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回生の誕生日

 本日は小生の61回目の誕生日。青年期に60歳までは相当時間がかかるだろうなと思っていた(確かに長かった)が、そこを過ぎてからの1年の早いこと。

 10日の昼頃から催し始めた悪寒は、最初37.5℃程度で普通の風邪だろうと早めに寝て翌11日の朝、再度計ってみて驚いた。39.5℃になっていた。咳は出るがカラ咳で、鼻水より鼻づまりがひどい。

 早速、かかりつけの医院に行き、待合室で体温計を渡された。今度は40℃ちょうどになっていた。受付では15,6人待つことになりますがいいですか、と言われ、こっちもほかに行く当てもなく「待ちますよ」。

 40℃もあるにしては普通に歩けるし、言葉のやり取りも億劫ではない。息ができないくらい咳き込むわけでも、くしゃみが止まらないわけでもない。楽な40℃だ。しかし、受付から連絡が行ったらしく、5,6人待ってから診察室に呼ばれた。10人抜きだ。

「インフルエンザかどうかの検査をします」と看護師は言い、片方の鼻の穴に採取棒を突っ込んで少しひねりまわした後、それを検査に回すため持って奥に消えた。

 しばらく待合室で待っていると、呼ばれたので医師の前へ。「A型のインフルエンザでした。薬を処方しますから飲んで下さい。タミフルは大丈夫ですね?」 頓服という痛み止めまで入れると5種類の薬を受け取って、早々に帰宅。すぐ薬を飲んで横になった。

 処方どおりに薬を飲んでいたが、熱は翌12日の昼頃まで39℃台が続いた。しかし夜になると37.5℃と、最初に感じた悪寒時のレベルに下がり、ようやく峠を越した。そして昨日の13日にはほぼ平熱に戻り、悪寒はまったく無くなった。

 しかし咳が時おり出て、痰が交じるようになったうえ、鼻をかむと緑色の膿が見えるようになってきた。回復の最終段階だろう。これが出るうちは人への感染が避けられないので、14日も念のため仕事を休むことにした。今週は全休ということになる。自分としては前代未聞の事態。

 

 今朝も、6時半のいつものダンベル体操はできなかったが、その代わり2日の日の出拝以来12日ぶりに日の出を拝むことができた。23114tanjoubinohinode_002  7時25分ごろ、玄関先から東の肝属山地を望むと、もう間もなく日が昇り始めるところ。気温は1.5℃。かなりの霜が降りている。23114tanjoubinohinode_001  右のピークが肝属山地の最高峰「甫余志岳(ほよしだけ=968m)」、左のピークが「黒尊岳(くるそんだけ=909m)」。その二峰を結ぶ稜線のもっとも深い鞍部から太陽が昇ってくる。23114tanjoubinohinode_003  7時半、太陽は完全に姿を現す。

 手を合わせ、柏手を打ってインフルエンザからの回生を感謝し、今年の運気の良からんことを祈っておく。

 思えば、去年は義父・義兄・従姉の連れ合い・知人と、4人もの物故者があった。みなそれぞれにその道を全うした人々である。

 自分にはもうひとつショックなことがあった。60歳になって年金額の最終通知が来たが、何とその年額76万円(しかも65歳からの支給)!  

 いかに「生き損ない」の人生を歩んできたことか、それが年金に反映されている。両親は二人とも教育公務員だったのでそれ相応の年金を受けた(もっとも父は63才で死んでいる)が、何で子供はこんなことに!ーーなどと叫びたくもなるが、まあ、いいか。飢え死にはしないだろう。

 両親は金には困らなかったろうが、子育てに失敗している。子育てより仕事(と言う名の金策)を選択したが故の子供の離反を招いてしまった。弟は中学校で長欠から不登校になり、高校も中退、転校を繰り返し、精神に異常を来たしてしまった。

 早くに「金策」から子供の保護・育成に切り替えればよかったのに、ずるずると働き続けた結果、弟は精神病棟の住人となり、長い「闘病生活」ののち、32才で帰らぬ人となった。

 思うに、町で見かける『大人が変われば、子供も変わる』という看板は大いなる真理である。弟が不登校を始めた時点で、母が「金策生活」をやめて家庭に入れば、最小限のダメージ(トラウマ)で済んだであろうに、そうしなかった。子育ての真理に反していたのだ。

 弟は心を狂わせてしまったが、自分は人生が狂ってしまった。

 「まあ、死ぬまでは生きてみよう・・・」

 これが自分のかなり早い時期(高校入学前後だったと思う)の、ある種の諦観だった。今でもそれが続いていると言ってもいい。希望はほとんど無いに等しかったが、絶望に引きずり込まれることもなかった。弟よりスポーツなんかが得意だったことで気を紛らせる機会が多かったのと、少しは楽観的に生まれついたせいなのかもしれない。

 上の姉と兄もやはりそれぞれに心にトラウマを抱えながら生きて来た。姉はここ10年くらい、やや、被害妄想的言動が多くなっている。もともと陽気な人だけに、落差が募ると人が変わったようで気の毒に感じてならない。義兄が亡くなったばかりで動揺もしているのだろう。

 兄は出版社を勤め上げ、今、第二の人生を送っているが、人との交流もよくできる人で、自分のトラウマをうまく制御しつつ、傍目からはよく気の付く面倒見の良い人で通っている。だが、4人の子供たちが言うには、「母親が二人いるみたい」、と、世間における兄への評価は家庭内では散々である。実母がずっと勤めに出ていたので、何でも自分でやる・抱え込むという癖がついたためだと思われる。娘たちよ、そう言いなさんな。

 おやおや、インフルエンザで「死に損なった」わけでもないのに、人生回顧とはどうしたことか。確かに高熱の寝床でちらちら頭に浮かばなかったと言えば嘘になるが・・・。・・・それに誕生日も重なったしナ。

 言いたい放題の序でに

   最低だが、最悪ではない我が人生、生きてみようよ死ぬまでは

                         「回生の誕生日」、これにて・・・。

 

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コメント

 ゲゲの女房が人気を博し、荒俣先生も彼の弟子とかで驚きましたが、その会話の中で「あまり一所懸命にやらないで、寝たいだけ寝た方が良い」とおしゃったとき、正直「冗談じゃない、そんなことをしていたら日本は滅ぶ」と思い、ある種の嫌悪感を覚えたものですが、最近は、計算力が電卓に変わり、教育における計算力が意味を問われるように(知識の形態、ありようといった方が良いのか?)インターネット出現によって、教育のあり方を問わねばならない時代に来ているような気がします。
 さらには、生身の人間の我々が、機械ではあるまいし、百分の一秒進むとか言った競争哲学が有って良いのか?記憶が今の二倍とか、まさに人間をサイボーグ視しているかのような教育は正しいのか、考えさせられるところです。
 ましては、社会人おきましては、ちょと名の売れた第一線の社員のほとんどが鬱なのではと思ったりします。

投稿: わん | 2011年1月14日 (金) 17時35分

 政治家は最近、組閣とかで我々の賀詞交換会には10人しか来ておりませんでしたが、その中の政治家が言っておりました言葉をお借りすれば、
 とりまとまりませんが(なかなかうまい表現だと思いませんか)、此処をご紹介申し上げた(ご本家を紹介いたしました)方のお話ですと「すごいね~」ですと。
 私は、本家よりこちらを是非お続け頂きたいと思う次第です。是非!

投稿: わん | 2011年1月14日 (金) 17時48分

 このごら、気のた、鹿児島ん臭ざん、すっ処いが無じゃ~な~!まこちやっけなもんごわんさ~。

投稿: わん | 2011年1月14日 (金) 17時56分

気のたーーー>気の利いた
教育立県鹿児島の知的レベルも、落ちもしたどかいや~。

投稿: わん | 2011年1月14日 (金) 18時01分

風邪は完治しましたか
2月の山宮神社の祭りで伺いました

高熱にうなされると
幼い頃の夢をみますよね。
私も在京時代、難病の劇症肝炎で
高熱に。。。
手術を3回やってなんとか一命を。
そして帰郷しました。

お互い、残された人生悔いなくでしょうか
歴史探訪リンク致します

投稿: nick | 2011年1月20日 (木) 17時16分

 nickさん、コメントおよびリンク有難うございました。
 南九州の歴史は古くかつ華々しいものがありました。
 中央史観による蛮族視を覆していきたいものです。

投稿: kamodoku | 2011年1月20日 (木) 20時15分

今更ですが、青少年期の先生の苦悩を垣間見て、松下先生の人柄を知りました!
「最低だが、最悪ではない、我が人生、生きてみようよ、死ぬまでは」
達観した人生観で、吉田松陰の死生観と重なります!

今まで、先生は高校の教諭だと推察していましたが、そうではなかったことが驚きです!
一般人でこれほど、知識が豊富とは、頭が下がります。

僕の知人で、父に反抗し、夜間高校、2部の大学に行った人がいますが、青少年期の家庭環境は、重要です。 
知人のおじ達は、公認会計士や国会議員をやった頭脳明晰の家系で、知人も普通に育っていたなら、今頃、名を残したかもしれません!

僕など足軽どころか、水のみ百姓以下で終わる人生です。

投稿: しろまろ | 2011年2月12日 (土) 22時58分

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