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吾平町の花火大会(鹿屋市吾平町)

 口蹄疫流行による厳戒態勢が夏の行事にも影響を与え、鹿屋市ではさまざまなイベントが中止に追い込まれた。

 そんな中で、吾平町の花火大会がいつもより遅れて今日(8月28日)催された。

 8時少し前に吾平町に入り、「中央線」と呼ばれる鹿屋ー吾平ー田代ー佐多を結ぶ県道にさしかかるともう道路沿いにかなりの車が並んでいた。県道から旧道に入った所で車を停め、歩道に出て見物することにした。22828airanohanabi_001  田んぼの向こうの土手が打ち上げ場所だった。22828airanohanabi_008  土手までの距離は200㍍ほどで、見るにはちょうどよい距離だ。

 連発花火の左手に見える工場。あれは焼酎メーカー「小鹿酒造」の建物だ。22828airanohanabi_002  遠くで聞こえる花火会場のアナウンスのほかに、道路ではパトカーが走り回って路上駐車の車両に「車をどかしてください」を連呼して通過する。22828airanohanabi_003  自分が眺めているすぐ横に軽自動車が斜めに入り、花火を眺め始めたが、5,6分後に通りかかったパトカーに注意され、あわてて走り去った。22828airanohanabi_005  二色が合体したような花火は珍しい。22828airanohanabi_007  中が赤い二重花火。22828airanohanabi_011  ブルーの花火。22828airanohanabi_009  500連発で二つ、三つの花火が重なり合うのも趣がある。最後近くに直径が100㍍もあるような巨大花火が打ち上げられた。 22828airanohanabi_012_3

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ウミガメの放流②(鹿屋市浜田町)

 仕事で浜田海岸に立ち寄ったところ、海水浴場の管理人から夕方の6時頃にウミガメの放流があると聞いた。

 仕事を終えて真直ぐ浜田海水浴場に到着すると、孵化したばかりのウミガメの赤ちゃんを乗せた軽トラックが停まっていたので、荷台を覗くといたいた二つの青い盥の中にもじゃもじゃと泳いでいる。22823hamadaumigame_002  手にとって見せてもらうと22823hamadaumigame_001 体長は6~7センチの立派なウミガメだ。22823hamadaumigame_003 黒松の生えた海岸の上で「ウミガメ放流式」が行われた。22823hamadaumigame_005 式が終わると下の海岸に下り、子供たちが一匹ずつ手にして海に送る。わあ、元気がいい!22823hamadaumigame_006  そら、もう少しで海だよ!22823hamadaumigame_007  もうみんな海に行っちゃった。大きくなって戻ってくるのかなあ。

 浜田小学校のウミガメ孵化場では先週の金曜日に48匹。そして今朝、96匹が孵化したのだそうだ。今日孵化した分は、6月26日にこの浜田海岸で採取した128個だという。孵化率は約80パーセント。

 今年は浜田海岸で3回、高須海岸で1回、ウミガメが産卵した。その数は合計で500個ほどになる。80パーセントとして400匹が無事孵化して海に帰ったことになる。しかし、無事に成長して大人になるのは4~5千匹に一頭くらいというから大変なことだ。

 自然界の掟は厳しい。

 

 

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ビータローの死

 我が家の老犬ビータローがついに息を引き取った。今日8月21日朝の9時半頃だったようだ。

 6時半頃にいつもの体操をしてからビータローの様子を見たときは、少し早いがまだ普通に呼吸をしていた。少量の便が出ていたのでアルコール除菌タオルで拭き取り、尻やら腰の辺りまでぬぐい、身体の向きを反対にしてやった。

 もう食は受け付けなくなっていたので、水だけを手移しでコップ半分くらい与えてから家に戻った。

 先々週の日曜日(8日)に催した『おおすみ歴史講座』の内容をホームページに書き込んでいると、夜勤から帰宅した娘が「ビータロー死んでない?」というので急いで行くと、確かに呼吸が止まっていた。

 ついに逝ったかビータロー!!

