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ばららちゃんロボットの「里帰り」

 全国高専ロボットコンテストで見事優勝を飾った鹿児島高専の二足歩行ロボット「ばららちゃん」が、かのやばら園にやって来た。23_004  手前が真ん中のロボットのキャラクターモデルになった「ばららちゃん」。向こうは「ばららくん」だろうか。とにかくキャラクターを借りた恩返しの実演。23_001  高専生がリモコンでばららちゃんロボットをスタートさせる。その速いこと。23_002  ばら園の研修室の15メートルを5秒くらいで走って行った。23_003  帰りは人を乗せた人力車を牽引して走った。23_0052010年度全国工業高等専門学校ロボットコンテスト大会優勝を記念してバラの植樹が行われていた。バラの銘柄は「プリンセスかのや」だ。 23_006  ついでに園内を歩いてみた。連日、最高気温が10度を下回る寒さの中、ほとんど花を着けていないか、茶色く変色している中で、見事な花を咲かせているのもちらほら。23_007  これなんか、ゴージャスだ。23_008  真夏と今が一番咲いていない季節だろう。それでもけなげに花は咲く。宝探しのようだ。

 ――もう少ししたら「強剪定」と言って、根元から30センチくらい残してばっさり刈ってしまうんです。

 とは、係員の弁。根の周りの土を掘り返し、堆肥を入れるそうだ。

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新燃岳の噴火(霧島連峰)

 鹿屋市からほぼ真北、直線距離にして約70キロの霧島連峰中の新燃岳(しんもえだけ=1421m)火口が大規模な噴煙を噴き上げた。今日の午後3時半頃のことだ。23126shinmoedakefunka_002  勤務先から自宅に帰り、すぐ近くの農道から見た噴煙。左手の山は高隈連山の最高峰・大箆柄岳。

 この農道は南北に走っていて、好天気の時は、農道のはるか先に秀麗な高千穂の峰が見える。23126shinmoedakefunka_001  火山灰は北西の風に流され、都城市方面に降り注いだようだ。都城からの連絡によると、「灰が雨のように降った」という。向こうでは桜島の降灰は一切無く、今回ははじめての経験らしかった。

 報道によると、新燃岳火口は半年前に小規模のの噴煙を上げて以来、鎮まっていたが、今朝の7時半頃から小規模な爆発を繰り返し、次第にその規模を増してついに午後3時半に噴火したという。噴煙の高さは火口から1500メートルも上がったというから、現在活発に活動している桜島南岳の昭和火口に匹敵する規模かそれ以上だ。…しかも、いきなり。

 これだけの規模の爆発はここ300年位なかった、ともいうから、何かの前兆かもしれない。用心するに越したことはない。23126shinmoedakefunka_004  次第に日が暮れていく中、噴煙は不気味に上がり続ける。23126shinmoedakefunka_003  左を見ると夕日が最後の姿を見せていたが、ぼうっとしている。

 それもそのはず、鹿屋は昨日今日と桜島の降灰があった。夕日を覆っているのは雲ではなく、棚引いている微塵で軽い桜島昭和火口からの灰なのだ。

 2月半ばの春一番が吹く頃までは悩まされ続けるだろう。

 しかし、ちょうどその頃に、スギ花粉が飛散し始める。クワバラ、クワバラ。

 

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纏向遺跡が邪馬台国?!

 1月23日(日)夜9時からのNHKテレビは『邪馬台国を掘る』というテーマで、またぞろ奈良県桜井市の纏向遺跡を取り上げていた。23123makimukuiseki_002

 一昨年だったか、同じ遺跡で大型の建造物の柱穴が発見されたのを取り上げ、「卑弥呼の宮殿か」などと紹介していた。23123makimukuiseki_004  今回も宮殿の復元模型を画面に流していた。

