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鹿屋城址が変貌

 鹿屋城は別名「亀鶴城」といい、一説では建治年間(1270年代)に串良地頭だった津野四郎兵衛尉という人物が築造したという。南北朝時代以降、肝付氏の分流である鹿屋氏が入城していたようだが、記録は残っていない。

 城は笠野原台地と高隈山の間を肝属川がえぐってできた鹿屋市中心部に面し、台地の突出部を巧く利用して築かれており、平地に造られた城としては高低差が大きく、難攻不落だったと思われる。

 今冬、二の丸の突端部にある展望所脇の急峻な崖に生えていた竹や潅木がすべて伐採され、見違えるほど見通しがよくなったので行ってみた。23227kanoyajou_004_2  先ず鹿屋城のすべてが遠望できるところを探したら、鹿屋市中央公園の奥にある小動物公園に行き着いた。ここにはキジやオウムなどの鳥類のほかタヌキなどの哺乳類も飼育しているが、普段、客はめったに見ない。

 実はここも鹿屋城の範囲らしい(今城という)。23227kanoyajou_002  北のフェンスの向うに見える丘全体が鹿屋城址で、冬枯れの茅のような茶色の部分は崖で、今回丸坊主にされたのは向かって右手の、手前に二つのビルが並んでいる箇所だ。ビルのうち赤い壁のあるのが「鹿屋観光ホテル」。その右は4階建てのマンション。23227kanoyajou_005  マンションの辺りを大手町という。マンションの高さが15メートルとすると、上に見える二の丸突端の展望所はゆうにその倍の30メートル、おそらく40メートル近くあるだろう。崖の急峻なことは左手の斜面を見れば一目瞭然。90度とはいわないが80度くらいの傾きはある。しかもシラスがむき出しである。23227kanoyajou_010  鹿屋市保健総合センター信号から城跡への道を上がり、交通止めの柵の間から通路を登って行くと桜を植樹した二の丸址に出る。ここから本丸跡へは階段を上がってすぐだ。23227kanoyajou_011  本丸とは反対側を振り返ると、鉄筋の古い展望所がある。手前の石碑は詩人・野口雨情が昭和15年に鹿屋を訪れた際に作ったという「鹿屋小唄」の一節を刻んだもので、歌詞にはこうある。

 “ 空の青さよ 高隈山に かかる雲さへ かかる雲さへ ひとつない ”

 残念ながら碑の建つ場所から高隈山は見えないが、鹿屋市街地のどこからでもよく見える。4年前にオープンしたリナ・シティの屋上からの眺めがすぐれている。23227kanoyajou_009  伐採跡も生々しい崖の上から東方向を望む。画面真ん中の少し上に二つの大きな白壁が建っているが、あれがリナ・シティである。ホール・ミニシアター・プラネタリウム・体育館・各種研修室そして24時間ストアもある複合文化・商業施設だ。23227kanoyajou_007_2  南方向はまさに崖の突端、船の舳先のように尖がっている。よくこんな箇所の伐採が出来たものだ。この真下に鹿屋観光ホテルとあのマンションがあるはずだが覗き込めない。

 それにしても大雨が降ったらどうなるのやら。むき出しのシラス崖なのである。23227kanoyajou_013  再び下に降り、旧北田池から二の丸(赤い壁のビルの上)と中城址(左手の崖の上)を見上げる。

 北田池は戦後しばらく、市民のプールとして整備使用されていたという。その頃はまだ水も豊富だったのだろう。赤い壁の観光ホテルは、昔の「水泉閣」という名高い料亭の後身らしいが、むき出しのシラス崖は似つかわしくない。

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しろまろ氏への回答④

 しろまろ氏からの以前の質問で、<鹿児島の伊敷に追捕使として入部した肝付氏の先祖である「伴兼行」の孫の「兼貞」が、都城の島津庄を拓いた「平季基」の娘婿となり、季基の実質的な後継者となったのだから「平兼貞」を名乗ればよかったのにそうしていないのはなぜなのか?> とあり、それに答えて

――壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、源氏の世になった時点で、「平姓」は名乗れなくなった。

と回答したが、最近、再びこれに関してしろまろ氏から質問があった。それは 

 <源氏が棟梁になったのは頼朝の時代で、壇ノ浦で平家を滅ぼし、守護地頭を制定して全国に威令を発したのが1185年。そして頼朝が死んだのが1199年で、差し引き14年しか源氏の世は続かず、頼朝の妻の実家「北条氏」が執権として最高権力を握った。しかも北条氏は平姓を名乗っているのであるから、上の回答「源氏が天下を取ったので、平姓が名乗れるはずがない」との考えは成り立たないのではないか?> との再質問であった。

 これに対してはまず幕府を開設できる絶対条件としての「征夷大将軍」という朝廷の任命の重さを考えておかなければならない。鎌倉幕府は頼朝死後も頼朝直系の頼家(2代)、実朝(3代)と源氏の将軍は1219年まで差し引き27年続き、その後は皇族を将軍に擁立し、いわゆる「建武の親政」まで、実質的には執権北条氏の天下であった。

 北条氏は天下人となったのであるから、もし「平姓」であることが正しければ、(今のわれわれから見たら)堂々と「平時政」とか「平時宗」などと名乗ればよかったはずで、そうしなかったのはなぜなのかー―を考えれば、自ずと上の疑問への回答になるでしょう。

 つまり頼朝は朝廷から公職である「征夷大将軍」を認可されて幕府を開いた。「征夷」は「夷敵を征伐すること」で、当時のその「夷敵(朝敵)」とはまさにそれまでの天下人「平家」だったわけです。そんな時に平氏は実質上、名乗れないし、朝廷からの認可も下りないでしょう。

 ※ 追伸・・・【おおすみ歴史講座】の高山郷の記事中「曹渓山 瑞光寺」の項で<肝付兼氏が父・兼元のために建立>とある部分、ご指摘の通り、兼氏と兼元は逆で、<兼元が父・兼氏のために建立>のミスでした。訂正します。

 

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県下一周駅伝

 今日の午後3時近く、19日の土曜日から5日間にわたって行なわれている「県下一周駅伝」は、今日で4日目、勝負も大詰めを迎えたレースの応援に立った。

 2時50分頃だったか、所用で出かけていて田崎神社近くを通りかかったところ、県下一周駅伝第四日目の最後のゴール地点・鹿屋市役所に向かって、鹿児島チーム・川辺チーム・曽於チームなどの後に肝属チームが走ってきた。23222ekiden_001  あと500メートルほどで4日目のゴールである鹿屋市役所前なので、みなストライドを伸ばし、必死の形相で走ってくる。23222ekiden_002  沿道の市民は惜しみない拍手で応援している。その中に不思議な集団がいた。23222ekiden_003  よく見ると、その集団は法被などを着ている。そう、今日は田崎神社の「お田植え祭」なのであった。神事の途中で応援に降りてきたらしい。よくよく見ると、一番右手の鮮やかな青の法被姿の人のすぐ左側には「べぶんこ」(お田植え祭で鋤を引く牛の木型)がある。

 田崎神社は「七狩長田貫神社(ななかりおさたぬきじんじゃ)」というめずらしい名称を持っている(七狩長は文字通り狩猟の神。また田貫は田主の意味)。

 神社の伝承によると、創建年代は不明だが伊勢国の住人・田丸玄蕃(たまるげんば)という人が山城国の大社・賀茂神社の祭神「別雷命(わけいかづちのみこと)」を奉祭して鹿屋に下ってきて、祭るようになったという。

 大隅は「鴨着く(かもどく)島」であったから、ここに鴨一族をまつる京都の加茂神社から勧請したのは筋が通っている。もっとも、別雷の神は「上賀茂大社」の祭神であるので、上記の「賀茂神社」は「上賀茂神社」が正しい。

