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猫を拾う

 勤めから帰った午後5時半頃から、我が家の隣の畑(耕作放棄地)の葛が繁茂して庭に侵入し始めているので、ビーバー(草刈り機)を使い、我が家の境界から2メートル近くの幅で刈り進めていった。

 もう後わずかで刈り終えるというところに、錆び付いたプロペラのようなものが落ちているのだが、そこに草刈り機の歯が当たらないよう用心しながら刈っていると、何やら動くものがある。

 ええっ!猫じゃないか!

 一匹の三毛猫で、まだ手のひらに乗るサイズだ。

 ははあ、よく我が家の庭に来て菜園に埋めた生ごみをあさったりする猫がいたが、あの猫、一ヶ月くらい前に見たときずいぶん腹が膨れていたように思った。そうか、こんな所に産んでいたんだ。

 母猫はつい最近も姿を見せているので、おっぱいは飲ませているのだろう。そのままにしておけば何とかなるだろう・・・・・。

 そう思って家に戻り、風呂で汗を流して一杯飲んでいると、急に雨が降ってきた。たいしたことなかろうと思っていたが、なかなか強い雨になってきた。

 にわかに心配になってきたのが、あの子猫だ。

 長靴を履き、傘を差してさっきの畑に行ってみると、ニャー、ニャーとか細い声がする。草刈中に見た場所を探すが見つからない。

 そうこうしている内に3,4メートル離れたブロックの壁際にうずくまっていた。

 捕まえようとするが、やっこさん、野生動物そのままにひっくり返って四足の爪を立て、寄らば引っ掻くぞ、噛み付くぞという構え。

 雨脚はどんどん強くなる。

 意を決して右手を噛ませて、左手で首根っこを捕まえた。やれやれ・・・。

 家に持ち帰り、とりあえず大きな紙袋に入れた。22531neko_002  ようやく少し落ち着いたようだ。で、煮干をやったのだが食べようとしない。22531neko_001  カメラを近づけていくと「シャー」と歯を剥く。22531neko_006  それ以上近づくな!飛びかかってやるぞ!シャー!

 いったいどうしたらいいんだろうね。

 

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横瀬古墳(曽於郡大崎町)

 大崎町にある「横瀬古墳」は鹿児島県下でもその優美な姿で知られている。

 全長は正味が118メートル、周濠も含めれば148メートルを数える有数の古墳である。22528yokosekofun_017  古墳の西側200メートルくらい離れた田んぼから見た全景。左が後円部、右の樹林のあるのが前方部。22528yokosekofun_002 南に回って眺めた前方部。墳丘の左手には赤い鳥居がかすかに見える。また右端に見えるのは焼酎メーカーの「新平酒造」の工場。土地の人は「しんぴら酒造」と呼んでいる。22528yokosekofun_018  左手に見えた赤い鳥居。「加茂神社」の入り口。22528yokosekofun_005  鳥居からまっすぐ30メートルほどの所に石の祠がある。祠自体に刻字はない。造られたのはそう古くないようだ。22528yokosekofun_006  祠の左手から前方部に登る。比高にして8メートルくらいだ。頂上には何もないが、周りには自然植生がこんもりしている。22528yokosekofun_008  前方部からくびれ部分を通って後円部に上がると何にもないのだが、少しへこんだ部分があり、竪穴石室の蓋だったらしい一枚の石が顔をのぞかせていた。(石の向こうに見えるのは新平酒造工場)22528yokosekofun_010  後円部から前方部の右手(西側)を振り返る。コンクリート造りの建物は「大崎町立大丸保育園」。写真ではよく判らないが、古墳のスロープは二段になっている。22528yokosekofun_013  北西に延びる道路から見た後円部。白い看板は「史跡 横瀬古墳」案内板。そのすぐ後ろの左手に昭和38年に建てられた古墳の石碑が見える。

 説明によると、後円部の頂上の竪穴石室には「鉄製の鎧、剣」などがあったという。近年の調査では周濠が確認され、墳丘の上には埴輪が並べられていたという。また、「伽耶式土器」も発見されており、この古墳の主と大和王権、伽耶王権との関係やいかにという課題が生じている。

