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霧島新燃岳噴火小史

 霧島連山の新燃岳の噴火は2月4日(立春)の今日で10日目を迎えたが、一向に収まる気配はなく、むしろ火口を完全に塞いだ溶岩ドームは大きくなるばかりで、早く見ればあと数日で火口壁を乗り越え、火砕流となる可能性が出てきた。

 火砕流となれば、あの雲仙普賢岳の惨事の二の舞になる。問題はどちら側に流れるかで、地図で見る限りではどうも南西側に行くようで、秘境の名湯・新湯温泉はその通り道になるのではないかと心配である。

『三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)』(全60巻)は幕末に近い天保14(1843)年に薩摩藩が編纂した薩摩・大隅・日向三国にわたる地理歴史書であるが、その第33巻の「大隅国曽於郡・曽於郡之一」に <襲之高千穂槵日二上峯(そのたかちほのくしひのふたかみのみね)> という項が立てられ、高千穂峯についての記述が記紀神話と絡めて詳しく書かれている。

 その中に新燃岳についての記述がある。高千穂峯の記述の最後のほうに <〇西峯発火> という小項目が立てられているが、それこそが新燃岳のことである。

 これによると新燃岳の噴火の歴史が簡略ではあるがよく分かる。以下に列挙してみる。

 ・延暦七年(西暦788年)…桓武天皇時代。この年の3月4日に大噴火を起こし、黒煙が上がったのち噴石が雨のように降り、山麓は5、6里(約20キロ)まで火山灰が積もる。その深さは二丈(6メートル)。灰の色は黒色である。(『続日本紀第39巻・桓武天皇』)

 ・天永三年(1112年)…鳥羽天皇時代。2月3日から噴火が始まる。

 ・文暦元年(1234年)…四条天皇時代。12月28日に噴火し、霧島山中・山麓の神社仏閣はみな焼ける。

 ・天文二十三年(1554年)…後奈良天皇時代。この年から、弘治元年(1555)まで噴煙を上げ続ける。

 ・永禄九年(1556年)…正親町天皇時代。9月9日に噴火し、人が多く焼け死ぬ。

 ・天正四年(1576年)…正親町天皇時代。この年から天正6年まで噴煙を上げる。

 ・慶長三年(1598年)…後陽成天皇時代。この年から慶長5年まで噴煙を上げる。

 ・元和三年(1617年)…後水尾天皇時代。この年から翌年まで噴煙を上げる。

 ・萬治二年(1659年)…後西院天皇時代。この年から寛文元年(1661)まで噴煙を上げる。また寛文二年(1662)から、霊元天皇の寛文四年(1664)まで噴煙を上げる。

 ・享保元年(1716年)…中御門天皇時代。9月26日に噴火。翌2年(1717)、正月7日にもまた噴火する。

 ・明和八年(1771年)…後桃園天皇時代。この年から翌9年(1772)まで噴煙を上げる。

 天保14年(1843)に上梓された『三国名勝図会』の記載では以上の11回であるが、この中でも最後から2番目の享保元年と翌二年の噴火はすさまじかったらしい。本文に割注を入れて、その被害の範囲と状況を書いている。

 それによると享保元年(1716年)9月26日のは、

 <狭野神社(高原郷)・神徳院・霧島東御在所社・錫丈院・霧島中央宮(小林郷)・瀬戸尾寺、および高原・高崎・小林などの家屋や山林がみな焼失した。一説によると、東霧島社(高城郷)もこの時に焼けたという。>

 とあり、山頂から7~8キロの範囲が甚大な被害(火砕流によるか?)をこうむったことが見え、翌二年(1717年)正月7日のは、

 <諸県郡諸邑田園、前後被災者(は)、13万6千3百余区という。>

 とあるから、被災範囲はさらに広く、都城を中心とする諸県地域では田んぼが13万枚以上火山灰に覆われてしまったようである。当時の田んぼ一枚の広さがどのくらいなのか分からないが、仮に一枚が平均して1アール(1畝=100平方メートル)とすると、136ヘクタール余りとなり、2000石くらいの減収になったとではないかと思われる。

