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新発見の象嵌装大刀シンポジウム(鹿屋市吾平町)

 鹿屋市吾平町の中尾遺跡の地下式横穴墓から見つかった鉄刀に、「心葉形」の象嵌が刻み込まれていたが、これは鹿児島県で初めての発見であり、また全国を見渡しても「心葉形」(ハートマークの中に葉脈のような線が刻まれている)の太刀は中尾遺跡を含めて16箇所しか出土していない貴重なものである。

 このことを記念し、鹿屋市吾平町の中心部の吾平振興会館体育館で11月28日(日)にシンポジウムが開かれた。

 会場に入るとすぐ正面にガラスケースに「象嵌装大刀」が展示されていた。221128zougantati_001  中尾地下式横穴古墳群の6号墓から見つかった全長72センチの鉄刀の鍔の両面に、誰見まごうことのないハート型の文様が所狭しと象嵌されていた。

 また,はばき(金偏に祖)にも、持つ手の部分の柄がしらにも象嵌が施されていた。(写真提供は鹿屋市教育委員会=転載を禁ず

s221128zougantati_003  8号墳から出た鉄剣は90センチもある代物だ。

 残念ながら、この剣には象嵌はなかった。(写真提供は鹿屋市教育委員会=転載禁止221128zougantati_002 中尾地下式古墳群から出土した土器類。弥生時代から古墳時代までの土器が検出された。221128zougantati004  開会行事のあと、基調講演2題があり、最初の講師は女性ながら金属器の保存修復を専門とする別府大学の先生だった。

 象嵌の意味から技法、それに今回発見された中尾遺跡出土の象嵌大刀の「心葉形」文様の意義を簡潔に述べていた。それによると「心葉形」は実は鳳凰の羽根を表したものだという。

221128zougantati_005_2  次の講演は九州国立博物館の保存科学の先生で、今回の太刀を九州国立博物館でCTスキャンし、明瞭な象嵌文様があるのを最終的に確認した人であった。CTスキャンとはどういうものかの説明が中心だった。

 今回の大刀は、発掘当初から県の埋蔵文化財センターではまずレントゲン透視が行われた。その時点で何らかの文様が見えたらしい。そこで今度はもっと詳しい画像の撮影できるCTスキャンが使用された。そうすると三次元的な立体画像にするのも容易で、象嵌された部分が分厚い錆びの中に鮮やかに蘇ったのであった。221128zougantati006  最後は5人のシンポジストを迎えて、県埋蔵文化財センターの次長がコーディネーターとなり、シンポジウムが行われた。コーディネーターのツボを得た司会ぶりには好感が持てた。

 象嵌大刀そのものは鹿児島県で初めてなので、市ではこのシンポジウムを皮切りに「県指定文化財」登録への気運の高まりに一石を投じたいようだった。

 鹿児島県ではかなりの量の鉄剣や鉄刀が発見されている。そのことごとくをCTスキャンで透視したらどうか、という意見を述べたが、何か途轍もない遺物が出てこないとも限らない。

 ぜひやって欲しいものだ。

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しろまろ氏への回答③

 今日のメールで 「肝付氏の先祖が平季基に婿入りし、その後、肝属郡弁済使として大隅高山に入り、かつまた平季基の弟の良宗が隣の吾平に入った。大隅はまさに平氏の天下ではないか。そうであるならば、なぜ平姓そのままに名乗らず<肝付氏>を名乗ったのか」 という趣旨の疑問を発しておられましたが、その理由こそが「勝てば官軍、負ければ賊軍」なのです。

 平安時代の末に「平家にあらずんば、人にあらず」と栄華を誇った平家一門は、源氏の棟梁となった頼朝・義経兄弟に完膚なきまでに敗れ、ついに壇ノ浦の藻屑と消えた。つまりそれ以降は「源氏にあらずんば、人にあらず」の時代になったのです。

 それ以降、頼朝は全国津々浦々、特にもともと平家の勢力の強かった南九州は目の仇として追捕の手を緩めなかったわけで、そんな時代に「平姓」を名乗れるはずはないことはお分かりでしょう。

 宮崎県椎葉村の山深い平家の落人に対して、頼朝は那須与一の弟・大八郎宗久をして追捕させているのはご存知でしょうか。大八郎はそこで鶴富姫と出会い、恋に落ちるわけですが、あんなにも山深い里まで平家の残党を追い求め抹殺しようとしていたという時代背景を考えてみてください。