 私見では、前方部下の加茂神社の存在を看過しえず、この古墳の主は「加茂(鴨)」系ではないだろうかとの疑いを持つ。

 もし加茂神社との関係ありとしたら、この古墳の主は加茂族の一員であり、『山城風土記逸文』に登場する「カモタケツヌミ」との関係を思わざるを得ない。

 ・カモタケツヌミの素性についてはhttp://kamodoku.dee.cc/tousensetuwa1.htmlを参照。

鹿児島の巨大古墳は志布志湾を囲むように、北から「飯盛山古墳」「神領古墳群」「横瀬古墳」「岡崎古墳群」「唐仁古墳群」「塚崎古墳群」と点在しているが、その古墳主はいずれも分かっていない。

 ただ、古墳群の近くには神社が同じように点在しており、その関連性が考えられる。

  飯盛山古墳(志布志市夏井)・・・神社は不明。

  神領古墳群(大崎町神領)・・・・都万神社(祭神:コノハナサクヤヒメとコトシロヌシ

  横瀬古墳(大崎町エザイ町)・・・加茂神社(祭神:カモタケツヌミ

  岡崎古墳群(鹿屋市串良町岡崎)・・・事代主神社(祭神:コトシロヌシ

  唐仁古墳群(東串良町新川西)・・・大塚神社(祭神:オオナムチ

  塚崎古墳群(肝付町塚崎)・・・大塚神社(祭神:唐仁の大塚神社祭神オオナムチの母神という伝承がある)

 飯盛山古墳については不明だが、あとの太字の祭神は、カモタケツヌミ以外はいわゆる出雲神話に登場する出雲系の神々だが、『先代旧事本紀』によると「鴨族」と「出雲族」とは非常に近い関係にあることが分かっている。

 南九州土着の鴨族はコトシロヌシ同様「海洋的な種族」であり、志布志湾岸にコトシロヌシが多く祭られているのは、鴨族と出雲族の海洋的なすなわち海につながる親縁関係を表明していると見たい。

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懐かしき友たち(真鶴温泉と三島)②

 明けて5月3日は三嶋大社と、清流で有名な柿田川湧水池を訪れることに決め,静岡県の三島市へ行った。

 

 「三嶋大社」は伊豆国の一宮で、祭神は「大山祇命」と「事代主命」で、前者は山の神、後者は航海(水先案内)の神である。

 黒潮ルートでつながった南海(紀伊・土佐・大隅・南西諸島)の航海・漁労民の崇敬する大社であり、東海道最大・最古の神社とされる。

 伊豆の蛭ヶ小島に流された源頼朝が源氏再興の祈願をしたお宮としても知られている。2253mishima_001  大社入り口では「福太郎」というヨモギ餅を売っていた。名前には惹かれたものの素通り。 2253mishima_006  境内に入るとど真ん中に立派な建物が・・・。これは「舞殿」である。この向こうに拝殿・本殿がある。2253mishima_008  舞殿の奥に舞殿をはるかにしのぐ巨大な拝殿があった。かなりの参拝客とともに祈る。

 また、境内入り口近くには大きな池があり、池の中の島に鮮やかな朱色の神社が見えた。2253mishima_003  大宰府の天満宮にも境内の中に池があったが、ここのは富士山からの湧水があるため規模が大きい。2253mishima_004_2  朱塗りの橋を渡った島の中に「厳島神社」が鮮やかに建っていた。

 三嶋大社を参拝した後、名水として著名な「柿田川湧水群」を訪れる。

 国道1号線沿いの道路脇から伏流水が湧き上がり、いきなり川が始まっているのには驚いた。もう少し山沿いの人家を離れた所にあると思っていたのだ。

 国道から少し下った所に駐車場があり、そこから標高差にして10メートルも下ると小規模の湧水があり、さらに行くと第二展望所、そして最も規模の大きい第一展望所に進む。2253mishima_013_2  この写真の提供者Y君が覗く足元、4~5㍍下の湧水は規模が大きい。2253mishima_012_2  湧水がエメラルド色に輝いている。2253mishima_015_2 展望所からはあちこちから湧き出す光景を見ることができる。2253mishima_011_2  こんな湧水がいったいいくつあるのか不明だが、湧水点からわずか100メートル程度しか離れていない柿田川は、もう幅が4,50㍍はあろうかという豊かな流れになっている。