 今月の5日ごろ、最後の「洗濯」をし、それから少し持ち直したかに見えたが、10日前から見る見る食欲が落ち、この1週間は小皿に一杯くらいの量になっていたのだった。

 死はもう時間の問題になっていた。13日、14日、15日と三日間、指宿に義父の初盆に行って来たのだが、その間に死んでいたらどうしよう、可哀相だな、などと言っていたが、それは何とか遣り過ごしてくれた。そして今日・・・。

 17年の間、我が家の守りに癒しに役に立ってくれてありがとうよ、ビータロー。

22821bitarounoshi001_2 2008年6月に写したビータロー。

 庭の花壇の真ん中にビータローは眠った。

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夏空(鹿屋市新栄町)

 朝から快晴で、久しぶりに夏空が堪能できた。

 暑いことは暑い。しかし今日、東京で37℃を超えたというが、そこまでの暑さにはならない。どんなに暑くても、せいぜい34℃が最高気温だ。それは四面海に囲まれている沖縄が33℃位しか上がらないのと同じ理由、つまり、海の水の蒸発(気化熱)が周囲の温度を奪ってくれているのである。海に感謝の毎日・・・合掌。

 もう残暑に入っているが、今日は青いきれいな空を望むことができた。22818natsunokumo004  昼頃、頭のてっぺんに弱いながらも入道雲を見つけた。22818natsunokumo001  鹿屋中央公園の武道館の上にも同じような入道雲。22818natsunokumo003  武道館の西空にもむくむくと雲が湧き上がっている。22818natsunokumo002  鹿屋市役所6階から南西方向を望む。こちらも小規模だが入道雲が発生している。

 案の定、入道雲の発生した地域では、このあと2~3時間して局地的に夕立らしきものが降り注いだ。

 真っ青な空に、真っ白な入道雲――夏の象徴だが、もう、そう長くは続かないだろう。

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ウミガメの放流(鹿屋市高須町)

 今年もウミガメの赤ちゃんの放流時期がやってきた。

 今日の午後6時半、高須海水浴場では、近くの高須小学校のウミガメ孵化場で孵化したウミガメが放流された。22812takasuumigame001  夕暮れの高須海水浴場には多くの住民が集まっていた。ウミガメの赤ちゃんが放流されるところだ。22812takasuumigame002  それ行け、ウミガメの赤ちゃん。22812takasuumigame003  海はそっちだよ。22812takasuumigame004  元気でね。きっと帰って来るんだよ!22812takasuumigame005  はーい、イッテキマース!!

 今回放流されたのは107匹。6月6日にこの海岸に上陸したアカウミガメの産んだ130個の卵を採取し、すぐ近くの高須小学校の孵化場で孵したものだそうだ。

 6月6日を皮切りに、隣の浜田海水浴場でも3頭のアカウミガメが上陸して100個単位の卵を産んでいる。旧盆明けには2回目の放流があるはず。

 ウミガメの産卵と言えば屋久島が有名だが、鹿児島湾でもこのような光景が毎年夏に見ることができる。豊かな海なのだ。

 

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65年目の長崎

 8月9日の長崎平和記念式典に、広島には初参列した米・英・仏代表のうち米代表が来なかったということで、被爆者が憤っているというニュースが流れた。

 せっかく「原子爆弾使用の責任」を認め、広島市民の前には姿を現したのに、同じことをした長崎へはそうしなかったわけで、これでは片手落ちだろう。長崎市や被爆者の憤慨は当然のことだ。

 アメリカ側の日程の調整がつかずに参列を見送った――というのが理由らしいが、全くのウソだ。というのも、8月9日という日程はとうの昔から動かない日付であり、これに合わせられない訳はないからである。本当にルース駐日大使に予定があり参列できないとしても、代理などいくらもいたはずだ。

 実はアメリカが長崎には行きたくない理由がある。

 それは長崎が日本でもまれなほどキリスト教徒や教会の多い土地柄であったことと関係している。観光スポットにもなっている浦上天主堂はじめ、長崎には古いキリスト教施設が数多くある。