 昨年7月から4ヶ月の発掘調査があったとかで、番組はそれを追っかけて編集していたが、NHKはこの纏向遺跡を何とか邪馬台国と結び付けたいらしい。

 で、今度の発掘では残念ながら邪馬台国の痕跡らしいものは出土しなかったが、「桃の種」が2500個余り発掘されたのを取り上げ、「卑弥呼の鬼道(きどう)に使われていたのかもしれない」とし、2世紀ごろの大陸で始まった「道教」を援用して「道教の祈祷でも桃がお供えに使われていたので、纏向遺跡でも同じような祭祀が行われていた。それが倭人伝に記載のある卑弥呼の鬼道ではないか」と推定している。23123makimukuiseki_001  倭人伝には確かに「桃」が産物として紹介されているが、「鬼道」に使用したとも何とも書いてはいない。どうしても纏向遺跡の地に邪馬台国をもって行きたいがためのこじつけ論法にしか過ぎない。

 第一、邪馬台国が奈良大和に無いことは倭人伝を読めば分かることだ。帯方郡から九州北部の唐津(マツラ国)までが「一万里」で、日数で表せば「水行10日」。一方、同じく帯方郡から邪馬台国までは「一万二千里」で、一万里を差し引くと残りは「二千里」。これが「水行10日、陸行1月」の後半部分の「陸行1月」に当たる。つまり、九州北部に上陸したら、あとは陸上を二千里、日数で表せば1ヶ月の陸続きの九州のどこかに邪馬台国はあるのだ。

 倭人伝では畿内大和については何も述べていない。しかし「女王国の東、海を渡ること千余里、また国有り、皆、倭種」つまり「女王国の東にも海があり、水行1日で到達する。そこにも国があり、やはり倭人の同族だ」と書いてあり、九州島の東方(四国や山口)にも海を渡ったところに倭人の国があると記している。畿内大和が無かったというのではなく、その倭種の国々のひとつとして存在していたことになろう。

 九州島以外の倭人の国々は魏との国交が無かったため、魏の時代を描いた文書「魏志倭人伝」には記されなかっただけの話なのである。

 いったいいつまで邪馬台国畿内説を述べていたら気が済むのだろうか? 話にならない。

 それでも今回の放映で貴重な実験がなされていた。それは今度の発掘で出土した「銅鐸の破片」をめぐって、どうしたら銅鐸がそのように木っ端微塵に破砕できるのか―という実験である。23123makimukuiseki_007

 銅鐸そのものをいくら強く叩いても凹むだけだが、銅鐸を高温で熱し、熱いうちに叩くと簡単にばらばらになったのだ。このことは同じようにばらばらに破砕されて出土する銅鏡にも当てはまるだろう。23123makimukuiseki_008

 ばらばらに破砕する理由を考古学者は、「銅鐸を使用する古い祭祀体制が銅鏡を使用する新しい宗教に取って代わられたからだ」と述べていたが、取って代わった勢力がよそからやって来たとは言わなかった。畿内大和の勢力自体が入れ替わらず、卑弥呼の邪馬台国は(大和王朝に)継続していると主張しているのだ。

 卑弥呼の邪馬台国は畿内には無いのに…。

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肝付氏菩提寺・盛光寺石塔類の復元(肝付町前田)

 肝付氏第5代兼石が文永年間(1270年代)に建立し、その後肝付氏の菩提寺となった盛光寺(じょうこうじ)の墓地には現在、肝付氏第8代・兼重以下17代・良兼までの墓塔(五輪塔)が残るが、その他の領主の墓は不明とされてきた。

 ただし、第5代・兼石の墓は盛光寺とは高山川を挟んだ昌林寺跡の一角にあったとされる帝釈院の境内跡の山手にあると伝えられ、現にかなり大きな五輪塔が数基立ち並ぶ。23122joukoujihakafukugen_010 また、第16代・兼続の墓は志布志市に現存している。さらに第2代・兼経のは東串良町柏原の熊野神社境内にある巨大五輪塔がそれと言われている。

 現在のところ、全く不明なのは初代・兼俊、3代・兼益、4代・兼員(かず)、6代・兼藤、7代・兼尚の5代で、最後の兼尚は名越氏との領地の争論を裁定してもらうため鎌倉に滞在していたが、そのまま行方不明となっている。また兼尚の父・6代兼藤は大隅で名越氏側と争い命を落としたが、今回、少なくとも、この兼藤の墓は見つかるのではないかと期待される。23122joukoujihakafukugen_009  9時過ぎに盛光寺跡に行くと、県文化財保護指導員・隈元氏らの復元作業が始まっていた。