 この清流はもちろん富士山の恵みで、富士の雪解けの伏流がここの岩盤にさえぎられて地上に吹き上げて出てくるという。その量は1日数万トンで、三島市の上水道をまかない、さらに東海道新幹線にも供給されているそうだ。

 清流に心を洗われたあと、遅い昼食を食べに沼津に向かうと、車窓にまだたっぷりと雪を戴いた富士が現れた。2253mishima_016

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懐かしき友たち(真鶴温泉と三島)①

 還暦を迎えた東京の高校時代の友人4人とともに、旧交を温めようと神奈川県の真鶴温泉へ出かけた。昭和24年・25年生まれの「団塊世代」である。2252manazuruonsen_019  旅館は真鶴駅から海に向かって下った途中にあった。

 (玄関口で。右よりO、S、I、Yの4君。今度の旅行の手配と車はS君による。また、鹿児島に帰ってから編集しようとして失くしてしまったデジカメの画像の代わりを届けてくれたのは、Y君。この画像はじめ旅行記に使う画像はすべてY君の提供による。感謝、感謝。。。)

 さて、旅館名「きどぐち」は珍しい。そう思って宿の人に聞くと、この山手にあった「真鶴城」の城の入り口なので「城戸口」だそうだ。なるほど、そう言えばあたりには石垣が多い。下の海辺は「福浦港」で、そこまでだんだら坂を下って行く。

 途中に寺院がある。「曹洞宗 醍醐院」という寺で、武士の信仰した宗派だ。2252manazuruonsen_012  境内はきれいに積まれた石垣の上にあり、狭いながらも本堂は立派なもの。

 その隣りにあるのが「子之神社」(ねのじんじゃ)で、これも石垣と石段の上にある。2252manazuruonsen_013  最初「このじんじゃ」と読んでしまったが、由来書きによれば十二支の最初の「子(ね)」のことだった。この真鶴の福浦地区が開けた最初の場所、というような伝承でそう名付けられたらしい。2252manazuruonsen_014  子之神社拝殿。かやぶきの拝殿は珍しい。歴史を感じさせる雰囲気が漂う。軒下の透かし彫りなどは優れている。2252manazuruonsen_008  夕べ若干飲み過ぎたか、透明な波が揺れて見えた朝の福浦港。お土産は特産のイワシ・アジ・カマスなどの干物と決め、発泡スチロールの箱に氷を詰めてもらった。2252manazuruonsen_020

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花菖蒲(鹿屋市吾平町玉泉寺公園)

南北朝時代の直後の応永年間の初め(1395年ごろ)に開かれたという「玉泉寺」の跡地は現在、1ヘクタール足らずの公園として整備されているが、最近、ようやく花菖蒲が見頃になった。22519hanashoubu1  例年より花数は少ないようだが、梅雨の入りのようなどんよりした天候の下、豊かな花弁(実際はガクだが・・・)が風にゆれ、合唱曲を奏でているようだった。22519hanashoubu2

 今度の土・日あたり、梅雨に入りそうな予感がする。

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おおすみ歴史講座の開講

平成22年度『おおすみ歴史講座』の第一回がつい先ほど終わった。

 平成21年度に続き、今年一年は大隅半島の北部を中心に学んでいく。

 北部とは現在の志布志市、曽於市、垂水市などが該当する地域だ。

 今日はそのうちの志布志郷を対象とした。志布志郷は現在の志布志市とほぼ重なる広い範囲で、種本の『三国名勝図会』の青潮社版では実に78ページにわたって記述のある大郷である。