 鹿児島は宮崎よりもっと多くの平家落人伝承をもった土地がたくさんあります。そのことについては、大隅史談会の創始者・永井彦熊の『落日後の平家』に詳しいのですが、いずれにしても1185年の壇ノ浦の合戦で平家は滅び、源氏の天下となったわけです。

 「伴姓」そのままに名乗ったらよかったろうに―との疑問も、上と同じ理由です。なにしろ伴兼貞は「平氏」の平季基に婿入り、つまり伴氏と平氏は婚姻関係となり親戚(親族)となったのですから、源氏の天下では下手をすれば一網打尽になってしまう、それを避けるためには弁済使としてあてがわれた肝付を名乗れば一安心だったはずです。

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しろまろ氏への回答②

 たびたびメールで質問を頂きますが、答えられないことが多いので返事が遅れて申し訳なく思っています。

 高山城本城近くのご出身ということで、高山郷を中心に広く大隅半島から日向の諸県までを支配しながら、戦国の世の習い、知行国(領)の境域を争い、ついに島津氏の軍門に下った名族「肝付氏」。しかしながらその成立から大隅側での最後に至る歴史について、余りにも不明な点が多いことに、隔靴掻痒の思いが募ることでしょう。お察し申し上げたい。

 単刀直入に言って、敗れた側の史料は残りにくいのが歴史の常です。一種のオセロゲームのようなものでしょう。例の「勝てば官軍、負ければ賊軍」史観で、勝者側は自分の歴史を正当化しようとし、勝利に至るまでの都合の悪い部分はできるだけ過小に書き残すでしょうし、都合の良い部分は過大に書くものです。その過程で敗れた側の史料(古文書・系図)も取捨選択され、葬られたりするわけです。

 つい最近の太平洋戦争でも、「墨塗り教科書」から始まり、至るところで日本の戦前をまるで「無謀な戦争をすることしか知らぬ野蛮な歴史しかなかった」かのように不当に評価してきましたが、敗者の歴史は捻じ曲げられるのです。正しく世界史の流れの中に位置付けなければなりません。つまり欧米人による世界植民地争奪戦に唯一、それに拮抗した非欧米国家が日本だったということです。

 ちょっと行き過ぎたことを述べましたが、さて、肝付氏の歴史でした。

 肝付氏の高山郷における支配のきっかけが、肝属郡弁済使職の任命によるものであることは確実でしょうが、その時すぐに赴任したのかどうか、また平季基の婿入りしたのであれば、まずは諸県(都城)に入っていたはずで、その関係はどうなのか、また年代はいつなのか・・・など、初現から不明なことばかりです。

 肝付氏の系図も「大伴氏系」か「天智天皇系」か二つに分かれているようですが、系図の偽造でなければ、どちらもありかもしれません。というのも、天智天皇の足跡が志布志には濃厚で、志布志市安楽の山宮神社では天智天皇を祭っています。また田之浦の山宮神社の奥宮たる御在所岳(530m)は天智天皇の御廟という伝承もあります。まったく根拠のないこととは思えないのです。 

 しかし系図だけでは何とも言えないのが現状です。

 中世史の史料を原典から学ぼうというのであれば、鹿児島では鹿大の名誉教授の五味克夫先生が最高の権威であると思います。新編『高山郷土誌』の中世史を担当されたT先生も、最終的には五味先生に原稿を確認して頂いた旨、小生は聞いています。

 また黎明館には学芸員で中世担当の先生もおられるので、その辺りから中世高山の原史料などを紹介してもらえると思います。さらに東京方面でしたら「東大史料編纂所」などがあります。

 以上、答え尽くせませんが、お許しください。

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市来貝塚(いちき串木野市川上)

 いちき串木野市の<いちきアクアホール>で仕事上の協議会があり、出かけたついでに考古学では有名な市来式土器の最初の発見地である「市来貝塚」まで行ってみた。

 会場のアクアホールから北東を眺めると、秦の始皇帝の命令で東方の神仙界に仙薬を探しにやってきたという徐福の上陸伝説で有名な「冠岳」の全容が望まれる。市来貝塚はその冠岳の方角に直線距離で3キロほどのところにある。221126ichikikaizuka_005_2

