがあり、日本の宇宙技術の先端を走っていたことが大きいのではないだろうか。ぜひこの壮大だがイマイチ実用性に疑問符の付く「新人類」的経験を生かして、地球の平和と正常な発展に寄与してもらいたいと思う。

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一世紀ぶりの寒さだった!

4月15日は何とほぼ一世紀ぶりに、鹿児島で4月の最高気温が10℃を下回ったという。

 4月15日は義父の葬儀の翌日で、まだ指宿にいたのだが確かに寒かった。正確には1912年(大正二年)以来だというから、98年ぶりに日中の気温が10℃に届かなかったことになる。指宿で最高気温が10℃にならないのは真冬以外にはない現象だ。

 1912年と言えば、その翌年の1月12日に桜島が大爆発を起こし、溶岩流で桜島と大隅半島が陸続きになった年である。

 今度の低温はその記憶を呼び覚ますに十分だろう。折りしも桜島の噴火活動は近年になく活発化している。昨日も夜来の強い西北風に乗って火山灰が鹿屋まで到達したが、これまでより粒が粗く、黒っぽくなっている。明らかに噴火ステージが違ってきていると思う。注意するに越したことはない。

 それでも春は着実に野山を覆っている。四周の山々は分厚い緑のコートを纏い始めているし、街を走れば新緑がまばゆい。

 今日は特に初夏に近い陽気となり街往く人々も軽装になっている。ただしちょっと西風は強い。そんな中で、串良町の平和公園では今あやめの群落が目を楽しませ、藤の花も盛りとなっている。22420ayame 22420fuji  

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春の死と天変地異

指宿の義父が4月12日に亡くなり、13日は通夜、そして14日に葬儀が執り行われた。享年90(数えでは91)年と2ヶ月、の長い人生であった。22414gifunosougi

 若い頃に過度の喫煙から、片方の脚の血管が詰まり、危うく脱疽になりかかったり、メニエール症や大腸ポリープ摘除手術を数回受け、さらに3年前に喉頭ガン手術で音声を失っているが、スポーツに励んで得たというわけでもない「強靭な肉体的回復力」で、その後も実生活においては自分のことはほとんど自分で出来た人だった。

 焼酎をこよなく愛し、老人会会長、薩摩狂句、ゲートボール、旅行などで余生を送っていたが、去年の初夏頃から、喉頭ガンからと思われるガンの転移が下顎と食道に見られるようになり、精密検査を兼ねて入院したのがそのままに、帰らぬ人になったのである。

 病院の対応をうんぬんするより、ここまで生きたら「天寿」と思うほうが良い。長いお付き合いありがとうございましたと言いたい。

 指宿あたりでは現在、男性の死亡年齢が90歳というのは、さほど珍しくはない。女性に至っては90歳以上が当たり前のようになっている。事実、義父の母は92歳。義母の父は96歳。同じく母は100歳まで生きている。何か長寿の遺伝子が働いているのだろうか?

 それに比べると私の父は63歳。母は12年前に亡くなったが83歳である。母はまずまずの寿命だが、指宿の平均からすれば短いかもしれない。

 義父の葬儀と同じ日に、北欧のアイスランドで火山が大爆発し、中国の青海省で大地震が起きている。

 中国では昨年の四川省の大地震に続く巨大地震の発生だ。四川省の時は、発生場所に核開発関連施設があるため厳しい報道管制が敷かれた、と言われたが、今回はかなり迅速な報道開放で、現地の様子がよく分かる。被害地の少数民族(チベット族)の困窮による暴発を未然に防ぎ、この5月から開催される上海万博への影響を最小限に抑えるためだろう。

 一方のアイスランドの火山噴火はその噴煙がまともに西欧諸国を襲ったため、各地の空路・空港がマヒ状態になったと大騒ぎになっている。アイスランドからたとえばロンドンあたりまでおよそ1500キロ、フランスに至っては2000キロも離れているのにあのザマは、現代文明の1つの象徴でもあるジェット機も大自然の営みには全く適わないことを見事に示した。

