« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

中共の横暴、露共の盗人も・・・。

 9月7日に起こった中国漁船の領海侵犯と、海上保安庁の巡視船への故意の衝突が日本の法律に則って裁かれるはずが、中国共産党の圧力で、ついに拿捕した船長を本国に帰すことになった。

 これは日本が中国共産党政府に対してに「治外法権」を認めたことになる。戦後外交における最大の失策だ。

 いったい日本政府(外務省)の外交は何でこんなに弱腰なのか!

 中国船に限らず、もし日本船や他の外国船が海上保安庁の巡視船にこんなことをしても、もう罪には問わないと言うことか!!阿呆!!

 中共はこれを好機として、次々に領海侵犯を仕掛けてくるだろう。

 あまり取り上げられていないが、北のロシアは北方領土を占拠しているどころか、今月の9月2日のミズーリ号における日本の太平洋戦争降伏調印の日を「戦勝記念日」と決めている。

 曰く、「北方領土を日本から解放した記念の日だ」そうだ。

 馬鹿くさくて話にもならないが、これに対して日米安全保障条約により日本を守るはずのアメリカが、ひとこともコメントしないのは不思議だ。

 いや、実は不思議でもなんでもない、第二次世界大戦中の米英ソ三国のヤルタ会談(1945年)で、アメリカのルーズベルトはスターリンに対して千島列島のソ連への帰属と、同じく南樺太のソ連への領土編入を認めたからだ。

 戦後、北方領土に対してアメリカが沈黙しているのは、このヤルタ協定がまだ生きているからなのである。日本にとって負の歴史でも、歴史とはそういうものなのだ。

 歴史をちゃんと踏まえていれば、尖閣諸島に対して日本政府は毅然として「尖閣諸島は明治以来、日本の領土だ。もし、侵犯したら攻撃も辞さない」とメッセージを送るべきだったのである。

 尖閣諸島に関しては「ヤルタ協定」も「カイロ宣言」も「ポツダム宣言」も関係なく、日本の領土であることは自明だ。

 もし中共が言うように「魚釣島は中国固有の領土」であるならば、なぜ中共は海軍を派遣して、領海を巡視している海上保安庁の船を攻撃し、「魚釣島」を占拠しないのだろうか? 

 それをしたら、日本が国連と国際裁判所に訴え出るだろう。そうしたら歴史的かつ実効支配的に見て日本の領土であることは間違いないことが世界に知れ渡り、中共の誤りが露呈されることになろう。

 中共それを重々承知で日本に対してだけ、汚い揺さぶりを仕掛けているのだ。

 ここは隠忍自重し、中共が次なる仕掛けを尖閣諸島にするまで待ち、仕掛けられたら国際裁判所に訴えでよう。正々堂々と戦おう。

| | コメント (0)

笠之原十五夜大綱引き(鹿屋市笠之原町)

 今年もやってきた笠之原の大綱引き。江戸時代中期に始まり300年が経つ。

 9月25日土曜日の夕方5時から、笠之原公園では十五夜大綱引きをメインとする秋祭りが行われた。天気もよいし、かなり涼しくなって来ている。祭りには絶好のコンディションだ。22925kasanoharaootunahiki001          市道からの入り口には、横断幕が張られ、公園に向かう路地には提灯が下げられている。22925kasanoharaootunahiki002       公園内に入ると、芝生の上にあの40センチの太さの大綱が、まるで蛇のようにトグロを巻いて鎮座していた。22925kasznoharaootunahiki003        午後5時ちょうど、そのトグロが解かれた。22925kasanoharaootunahiki004        何とトグロの中に人が二人入っていて、引き出しやすいようにアシストしていた。22925kasanoharaootunahiki006         一直線に伸ばされた綱を見ると、所々に葛のふとい幹がはみ出している。聞けば、綱を引くときの手掛かりだそうだ。なるほど。22925kasanoharaootunahiki007       引き伸ばされた大綱の隣では、ちびっこ相撲が行われている。22925kasanoharaootunahiki008        公園の端っこに、何とポニーが歩いていた。出演するのではないらしい。22925kasanoharaootunahiki010         午後7時過ぎ、笠之原公園の入り口。六月灯で使うような手作りの灯篭がぶら下がっている。22925kasanoharaootunahiki009         4トン車3台の荷台で間に合わせた舞台では、演芸が行われている。22925kasanoharaootunahiki011        午後7時、綱引きが始まるぞ!の声で綱引きが始まる。法螺貝も吹かれた。22925kasanoharaootunahiki013_2         さあ引け!頑張れ! わっしょい!22925kasanoharaootunahiki014_2

| | コメント (0)

大綱引きの準備(鹿屋市笠之原町)

 昨日の昼過ぎに伸び放題の庭の植木の枝落としをしたところ、汗をびっしょりかいたので、吾平町の「うがやの湯」で汗を流してきた。

 帰りがけに、25日の夕方に行われると聞いていた「笠之原大綱引き(十五夜行事)」の綱の準備の様子はどうかと思い、そっちに回ってみた。2292300tunanojunbi002   笠之原公園は広い。野球場が1面取れる広さだが、誰もいなかった。