 別雷命はもう一つの賀茂神社「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」の祭神「賀茂建角身(かもたけつぬみ)」の孫に当る。大隅地区では串良下小原の「萬八千神社」が鴨系神社としては名高い。

 

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飫肥を訪ねて(宮崎県日南市)

 都城市であった息子の結婚式に参列した東京の兄一家を日南の飫肥に案内した。

 都城から、県道33号線という三股町から鰐塚山地を越えて行く道路をとって約45分、飫肥の市街地に到着した。23213obiryokou_006_2  町に入ると沿道の商店街の造りが明治以前のたたずまいになっているのにも驚きだが、それ以上に驚いたのが「電信柱」の無いことだ。空がやたらに広々と見える。23213obiryokou_003  昼をだいぶ過ぎて到着したので、まずは腹ごしらえと、観光案内所で教えてもらった「あぶりカツオ定食」の食べられる店に入り、舌鼓を打った。向こうに見えるのは早々と飾られた雛人形。23213obiryokou_002  別の部屋には「下がり雛(垂らし雛)」が下がり、風情を誘っていた。23213obiryokou_004  食後、商家資料館や小村寿太郎記念館・豫樟館などを見て回り、最後は飫肥城に行った。23213obiryokou_007  飫肥城本丸跡。500坪くらいの平坦な跡地に5、60年は経っていそうな「飫肥杉」がすっくと立ち並んでいる。林の間の地面が白っぽいのは、雪ではなく「新燃岳」の噴火による降灰の跡だ。23213obiryokou_011  大手門の前で記念撮影。兄の長男が見えないが、どこか他の場所を見て回っていたらしい。23213obiryokou_014  兄の長男と兄嫁。23213obiryokou_013  飫肥で最後のアミューズメントは「四半的(しはんまと)」。座したまま射る弓だ。長女の構えはなかなかのもの。

 九州の南の外れまで来て、意外と楽しめたことにみんなは満足していたようだ。

 青島のホテルまで送り届け、再会を約束して別れた。

  (追伸)

 飫肥城歴史資料館の館長さんのブログ「ようこそ飫肥城http://osiro589.blog77.fc2.com/」には来館した観光客の写真を撮り、それを載せている。兄一家のはこれである。(館長はプロフィールによると、徳川時代直前に秀吉により飫肥を安堵されて以来、幕末まで280年ほど領主であった伊東氏の末裔であるらしい。)Photo  

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北方領土

 2月7日は「北方領土の日」。

 北方領土は歯舞・色丹・国後・択捉の北海道に近接した4島で、1945年以来ソ連に占領され、ソ連崩壊後はロシアにそのまま占拠され続けている。

 北方の千島列島、南樺太は戦前は日本の領土であったのだが、太平洋戦争中のヤルタ会談(1945年1月)における「秘密協定」で、アメリカのルーズベルト大統領が、ソ連のスターリンに対日参戦を促すために与えた言質がモトになり(日本にとってはアダになり)、ソ連が日ソ平和条約を一方的に破棄して攻め込み、我が物としたのである。

 秘密協定にしろこの協定はソ連に対しては有効性を持つのだが、ソ連が崩壊したら破棄されなければならない筋のものだろう。だが、ロシアはそんなことは知らぬ半兵衛を決め込んで居座っている。

 アメリカもそのことを指摘しないといけないのだが、素知らぬ顔だ。もしロシアに北方領土からの撤退を迫るとしたら、沖縄をはじめ日本各地にある米軍基地という「軍事的占拠地」(「日本を守るため」とは日米安保の言い方だが・・・)も俎上に載せざるを得なくなるからだろう。

 日本は対英・米戦争に負けたのだから仕方がない、という考えもあるが、そもそも日本が英米に対して挑んだのは「国際社会における人種差別を無くして行かなければならない」というパリ講和会議(1919年)において日本が提案した議案を、当時の議長アメリカのウィルソンが完全無視したことに端を発している。

