柊原貝塚講演会(垂水市)
11月21日の日曜日、垂水市文化会館で「柊原貝塚講演会」があった。
「柊原(くぬぎはら)」は垂水市の南部海岸近くにある地域で、すでに大正3年(1913)にマンロー博士によって発見されていたという。
平成7(1995)年に遺跡地と見られていたすぐそばに個人住宅が新築された際、確認調査で貝塚の概要が明らかになり、その後、農道建設時の平成9、10年、平成12年~16年に更なる調査が進み、南九州では最大規模の貝塚が認識され、その特異性が浮き彫りになってきた。
今回は国の指定を目標にし、その前に一般市民への広報活動の一環としての講演会のように思われた。明治大学の研究とリンクさせているのがその表れでもあった。 講演会のレジュメの表紙。
以下の画像は、レジュメに添付された垂水市教育委員会発行の「柊原貝塚」というパンフレットから転写した。 左の個人宅新築の時の確認調査が出発点(平成7年=1995)。その後手前を横切る農道が拡張される時点で、かなり大規模な貝塚であることがわかった。発掘規模は500㎡。推定では10000㎡に及ぶとされている。
貝塚なので貝が中心だが、その貝類の中でも「モクハチアオイガイ」が卓越している。食用ではないので塚を造るためだけに集積されたらしい。
講演者の一人・千葉県立中央博物館の上席研究員(貝類専攻)の黒住耐二氏はレジュメに
<他に類を見ないモクハチアオイガイの死骸が優占する「貝塚」=”遺構”を造っている。白色のモクハチアオイと真珠色のアコヤガイからなる”まばゆい”「貝塚」は、遠くからも認識できるものであったと考えられ、何かの”モニュメント”であったのであろうか。>と記す。 土壙墓が4基発見されているが、最も古い縄文後期中頃(約3500年前)のものは、貝塚の真下にあった。貝塚の形成期もそのころなので、この貝塚自体が祭壇(もしくは墓標)だった可能性がありはしないか。
石器では鏃が多い。その原料は「黒曜石」であり、講演者の一人・杉原重夫・明治大学教授はレジュメに
<垂水市埋蔵文化財収蔵庫に保管されている黒曜石製遺物のうち、約510点を対象に分析を行った。このうち判別可能なものは437点で、三船系(鹿児島市竜ヶ水)が305点と7割近くを占め、次いで腰岳系が63点(14.4%)、上牛鼻系が48点(11.0%)、このほか姫島系が2点・・・・。九州最大の黒曜石産地である腰岳(佐賀県伊万里市)と柊原貝塚との間は直線距離で210㎞ある。・・・、運搬ルートとしては・・・海路が想定できよう。・・・>
と記す。南九州から北部九州の伊万里湾までの海路の交易ルートが、すでに3500年前にはあったということである。
さらに、縄文早期(7000~9000年前)にすでに南九州で腰岳の黒曜石は使用されていたのだから、それより3~4000年後の縄文後期時代には広汎な海の交易が確立されていたのではないか(要旨)、とも書いておられる。
この航海性を侮ってはいけない。これは自分の持論でもある。この時代の市来式土器は南は沖縄まで伝播している広範囲の文化時代でもあった。
わが意を得たり、の講演会だった。
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