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『評伝・永田良吉』を読む

永田良吉は明治19(1886)年に鹿屋市の永野田に生まれた。27歳で当時属していた「大姶良村」の村議になり、助役・村長・県議を経て、大正14(1925)年に施行された「普通選挙法」後の初の選挙で衆議院議員になり、その後戦前戦後を通じて8期、約20年の国会議員を務めた。途中、都合で3期の鹿屋市長も務めているので、政治生活はほぼ50年にわたる。大隅半島が生んだ名士と言ってよい。

 平成22年2月に発刊された『評伝・永田良吉』(大場 昇著)は、その生涯を余す所なく読みやすい形にまとめた好著である。22410hyoudennagataryoukiti_001

 著者の大場氏は昭和22年生まれ、永野田とは隣町の田崎町の出身で、昭和46年に良吉が亡くなる前、幾度かその謦咳に接している。そのことと、戦後のいわゆる団塊世代のもつふるさととの深いかかわりが、本の随所にちりばめられ、臨場感のある筆致となって読む者を飽きさせない。

 「生涯に差し押さえに遭ったこと36回」という下りは、驚きを超えて空恐ろしくなるほどだが、そのくらい金銭には恬淡としていた。まさにサブタイトルにあるように<最後の井戸塀政治家>そのものであった。

 県議を2期務めたあとに最初の衆議院議員選挙に打って出るのだが、普通選挙の前だったため士族議員に敗れ、そのとき負った借金の重みに耐えられず、実母が川に身を投げるほどだったという(幸い命は助かった)。

 「ヒコーキ代議士」「請願代議士」というニックネームが付けられたが、前者は鹿屋に海軍飛行隊飛行場を誘致したことで、後者は国会に提出された2000件の膨大な請願件数からそれぞれそう名付けられたそうである。

 ヒコーキ(飛行機)については良吉の先見の明が語り草になっている。それは海軍にはびこる「巨艦信仰」を批判してのものだが、史実として、あの戦艦大和や武蔵は当時の最高峰の巨艦だったが、戦闘機の攻撃の前にあえなく沈められてしまった。良吉の言うように「戦闘機には戦闘機で対応する」、つまり、巨艦を造るより戦闘機を多く造れば戦局はかなり違ったものになっていたはずであろう。

 筆者は <はじめに> でこう記す。

 代議士や市長など政治家を50年やった良吉だ。ふつうなら「永田御殿」が出来ている所だろう。ところが残したのは借金のかたに持っていけない「井戸と塀」だけだった。その生き方が人々の目に焼きつき、心にしみいった。今の政治家は親譲りが多いが、身内を後継者に立てることもなかった。

 (中略)

 良吉は大隅を掘り返し(歴史)、大隅をならし(産業、交通)、大隅の背を強く押し続けた。(中略)大隅に一身をささげた良吉は、まさしく大隅の申し子だ。大隅を体現し、大隅を生きた生涯である。2000年間の大隅の歴史と風土をギュッとしぼって、したたり落ちた一滴が永田良吉という存在といえる。大隅が生んだ空前にして絶後の人物像といってよい。(中略)よくぞ、大隅はこのような人物を持ちえたと思う。同じ大隅の二階堂進や山中貞則とは、まったく異質の存在感である。

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 加治木中学時代の良吉(19歳)

   大場 昇著 『評伝・永田良吉』―最後の井戸塀政治家

       平成22年2月初版 (南日本新聞開発センター制作・印刷)

       358ページ

       定価 1500円

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

〇養老四年(720)二月壬子《廿九》◆壬子。大宰府奏言。隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。

この供養塚は、永野田の永田さん宅で管理しておられるようですが
今年の慰霊祭はもう終わったのでしょうか?

一応、文化財にはメールで問合せ中です。

投稿: 今井より | 2016年11月 2日 (水) 06時20分

永野田の国司塚の祭りは「国守祭」として祭祀を行っており、その日は毎年10月の中の丑日(二の丑)で、今年は10月22日に行われたようです。
 2年前に参列させていただいた時に祭祀を担当していた永山家(南町。永山家は桓武天皇の4男・葛原親王を始祖とするらしい)の神官が書いておいた式次第メモが配られたが、それによると斎戒沐浴して夜を徹して行われる神事であったそうで、神事の間は一言も発してはならない黙行・黙読であった。
 金竹の一叢の根元に「日本(ひのもと)幣36本、金幣18本」を竹串に刺して祭る一風変わった神事である。
 この合計54本の幣に720年当時に隼人軍によって殺害された陽侯史麻呂以下の将兵の魂を勧請し、慰霊をする――というのが一般に伝えられている国司塚の「国守際」の中身であるが、当ブログ≪永野田町界隈≫に対するコメントにあるように、永野田で育った人が「そのような話ではない。叔母は勝者の都合のよいように解釈されてしまうんだねえ、と漏らしていた」とコメントしています。
 地元でもどうやら国司塚を「政府側の官吏である大隅国司・陽侯史麻呂殺害の地であり、そこに祭って慰霊をしている」と考える人と、「政府側の勝者である陽侯史麻呂などを祭ったのではなく、逆に政府軍によって敗れた現地の首長(誰かはわからない)以下を祭っている」とする考えに二分されているようです。
 私自身は後者の説で、祭られているのは700年の頃に政府側の国まぎ使を恐喝したとして続日本紀に表れた大隅の豪族・肝衝難波(きもつきのなにわ)だと考えています。

投稿: kamodoku | 2016年11月 3日 (木) 11時27分

どうもご丁寧にありがとうございます。
よく読まないで何回もコメントして恐縮しています。
祭祀を拝見されたのも後で知りました。

せめて史資料でも残っていれば信憑性がでてくるの
でしょうが、、、もったいないですね。
それにしても綿々と祭祀を継承しておられる姿勢には
頭が下がります。

今日はおはら祭り見物でした。
実はメインは黎明館の特別展「八幡神の遺宝」でした。
2,3チェックしたいこともあったのですが空振りでした。

松山神社を初めとして大隅半島の八幡関連の仏像らが
多数展示してありました。

そちらの「弥五郎祭り」も盛大に開催されたことでしょう。
23日の住吉神社の例祭を見物したいと願っていますが
ちょっと足が無いので難しいです。
ここも神話伝承の地を探訪したいと。。

大隅はまったく探訪していないので。。
来春の隼人の歴史研究会にでも鎌をかけて
旅行できるようにしたいものです。

ありがとうございました。

投稿: 今井より | 2016年11月 3日 (木) 18時07分

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