 その代わり、4メートルはある巨大な鉄棒のような「大綱掛け」に、これまた巨大な綱が引っ掛かっていた。昨夜の雨を防ぐためだったのか、左手に延びる大綱は透明のビニールで覆われている。22923ootunanojunbi004  下に見える藁を綱に練りこんで行き、練り込みが終わると向こうに見えるパワーシャベルで徐々に引っ張っていくのだろう。何しろ直径40センチ以上の大綱だ。22923ootunanojunbi005  藁を練りこむ前の芯の部分。

 かなり太い葛の幹が心棒に使われている。それを萱や笹竹が取り巻く。22923ootunanojunbi_2  最後尾まで、まだ20メートルはたっぷりある。

 笠之原の十五夜行事「大綱引き」は25日(土)の夕方5時から。天気予報では雨の心配は無い。

| | コメント (0)

大姶良の山田地帯(鹿屋市大姶良町)

 鹿屋市の大姶良地区では実りの秋をすぐそこに控えている。好天の今日の午前中、出かけてみた。

 どの田んぼでも稲穂がたわわに稔り、緑から黄色に変わりつつある葉の間から、黄金色の穂が頭を垂れていた。収穫ももうすぐだろう。22919ooairanoyamada_001  鹿屋市から大姶良川の最上流部の瀬筒地区(大姶良西)の田んぼ。右手の山沿いを行く道路は瀬筒峠を越えると、錦江湾沿いに根占から佐多に到る。22919ooairanoyamada_002  瀬筒峠の手前を左手に、鹿屋市の南端の山の方面に入っていくと、集落に沿って細長い山田がどこまでも続く。(大姶良集落センターの高台から写す)22919ooairanoyamada_004  集落道を遡り、とある丘を越えると別の谷間に出る。ここも南山へのゆるい傾斜の山田が見渡す限り続く。22919ooairanoyamada_005  同じ山田の下流を見ると、おそらくこのあたりでは最初の稲刈りが行われていた。コンバインの運転手の上に取り付けられた日傘が可愛らしく動いていく。22919ooairanoyamada_007  またひとつの丘を越えて下流部に行く。右手の丘は獅子目城址。22919ooairanoyamada_008  池園町に到ると、大姶良地区の南山の水をすべて集めた幅15㍍ほどのゆったりとした流れとなる。

 普通作はどうやら台風や旱魃の影響も無く、豊作といっていい出来ばえのようだ。

 この辺りは、南山(横尾山系)からの谷川が幾筋も流れ下り、その細長い流域にたくさんの山田(谷地田)が古くから拓かれてきた。島津氏も、6代氏久・7代元久の親子がここを拠点として大隅の攻略を目指したことがあった由緒ある豊かな土地柄である。

 その様子は今日にもつながっている。ここをクリックし、航空写真で確認できる。

| | コメント (0)

曼珠沙華(まんじゅしゃげ=彼岸花/吾平町)

 今日、とある山里を走っていると、おう、彼岸花が咲いている―と車を停めてしばらく見入っていた。

 何と海紅豆(カイコウズ)の木の下に、わんさか生えていた。22914higanbana_003  民家の中ではなく、塀際の一本だけ生えているカイコウズの下に、まるで寄り添うように色とりどりの彼岸花が咲き始めている。22914higanbana_001  赤、クリーム、黄色の三色が陽だまりの中、我が世の春を謳歌するようにそれぞれの群落を作っている。22914higanbana_002  ヒガンバナ(曼珠沙華)は律儀な花である。毎年決まってあと10日くらいで秋の彼岸の入りだ、という頃に茎を伸ばし、いっせいに咲き始める。

 昔はヒガンバナと言えば赤(紅)と決まっていたものだが、最近は改良されて白、クリーム、黄色などの色違いが作られている。

 ご先祖様は眼を白黒、だが、喜んでいよう。

| | コメント (0)

市街地での米作り(鹿屋市札元町)

 夏も終わりに近いのだろう、朝夕がややしのぎやすくなってきた。

 そんな中、鹿屋市街地の田んぼが実りの秋を迎えつつある。場所は鹿屋バイパスにほど近い市道の脇だ。22910fudamotonotanbo_001  田んぼの向こうに見える「青山」や「はるやま」の巨大看板が立ち並んでいる所が鹿屋バイパス(現在は国道220号線。バイパスは地元での通称となった)。田んぼのすぐ右隣は自動車部品会社 。このあたりは事業所とアパート・マンションが半々といった市街地である。22910fudamotonotanbo_002_2  稲はすっかり稔り、重そうに頭を垂れる。スズメよけのネットで田んぼ全体がしっかり覆われているが、ずい分と厳重である。耕作者の熱意を感じる風景だ。

 それもそうだろう、ここは広大な約6000ヘクタール(=60平方キロ)と言われる「笠野原台地」のど真ん中で、昭和42年に高隈ダムが完成してこのシラス台地に水が引かれるまでは、米作りなど全く出来なかった地帯なのである。