 火山噴火と言えば、桜島は大正3(1914)年1月に大噴火を起こして大隅半島と地続きになったのだが、あの当時もし空路があったら日本列島中の空路・空港がやられていたに違いない。

 亡き義父の父(1893年生まれ)はその当時、鹿児島市内にいたが、噴火による地震で市内の道路あちこちに亀裂が走り、またドカ灰が降り、文字通り這う這うの態で指宿に避難したそうだ。

 西の噴火、東の大地震――はまさに「他山の石」になるだろう。

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『評伝・永田良吉』を読む

永田良吉は明治19(1886)年に鹿屋市の永野田に生まれた。27歳で当時属していた「大姶良村」の村議になり、助役・村長・県議を経て、大正14(1925)年に施行された「普通選挙法」後の初の選挙で衆議院議員になり、その後戦前戦後を通じて8期、約20年の国会議員を務めた。途中、都合で3期の鹿屋市長も務めているので、政治生活はほぼ50年にわたる。大隅半島が生んだ名士と言ってよい。

 平成22年2月に発刊された『評伝・永田良吉』(大場 昇著)は、その生涯を余す所なく読みやすい形にまとめた好著である。22410hyoudennagataryoukiti_001

 著者の大場氏は昭和22年生まれ、永野田とは隣町の田崎町の出身で、昭和46年に良吉が亡くなる前、幾度かその謦咳に接している。そのことと、戦後のいわゆる団塊世代のもつふるさととの深いかかわりが、本の随所にちりばめられ、臨場感のある筆致となって読む者を飽きさせない。

 「生涯に差し押さえに遭ったこと36回」という下りは、驚きを超えて空恐ろしくなるほどだが、そのくらい金銭には恬淡としていた。まさにサブタイトルにあるように<最後の井戸塀政治家>そのものであった。

 県議を2期務めたあとに最初の衆議院議員選挙に打って出るのだが、普通選挙の前だったため士族議員に敗れ、そのとき負った借金の重みに耐えられず、実母が川に身を投げるほどだったという(幸い命は助かった)。

 「ヒコーキ代議士」「請願代議士」というニックネームが付けられたが、前者は鹿屋に海軍飛行隊飛行場を誘致したことで、後者は国会に提出された2000件の膨大な請願件数からそれぞれそう名付けられたそうである。

 ヒコーキ(飛行機)については良吉の先見の明が語り草になっている。それは海軍にはびこる「巨艦信仰」を批判してのものだが、史実として、あの戦艦大和や武蔵は当時の最高峰の巨艦だったが、戦闘機の攻撃の前にあえなく沈められてしまった。良吉の言うように「戦闘機には戦闘機で対応する」、つまり、巨艦を造るより戦闘機を多く造れば戦局はかなり違ったものになっていたはずであろう。

 筆者は <はじめに> でこう記す。

 代議士や市長など政治家を50年やった良吉だ。ふつうなら「永田御殿」が出来ている所だろう。ところが残したのは借金のかたに持っていけない「井戸と塀」だけだった。その生き方が人々の目に焼きつき、心にしみいった。今の政治家は親譲りが多いが、身内を後継者に立てることもなかった。

 (中略)

 良吉は大隅を掘り返し(歴史)、大隅をならし(産業、交通)、大隅の背を強く押し続けた。(中略)大隅に一身をささげた良吉は、まさしく大隅の申し子だ。大隅を体現し、大隅を生きた生涯である。2000年間の大隅の歴史と風土をギュッとしぼって、したたり落ちた一滴が永田良吉という存在といえる。大隅が生んだ空前にして絶後の人物像といってよい。(中略)よくぞ、大隅はこのような人物を持ちえたと思う。同じ大隅の二階堂進や山中貞則とは、まったく異質の存在感である。