 今日はその3分の1程度しかカバーできなかったので、来月、来々月の3回に分けて学んでいくことになった。

 志布志湾と言えば、真ん中に「ビロウ島」が浮かぶが、その名の由来となった「蒲葵(びろう)」は奈良時代からその葉が珍重され、延喜式の記述にも「蒲葵の扇」や「蒲葵の御車」などが表れているが、その材料となった「蒲葵の葉」はすべてこの「ビロウ島」の産だそうである。22516sibusigou  ビロウはヤシ科で、元来熱帯の海洋性植物であり、アブラヤシなどのように高木でその大きな実が大変有用な植物なのだが、亜熱帯の志布志湾では高木にはならず、せいぜい5,6㍍の高さにしか成長しない。大きな実をつけない代わりにその葉が有効利用され、奈良時代より「扇」をはじめとして「丸笠」や「牛車の日除け窓(蔀=しとみ)」などに使われた。

 志布志の土産(名物)としては最古に属する、と『三国名勝図会』では高く評価されている。

 『三国名勝図会』から学ぶ「おおすみ歴史講座」の第2回は、6月13日(日)。無料なので、興味ある方は自由に参加されるとよい。

   参考までに大隅史談会のホームページ

       「鴨着く島 おおすみ」 http://kamodoku.dee.cc/

      

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もうコスモスが・・・

ここ二日、ようやく「五月晴れ」といえる好天に恵まれている。

 いつものように6時半の体操をし、ビータローに餌をやり、このところめっきり「老い食い感」を漂わせながら食する後ろ姿を眺めていた。22513kosumosu_001

 と、朝日に当たって輝く所、人目を覚ますような紅色が視界に入った。つい昨日までは気がつかなかったのだが、昨日・今日の好天で一気につぼみを開いたのだろう。

 何と、コスモスではないか。それもかなりの濃色である。22513kosumosu_004_2 驚いた。初夏のこの時期に咲くなんて見たことがない。庭の一番低い「排水溜まり」の中に咲いているのだ。その隣には背丈の低いピンク色のも咲いていた。22513kosumosu_003 まるで「ミニコスモス」。22513kosumosu_002  だが、小さいながらも、コスモス特有の花びらの先の切れ込みがしっかりと入っている。去年のこぼれダネに違いない。

 逆に、例年なら、この時期に第一花が見事に咲き揃うたくさんの「サフランもどき」だが、やっと二株が咲いているのを見つけた。22513kosumosu_005  「五月晴れ」といっても例年とは違って空の青さがないうえ、気温も低目だ。

 コスモスは早くも秋の気配を感じ取っているのかもしれない。冷害が心配になってくる。そういえばここ2~3週間、カライモ(さつまいも)の植え付けが急ピッチで行われているが、植え付け後の成長がいまひとつ鈍いのが気になる。

 平成5年の冷夏・多雨・台風の当たり年、のようにならなければよいが・・・。

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懐かしき友たち(東京と横浜)②

横浜のテッチャン宅に泊めてもらった翌日の5月1日。

 今日は赤羽の実家に宿泊し、翌日・翌々日の高校時代の同期生4人との真鶴温泉行きに備える予定だと言うと、赤羽まで一緒に行こうとなった。二人とも赤羽には兄夫婦が住んでいる。

 途中たっぷり時間があるので、生麦事件があった場所を見ておきたいと伝えたところ快諾。むりやりテッチャンを付き合わせてしまった。

「横浜に住んでいても、耳にしているだけで、実際にはどこにあるかわからないから、いい機会だよ」―いつもこんなふうに前向きに捉えてくれる人なのでありがたい。

 結構な荷物を引きずりながらの電車の乗り換えは、とてもじゃないが御のぼりさんの自分には無理で、テッチャンのおかげですんなりと目的地「生麦事件之跡」に着くことができた。Namamugijikenhi 京浜急行の生麦駅から東南に200㍍余り行くと「キリンビール横浜工場」に突き当たる。そこが旧東海道で、文久2年(1862)の旧8月、江戸で幕政改革への直言を申し入れてそれなりの成果を得た島津久光の一行約400人の行列がそこにさしかかった。

 折りしもその行列の脇から現れたのが、英国商人リチャードソン一行4人の騎馬姿。馬から下りて道の脇で頭を垂れつつ、大名行列をやり過ごせば事件は起こらなかったが、そんなことはできぬとばかり、行列の前に立ちはだかった格好になった。

