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市来貝塚(いちき串木野市川上)

 いちき串木野市の<いちきアクアホール>で仕事上の協議会があり、出かけたついでに考古学では有名な市来式土器の最初の発見地である「市来貝塚」まで行ってみた。

 会場のアクアホールから北東を眺めると、秦の始皇帝の命令で東方の神仙界に仙薬を探しにやってきたという徐福の上陸伝説で有名な「冠岳」の全容が望まれる。市来貝塚はその冠岳の方角に直線距離で3キロほどのところにある。221126ichikikaizuka_005_2

 鹿児島方面から南九州自動車道を走り、市来インターで降り、国道三号線で市来町に入ってから「市来」という信号を見たらそこを右折し、約2キロほど行くと海瀬とか牛ヶ江などという海や水にちなんだバス停を過ぎ、300メートルも行くと右手に神社(葛城神社:祭神は天智天皇)があり、そこからほんのわずかで市来貝塚だった。221126ichikikaizuka_003_3  県道の右手のちょっとした台地の崖下に標柱と説明板が立っていた。221126ichikikaizuka_001_2  221126ichikikaizuka_002_2  説明板によると、この市来貝塚は大正10(1921)年にすでにマンロー博士によって確認されており、その後時を経て昭和36(1961)年に本格的な調査が行われ、人骨が3体、土器、石器、骨角器などが出土した。

 そのときに発見された土器が縄文後期を代表する「市来式土器」で、最初の出土地にちなんでそう命名された。

 市来式土器は南九州独自の土器で、北と西はは長崎西海岸、南は沖縄本島、東は四国の東南部まで確認できる広域な交易圏をしのばせる土器である。

 南九州で確認できる貝塚は少なく、十指に満たないほどだが、そのいずれにも市来式土器が見つかっている。縄文後期、今から3500年ほど前の遺跡が中心だ。

 先日、講演会があった垂水市の柊原貝塚も同じ時期の遺跡で、そこからは大量の黒曜石の矢じり(500点余)が見つかっている。

 その黒曜石は分析によって産地が特定されるのだが、明治大学の杉原重夫教授の分析で、遠くは北部九州の佐賀県伊万里市の腰岳原産の黒曜石が14%も含まれていることが判明した。

 すなわち3500年前、すでに海上交易で南九州から北部九州までのルートは開かれていたことが確実になったのである。これは市来式土器の分布とも重なり、市来貝塚人と柊原貝塚人との交流はおろか、北部九州まで、ともに交易していた可能性が考えられるのである。

 同じ杉原重夫教授の見解によると、鹿児島ではすでに縄文早期(7000年~10000年前)の遺跡で腰岳産の黒曜石が発見されているので、それから3~4000年後の縄文後期なら「すでに広域な流通・伝播ルートが成立していた可能性がある」(柊原貝塚講演会のレジュメ)という。

 さもありなん。3500年前の市来式土器を伴った南九州人は海上交易に長けていた航海民の風貌を持っていたのである。わが意を得たり!

 もしかしたら、この南九州航海民が周王朝(3100~2600年前)に「暢草(ちょうそう)」を献じていたという倭人なのかもしれない。暢草は本島南部以南で採れる「ウコン」だという説があり、その意味でも南九州に淵源を持つ市来式土器人の可能性は非常に高い。

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コメント

流石、この市来貝塚でヒットしました。
天智天皇伝承でいつか探訪したいと願っています。

阿高式や鐘ケ崎式が出土している様子。。
それにご祭神は「お船」とか。。

昔はこの辺りまで船で。。

夢を馳せています。

投稿: 今井より | 2016年7月16日 (土) 17時01分

市来貝塚と同様、垂水の柊原(くぬぎばる)貝塚は、100年も前にイギリス人のマンローという学者が発掘しているのですね。
 もちろん大変大雑把な発掘だったようですが、さほど多くはない鹿児島県域の貝塚だったがゆえにかえって物珍しく思われたのかもしれません。
 貝塚では魚介類は無論のこと、各種獣骨や土器が出土するわけですが、船そのものの出土が無いのが残念です。

 

投稿: kamodoku | 2016年7月18日 (月) 22時28分

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