しろまろ氏への回答(大隅・肝付氏について)
10月24日に「しろまろ」というハンドルネームで、ホームページ<鴨着島おおすみ>管理人の私にメールで肝付氏の歴史と由来について質問を受けた。
質問は多岐にわたり、古代史を主に調査研究している自分に不明な点は、肝付町(旧高山町)在住の郷土史家・竹之井先生にお聞きしてなんとかまとめ、11月1日に返信メールで送ったつもりだったが、昨日(11日)のしろまろ氏の再メールで届いていないことが分かり、何度も送信操作を繰り返すのだが、「接続に失敗しました」となる。
それで、しろまろ氏にはこのブログの上で、回答をさせてもらうことにした。読んでいてくれるとありがたいが・・・。以下に回答として書き込んだメールを掲載するのでクリックされたし。
なお、11月11日のも3つの質問があり、それはここで回答したい。
・ 肝付兼護(兼道)は確かに阿南の子ではありません。訂正しておきます。
・ 大崎城・龍相城・胡麻ケ崎城などの「概要」は『三国名勝図会』の記載を簡略にしたもので、その点についてはコメントできる立場にはありません。島津氏という勝者側の史官が記したものという制約があることを常に念頭に置く必要があります。
・ 肝付本家の滅亡は、姶羅・大隅・肝属・曽於・諸県郡つまり大隅側の支配領域にあった本家が他所へ移動した時点で滅亡でしょう。16代兼続の二男・兼亮の降伏追放後、初めは高山郷一郷は安堵されたのですが、天正8(1580)年に阿多に転封されましたが、所領わずかに12町、350石程度に落とされた時点で、本家は滅亡したと考えます。
以上ですが、再度、不審な点はこのブログへのコメントという形でお寄せ下さい。
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