 22410hyoudennagataryoukiti_002_2

 加治木中学時代の良吉(19歳)

   大場 昇著 『評伝・永田良吉』―最後の井戸塀政治家

       平成22年2月初版 (南日本新聞開発センター制作・印刷)

       358ページ

       定価 1500円

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城山の桜(鹿屋市北田町)

冴えない天気だが、桜もそろそろ終わりだろうかと街中に食事に出たついでに、北田町の一角、大手町の並びにそびえる「鹿屋城址公園」に行ってみた。

 町の中心から歩いて5分の所に、かって城山の麓から滾々と湧き出していた泉を溜めた「北田池」があったが、今は湧き水も少なくなりその面影はない。ただし、今でも澄明な水は出ていて、庭園としては見事な滝にしつらえてある。2244shiroyamatootouto_006  北田公園。向こうの岡の上が鹿屋城跡。桜が散り始めるのと入れ替わりのツツジが美しい。2244shiroyamatootouto_005  北田公園を抜け、公園駐車場の間を行くと右手に谷状の坂道があるので上がって行く。すると坂の中ほど右側に城址公園の入口がある。2244shiroyamatootouto_004  二の丸跡に出る。桜は満開からやや散ったところだ。こんな言葉があろうとは思えないが「2分散り」である。

 本丸には上がらず、右手の眺望の良い隘路を進む。そこからは鹿屋市街地が見下ろせる。2244shiroyamatootouto_003  左手のクリーム色した建物が3年前にオープンした「リナシティかのや」。中心部の商店街を整理して建てられた「情報・芸術・福祉・商業」の複合施設だ。郊外大型店舗群から客を取り戻そうというコンセプトをもつ。経営の試行錯誤が続いている。2244shiroyamatootouto_001  展望コースの隘路をそのままいくと本丸の東のちょっとした桜公園があった。中でも柵の外の1本はかなりの大木で,

見栄えがする。2244shiroyamatootouto_002  その「桜公園」から振り返る本丸跡。クスの若葉がもくもくと萌え立って来ている。

 鹿屋城は別名「亀鶴城」。中世の串良院地頭・津野四郎兵衛が築城したという。津野が串良で居所としたのは「鶴亀城」であった。「鶴」と「亀」を入れ替えたネーミングがユーモラスだ。津野四郎兵衛の命名なら面白いが、後世の脚色だろう。

 平地に近い台地に築かれた中世の城としては出色の出来栄えだが、残念ながら明治以降あまりにも改変され、文化財としての価値が激減してしまった。

 城跡を後にして、再び街中に戻る。さっき城跡から眺めたリナシティの中の映画館「リナシアター」で、山田洋次監督作品、吉永小百合主演の『おとうと』を観る。

 13時開演の館内には高齢者が自分を含めて6人と30代とおぼしき夫婦が一組、の8人だけ。なんとも贅沢な小百合様との再会。

 館内に撮影禁止などの表示が無かったので、忍ばせてきたデジカメで名場面を写そうと思ったのだが、始まると同時に「撮影するのは犯罪です」という内容のテロップが流れ、あえなく諦めた。2244shiroyamatootouto_007  山田洋次監督の十年ぶりの現代物、それも「家族」の姿をとらえた作品で、案の定「寅さん」をほうふつとさせた。

 吉永小百合の演技はやはりただものではない。弟(鶴瓶)の死の場面より、弟の死の近いことを知った時の小百合の表情と仕種に、目が潤んでしまった。

 寅さんの帝釈天での弟分役だった佐藤蛾次郎がチョイ役で出ていたのも懐かしかったが、傑作なのは、弟が息を引き取るホスピス「みどりの家」の入所者が集まる団欒の部屋のテレビ画面に、寅さん映画が流れていたことだ。よく見なければ気が付くまい。

 映画では、弟は桜の散る頃の4月7日に死ぬことを予期して、その通りになった。

 まさにちょうど今の時期のことだ。

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