 鹿児島方面から南九州自動車道を走り、市来インターで降り、国道三号線で市来町に入ってから「市来」という信号を見たらそこを右折し、約2キロほど行くと海瀬とか牛ヶ江などという海や水にちなんだバス停を過ぎ、300メートルも行くと右手に神社(葛城神社:祭神は天智天皇)があり、そこからほんのわずかで市来貝塚だった。221126ichikikaizuka_003_3  県道の右手のちょっとした台地の崖下に標柱と説明板が立っていた。221126ichikikaizuka_001_2  221126ichikikaizuka_002_2  説明板によると、この市来貝塚は大正10(1921)年にすでにマンロー博士によって確認されており、その後時を経て昭和36(1961)年に本格的な調査が行われ、人骨が3体、土器、石器、骨角器などが出土した。

 そのときに発見された土器が縄文後期を代表する「市来式土器」で、最初の出土地にちなんでそう命名された。

 市来式土器は南九州独自の土器で、北と西はは長崎西海岸、南は沖縄本島、東は四国の東南部まで確認できる広域な交易圏をしのばせる土器である。

 南九州で確認できる貝塚は少なく、十指に満たないほどだが、そのいずれにも市来式土器が見つかっている。縄文後期、今から3500年ほど前の遺跡が中心だ。

 先日、講演会があった垂水市の柊原貝塚も同じ時期の遺跡で、そこからは大量の黒曜石の矢じり(500点余)が見つかっている。

 その黒曜石は分析によって産地が特定されるのだが、明治大学の杉原重夫教授の分析で、遠くは北部九州の佐賀県伊万里市の腰岳原産の黒曜石が14%も含まれていることが判明した。

 すなわち3500年前、すでに海上交易で南九州から北部九州までのルートは開かれていたことが確実になったのである。これは市来式土器の分布とも重なり、市来貝塚人と柊原貝塚人との交流はおろか、北部九州まで、ともに交易していた可能性が考えられるのである。

 同じ杉原重夫教授の見解によると、鹿児島ではすでに縄文早期(7000年~10000年前)の遺跡で腰岳産の黒曜石が発見されているので、それから3~4000年後の縄文後期なら「すでに広域な流通・伝播ルートが成立していた可能性がある」(柊原貝塚講演会のレジュメ)という。

 さもありなん。3500年前の市来式土器を伴った南九州人は海上交易に長けていた航海民の風貌を持っていたのである。わが意を得たり!

 もしかしたら、この南九州航海民が周王朝(3100~2600年前)に「暢草(ちょうそう)」を献じていたという倭人なのかもしれない。暢草は本島南部以南で採れる「ウコン」だという説があり、その意味でも南九州に淵源を持つ市来式土器人の可能性は非常に高い。

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柊原貝塚講演会(垂水市)

 11月21日の日曜日、垂水市文化会館で「柊原貝塚講演会」があった。

「柊原(くぬぎはら)」は垂水市の南部海岸近くにある地域で、すでに大正3年(1913)にマンロー博士によって発見されていたという。

 平成7(1995)年に遺跡地と見られていたすぐそばに個人住宅が新築された際、確認調査で貝塚の概要が明らかになり、その後、農道建設時の平成9、10年、平成12年~16年に更なる調査が進み、南九州では最大規模の貝塚が認識され、その特異性が浮き彫りになってきた。

 今回は国の指定を目標にし、その前に一般市民への広報活動の一環としての講演会のように思われた。明治大学の研究とリンクさせているのがその表れでもあった。221125momotokaizuka_005  講演会のレジュメの表紙。

 以下の画像は、レジュメに添付された垂水市教育委員会発行の「柊原貝塚」というパンフレットから転写した。221125momotokaizuka_006  左の個人宅新築の時の確認調査が出発点(平成7年=1995)。その後手前を横切る農道が拡張される時点で、かなり大規模な貝塚であることがわかった。発掘規模は500㎡。推定では10000㎡に及ぶとされている。221125momotokaizuka_010  貝塚なので貝が中心だが、その貝類の中でも「モクハチアオイガイ」が卓越している。食用ではないので塚を造るためだけに集積されたらしい。

 講演者の一人・千葉県立中央博物館の上席研究員(貝類専攻)の黒住耐二氏はレジュメに

<他に類を見ないモクハチアオイガイの死骸が優占する「貝塚」=”遺構”を造っている。白色のモクハチアオイと真珠色のアコヤガイからなる”まばゆい”「貝塚」は、遠くからも認識できるものであったと考えられ、何かの”モニュメント”であったのであろうか。>と記す。221125momotokaizuka_011  土壙墓が4基発見されているが、最も古い縄文後期中頃(約3500年前)のものは、貝塚の真下にあった。貝塚の形成期もそのころなので、この貝塚自体が祭壇(もしくは墓標)だった可能性がありはしないか。221125momotokaizuka_008  石器では鏃が多い。その原料は「黒曜石」であり、講演者の一人・杉原重夫・明治大学教授はレジュメに