 所狭しと並べられているのは、左手の林中の盛光寺墓地が、明治29年の山崩れで大部分が埋まってしまい、当時すぐに掘り出された由緒ある肝付氏当主の五輪塔などは跡地に復元されたが、完全に埋もれてしまった多くの墓塔はそのままになっていたのを、今回、掘り起こしたものである。120年ぶりに日の目を見た物ばかりということになる。23122joukoujihakafukugen_004  南朝方の忠臣と言われる8代・兼重の墓と、左へ9代・秋兼、10代兼氏の墓。23122joukoujihakafukugen_007  ずっと左へ飛んで、「月庭桂秋大姉」の墓。この女人は16代・兼続の正室「阿南(おなみ)」。日新斎こと島津忠良の長女で、当時ありがちだった政略結婚で兼続に嫁いできた。すぐ隣に眠る実子・良兼を17代当主に就任させたが、間もなく島津氏に降伏した。

 これらの墓が並ぶ裏山が大規模に崩れたのが、明治29年、その後もおそらく小さな崩れはあったのだろう、今日まで根こそぎの発掘は行われていなかった。

 2日間の復元でどんな発見があるものか、期待したい。

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回生の誕生日

 本日は小生の61回目の誕生日。青年期に60歳までは相当時間がかかるだろうなと思っていた(確かに長かった)が、そこを過ぎてからの1年の早いこと。

 10日の昼頃から催し始めた悪寒は、最初37.5℃程度で普通の風邪だろうと早めに寝て翌11日の朝、再度計ってみて驚いた。39.5℃になっていた。咳は出るがカラ咳で、鼻水より鼻づまりがひどい。

 早速、かかりつけの医院に行き、待合室で体温計を渡された。今度は40℃ちょうどになっていた。受付では15,6人待つことになりますがいいですか、と言われ、こっちもほかに行く当てもなく「待ちますよ」。

 40℃もあるにしては普通に歩けるし、言葉のやり取りも億劫ではない。息ができないくらい咳き込むわけでも、くしゃみが止まらないわけでもない。楽な40℃だ。しかし、受付から連絡が行ったらしく、5,6人待ってから診察室に呼ばれた。10人抜きだ。

「インフルエンザかどうかの検査をします」と看護師は言い、片方の鼻の穴に採取棒を突っ込んで少しひねりまわした後、それを検査に回すため持って奥に消えた。

 しばらく待合室で待っていると、呼ばれたので医師の前へ。「A型のインフルエンザでした。薬を処方しますから飲んで下さい。タミフルは大丈夫ですね?」 頓服という痛み止めまで入れると5種類の薬を受け取って、早々に帰宅。すぐ薬を飲んで横になった。

 処方どおりに薬を飲んでいたが、熱は翌12日の昼頃まで39℃台が続いた。しかし夜になると37.5℃と、最初に感じた悪寒時のレベルに下がり、ようやく峠を越した。そして昨日の13日にはほぼ平熱に戻り、悪寒はまったく無くなった。

 しかし咳が時おり出て、痰が交じるようになったうえ、鼻をかむと緑色の膿が見えるようになってきた。回復の最終段階だろう。これが出るうちは人への感染が避けられないので、14日も念のため仕事を休むことにした。今週は全休ということになる。自分としては前代未聞の事態。

 

 今朝も、6時半のいつものダンベル体操はできなかったが、その代わり2日の日の出拝以来12日ぶりに日の出を拝むことができた。23114tanjoubinohinode_002  7時25分ごろ、玄関先から東の肝属山地を望むと、もう間もなく日が昇り始めるところ。気温は1.5℃。かなりの霜が降りている。23114tanjoubinohinode_001  右のピークが肝属山地の最高峰「甫余志岳(ほよしだけ=968m)」、左のピークが「黒尊岳(くるそんだけ=909m)」。その二峰を結ぶ稜線のもっとも深い鞍部から太陽が昇ってくる。23114tanjoubinohinode_003  7時半、太陽は完全に姿を現す。

 手を合わせ、柏手を打ってインフルエンザからの回生を感謝し、今年の運気の良からんことを祈っておく。

 思えば、去年は義父・義兄・従姉の連れ合い・知人と、4人もの物故者があった。みなそれぞれにその道を全うした人々である。

 自分にはもうひとつショックなことがあった。60歳になって年金額の最終通知が来たが、何とその年額76万円(しかも65歳からの支給)!  

