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根性キンギョソウ(鹿屋市白崎町)

 昼食を食べに外出した先で、珍しいものに出くわした。23428konjoukingyosou004

 肝属川沿いの舗装道路と家屋のブロック塀の間から何種類かの花がすっくと立ち上がり、満開になっていた。23428konjoukingyosou003  これはクリサンセマム(別名ノースボール)と言うんだそうな。23428konjoukingyosou001  これはおなじみのキンギョソウ(金魚草)。後ろに支柱が立てられているが、たぶん塀の家の持ち主が風で倒れやせぬかと配慮したのだろう。

 よく根性大根とか根性ひまわりなどがテレビなんかで紹介されたりするが、こちらもなかなか根性がある。どこからかこぼれて来た種が隙間に入り込み、わずかな土をたよりに根を張ったのだ。

 ああ、あやかりたいド根性!!

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大隅湖の渇水(鹿屋市上高隈町)

 仕事で大隅湖を巡回したが、驚く風景が広がっていた。23426oosumikokassui_002  湖は「高隈ダム」が建設されたことによって出来た人造湖で、昭和42年(1967)に完成を見、それ以来、鹿屋市を覆う広大なシラス台地「笠之原台地」6000ヘクタールを潤してきたが、今年に入ってからの少雨でついに湖岸線は10メートル以上下がってしまった。

 4月にいったい雨が何日降っただろうか。確かに1日はまともに降ったが、あとは2度ほど小雨がふったくらいで、降水量は平年の20パーセントほどのものだろう。

 加えて、この頃は水の需要度が大きく、水田にしろ畑にしろ大いに水を必要とする時期なのである。23426oosumikokassui_003  湖の最奥部に串良川が注ぎ込むが、干上がった湖底をさらに3~4メートルもえぐり、まるで川の浸食作用のモデル写真のようになっている。23426oosumikokassui_004  串良川自体の水量はいつもの半分くらいかもしれない。

 今年の4月はいつまでも寒い。それでも今日は鹿児島市で25℃を越え6月の気温だ、と夕方のニュースで言っていた。暑くなれば豪雨が期待されるが・・・。

 <閑話休題>

 ――このブログで500回になった。2006年の10月に始めて4年半。われながらよく続いている。ネタ切れが心配だったが、週2回、月に8回、年にして約100回の目標は何とかクリヤーできた。

 このブログが楽しみだという人は少ないと思うが、自分としては書くことでプチ達成感があり、毎日が充実している気がする。

 読み手に対して格別に考慮していないから、かえって続くのかもしれない。人生のたそがれ時になって得た思いがけないツールが新しい活力をくれたのだろうか。

 不甲斐ない人生だったが、まだこれからという気にもさせてくれるから有り難い。これからは過去のことを書く場面が多くなりそうだが、誰か過去のいやな思い出を消してくれる妙薬を発明してくれないだろうか。

 認知症は最近のことが覚えられない(すぐ忘れてしまう)のに、過去のことは驚くほどよく覚えているという疾患だが、その反対にいやな過去のことなんかケロリと跡形もなく忘れることができればいいのにと思う。

 よい思い出も消えてしまったら何にもならない―と言われそうだが、たぶん頭の中で「よい思い出」を思い出す時の電流なり、脳波なりと、「いやな思い出」を思い出す時の電流なり、脳波なりとは違うと思う。

 「いやな思い出」を思い出す時の電流なり、脳波なりを特定できれば、それだけを除去すれば、「いやな思い出」は思い出せなくなる(心の中から消える)のではないだろうか。甘いか?誰か研究して実現してくれ!(あんたの頭で実験を、なんて言われても困るがね・・・)

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映画 『太平洋の奇跡』 を観る

 鹿屋市の中心部のリナシティ(商業施設)3階の「リナシアター」(70席)で久し振りに映画を観た。

 『太平洋の奇跡』という映画で、映画監督は日本人だが原作はアメリカ人が書いている。『大場隊の勇戦512日』という表題で日本では出版されているが、原作は『OBA,THE LAST SAMURAI』といい、直訳すれば「大場、最後のサムライ」である。

 原作者はドン・ジョーンズというアメリカ人だが、原作の表題にあるようにサイパン島の大場部隊の指揮官であった大場栄大尉のことを「最後のサムライ」と畏敬を以て描いている。23423taiheiyounokiseki  日本での本のタイトル『大場隊の勇戦512日』で分かるが、大場部隊はサイパン陥落の1944年4月から200名ほどの民間人と共に山中に籠もり、512日、つまり1年と5ヶ月の間、アメリカ軍の掃討作戦をかわしながら生き延び、終戦後の昭和20年12月にアメリカ軍に投降した。

 このしぶとさがアメリカ人の舌を巻かせ、しかも同行の民間人をひとりも失うことなく転戦したことにも賞賛を贈っているようである。

 劇中でサイパン島の米軍司令官に何度も言わせていたのは、「形勢不利と分かっていたら、捕虜になればいいものを、どうしてジャップは自決ばかりしているんだ。俺には分からん!」であった。

 アメリカ人にとっては戦いでもし敗れたにしても、自決などしないで潔く降参し、捕虜になってでも無事に生きて帰ること――これが常識で、とにかく<生き延びること>が賞賛される行為なのだろう。

 「生きて虜囚の辱めを受けず」が帝国軍人の生き様だったのとは正反対と言っていい。劇中で「おれは投降などしない」と言い張り、投降直前にピストルで自決した一軍人を描いていたが、大場部隊48人中のたった一人だった。

 大場栄大尉の本心はどうだったのだろうか? 当然、集団自決も考えたであろうが、民間人を巻き添えにしてまで死ぬことはないだろう、という思考が上回ったのかもしれない。

 だが、本当のことは分からないままだ。

 

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『大隅54号』出版の大幅な遅れ

 今月の初め、いつも依頼している印刷・製本所へ校了の原稿を持参し、「大きな手直しが無ければ2週間くらいで製本可能です」と担当者の返事。4月下旬には間違いなく完成だろうと思っていたが、一週間後に訪れると「震災の影響で、製本の用紙が入ってこないんです。申し訳ありませんが、製本はしばらく猶予して下さい」と言われた。

 ほう、東日本震災の影響がこんなところまで来ているのか――最初に思ったのはこれだった。全く予想もしていなかったことだ。でもそうであるならば仕様がない。言いなりに任せるほかあるまい。

 その旨を大隅史談会役員や執筆者に連絡した。

 今日(4月18日)、印刷所に出かけ、ゲラ刷りを一部もらって来た。手直しがやはりあり、朱筆を何箇所か入れた。また、執筆者や読者へのお詫びという事で、ゲラ刷りの「奥付け」の上段に次のような「陳謝」の言葉を入れた。23418tinsha  本来なら3月中に最終稿を終え、下旬には印刷所に持参し、4月半ばには完成を見ていたのだが、東日本大震災という突発的な出来事は、こんな南のはずれにまで影響を及ぼした。

 紐帯を失った現代の日本人には、未曾有の大災害がかえってばらばらになった溝を埋め、明日への希望にも繋がって来るのではないかと期待している。

 そうなると、もっとも人と人との絆を失った東京を始めとする首都圏で、未曾有の災害が起これば、人びとの連帯感が熱く燃え出てくるのではないか、などと思ったりもする。

 ともあれ、被災地の皆さんにはくれぐれも自愛し、健康を保持し、希望の明日へと一歩をあゆんでほしいと思う。

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「こらん湯」入湯の記

 指宿の二月田にある浄福寺で義父の一周忌の法要が営まれ、忌明けの昼食が自宅であった。2時半ごろには親類縁者はおおかた帰路についた。

 少し酔いを冷ましたあと、いつも必ず「殿様湯」に入って帰るのだが、今度はむかし指宿に居る頃に一度入ったことのある「こらん湯」にもう一度入ってみたくなり、出かけてみた。

