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しろまろ氏への回答④

 しろまろ氏からの以前の質問で、<鹿児島の伊敷に追捕使として入部した肝付氏の先祖である「伴兼行」の孫の「兼貞」が、都城の島津庄を拓いた「平季基」の娘婿となり、季基の実質的な後継者となったのだから「平兼貞」を名乗ればよかったのにそうしていないのはなぜなのか?> とあり、それに答えて

――壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、源氏の世になった時点で、「平姓」は名乗れなくなった。

と回答したが、最近、再びこれに関してしろまろ氏から質問があった。それは 

 <源氏が棟梁になったのは頼朝の時代で、壇ノ浦で平家を滅ぼし、守護地頭を制定して全国に威令を発したのが1185年。そして頼朝が死んだのが1199年で、差し引き14年しか源氏の世は続かず、頼朝の妻の実家「北条氏」が執権として最高権力を握った。しかも北条氏は平姓を名乗っているのであるから、上の回答「源氏が天下を取ったので、平姓が名乗れるはずがない」との考えは成り立たないのではないか?> との再質問であった。

 これに対してはまず幕府を開設できる絶対条件としての「征夷大将軍」という朝廷の任命の重さを考えておかなければならない。鎌倉幕府は頼朝死後も頼朝直系の頼家(2代)、実朝(3代)と源氏の将軍は1219年まで差し引き27年続き、その後は皇族を将軍に擁立し、いわゆる「建武の親政」まで、実質的には執権北条氏の天下であった。

 北条氏は天下人となったのであるから、もし「平姓」であることが正しければ、(今のわれわれから見たら)堂々と「平時政」とか「平時宗」などと名乗ればよかったはずで、そうしなかったのはなぜなのかー―を考えれば、自ずと上の疑問への回答になるでしょう。

 つまり頼朝は朝廷から公職である「征夷大将軍」を認可されて幕府を開いた。「征夷」は「夷敵を征伐すること」で、当時のその「夷敵(朝敵)」とはまさにそれまでの天下人「平家」だったわけです。そんな時に平氏は実質上、名乗れないし、朝廷からの認可も下りないでしょう。

 ※ 追伸・・・【おおすみ歴史講座】の高山郷の記事中「曹渓山 瑞光寺」の項で<肝付兼氏が父・兼元のために建立>とある部分、ご指摘の通り、兼氏と兼元は逆で、<兼元が父・兼氏のために建立>のミスでした。訂正します。

 

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コメント

先生の歴史に対する姿勢と情熱には、頭が下がります!

1:なに、初の武家政権は、「平氏政権」か、なるほど、いままで「源氏政権」と認識していたのに。

2:なに、朝廷(京)では、「鎌倉幕府」を「関東」と呼んでいた。幕府と呼ばれたのは、江戸時代になってからか。なるほど!

3:「征夷」とは、東夷を征討するという意味。東夷とは、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のこと。征夷大将軍は、「夷」征討に際し任命された将軍の1つで、太平洋側から進む軍を率いた。なるほど!

4:なに、朝廷の敵は「平氏」、朝廷の敵は「武家政権」でしょう。朝廷は、荘園などの既得権益を、武家政権に奪われるのだから!「源氏」も敵でしょう。

5:実朝は12歳で征夷大将軍となる。全く実権なしか。なに、その後、頼家は21歳で暗殺される。風呂場で、金玉摑まれ首を切られる。むごいな!!
兄弟2は、征夷大将軍の実権なしか。

これじゃ、肝付氏から範囲広げすぎ、撤退します!

投稿: しろまろ | 2011年2月28日 (月) 18時57分

先生の歴史に対する姿勢と情熱には、頭が下がります!

1:なに、初の武家政権は、「平氏政権」か、なるほど、いままで「源氏政権」と認識していたのに。

2:なに、朝廷(京)では、「鎌倉幕府」を「関東」と呼んでいた。幕府と呼ばれたのは、江戸時代になってからか。なるほど!

3:「征夷」とは、東夷を征討するという意味。東夷とは、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のこと。征夷大将軍は、「夷」征討に際し任命された将軍の1つで、太平洋側から進む軍を率いた。なるほど!

4:なに、朝廷の敵は「平氏」、朝廷の敵は「武家政権」でしょう。朝廷は、荘園などの既得権益を、武家政権に奪われるのだから!「源氏」も敵でしょう。

5:実朝は12歳で征夷大将軍となる。全く実権なしか。なに、その後、頼家は21歳で暗殺される。風呂場で、金玉摑まれ首を切られる。むごいな!!
兄弟2は、征夷大将軍の実権なしか。

これじゃ、肝付氏から範囲広げすぎ、撤退します!

投稿: しろまろ | 2011年2月28日 (月) 19時04分

コメント、ミス送信です _(._.)_

投稿: しろまろ | 2011年2月28日 (月) 19時12分

兄弟2は、兄弟二人の誤記です _(._.)_

投稿: しろまろ | 2011年2月28日 (月) 19時30分

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