 その当の浦上天主堂は、原爆投下で見るも無残な姿になり(ちょうど広島の産業奨励館=原爆ドームのように)、長崎市としてはそのままの姿で残し、原爆の恐ろしさを後世に伝えようとしたのだが、アメリカ側の圧力で昭和33年、ついに取り壊され新しく建てかえられた。

 その圧力の理由は「キリスト教徒の国アメリカが、同じキリスト教徒に対してあんなことをしてしまったのはちとまずかった。その証拠は消しておこう」というものである。

 (このことは勝手に書いているのではない。ちょうど1年前の8月15日のブログhttp://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-6120.htmlですでに紹介しているが、テレビ朝日の報道にあったことである。参照されたし。)

 

 広島のようにさしたるキリスト教施設も、さほどキリスト教徒もいなかったようなバーバリアン(異教徒)の地への残虐行為(原爆投下)は非難されることへの痛痒を感じないが、同教徒の多い長崎への残虐行為は「非難されたら、言い返しようがない」ので、参加をためらったというのが真相であろう。

 現代にも続く「宗教への傾斜」、逆から言えば「異教徒への憎しみ」が垣間見える現象だ。アメリカがイラクに対して容赦なく劣化ウラン弾を使用したのも、イラクがイスラム教というバーバリアンの国であるからにちがいない。

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65年目の広島

 今年は広島・長崎に原爆が投下され、大惨劇が起きて65年目。

 8月6日は昨年4月にアメリカ大統領オバマがプラハで「核廃絶」を訴えた成果が形となり、記念すべき戦没者慰霊の平和祈念式典となった。

 アメリカの政府代表・ルース駐日大使ほか、旧連合国の重鎮であるイギリスとフランスも参列者を送ってきた。式典ではアメリカ代表の挨拶も、もちろん「謝罪」もなかったが、実質上はオバマ大統領の言う「核使用の道義的責任」、ひいては広島・長崎への謝罪を内外に表明したといっていい。

 アメリカなどでは「広島・長崎への原爆投下は、戦争終結を早め、犠牲者を極力減らすための止むを得ない使用」という論法で正当化しているのだが、それが誤りであることは明らかだ。

 原爆搭載機エノラ・ゲイの乗員や家族、それに保守系の政治家は政府代表を参列させたことを非難しているようだが、彼らは日本の一般国民(非戦闘員)が住民のほとんどを占めている都市に対して原爆を落とすという非道かつ戦時国際法違反をあえて敢行した罪の大きさを感じないよう、国を挙げてそういった非道隠しのキャンペーンを行ってきたその援護に乗っかっているだけの話である。

 原爆を落として日本の抗戦能力をそぐというのであれば、広島だったら呉海軍基地、長崎だったら佐世保海軍基地などの軍事基地に落とせばよかったのだ。それをせず、あえて商業や文教・病院など一般住民密集地域を狙って落としたのは、戦史上、まれに見る残虐行為にほかならない。

 日本人は戦後、日本が勝手に、しないでもいい戦争をおっぱじめ、その結果、負けると分かっている超大国アメリカへ挑戦し、惨憺たる敗戦を喫した。その流れの中で最終的に原爆をお見舞いされることになってしまったが、もともと悪いのは日本の方だから仕方がない、という太平洋戦争観を教育されてきた(自分もほぼそのように習ってきた)。

 しかしイギリスの歴史学者トインビーの言葉を借りれば、あの戦争は「文明と文明との衝突」であって、ある意味で避けて通れないものだったのだ。

 アフリカを分割支配してローマ文明時代の「奴隷制度」を復活させ、大量のアフリカ人を商品としてアメリカに送り込み、中国へはアヘンを売り、インドからは綿花を仕入れ・・・・・という悪名高き交易をほしいがままにしてきたのは、イギリスを中心とする「西欧列強」であった。

 そのような戦前、西洋に属さない有色人種で、独立し、かつ西欧と肩を並べるところまで到達したのは日本だけである。日本は欧米によって分割され植民地化された多くのアジア・アフリカ人種の希望の星であった。