 台地の上で米作りをしたい――というのが地元の切なる願いであったわけだが、皮肉なことに台地に水が引けた頃、「減反」という「米減らし政策」が始まった。22910fudamotonotanbo_004  (バイパスに出て少し東へ行くと、国道269号線との交差点だ。右折すれば鹿屋中心部へは2キロほど)

 あれから40年、元来、水の無い不毛のシラス台地の上、しかもこのような市街地での米作りは、もはや高尚な趣味の部類に入ると言っていいのかもしれない。子供たち、いや大人に対しても大いなる教育効果がありそう。長く続けて欲しいものだ。

| | コメント (0)

虹とモモ

 今朝6時過ぎに居間に行き、そろそろ庭に下りて体操でも始めようかと思っていると、

 「お父さん、虹が出ている!」

 との声。

 猫(モモ)を居間から庭に放そうとしてガラス戸を開けた家内の声だった。

 ほう、こんな朝早く、虹がねえ――といくらか半信半疑で居間から覗くと、確かに!!

 急いデジカメを取りに走り、玄関から庭へ。22907nijitomomo_005  隣の家の車庫の上からアマチュア無線塔にかけて見事な虹が出ていた!

 ようやく陽が上がったばかりというのに・・・。22907nijitomomo_006  庭の端から眺めると、どうやら南西方向の大姶良川のあたりから立ち昇っているようだ。

 最近では虹は久しぶりだが、こんな朝早くに見たのは初めてかもしれない。夜半の雨の影響であることは間違いないと思うが・・・。

 家に入ろうと、庭木を見ると、何jとモモが・・・。22907nijitomomo_001  庭木の「花桃」の木に登っていた。22907nijitomomo_003  元気だなあ、モモ!22907nijitomomo_004  あたいも虹を見たいニャァ!

 そうかい、ただし、6時に出ても「ニジ」って言うんだよ、覚えておきなモモ。

| | コメント (0)

象嵌装大刀が鹿屋市で発見される(鹿屋市吾平町)

22902airanakaokofunzougantati_001_2  南九州では熊本の江田船山古墳から出土した銀象嵌の「鉄剣銘」が有名だが、今年、鹿屋市の吾平町「中尾地下式横穴古墳群」の6号墳から15年ほど前に発掘されていた大刀(たち=全長72センチ)に、銀の象嵌で「心葉形」文様が刻み込まれていることが分かり、8月30日に公表された。

 大刀はほぼ直刀で、柄から先端までの全長は72センチだが、刻まれていた場所は「鍔(つば)」と「柄頭(つかがしら)」および「はばき(つばを固定する部分)」である。

 写真は8月31日付の南日本新聞から転載した。(注:「ゾウガン」の正式字は「象嵌」だが、常用漢字では「象眼」と書くのが通例)

 大刀は見事にさびに覆われていたが、さびを落とさずにレントゲン(CTスキャン)で象嵌が浮かび上がった。 22902airanakaokofunzougantati_003  ハートの形に似ていることからこの文様は「心葉形文」と呼ばれている。銀の象嵌細工で鹿児島県の古墳から発見された初の象嵌装大刀であるという。

 以下、8月31日付の南日本新聞記事から抜粋する(括弧部分は引用者による)。

 『市教委によると、大刀は長さ72㌢、幅3㌢。(地下式横穴墳内部に)大人の人骨3体の頭部付近に、鉄剣、鉄刀とともに置かれていた。発掘当時は厚いさびに覆われて文様は分からず、2006年のレントゲン撮影で柄頭部分に半円文様の象眼があることが判明した。

 さびの磨き出しをして今年3月、九州国立博物館のCTスキャンで撮影したところ、柄頭の半円文様とともに、つばの両面と刀を固定するはばき部分にも心葉形文がはっきりと写し出された。心葉形文は、羽を広げた鳳凰を簡略化した図形とされる。

   (中略)

 当時、南九州に象眼技術はなかったとされ、県立埋蔵文化センターの中村耕治次長は「中央との交流で持ち込まれたと考えられる。権力の象徴として有力者が持っていたと思われ、大隅地方に有力者がいたといわれる裏付けとなる貴重な発見」と話す。今後、九州国立博物館でさらに詳しく調べる予定。・・・』

 中尾古墳群は、吾平町の中心部を過ぎ吾平中学校から吾平山陵に向かって台地を上り切った所にある町営グラウンドから、さらに1キロほど山陵に近い道路の左手にある(現在は埋め戻されて古墳群は全く確認できない)。

 中尾古墳群からは台地の下を流れる姶良川も、その周囲に広がる田園も、全く見ることはできない。一般的には王者クラスの陵墓なら、おおむね自分が切り開いたかあるいは支配していた田園の眺められる所に墓を築くものだが、この古墳群はそうではないようだ。

 それなのに王者クラスの副葬品としてもおかしくはないこんなにも貴重な大刀が、なんの変哲もない場所に造られた地下式古墳の主に副葬されていたということは、古墳時代以前の大隅地方がいかに先進地であったかの証拠となろう。

| | コメント (0)

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »