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桜と楠(鹿屋市野里町)

 鹿児島では3月23日に「桜開花宣言」が出されたが、その後一週間、桜花はなかなか咲き出さない。

 鹿屋市の南部でも、同じ頃にちらほら咲き出したのだが、一週間たってまだ一分咲きにもなっていない。去年も開花後が冷え込み、満開になったのが4月6、7日のちょうど入学式の頃だった。

 今朝は霜まではないものの、かなり冷え込んだが、昨日までの三日間は連続して霜が降りた。3月も末日近くになって3連続の霜とはこれまでにないことだ。23330sakuratokusu_001  それでも咲くところには咲いている。どうも日当たりの良い場所の桜よりも、日陰になるのが早いところの桜のほうが早く咲くようだ。23330sakuratokusu_002  ここのは5分咲きに近い。ただ、日当たりが悪い分、枝の数が少ない。23330sakuratokusu_004  一輪一輪を愛でることは稀だが、数少ない中でこうしてみるとやはり可憐だ。23330sakuratokusu_003  今は桜のほかにまだコブシ、イワツツジ、ハナブソウ、ハナモモなどが家庭の庭などに咲いているが、楠も花こそ咲かないが、古葉を落としながら、新緑が日に日に萌え立つようになって来ている。23330sakuratokusu_005  楠若葉というよりまるで楠赤葉。赤いのは花ではなく新葉だが、花よりも照り輝いて鮮やかだ。

 桜の開花が足踏みしているうちにも、山々はこうした常緑樹の青葉の季節へじわじわと移行している。

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桜島の桜(鹿児島市桜島町)

 中世史研究会の月例会で発表することがあり、鹿児島市の教職員互助会館に行った。この会は黎明館で開かれる場合が多いのだが、どちらにしても出かける時は桜島フェリーを利用する。

 桜島のフェリー桟橋まであと500㍍くらいだったか、山側のガードレールの向うが刈り払われて見通しがよくなっているのに気付き、車を停めて眺めに行った。

 すると桜島山はもちろんだが、すぐそこに、だいぶ葉が出て花びらを落としかけている山桜を見つけた。23327sakurajima_003  「桜島」で連想するのは誰しも桜だろう。今度開通した九州新幹線の名も「さくら」だ。

 ところが桜島は桜とは何の関係もない。黎明館の所に藩政時代の領主居城・鶴丸城があった頃、桜島は海の向うにある島なので「向島」と呼ばれるのが普通だった。

 江戸時代後期の薩摩藩の国学者・白尾国柱の『麑藩名勝考』によれば―11世紀初めに編まれた拾遺和歌集に「大隅守さくら嶋の忠信・・・」、また同じ頃の『本朝文粋』にも桜島忠信という人物が登場することを挙げ、一見するとこの桜島姓から桜島という島の名が付けられたかに思えるが、大隅守に任じられた桜島忠信はいないので、桜島はやはり姓ではなく地名そのものだろう―とし、桜島に鎮座する「五社大明神」の祭神の「コノハナサクヤ姫」の「サクヤ」に由来がありそうだという風に書いている。

 自分もそれに従う。こんなごつごつした火山島とサクヤ姫は似つかわしくないが、サクヤ姫(別名・カムアタツヒメ=神阿多都比売)は二ニギノ命の子を産む時、産屋に火を放ち、その中で無事出産を果たしたといういわれの持ち主である。火には滅法強い姫であるから、活火山桜島にその名を負わせて遜色はあるまい。23327sakurajima_004  山桜よりも道路に近い場所に、こんな大きな溶岩が突っ立っていた。高さ3メートルはあり、桜島を見上げた猿かゴリラの横顔に見える。

 コノハナサクヤ姫には実は姉さんがいて、その名は「石長姫(イワナガ姫)」といい、父の大山津見は二ニギに両方差し出したのだが、姉の方は醜かったので敬遠されてしまった。こんなゴリラのようではなかったろうが、「私を受け入れたら、天孫の命は岩のように永遠に続くのだったのに・・・」と恨み事を言ったらしい。なるほど、向うに見える山桜はおおかた花が散り失せ、もう「姥桜」になっている・・・。

 「石長(イワナガ)」とは実は「祝長」つまり「祝いを長く絶やさない」「祝いの主宰者」の意味だと思うので、上の見方は半ば冗談だが、確かに、花はその季節の一時期で終わってしまうが、ゴリラ岩のような溶岩は岩石の中では真新しい岩だが、それでもここにあんな格好でジーっとしている。大正溶岩(1914年)だとしても、もう100年。安永の溶岩なら240年にもなる。23327sakurajima_001  そんなことを思いつつ乗り込んだフェリーは、早くも鹿児島の埠頭に到着した。(右の建物は鹿児島市立水族館。手前の石造りの護岸は藩政時代の桟橋の名残り。)

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史跡めぐり(鹿屋市輝北町・垂水市牛根)

 3月20日(土)、天気の崩れが心配されたが、「おおすみ歴史講座」を受けている人たちと輝北から垂水の牛根まで、史跡を巡って来た。

 参加したのは総勢9名で、車3台に分乗して出かけた。鹿屋市立図書館下の駐車場に集まり、出発したのがちょうど9時。

 ルートは・・・

 百引郷御仮屋の跡(堂平公民館)―加瀬田ヶ城址(中平房)―登見ノ丘(どげんのおか=市成郷領主・敷根忠頼慰霊の宝筐印塔がある)―廻城址(霧島市福山町)―宇喜多秀家潜居地(平野屋敷)―道の駅たるみず(昼食)―居世神神社―入船城址―太崎観音―宮浦神社(霧島市福山町)―廻城址―<百引・高隈経由>―帰着

 ・・・で、実は、居世神神社で自分の携帯電話が無いことに気付き、同行の人が落ちているのを見たという「廻城址」に、急遽、引き返したため、入船城の後は垂水市街地のほうへ行くはずだったが、上のルートのように福山町に引き返した。

 垂水では垂水元城・領主館跡・垂水島津家墓地などを巡る予定であったが、回ることができず残念であった。またの機会に半日かけて回りましょう―とみんなの了解を貰った。(もっとも2時半くらいから雨が本降りになり、回っても行き着かなかったかもしれない)

23320shisekimeguri_002  加瀬田ヶ城址。本丸への入口にて。

 冬枯れのため生い茂る草も無く、最頂部まで勾配はきついが難なく登ることができた。よく手入れされている。23320shisekimeguri_007  廻(めぐり)城址。本丸の下の広場にて。

 本丸までは向かって右手の細い道を5分ほどで行ける。頂上は測量の三角点があるだけで何もないが、この広場の側(南)以外はすべて切り立った崖である。23320shisekimeguri_009  宇喜多秀家潜居の地(平野屋敷)。

 宇喜多秀家は備前国主。豊臣五大老のひとりで、関ヶ原では反徳川の西軍総大将。小早川秀秋の寝返りで総崩れとなって敗れた後、ひそかに薩摩に落ちてきたのを、薩摩側では黙って受け入れ、この牛根に潜伏させた。

 2年2ヵ月後、徳川方の知るところとなり、身柄は駿府へ送られたが、罪一等を減じられて島流しとなり、八丈島行きとなった。秀家はその地で80余歳まで、50年余りを生き延びたという。23320shisekimeguri_012  福山町から牛根まで比較的単調な海岸線がうねうねと続くが、牛根側に太崎観音という自然の岩礁を利用した小さな観音祠があるが、そこの駐車場の真っ白の「里桜」の花が満開だった。

 このあと福山町の「宮浦神社」を経て、再び廻城に戻ったところ、携帯は本丸跡近くの小道の脇に落ちていた。踏んづけられず、またさほど雨にも濡れず、無事通信できたのはありがたかった。

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天皇の被災者への「お言葉」

 天皇陛下がテレビカメラの前で今回の大震災被災者に対して「お言葉」(メッセージ)を述べられた。もちろん内容は、被災者と救援に当たっている人々への慰労である。23317takenoutisukunetoheika_001  平成7年1月17日に起きた阪神淡路大震災の時は、このような国民への直接の語りかけは無かったから、異例のことである。それだけ被害が甚大なものであることを示している。

 われわれ国民もだが、陛下の心痛もまた深いのであろう。このメッセージが被災地の人々の大きな励ましになることを大いに期待する。

 昨日、長男の元へ仙台工場と営業所に勤務している同僚からの携帯がやっと繋がったそうだ。それによると、結婚式に出てくれた二人は無事であったが、総勢で140人余りいる従業員のうち4名が死亡、8人が安否不明という。

 震災でも何でもない時に、会社の事故か何かでこれだけの死者・安否不明者を出したら、新聞にでかでかと載り、社運が傾くほどのダメージを受けるだろう。だが、今度の大震災ではむしろ少数で収まったと言うべきかもしれない。しかし亡くなった従業員の方々には哀悼の意を表したい。

 工場の完全復旧には一年くらいを要するらしい。その間の仕事と従業員の繋ぎをどう手当てするか、難題が待ち構えているが、何とか「助け合って」(陛下のメッセージ)乗り切ってほしいと思う。

 

 

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とうとう来た巨大地震

 3月11日金曜日の3時半頃だったか、鹿屋市内を車で巡回しているところへ、なぜか、結婚して岡山の勤務先に戻っていた長男から携帯に電話が来た。

 何があったのかと聞くと、「父さん、知らないのか、東北で震度7の地震があったんだよ」と言う。「なに!震度7!?」ちょっとパニクってしまった。

 それにしても長男から電話とは、と、まだ不審は収まらない。「仙台工場と連絡を取ろうとしても全く不通なんだ」・・・そうか今度は呑み込めた。

 長男は今年就職したが、仙台工場や山陽工場にしばらく研修で行っていたのだった。先月の結婚式では、研修が一緒で赴任先は別の仙台からわざわざ来てくれた同僚が二人いる。心配なんだろう。

 それにしても今回の大地震。最初のマグニチュードから1ポイントも上がって9.0というから前代未聞だ。6,7年前のスマトラ沖大地震と同じ規模らしい。

 これを聞いたとき、二日くらい前から三陸沖を震源とするマグニチュード6.6とか7.1とかのかなりの規模の地震があったことを思い出した。その時は、ニュージーランドのあのクライストチャーチの地震の規模が6.3であったのと比べて、「日本列島は6.6や7位じゃどうってことない。地震慣れしているよな」などと高を括ってしまった気がする。

 二日経って次第に全容が明らかになってきたが、これは大変な事態である。政府は一刻も早い救出とライフラインの確保に努めてほしい。阪神・淡路大震災では社会党出身の村山首相が自衛隊の緊急出動をしなかったことで、より一層人的被害を大きくしてしまったが、今回はさすがに過去を学んでいる。

 この大地震に連動するように「長野北部地震・震度6強」「中越地震・震度6弱」が時を置かずに発生しているのが不気味だ。

 東海・南海地震がてぐすねを引いて待ち構えていることを絶対に忘れてはならない。同じ規模の地震がもし首都圏を襲ったらと思うとゾッとする。まさに地獄が現出するだろう。マスコミの本社はほとんどすべて首都圏にあるので、情報ラインは完全に絶たれるはずだ。困ったものだ。早く手を打ったほうが良いのに・・・。

 

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刀剣山に登る(垂水市猿ヶ城)

 <山ガール>が流行っているそうだが、ちょいワルそうなおじさんたちも負けてはいられない。

 というわけで、久しぶりに単独行ではない三人連れの登山となった。

 3月5日土曜日は上天気で、朝は霜が降るほど寒かった。高須学習センター横の駐車場に9時に待ち合わせ、すぐ1台に相乗りして垂水の猿ヶ城渓谷キャンプ場へ向かった。30分で到着し、準備の後、出発。(9:40)2335toukenzan_001  キャンプ場の下に架かる吊り橋を渡って本城川の左岸沿いに300㍍ほど行くと、右手に登山口の案内板がある。2335toukenzan_002  15分ほど歩いたところで後ろからわれわれに追い付いたご老人(と言っては失礼だが、75歳という)に挨拶し、刀剣山のことなどを聞いているうちに、「じゃあ、案内しようか」となった。Oさんである。2335toukenzan_003  Oさんは毎週のように山に来ていると言う。そのせいだろう、われわれはついて行くのがやっとだ。こんな岸壁に掛かった10㍍はあるハシゴもするすると登って行く。2335toukenzan_004  ハシゴの掛かっているところはもう一箇所あり、すぐそばには雨が降れば滝になる岸壁が聳える。2335toukenzan_005  ハシゴの掛かる岸壁を過ぎるともう少しで8合目。ここからは錦江湾が望まれる。手前の岩山はローソク岩。2335toukenzan_006  9合目を過ぎ、三峰から展望所へ(11:50)。ここからは下に本城川と、去年開設されたばかりの「森の駅たるみず」の建物が見える。2335toukenzan_007 展望所で昼食の後は引き返し、一峰と二峰を登って同じ道を下山する予定だったが、Oさんの勧めで9合目から平岳川を経由して、発電所の取水地に下る道をとることになった。

 この写真は9合目からしばらく歩いて来た所にある平岳川下山路と刀剣山縦走コースの分岐点で写した。しかし、最初はこの案内板に気づかず、右手の向うからそのまま手前の道に行ってしまい、大きな岩のところで下りるに下りれなくなって引き返してから、「ああ、こんな立派なのがあったんだ」と苦笑しつつ、案内板のところに並んで写したのである。