 当時の講和会議では日本案に賛成する国が多数を占めたにもかかわらず、ウィルソンは他の議案については多数決で決めながら、その日本の提議に対してだけは「全会一致でなければならぬ」と、一蹴し、なおかつ早々に帰国してしまったのである。

 アメリカは当時「人種のるつぼ」であり「人種差別のるつぼ」でもあった。黒人には公民権はなく、日本人もパリ講和会議であのような提案をしたがゆえに同じ講和会議の翌年(1920年)には、カリフォルニア州では人種差別の典型である「排日土地法」が成立し、日本人への土地譲渡は禁止されている。

 欧米で「黄禍論」が唱えられたのも黄色人種である日本人の国際政治への台頭を念頭においていた。今日なら日本に代わってさしあたり中国がその標的になろう。(といって戦前ほどの「黄禍」は叫ばれないだろうが・・・)。

 ロシアの北方領土占拠問題が飛び火した感があるが、国際政治はタイムスパンを長くして見なければ真相はつかめない。

 アメリカの人種差別は半黒人(妻は純粋の黒人)のオバマ大統領の出現で完全に無くなったと思うので、以上のような世界史への理解を期待したのだが、「大西洋憲章」(1941年8月)「ヤルタ会談」「ポツダム宣言」という反日・汎欧米的世界戦略の枠組みはどっこいまだ生きていると考えるほかない。

 この枠組みから抜け出るためには、「永世中立宣言」(ただし武装はする)を出し、いったんは国連を脱退し、日本の採るべき道を国際社会にアピールし続け、世界に以上のような理解をさせた上で、再度、国連に入りなおすという手もある。北方領土もその流れの中で「国際司法裁判所」に訴えるなどしておくべきだ。

 いずれにしても北朝鮮のような「世界の孤児」にならないよう、情報は発信し続けなければならない。

 

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都城の豪灰(宮崎県都城市)

 所用があって都城に行ったが、聞きしに勝る新燃岳の豪灰禍には驚いた。

 町の幹線道路を走って眺めると、灰色にくすんだ風景が広がっている。23206miyakonojougouhai_006  ショッピングセンターの前の植栽も、葉という葉がすべて火山灰をかぶったままだ。23206miyakonojougouhai_005  近郊の三股町ではさらに驚くべき光景があった。23206miyakonojougouhai_004  とある家の門の前には道路を掃除した後の「灰の山」が積まれていた。23206miyakonojougouhai_003  道路の灰を除去していた家族。今日は家の前の道路の灰を集めたが、ガードレールのそばに点々とゴミの透明袋に入れた灰が並んでいる。一つの袋は15キロ、2,30袋は集めた。23206miyakonojougouhai_002  裏の畑には1月27日の灰神楽のあとが手付かずに残っていた。黒土は全く見えず、まるで砂丘のようだ。23206miyakonojougouhai_001  たった一日の豪灰で積もったその深さ、約2センチはある。

 幹線道路は鹿児島市から応援に駆けつけた「ロードスイーパー」で灰を除去したが、市道や農道は人力に頼らざるを得ない。しかし田畑はどうしようもない。葉物野菜は壊滅、ビニールハウスはいいかかと思えば、日照不足で生育が遅れている。この地区の一番茶も出荷できないそうだ。

 都城地方では鳥インフルエンザも口蹄疫も発病していないが、それが救いといえば救いである。

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霧島新燃岳噴火小史

 霧島連山の新燃岳の噴火は2月4日(立春)の今日で10日目を迎えたが、一向に収まる気配はなく、むしろ火口を完全に塞いだ溶岩ドームは大きくなるばかりで、早く見ればあと数日で火口壁を乗り越え、火砕流となる可能性が出てきた。

 火砕流となれば、あの雲仙普賢岳の惨事の二の舞になる。問題はどちら側に流れるかで、地図で見る限りではどうも南西側に行くようで、秘境の名湯・新湯温泉はその通り道になるのではないかと心配である。