 いかに「生き損ない」の人生を歩んできたことか、それが年金に反映されている。両親は二人とも教育公務員だったのでそれ相応の年金を受けた(もっとも父は63才で死んでいる)が、何で子供はこんなことに!ーーなどと叫びたくもなるが、まあ、いいか。飢え死にはしないだろう。

 両親は金には困らなかったろうが、子育てに失敗している。子育てより仕事(と言う名の金策)を選択したが故の子供の離反を招いてしまった。弟は中学校で長欠から不登校になり、高校も中退、転校を繰り返し、精神に異常を来たしてしまった。

 早くに「金策」から子供の保護・育成に切り替えればよかったのに、ずるずると働き続けた結果、弟は精神病棟の住人となり、長い「闘病生活」ののち、32才で帰らぬ人となった。

 思うに、町で見かける『大人が変われば、子供も変わる』という看板は大いなる真理である。弟が不登校を始めた時点で、母が「金策生活」をやめて家庭に入れば、最小限のダメージ(トラウマ)で済んだであろうに、そうしなかった。子育ての真理に反していたのだ。

 弟は心を狂わせてしまったが、自分は人生が狂ってしまった。

 「まあ、死ぬまでは生きてみよう・・・」

 これが自分のかなり早い時期(高校入学前後だったと思う)の、ある種の諦観だった。今でもそれが続いていると言ってもいい。希望はほとんど無いに等しかったが、絶望に引きずり込まれることもなかった。弟よりスポーツなんかが得意だったことで気を紛らせる機会が多かったのと、少しは楽観的に生まれついたせいなのかもしれない。

 上の姉と兄もやはりそれぞれに心にトラウマを抱えながら生きて来た。姉はここ10年くらい、やや、被害妄想的言動が多くなっている。もともと陽気な人だけに、落差が募ると人が変わったようで気の毒に感じてならない。義兄が亡くなったばかりで動揺もしているのだろう。

 兄は出版社を勤め上げ、今、第二の人生を送っているが、人との交流もよくできる人で、自分のトラウマをうまく制御しつつ、傍目からはよく気の付く面倒見の良い人で通っている。だが、4人の子供たちが言うには、「母親が二人いるみたい」、と、世間における兄への評価は家庭内では散々である。実母がずっと勤めに出ていたので、何でも自分でやる・抱え込むという癖がついたためだと思われる。娘たちよ、そう言いなさんな。

 おやおや、インフルエンザで「死に損なった」わけでもないのに、人生回顧とはどうしたことか。確かに高熱の寝床でちらちら頭に浮かばなかったと言えば嘘になるが・・・。・・・それに誕生日も重なったしナ。

 言いたい放題の序でに

   最低だが、最悪ではない我が人生、生きてみようよ死ぬまでは

                         「回生の誕生日」、これにて・・・。

 

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鬼火焚き(鹿屋市池園町)

 鬼火焚きは正月の行事として県内あちこちで行われる。たいてい七草祝いと重なる6日、7日、8日頃の夜で、孟宗竹の高い櫓を組み、猛火を起こし、その火で穢れや魔を祓い、一年間の無病息災を祈ろうというものである。

 以前、広島にいた時、確か正月の11日の鏡開きの日だったと記憶するが、近くの川原で同じように櫓の火を焚く行事に参加したことがあった。ただ、鹿児島と違うのはその火でお供えしていた鏡餅や切り餅の残りなどをあぶって食べることである。そうした餅を食べれば無病息災、健康でいられるというもので、目的自体は鹿児島と同じだった。