<垂水市埋蔵文化財収蔵庫に保管されている黒曜石製遺物のうち、約510点を対象に分析を行った。このうち判別可能なものは437点で、三船系(鹿児島市竜ヶ水)が305点と7割近くを占め、次いで腰岳系が63点(14.4%)、上牛鼻系が48点(11.0%)、このほか姫島系が2点・・・・。九州最大の黒曜石産地である腰岳(佐賀県伊万里市)と柊原貝塚との間は直線距離で210㎞ある。・・・、運搬ルートとしては・・・海路が想定できよう。・・・>

 と記す。南九州から北部九州の伊万里湾までの海路の交易ルートが、すでに3500年前にはあったということである。

 さらに、縄文早期(7000~9000年前)にすでに南九州で腰岳の黒曜石は使用されていたのだから、それより3~4000年後の縄文後期時代には広汎な海の交易が確立されていたのではないか(要旨)、とも書いておられる。

 この航海性を侮ってはいけない。これは自分の持論でもある。この時代の市来式土器は南は沖縄まで伝播している広範囲の文化時代でもあった。

 わが意を得たり、の講演会だった。

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猿ケ城渓谷(垂水市)

 垂水市に所用があって出かけたが、少し早めに出て秋色の猿ケ城渓谷を見ようと本城川をさかのぼった。

 新しくできた的場橋を渡ると、急に谷が迫り渓谷らしくなる。1キロ足らずで、今度できた「森の駅・たるみず」に着く。221121sarugajoukeikoku_014 ここで事務所の人に聞いてみると、どうやら秋が深まったという印象はないようだった。それでも300メートル上がったところの旧キャンプ場からは川沿いに遊歩道があり、景色が楽しめると言われて行ってみる。221121sarugajoukeikoku_013  道路際にキャンプ場の入口看板があり、そこを下りて行く。モミジはやや色づいていた。前方の尖った山は「刀剣山」といい、660mの岩峰だ。221121sarugajoukeikoku_011 キャンプ場の駐車場から少し下ると吊り橋があり、渓谷の反対側に渡る。221121sarugajoukeikoku_001 渓谷を左手に見ながら行くこと15分、別の吊り橋「鉄山橋」に着く。再び反対側に渡る。向かいの岩峰は台形で迫力がある。221121sarugajoukeikoku_002 登っていくと4メートルもの深さのある滝壺が見られる。水はあくまで澄み切っていた。221121sarugajoukeikoku_003 登ること20分、もうこれ以上は行き止まりという表示のすぐ右下に、真白に輝く岩が見える。「白磁の床」と言って、巨大な花崗岩の一枚岩だという。早速下りてみる。221121sarugajoukeikoku_004 横幅は15メートル、上部までは50メートルもある一枚岩。 白磁にふさわしく、手前のプール(滝壺)の青によく映える。しかし水際にぽっかりと穴が穿たれているのは珍しい。しかもよく見ると、「ええっ!」・・・縦穴の手前に砂の陸繋があるようなのだ。こんなに深いプールに砂のあろうはずがない。すぐにその穴の上まで行ってみた。221121sarugajoukeikoku_006 近寄って上から見ると、何と!!、砂ではなく伸びた花崗岩なのだ。それが向かいの丸い石に伸びて繋がっているではないか!!221121sarugajoukeikoku_008 間違いなく花崗岩の陸橋だ。底はかなりの大きさでえぐられている。

 おそらく凝灰岩の川床によく見られる「欧穴(おうけつ)」と同じ成因だろう。丸い石が穴を穿ち、まず縦穴を掘り下げ、その後さらに壁になった左手を 削り抜けたのに違いない。いったい何年、何千年かかったことか!