 そのような戦前の歴史を学ぶと、日本は決して悪いのではない、ただ戦争に負けただけだ。戦後、アジア・アフリカ諸国が次々に欧米からの独立を果たしたが、それは日本が身を賭して欧米列強に挑戦したことが大きな後押しとなっている。

 今回、アジアのノーベル平和賞と言われる「マグサイサイ賞」(フィリピン国が主催)が広島市長に贈られたが、そのことはアジア・アフリカ諸国が日本をどう見ているか、ひとつの証拠になろう。日本は決して悪かったわけではない。

 マグサイサイ賞を発行したフィリピンには、アジア最大の米軍基地「スービック海軍基地」と「クラーク空軍基地」があったが、2046年までアメリカ軍が使用する契約があったにもかかわらず、契約を打ち切り、アメリカに返還させている。沖縄を始めとする多数の米軍基地を置かれている日本も他山の石とすべきだろう。

 日本から米軍基地が無くなったら、すぐに中国や北朝鮮、ロシアなどの挑戦を受け、日本はやがて極東の火種になるだろう、というような論法で、日米同盟とそれに基く地位協定の死守を訴える向きもあるが、もしそんなことになったら今の世界においてどちらが非道かはすぐに明らかになり、国際社会が許さないであろうから、心配する必要は無い。

 それより、自分の国はあくまで自分たちの手で守る、という強烈な信念を国際社会に向けてアピールしておくことこそ、情報化社会の現代においては重要である。

 

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還暦記念・富士登山③

 7月30日早朝、というより夜中の2時過ぎ、山小屋の屋根や壁を打つ雨の音が消え、風の音だけになっていた。

 隣で寝ていたテッチャンが、トイレに起きたところ、空に星がちらほら見え、はるか下方には町の明かりらしきものが望まれたと言ってきた。

――しめた、これなら山頂まで行ける!

 そう思って寝袋から出て、いつでも出発できるように準備。往復して戻って来るだけだから、ザックは不要だ。昨日の雨でずぶ濡れになり、中の衣類もビニール袋に入れておいた下着以外は、みな湿っているのでかなり重くなっていた(最初の倍くらいか)から、空身なら楽に登頂できそうだ、とワクワクしながら再び寝袋に入り、十分に身体を温めておく。

 しかし、そのうちまた小屋の屋根に雨の音が聞こえ始める。一時するとまた止む。こんなことを繰り返しているうちに時刻は3時を回った。行くのか行かないのか?

 しびれを切らして寝袋から出、下の広間に降りたところ、ガイドがいたので聞いてみる。

 ガイド 「中止です。山頂までは無理と判断しました」

 ――ええっ!なんでだよ!

 「降っていないのに・・・?」

 ガイド 「たまたま今だけですよ。暗いうえに、山頂の風はかなり強いですからね」

 ツアーではガイドの権限は絶対だ。自分だけは登頂できると主張しても、許されることではない。

 ガイド 「ここからでも御来光は見えるかもしれませんよ」

 ――別に、御来光が見たくて富士山に登ったわけではない。山頂に行きたいのだ・・・。

 と心中で叫びつつ、再び上に上がり、寝袋に横になる。アぁ!22729fujitozan_023_2  午前6時半、小屋を出て下山に入る。22729fujitozan_025_2  トモエ館の隣の「江戸屋」山荘の間から山頂へのルートが通じている。そこからは「富士浅間大社」の境内に入るらしい。

 そこを恨めしく下って行く。22729fujitozan_027_2 下山開始30分後、雨は上がり、晴れ間が見えてきた。22729fujitozan_030_2 下り始めて90分。すっかり明るくなり、赤茶けた火山灰の道を下る。22729fujitozan_032_5  約1000メートル下った6合目から山頂方面を望む。快晴の富士山だ。何てこった!22729fujitozan_034_2  新5合目にある「小御嶽神社」。このあたり中国人旅行者が多い。神社が珍しいのだろう、盛んにカメラを向けていた。22729fujitozan_036  小御嶽神社の境内から山頂があざやかに望まれた。手前の集団も中国人。