 1月8日の晩、鹿屋の池園町で鬼火焚きがあった。その朝の冷え込みはこの冬一番で、早朝の最低気温は氷点下3℃を下回った。2318onibitakiikezono_001_2  菜園のビタミン菜の上には分厚い霜が降りていた。まったくの無風だった。2318onibitakiikezono_003_2  夕方の6時少し前に集落センター下の田んぼに行くと、15メートルはあろうかという孟宗竹の櫓が建てられており、三々五々、人が集まり始めていた。消防団の車もスタンバイしている。2318onibitakiikezono_004  田んぼの手前を流れる大姶良川の水面に、夕闇が迫っていた。相変わらず無風のままだ。2318onibitakiikezono_005  日が落ちた6時10分頃、火がつけられ、たちまち炎が上がった。2318onibitakiikezono_006  5分後には炎が15メートルの櫓いっぱいの高さにまで達した。燃えた竹の葉が、火の粉になって高く舞い上がる。2318onibitakiikezono_007  さらに10分後、太い竹の本体が盛んに燃え、パン!パン!と節の空洞のはじける威勢の良い音が辺りにこだまする。

 子供たちが音につられて恐る恐る炎に近寄って来た。母親らしいそれを制止しようとする声も聞かれる。母と子の日常が、ちとやぶられる瞬間だ。

 このあと、大人たちは集落センターで飲み方。子供たちはご馳走を食べるのだろう。

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初詣と中岳登山

 平成23年の正月は元旦の初詣に行きそびれたが、今日、雪見登山を吾平富士と呼ばれ吾平町神野地区に聳える「中岳(677m)」で行ったついでに(と言ったら叱られるが)、同所に鎮座する大川内神社を参拝してきた。2313nakadaketozan_001_2

  我が家から東南15キロほどの所に神野地区はある。初詣客でにぎわう吾平山陵への道を左手に分けた後、ずんずん山奥の方へ行くと姶良川に沿う道路から秀麗な中岳が望まれた。2313nakadaketozan_002

 バスの終点の集落を永野牧といい、バス停のあるT字路を右折して150㍍くらい行くと、左手に赤い鳥居が見えてくる。2313nakadaketozan_003

 鳥居下の苔むした階段を上がると、50㍍ほど先に神社が見える。これが大川内神社だ。手前を覆う屋根は参拝客への雨除けで、社殿は奥にこじんまりと建っている。8畳間くらいの広さだ。

 祭神はホホデミノ命はじめ日向の天孫三代と「吾平津媛(あいらつひめ)」(古事記では「阿比良比売(あいらひめ)」)。吾平津媛は神武天皇の后だが、神武天皇が大和へ東征するのにはついて行かず、ここで神武と息子のタギシミミの武運を祈りつつ余生を送り、果てた。

 再び神社前の道路を、そのまま先へ行くと、100㍍くらいで人家があるようになり、人家の間をゆるい傾斜で上ることさらに100㍍。左手にT字路が見え、そこに「中岳登山口」の案内表示板がある。

 左折してやはり100㍍ほどか、左手に水源用貯水プールの施設群が柵の向こうに広がる所に出る。その前の道は幅が十分広いので、ここに車を停めておく。

 ここから案内板にしたがって緩やかに登り始める(午前8時40分)。2313nakadaketozan_004

 

 すぐに日当たりの良い伐採跡地を登るようになる。夏なら強烈な日差しのうえ、ヤブ漕ぎをさせられる道だが、今はそれほどの草や潅木はない。登山口から300㍍で尾根状の山道に入る。そこには二枚の道しるべがあり、右手へ登るよう指示していた。2313nakadaketozan_005

 マテバシイやスダジイなどシイの樹林帯が発達していて、登山道はその落ち葉で土が見えないほどだ。

 それほど行かないうちに、スダジイの巨木が道に現れたのには驚いた。直径は1.2メートルは優にある。神社の境内にでもあれば間違いなくご神木だろう。

 板根の見事なスダジイ。(須田爺ではないが、200歳くらいの爺さんか)2313nakadaketozan_007

 