 規模が大きければ天然記念物ものだ。

 秋色を求めて行った猿ケ城渓谷に錦繍は無かったが、美しく澄んだ水と珍しい天然の掘り出し物があった。

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菊の競演

 ようやく秋冷の候を迎え、秋小菊が満開を迎えつつあるわが家の庭。221120kikunokyouen_010  玄関前。221120kikunokyouen_002  自称「日の出菊」は小菊の中でも大ぶりである。221120kikunokyouen_007  庭の東に移植した「日の出菊」(左)から分化した白、ピンク、黄の小菊。221120kikunokyouen_008  今年は純黄色の株が少し増えた。221120kikunokyouen_003  その代わり深紅の小菊がやや少ない。221120kikunokyouen_004  ひと株だけ、完全に純白の八重咲きが出現した。ふんわりした感じでいいものだ。221120kikunokyouen_009  この一叢は、まるでコスモスの色合いのようだ。

 この中のピンクと言うより藤色に近い小ぶりの菊のタイプが、この庭で最初に植え付けた15,6株の「原花」だったが、7年ほど経ち、今や色違いや、八重咲きなど、また同じ色でもグラデーションまで考慮すると10種類はあるようになった。

 これから先がますます楽しみである。来年は「懸崖仕立ての菊」を何株かでやってみたいと思う。

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守秘義務違反!?

 ユーチューブに中国漁船の衝突映像を流出させた海上保安官が、国家公務員法の守秘義務違反に問われたが、その前にまず一部の国会議員にだけ見せて事をすまそうとした政府のほうが問題だ。

 中国共産党のレアアース輸出制限と建設会社フジタの社員拘束という汚い対抗手段により、衝突させた漁船の船長を「不起訴処分」というアホな腰砕け判断で釈放帰国させた後である。後ならどんなに国内世論が沸騰しても中国様は大目に見てくれるだろう、という計算か。いったい誰のための「守秘義務」なんだろう、官房長官殿。

 海上保安官のしたことは―中国のやり方は許せない。それをあっさりと受け入れてしまった政府のやり方も許せない。国民に事実をありのまま知らせたい―という義憤感からで、むしろこういう行為を行ったのが国民の税金で雇われている公務員であったのはまさにアッパレと言うべきだろう。

 それを今の政府は裁くべきではない。いや、権利がなかろう。もし仮に、日本の領海内で、領海侵犯した中国漁船を追跡し、逆に日本の海上保安庁の巡視船がその漁船に追突したら、政府はどうするのか。その時、国益のために「公開しない」と断言できるのか。中国が何やかや言ってきたときに「領海内の事故で、漁船のほうが悪い」と非公開を貫けるのか!

 たぶん、できやしないだろう。事実は事実だからだ。今回も同じことである。

 さて、逮捕された保安官本人が「罪に服す」というのであれば、それも見上げた行為で、「粛々と」罪に服したらよかろう。

 民主党政府は漁船の船長を「粛々と日本の法律によって裁く」と公言しておきながら、中国共産党のあのキチガイじみた対抗措置の前にあっさりとその前言を翻し、あの船長の暴挙は無いことにしてしまったのだ。世界の物笑いになったのだ。それを良いことにロシアも北方領土で策動を始めている。

 なんとも情けない政府だが、保安官の行為はわれわれの溜飲をいくらか下げてくれた。

 

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しろまろ氏への回答(大隅・肝付氏について)

 10月24日に「しろまろ」というハンドルネームで、ホームページ<鴨着島おおすみ>管理人の私にメールで肝付氏の歴史と由来について質問を受けた。

 質問は多岐にわたり、古代史を主に調査研究している自分に不明な点は、肝付町(旧高山町)在住の郷土史家・竹之井先生にお聞きしてなんとかまとめ、11月1日に返信メールで送ったつもりだったが、昨日(11日)のしろまろ氏の再メールで届いていないことが分かり、何度も送信操作を繰り返すのだが、「接続に失敗しました」となる。

 それで、しろまろ氏にはこのブログの上で、回答をさせてもらうことにした。読んでいてくれるとありがたいが・・・。以下に回答として書き込んだメールを掲載するのでクリックされたし。

 「re_.eml」をダウンロード

 なお、11月11日のも3つの質問があり、それはここで回答したい。

・ 肝付兼護(兼道)は確かに阿南の子ではありません。訂正しておきます。

・ 大崎城・龍相城・胡麻ケ崎城などの「概要」は『三国名勝図会』の記載を簡略にしたもので、その点についてはコメントできる立場にはありません。島津氏という勝者側の史官が記したものという制約があることを常に念頭に置く必要があります。

・ 肝付本家の滅亡は、姶羅・大隅・肝属・曽於・諸県郡つまり大隅側の支配領域にあった本家が他所へ移動した時点で滅亡でしょう。16代兼続の二男・兼亮の降伏追放後、初めは高山郷一郷は安堵されたのですが、天正8(1580)年に阿多に転封されましたが、所領わずかに12町、350石程度に落とされた時点で、本家は滅亡したと考えます。

 以上ですが、再度、不審な点はこのブログへのコメントという形でお寄せ下さい。

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本当に秋なのか?