 どちらも人的被害については書かれていないが、当然あっただろう。また、神社仏閣などが焼けると仏像や古文書などが消失するが、これも大きな被害である。

 今回の噴火はこの約300年前の噴火に匹敵する可能性が高いようだ。災害復旧活動は当時とは比べようもなく進歩し、迅速になったが、降灰等による経済的損失はむしろ当時より大きくなるのではないだろうか。最小の被害で収まってほしいものだ。

  

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コメント

こんばんは。新燃岳の江戸時代の噴火について知りたいと思い検索したら辿りつきました。詳しい情報をUPしていただきありがとうございます。改めて火山のもとに暮らしがあったことがわかります。火山があるのに温泉の恩恵だけで噴火があることをすっかり忘れてましたね。本当によく残していただいたと思います。人間の賢明な判断は歴史の良識からだと言われますが、過去の歴史を忘れず、現代に照らしあわせ、自分のものとしていくことが大事ですね。経験していないことを後世に繋いでいくことは難しいですが、今は様々なメディアが有りますから事実を何世代にも渡って残しやすいように思います。
ところで都城周辺は正月にシラスを庭に撒きますが、よく神聖なる気持ちで正月を迎えるためと言われますが、これも噴火や災害を忘れないようにという意味はないのでしょうか?

投稿: nagano | 2011年2月 5日 (土) 02時10分

 本当にすばらしい資料です。温泉の温度が通常60℃安定だったのが噴火前には40℃~70℃に不安になったり、おそらく桜島の噴火の多さも予兆だったのでしょう。それにしても温故知新というか、歴史の凄みですね。今後は、このブログのような以前に無い形態の記述が写真付きで、場合によっては動画付きで残っていくのでしょうね。500年後にここのブログは残っているでしょうか?そう考えると意味のあるブログは、今は有りませんが後継者を決めて、引き継いで行くというルール作りも必要かも(笑)?プロフィールの所に、後継者何某(Mr So-and-so)が無いとブログを作れないとか(爆笑)。

投稿: わん | 2011年2月 7日 (月) 07時13分

高千穂町歴史民俗資料館の学芸員の緒方俊輔です。高千穂町文化財保存調査委員の碓井哲也さんが矢津田文書(高千穂町指定有形文化財)の中の「珍書雑記」の中に新燃岳の享保元年の記録を見つけれました。
向山村庄屋飯干覚野右衛門が書いた記録を向山村庄屋兼帯飯干栄左衛門が所持していて、七折村の佐藤伊兵衛が書き写した物を天保6年未閏7月に五ヶ所村庄屋の矢津田喜多治義廣が宮水代官所で書き写したものです。
「享保元十月頃より霧島だけ殊の外の火石三万石。外にすなにてうもる事。ここ元より火見ゆる。明ル三月しづまる。」と書かれています。
当時向山庄屋は石原地区にあったといわれていますが、南側に山があるので庄屋屋敷からでは新燃岳の火を直接は見ることができないと思います。よって、向山村の高い山(諸塚山とか)に登って見たと思われます。
同じ記録には、延宝8年11月に「西の方へほうきぼし出ル。」とあり、キリッチ彗星の記録があります。
これまで知られていたキリッチ彗星の記録としては、宮崎県「宮崎県史史料編近世1」1991年のP218に「高千穂町大字上野の正念寺文書」があり、その中に五ヶ瀬町の「高千穂三ヶ所眞楽寺方順日記」を正念寺の寛隆が写した記録が残っており、延宝8年(1680)の記録として次の記載があります。
「延宝八年かのへさる十月初より
○西の山はほシよりけむり出、其けむりノはば三尺程ニして、東六分迄ニひき渡り申候、此ほシ三十日程、其ことくに御座候、此ほシノ名よねほシと申候。」と書いています。
いずれにしても、記録することの重要性を再認識させられる発見です。
最後に、新燃岳が一刻も早く沈静化しますことをお祈りします。

投稿: 緒方俊輔@高千穂町歴史民俗資料館 | 2011年2月 9日 (水) 11時15分

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