 そこを見咎めたのが剣術では名うての、奈良原喜左衛門と海江田武次ふたりの供頭(ともがしら)で、たちまちリチャードソンに斬りかかる。しかし一刀では絶命せず、西に逃げ延びて行ったが、ついに写真の所までやって来て落馬し、動けなくなったところを海江田がとどめを刺した、という。(その他の男二人は重傷、女一人は無傷)

 この事件は翌年の文久3年(1863)8月に起きた「薩英戦争」の発端となった。そして「薩英戦争」により薩摩側は「西洋の武力とその底にある西洋近代文明」の大きさに目覚め、それまで支配的だった「公武合体政権の樹立」くらいでは到底西洋に太刀打ちできない、と悟らされたのであった。

 それ以後、薩摩藩は巨大な幕藩体制そのものをひっくり返す、いわゆる維新へと突っ走ることになる。

 明治維新という大きなうねりの前では小さな事件であったが、倒幕という深層雪崩のきっかけとなった記念すべき表層雪崩なのである。

(旧東海道に沿って数百メートルの長さで、キリンビール横浜工場が続くが、写真後ろには「見学コース」の入り口があり、予約なしではと危ぶまれたが、まあ遠路はるばる来たのだからと、ちゃっかり見学者の群れに入り、出来立てのビールを試飲させてもらったdelicious

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懐かしき友たち(東京と横浜)①

4月30日から5月4日まで、同窓・同期の友人たちと会ってきた。還暦の節目を迎えたので近況報告がてらの再会であった。

 4月30日はJAL便で羽田へ。そこに中学校時代の親友が待っていてくれた。通称「フカ」、愛称「テッチャン」である。彼とは中学2年のときに同じ学級になっただけだが、その頃から始まった近郊ハイキングの仲間として、大学入学後の東北山行に到るまで、10数回は一緒にハイキングに行っている。

 某生命保険会社に勤めた後、関連会社に移り、去年、無事に定年退職。その後はホームセンターのパソコンを使う事務職として再就職し、ゆったりとした生活を送っている。

 中学校の時に始まったハイキングの最初の頃の写真があったと、テッチャンは自分のアルバムから20枚ほどの写真をCDに取り込んで贈ってくれた。

 その中の一枚・・・Album03  左がテッチャン。中学3年の頃だ。

 あれから45年か・・・・・。

 4月30日の夕方、もう一人の中学時代の友人と丸の内近くの居酒屋で交歓し、その日はこのテッチャンの横浜の家に泊めてもらった。

 夜の団欒で、彼が「マッチャンちは両親が先生なのでうらやましかった」と言うのには驚いた。その当時そんなこと聞いたことがなかったからだ。その理由は、先生なら教育熱心で判らないところを教えてもらえる、というようなことだった。

 ところがこっちは布団屋をやっている彼の家のほうがうらやましかったのだ。

 先生の子供だと成績がよくて当たり前、品行方正で当たり前なので、実は学校時代がつまらないことおびただしい。それに商店の子はいつも両親が傍にいてくれていいじゃないか―と言うと、即座に否定して、「僕んちの親なんて商売だけで教養がなかったから・・・」

 誰も親の仕事だの教養だのに文句はつけられない。ただ、親としてほかの誰よりも我が子に多く接し、心の根っ子を深く張らせることができる。そうすれば子供の精神・情緒は安定し、それを基に他人や社会につながって行くのだと思う・・・。

 45年も経って、こんな話をするとは思いも寄らなかった。あの頃何でもよく話し合ったと思っていたのだが、話せないことって、やはりそれなりにあるものなんだなあ。

 でも、お互いに本音が聴けてよかったよ。わが旧き良き友よ。Joushoujimonzen 二人に共通の最寄りの駅「赤羽駅」に向かう途中にある「静勝寺(じょうしょうじ)」の門の前で(5月1日午後)。

 ここは旧江戸城主・太田道灌の木像がある寺。徳川氏が入部した後、旧江戸城から「静勝軒(じょうしょうけん)」が移築されたため、静勝寺と名付けられたという。

 

 

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