鹿屋城址が変貌
鹿屋城は別名「亀鶴城」といい、一説では建治年間(1270年代)に串良地頭だった津野四郎兵衛尉という人物が築造したという。南北朝時代以降、肝付氏の分流である鹿屋氏が入城していたようだが、記録は残っていない。
城は笠野原台地と高隈山の間を肝属川がえぐってできた鹿屋市中心部に面し、台地の突出部を巧く利用して築かれており、平地に造られた城としては高低差が大きく、難攻不落だったと思われる。
今冬、二の丸の突端部にある展望所脇の急峻な崖に生えていた竹や潅木がすべて伐採され、見違えるほど見通しがよくなったので行ってみた。 先ず鹿屋城のすべてが遠望できるところを探したら、鹿屋市中央公園の奥にある小動物公園に行き着いた。ここにはキジやオウムなどの鳥類のほかタヌキなどの哺乳類も飼育しているが、普段、客はめったに見ない。
実はここも鹿屋城の範囲らしい(今城という)。 北のフェンスの向うに見える丘全体が鹿屋城址で、冬枯れの茅のような茶色の部分は崖で、今回丸坊主にされたのは向かって右手の、手前に二つのビルが並んでいる箇所だ。ビルのうち赤い壁のあるのが「鹿屋観光ホテル」。その右は4階建てのマンション。
マンションの辺りを大手町という。マンションの高さが15メートルとすると、上に見える二の丸突端の展望所はゆうにその倍の30メートル、おそらく40メートル近くあるだろう。崖の急峻なことは左手の斜面を見れば一目瞭然。90度とはいわないが80度くらいの傾きはある。しかもシラスがむき出しである。
鹿屋市保健総合センター信号から城跡への道を上がり、交通止めの柵の間から通路を登って行くと桜を植樹した二の丸址に出る。ここから本丸跡へは階段を上がってすぐだ。
本丸とは反対側を振り返ると、鉄筋の古い展望所がある。手前の石碑は詩人・野口雨情が昭和15年に鹿屋を訪れた際に作ったという「鹿屋小唄」の一節を刻んだもので、歌詞にはこうある。
“ 空の青さよ 高隈山に かかる雲さへ かかる雲さへ ひとつない ”
残念ながら碑の建つ場所から高隈山は見えないが、鹿屋市街地のどこからでもよく見える。4年前にオープンしたリナ・シティの屋上からの眺めがすぐれている。 伐採跡も生々しい崖の上から東方向を望む。画面真ん中の少し上に二つの大きな白壁が建っているが、あれがリナ・シティである。ホール・ミニシアター・プラネタリウム・体育館・各種研修室そして24時間ストアもある複合文化・商業施設だ。
南方向はまさに崖の突端、船の舳先のように尖がっている。よくこんな箇所の伐採が出来たものだ。この真下に鹿屋観光ホテルとあのマンションがあるはずだが覗き込めない。
それにしても大雨が降ったらどうなるのやら。むき出しのシラス崖なのである。 再び下に降り、旧北田池から二の丸(赤い壁のビルの上)と中城址(左手の崖の上)を見上げる。
北田池は戦後しばらく、市民のプールとして整備使用されていたという。その頃はまだ水も豊富だったのだろう。赤い壁の観光ホテルは、昔の「水泉閣」という名高い料亭の後身らしいが、むき出しのシラス崖は似つかわしくない。
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