 指宿神社前の桜並木のある広い道を行くと、道は二手に分かれ、右手に小さな橋を渡って行くのは二月田駅のある国道沿いの繁華街だが、こらん湯へは左の道をとる。

 ほんの50メートルも行くと「指宿竹元病院」(精神科・アルコール中毒対応科)だ。この病院は弟が32歳の若い生涯を終えた所。もう28年前のことだが、その頃に比べて病院はだいぶ大きくなっている。あの頃は「閉鎖棟」ばかりだったが、このごろは「開放棟」もあるのだろうか。23412nankyuferii_020  さらに100メートルも行くと、目指す「こらん湯」だ。23412nankyuferii_019  車一台がやっとの狭い路地の向うに赤い屋根が見える。23412nankyuferii_012  左が男湯、右が女湯。23412nankyuferii_018  温泉の入口の壁には「こらん湯規則」がいかめしく掛かっている。

 それによると、明治時代の初期に温湯(ぬり)地区内の五集落の農業者有志が「農作業の身体をいやすため発掘した」のが、この温泉のはじまりである。

 肝心の「会名」は見当たらないが、「こらん湯有志会」か「こらん湯友の会」というような会であることは間違いない。聞けば会員は年間会費6000円を納入することになっている。一年365日休みは無いそうで、毎日でも日に何べんでも入れるそうだ。年間300日利用したとすると一日当たり20円ということになる。ただ同然だ。

 自分は会員でもなんでもないが、管理者に「嫁が宮集落の出身で、嫁の祖父・祖母はよく利用していたと聞いている」(事実である)とかなんとか交渉したところ「入浴するのは今日だけなんですね。いいですよ、今日だけなら」と限定付きで許可を頂いた。有り難い。23412nankyuferii_013  で、早速入らせてもらう。23412nankyuferii_014  先客がひとり。湯舟が二つあるが、指宿の古い温泉銭湯はみなそうだ。一つは熱め、もう一つはぬるめと決まっている。23412nankyuferii_015  こらん湯は正式には「河原湯」と書く。鹿児島弁では「河原(かわら)」は「こら」となる。垂水で有名な祭りが毎年4月のはじめにあるが、その祭りの名を「女男河原祭」と書いて「おんだんこら祭」と呼ぶのと一緒である(ただし、おんだん<女男>ではなく、<御田(おんだ)>から来ているという説もある)。

 たしかに、この温泉は「二反田川」という川の川沿いにある。むかし、ここは河原で、そこから湯気でも立っていたのではないか。そこを温泉とし、温泉の建物が水害に遭わないように土盛り・かさ上げして万全を期したのだろう。やがて周囲にも家が立ち並び、河原にあったということが信じられない現況になってしまった。23412nankyuferii_017

 こらん湯(河原湯)という名のみが、この温泉の成り立ちを伝える唯一のものかもしれない。歴史的命名として味わい深い名である。

 平日の午後3時半。穏やかな日差しの中、温泉につかった女性がふたり、なにやら話をしながら家路につく。のどかな、まどろむような午後のひととき・・・がここにあった。

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根占フェリー(肝属郡南大隅町)

 しばらく運休中だった<根占・山川フェリー>が3月1日に再開された。前の運航者は鹿児島ではダントツの運輸実績を持つ「大隅交通ネットワーク(岩崎産業)」だったが、撤退したあとを「南九船舶」という会社が引き受け、3月に再運航にこぎつけた。

 指宿の義父の一周忌の今日、久しぶりに乗ってみた。

 23412nankyuferii_002  事務所兼待合所は以前の根占フェリーと変わらないが、入港した船は12トンの超小型フェリーだ。23412nankyuferii_003  船体の甲板には車が3台。掲示板の説明によると「普通自動車8台・乗船定員12名」とある。軽自動車で山川まで2500円(運転手1名を含む)。高いことは高い。同じ錦江湾を渡る垂水フェリーが1600円位だから、五割り増しだ。