 昨日と言い、今日と言い、日中はかなり気温が上がり、半袖になっても違和感のない日和になった。

 木枯らし一号が吹いた後の11月の陽気を「小春日和」というが、今日はまさにその通りの天気だった。

 おかげで、我が家の庭ではあまりお目にかかったことのない光景が見られる。

 仲秋から初冬にかけて次々に咲く小菊と、真夏の立役者だった鶏頭(セロシア)、そして晩春から初夏にかけての花であるテッポウユリが、仲良く同じところに咲いている。221108keitouyurikiku_001  小菊は例年通りのこの時期に咲き始める。今年は3、4日前に白い小菊が真っ先に咲いた。

 セロシアは真夏からずっと咲き続けている。

 その2種類の間に、1週間前ぐらいから花の蕾を膨らませ始めたテッポウユリが、ついに今日花を開いた。初夏に咲いたユリのこぼれ種からここまで伸びたが、やはり寒さか短日のせいで、大きく伸びきらないうちに花を咲かせた。221108keitouyurikiku_002  丈は30センチしかないが、花の大きさは初夏の1メートルも伸びて咲く本来のものと全く変わらない。

 香りも、菊の花に負けていない今年最後のテッポウユリ。ご苦労さん!

 

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流出したビデオ(中国漁船の体当たり事件)

 民主党政府が一般には公開しないと決めた、中国漁船「閩晋(ビンシン)号」の海上保安庁巡視船「よなくに」への体当たり映像が、ユーチューブに流出していた。一部の国会議員にだけ見せたのが姑息にもたった6分くらいの超カット映像だったのに比べ、44分間も映っていた。

 今朝のテレビではこの話で持ちきりとなったが、中国漁船の故意の衝突であることは明らかで、船長を解放(釈放)してしまったのは完璧な誤りだった。与党民主党の誰かが「中国は日本人建設会社社員を拘束した。あの人たちがどうなってもいいのか!」と声を荒げて船長解放の理由を主張していたが、それこそが中国共産党政府の思うツボだったのだ。

 日本が船長を拘留し起訴まで持って行ってこそ尖閣諸島の日本帰属が強く表明できたのである。もし万が一、建設会社社員が向こうの法律で裁かれ「禁錮何年」というような重い刑に処せられたとしても、断固として起訴までは持って行くべきだった。

 中国がそこまでしたら、逆に国際的な関心と非難を浴び、尖閣諸島が日本の領土であることの国際的認知の後押しを得ることになっただろう。起訴もせずに早々に釈放してしまったのは、民主党外交の失策だった。

 今回の流出ビデオが世界中で見られ、中国漁船側の不法と、それを擁護する中国共産党のキチガイじみた言い草が物笑いになることを切に願う。

 それにしても、「ビンシン号」以前にあった他の中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船の警告に従って領海から立ち去っていく映像を、なぜテレビ局は放映しないのだろうか?そうすればあの「ビンシン号」の領海侵犯かつ体当たりという行為の犯罪性が際立つだろうに・・・。

 今からでも遅くないから、そういう映像を流して欲しいものだ。

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最後の稲刈り(鹿屋市笠之原町)

 所用があって高隈町に行った帰り、笠之原町を走っていると、道路わきで稲刈りの真っ最中だった。221103kasanoharanoinekari_066  この辺りはシラス火山灰の造った台地として有名な笠野原台地の真っ只中で、古来、畑作地帯としての歴史が長い所だ。というより、畑しかできなかった地域なのである。

 そんな火山灰の台地の山奥に高隈ダム(大隅湖)が造られ、灌漑用水が引かれると、待ってましたとばかり、畑を水田に転用したケースが多い。221103kasanoharanoinekari_067  作業している老夫婦に話を聞くと、ここは何と去年から米を作っているそうだ。

 黒々とした地面はいかにも肥沃だが、過去数十年の畑作の賜物だろう。畑作による土作りができたところでこうして水田に転換すれば、かなりの収穫が期待される。

 面白いことに、水田のすぐ隣りの畑では、小さな子供を交えて盛んに芋掘りが行われていた。221103kasanoharanoinekari_068  かっての不毛の火山灰台地も、今では堂々たる豊饒の大地に変身した。

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