 案内板の位置はこの場所のこの向きではなく、反対にカメラを構えたこちら側に立て、右手からあるいは左手から歩いてくる人が気づくように立てて欲しい(苦情である)。2335toukenzan_008 高隈連山の垂水側にそびえる平岳(1102m)を源流とする平岳川の清流に着いたのが14時ちょうど。

 あとひと丘越えると猿ヶ城渓谷の旧道に出る。旧道を15分ほど下ると左手の渓谷に降りる細い道があり、渓流の音が響くと間もなく渓谷の「遊歩道」だ。「猿の踊り場」という岩の上で記念撮影。Oさん、どうもありがとう。6時間の山歩きが無事に終わりました。2335toukenzan_013

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盗っ人ロシアの更なる横暴

 ロシアの大統領が北方領土に上陸して、終戦間際のどさくさに火事場泥棒式に盗んだにもかかわらず、おらが領土と言い張り、あまつさえ中国の企業と合弁で事業を起こすなどとほざいている。

 そのうえ今度は、択捉島にミサイル発射場を建設する、と、盗っ人猛々しくわめいている。なんとも手に負えない連中である。

 こんな国が国連では「安全保障理事会の常任理事国」なのだから、リビアの今は悪人視されているあのカダフィ大佐が一昨年だったか、国連で長広舌を振るった中で 「国連では大国も小国も平等に扱われる――と国連憲章に書いてあるが、常任理事国とそれ以外の国では天と地の開きがある。こんな国連憲章など何の役にも立っていないじゃないか」 と言いながら手にしていた国連憲章を後ろに放り投げたが、あの気持ちは痛いほど分かる。

 国際連合が始まったときの常任理事国は「米・英・仏・ソ連・中国」の5ヶ国だが、その後、中国は中華民国だったのが中共に変わり、ソ連だったのがロシアに変わったのだから、その時点で中共やロシアは理事国から落とすべきだったのだ。

 そうしなかったのは、結局は「対日(対独)封じ込め」つまり英米の取り決めた「大西洋憲章」の精神(というより戦略)がいまだに生きている証拠だ。中共もロシアも<日本を包囲する大事な封じ込めの駒>なのである。

 戦前、日本は唯一欧米の植民地主義(帝国主義)に拮抗するアジアの「一等国」だったが、欧米との有色人種差別か撤廃かの争いで、結果としては敗れはした。しかし戦後、有色人種の国家が次々に独立を果たし、報われることになった。

 日本と戦った頃、アメリカではまだ黒人には公民権という基本権がなかった。自由と民主主義はアメリカに学べと習ったが、そのアメリカで黒人に公共の場における自由が与えられたのは、戦後も25年経った1970年頃のことである。

 今度、半黒人のオバマが大統領になったことで、黒人の名誉はほぼ完全に回復されたと言っていいが、「対日戦勝利のカード」は握って離さないままだ。勤勉でアメリカの言うがままになる日本を離したくないのだろう。日本は、危険な中共とソ連(ロシア)に対する「藩屏」として実に重宝であり、同時にまた「中共とロシアに日本を牽制させておくのも悪くはない」と考えている節もあり、ヤルタ秘密協定をいまだに遵守しているので、北方領土問題に対しては知らぬ半兵衛(われ関せず)を貫いている。

 前原外務大臣は、つい今しがた、在日韓国人の政治献金を受けたとかで謝罪していたが、同じ前原大臣は先だって、北方領土問題に関して 「ロシアと話し合おうとしても、日本の首相や政権がくるくる変わるようでは、対等な話し合いにならない」 というような発言をし、日本側の対応を問題視していた。

 確かにそういうことは言える。自分が中学生の頃、ソ連との交渉で常に登場するのがソ連側では「グロムイコ外相・イシコフ漁業省」のコンビであり、記憶の限りでは二十年くらい同じその二人が相手だった。向うはそのくらい粘り強く「盗っ人精神」を曲げなかった、ということでもある。

 こうなったら前原外相に「領土関係交渉担当大臣」になってもらって、首相が変ろうとも政権党が変わろうとも、<北方領土は日本のものだ、返せ。さもなくば訴えてやる>・<尖閣諸島は日本の領土だ> と吼えつつ、20年くらいは張り付いて勝ち取ってもらいたいものだ。歴史に残る人物となることは間違いないだろう。

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