『三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)』(全60巻)は幕末に近い天保14(1843)年に薩摩藩が編纂した薩摩・大隅・日向三国にわたる地理歴史書であるが、その第33巻の「大隅国曽於郡・曽於郡之一」に <襲之高千穂槵日二上峯(そのたかちほのくしひのふたかみのみね)> という項が立てられ、高千穂峯についての記述が記紀神話と絡めて詳しく書かれている。

 その中に新燃岳についての記述がある。高千穂峯の記述の最後のほうに <〇西峯発火> という小項目が立てられているが、それこそが新燃岳のことである。

 これによると新燃岳の噴火の歴史が簡略ではあるがよく分かる。以下に列挙してみる。

 ・延暦七年(西暦788年)…桓武天皇時代。この年の3月4日に大噴火を起こし、黒煙が上がったのち噴石が雨のように降り、山麓は5、6里(約20キロ)まで火山灰が積もる。その深さは二丈(6メートル)。灰の色は黒色である。(『続日本紀第39巻・桓武天皇』)

 ・天永三年(1112年)…鳥羽天皇時代。2月3日から噴火が始まる。

 ・文暦元年(1234年)…四条天皇時代。12月28日に噴火し、霧島山中・山麓の神社仏閣はみな焼ける。

 ・天文二十三年(1554年)…後奈良天皇時代。この年から、弘治元年(1555)まで噴煙を上げ続ける。

 ・永禄九年(1556年)…正親町天皇時代。9月9日に噴火し、人が多く焼け死ぬ。

 ・天正四年(1576年)…正親町天皇時代。この年から天正6年まで噴煙を上げる。

 ・慶長三年(1598年)…後陽成天皇時代。この年から慶長5年まで噴煙を上げる。

 ・元和三年(1617年)…後水尾天皇時代。この年から翌年まで噴煙を上げる。

 ・萬治二年(1659年)…後西院天皇時代。この年から寛文元年(1661)まで噴煙を上げる。また寛文二年(1662)から、霊元天皇の寛文四年(1664)まで噴煙を上げる。

 ・享保元年(1716年)…中御門天皇時代。9月26日に噴火。翌2年(1717)、正月7日にもまた噴火する。

 ・明和八年(1771年)…後桃園天皇時代。この年から翌9年(1772)まで噴煙を上げる。

 天保14年(1843)に上梓された『三国名勝図会』の記載では以上の11回であるが、この中でも最後から2番目の享保元年と翌二年の噴火はすさまじかったらしい。本文に割注を入れて、その被害の範囲と状況を書いている。

 それによると享保元年(1716年)9月26日のは、

 <狭野神社(高原郷)・神徳院・霧島東御在所社・錫丈院・霧島中央宮(小林郷)・瀬戸尾寺、および高原・高崎・小林などの家屋や山林がみな焼失した。一説によると、東霧島社(高城郷)もこの時に焼けたという。>

 とあり、山頂から7~8キロの範囲が甚大な被害(火砕流によるか?)をこうむったことが見え、翌二年(1717年)正月7日のは、

 <諸県郡諸邑田園、前後被災者(は)、13万6千3百余区という。>

 とあるから、被災範囲はさらに広く、都城を中心とする諸県地域では田んぼが13万枚以上火山灰に覆われてしまったようである。当時の田んぼ一枚の広さがどのくらいなのか分からないが、仮に一枚が平均して1アール(1畝=100平方メートル)とすると、136ヘクタール余りとなり、2000石くらいの減収になったとではないかと思われる。

 どちらも人的被害については書かれていないが、当然あっただろう。また、神社仏閣などが焼けると仏像や古文書などが消失するが、これも大きな被害である。

 今回の噴火はこの約300年前の噴火に匹敵する可能性が高いようだ。災害復旧活動は当時とは比べようもなく進歩し、迅速になったが、降灰等による経済的損失はむしろ当時より大きくなるのではないだろうか。最小の被害で収まってほしいものだ。

  

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