 8合目の小屋から早朝に山頂までの往復は可能だったが、今回は集団で行ったため果たすことができなかった。それは残念至極だが、3000メートルを越えたあたりから軽い高山病が出たことはいい教訓になった。

 今度行くときは、それに十分気を付けながら登頂を果たしたいものだ。

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還暦記念・富士登山②

 7月28日夜は横浜のテッチャン家に投宿。

 29日は明けやらぬうちに起き出して、5時半に出発。あいにく小雨が降ってきた。相鉄の星川駅から横浜西口へ。

 横浜からのツアー客を乗せたバスはやや定刻を遅れ、新宿西口に着き、いよいよ富士スバルライン新5合目行きバスに乗り込む。

 中央高速道から河口湖を過ぎたあたりから、雨は本降りとなる。新5合目に到着したが、雨足は一向に衰えないまま。

 ここで前夜、相鉄ジョイナスで飲んだS君から連絡が入る。「近くまで来たが登るのは無理だろうから、止めておく」とのこと。S君はツアーではなく、個人で合流することになっていた。

・・・ガイドから中止するとは聞いておらず、7合目の山小屋くらいまでは登り、その後天候を見て8合目まで行くか、7合目で宿泊するか判断すると思うので、とにかく登ってみる―――。

 と、返答。(S君はその後、わざわざ新5合目までやって来て見送ってくれた。感謝!)

 ともかくツアーは開始された。22729fujitozan_009  登山開始直前の新5合目の様子。11時ころ。右手に見える団体はわれわれの前に出発した集団。この集団は結局、8合目には行かず、7合目で宿泊することになった。ただし、そのうちの5人がわれわれの集団に加わり8合目まで行っている。22729fujitozan_010  小1時間で6合目に到着。降りしきる雨の中、ポンチョをかぶったテッチャンはまるで「遮光器土偶」のごとし。22729fujitozan_015  雨はいよいよ強くなり、風も出て来る中、2時間半ほどで7合目の山小屋「トモエ館」に着いた。ここでわれわれの25人集団から5人ばかりがリタイア。22729fujitozan_016  7合目からは風雨の中、ひたすら足元を見つめてのジグザグ登山。8合目が近くなると岩場が増えてくる。22729fujitozan_018  8合目の「白雲荘」前にて休憩。時刻は午後4時30分ころ。向かって右からの横殴りの雨が写っている。皆、顔に当たる雨と疲労でうつむいたままだ。

 この山小屋で標高は3200mくらい。空気も薄くなっている。歩くと自然と呼吸が早く、心臓もバクバクいって来た。

 宿泊地の本8合目にある「トモエ館本館」まで、まだ標高差は200mある。22729fujitozan_021  ほとんど岩場だけの急な登山道をひたすら歩く。5時20分、出発してからほぼ6時間。ようやく今日の目的地「本8合目」に到着。ここは標高3400m。頂上まであと350㍍ほどの地点だ。

 雨のため、身体もザックもずぶ濡れ状態。ようやくザックから解放されてホッとしていると、寒さが襲ってきた。気温は12,3度。

 小屋に入り、濡れていない衣類を引っ張り出して着込むが、それでも寒く、指定された寝袋にもぐりこみ、夕食時間まで身体を温める。頭が重い。高山病かと気をもむ。それでも吐き気はないし、むかつきも無い。

 夕食はカレーライスと一杯の茶のみ。もう少し飲みたかったが、山小屋は慢性的に水不足とかで、お替りはしなかった。22729fujitozan_019  トモエ館内に祀られている「銅佛釈迦如来像」。右の奉納額に「寛政六年」とある。西暦でいえば1794年だから200年以上前のことだ。背負って登ったに違いないから大変だったろう。信仰登山の全盛期だったかもしれない。

 登りながら「八大竜王、雨やめたまえ」とぶつぶつつぶやいていたが、「釈迦如来、雨晴らしたまえ」のほうがよかったか・・・。

 とにもかくにも明日未明の天気次第で、登頂か断念かが決まるのだ・・・・・・・。

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