 40分ほどで、別の尾根筋に取り付き、そこから約10分でちょっとしたピークに出るが、そこにも巨木が立っていた。2313nakadaketozan_009_2

 さらに15分、ようやく吾平富士のひとつのピーク「前岳(659m)」に着く。ここからは西方向の展望が得られ、錦江湾に浮かぶ指宿の知林ヶ島が霞んで見えた。また「中嶽神社」という石の標柱が立っていた。

 前岳から道はいったん30㍍ほど下るが、その下りたるや恐ろしく急だった。途中、トラロープで滑り落ちないようにしてある箇所が3箇所あったが、なかったら身動きできない場所もあるほどだ。

 中岳山頂の直前にも小ピークがあった。吾平富士(中岳)は三つのピークから成る山と言えるかもしれない。2313nakadaketozan_011

   

 前岳から約15分、いよいよ山頂に到着。(9時55分)

 ケルン状に石が積まれ、鹿児島山岳会が立てた標柱が石の間に差し込まれていた。

 山頂は直径15メートル位の円墳状で、木立がなかったら相当広い眺望が得られそうだ。2313nakadaketozan_012

 

  

 東の方角がわずかに空いていて、そこから肝属山地の最高峰「甫余志岳(ほよしだけ=968m)」が望まれた。2313nakadaketozan_013

 さらに目一杯右手に寄って空間から北の方向を望むと、何と!志布志湾が、例の美しい弓なりの海岸線を見せているではないか。(儲けた!)2313nakadaketozan_014

  

  

 ケルンの下に吹き寄せられた雪を拾い、飲み水の代わりにしたが、冷たくてうまかったのは言うまでもない。

 

 10分ほど休んで下山を開始したが、50mも歩かない稜線上で何やら茶色い動物が5,6匹、こちらを視認したのかあわてて雲の子を散らすように逃げていった。

 最初、野うさぎの集団かと思ったが「ブ!ブヒ!」と言う声で、ウリ坊と分かった時は思わず「アララ!珍しい!」と声をあげていた。だが、すぐに、もし母親イノシシが近くにいたらこっちに向かってくるかもしれない―と思い至り、今度はこっちがあわてて下り始める羽目になった。

 そのおかげか、登りは1時間15分かかったが、下りは40分ほどだった。途中、母親イノシシに遭うことも、転ぶこともなく・・・。

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年を越した雪

 当ブログを見て下さっている皆さん、明けましておめでとうございます。

 鴨着く島ブログは、ホームページ「鴨着く島おおすみwww.kamodoku.dee.cc」サイトの付属として管理人の気の向くままに、大隅半島の四季の移り行き、土地々々の伝承や姿を表現してきました。

2006年10月に開始してから4年3ヶ月、足掛け5年目に突入しました。これからも同じような手法で続けるつもりです。どうぞ、よろしく。

 

 さて、昨日来の雪は、実に元旦の今朝10時頃まで降り続き、日差しが戻ってきたのは11時頃。そして昼を過ぎる頃、ようやく丸二日ぶりの太陽が燦燦と輝きだしたのであった。2311toshikoshinoyuki_001  菜園の野菜が姿を現し出したのが11時頃。2311toshikoshinoyuki_002  同時に、南の「雪原」の向こうに横尾岳の連山が望まれるようになった。2311toshikoshinoyuki_004 真南の陣ノ岡(482m)は、南北朝時代に向こう側の禰寝氏(ねじめし)と、こちら側の肝付氏とが陣を構えて一戦を交えた山岳だが、よく見るとその山肌から、日差しを受けて木々に積もった雪が溶け、水蒸気となって湯気を立てているのがよく分かる。2311toshikoshinoyuki_005  午後2時過ぎ、東方を眺めると、すっかり晴れ渡った空の下、肝属山系の国見岳(886m)が白銀に輝いて見えた。

 元旦の積雪は大隅半島に暮らすようになって初めてのこと。年占的には吉祥なのか不吉なのか。絵としては様になっているが。

 昨年は義父を初め、幾人もの親戚・知人が他界している。年賀も欠礼させてもらった。

 今年はどのような年になるのか、予断は許さない。

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