 でも一度に載せられる車や人の数の割合で計算すれば、割高なのは仕方がないだろう。23412nankyuferii_005  根占港の先端を出るフェリー。左手に南大隅では最大の河川「雄川」の河口が見える。23412nankyuferii_007  ほぼ無風で波もほとんどない錦江湾を快調に走り、40分足らずでもう山川港の入口に差しかかった。山川湾の向うにうっすらと開聞岳が姿をみせている。23412nankyuferii_008  いよいよ山川湾内に入って行く。左手に突き出た岬の所に山川漁協があり、地元で取れた魚が水揚げされる。奥には赤いクレーンの立った造船所が見える。23412nankyuferii_009  山川湾は実は火口で、海抜が低いので海水が入り込み、良港となったもの。手前の岡のように見えるのが外輪山(火口外壁)で、海から屏風のようにせり上がっている。23412nankyuferii_010  根占を出て40分、小型フェリーは向こう岸の山川港の埠頭に到着しようとしている。 

 山川港は別名「鶴の港」。外輪山の上から眺めると、日本航空のマークではないが、鶴が羽を休めて丸くなっているように見えるらしい。

 大航海時代の末頃、日本にやってきたポルトガルの宣教師や船長などは山川のことを「Yamango(ヤマンゴ)」と呼び、そう記している。

 その5,60年後の慶長十四年(1609)、樺山久高を大将とするいわゆる「琉球征伐」が行われたが、薩摩から大船団が出航した時の最後の寄港地は山川港であった。また幕末に西郷さんが島津久光の怒りを買い、沖永良部に流された時もここ山川で船待ちをしている。

 鹿児島で港と言えば、遣唐使船の出港した「坊津」が教科書にも載るくらい有名だが、それ以上に山川港は歴史上、海上交通の陰の主役だったのである。

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満開の桜(鹿屋市田崎町)

 ここ3日続く暖かさでつぼみのままだった桜が次々に花を開き、今日、近くの公園に出てみると、ほぼ満開と言ってよい咲き具合だった。2345sakuramankai_002  ここは田崎運動公園と言い、いつも花見客で賑わう所だが、つぼみのまま長く咲きそうもなかったので遠慮したのか、花見客の数は少ない。2345sakuramankai_001  それでも今日を待ちわびていた「せめて昼の弁当でも花の下で」という訪問客は切れ目なく続いていた。2345sakuramankai_003  公園内を歩き回って、ようやくこの中で一番という桜に出会った。この桜は枝の先までボリューム感のあるいつも通りの咲き方をしている。

 これに比べ、今年はどうも花の着きが悪いようだ。枝と枝との間が透けて見える桜が多いような気がする。まさか東日本大震災を悼んで控えめにしているのではあるまい。2345sakuramankai_004  すぐ近くの湧水「田崎池」という親水公園に行くと、ここも満開だが、花数は少ない。

 左手に田崎池が見えるが、水面には早くもアオコが広がっている。アオコは汚れた水を好む藻類だ。そういえば、たしかに水には透明度がない。湧水自体が減少しているのだろうか?

 雨が少ないことは少ない。その影響で湧水が少なくなり、池の新陳代謝が滞っているのだろう。桜の花数が少ないのも、もしかしたら少雨のためか。今年はとうとう春の長雨(菜種梅雨)が来なかったからな・・・。

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東日本大震災

 三陸沖を震源とする震度7、マグニチュード9.0の未曾有の大地震から3週間が過ぎた。確認された死者の数は約12000名、なお行方が分からない人の数は16000名、合計28000名という巨大な犠牲者が出たと言われている。宮城県一県だけであの阪神淡路大震災の犠牲者数を上回っているというから大変だ。

 115年前の明治三陸沖大地震(明治29年6月15日)の時は、岩手県を中心に22000名ほどの死者が出ており、今度はそれを上回った。115年前の大地震では震度もマグニチュードも判明していないが、今回よりさらに沖合い遠方で発生したらしい。震度はさほどではなかったが、あれよあれよと言う間に、30メートルほどの大津波に襲われたという。

 今回も津波の被害が甚大だったが、しかし115年前とは違う災害が発生している。放射能汚染の恐怖だ。津波の被害は人だけでなく、原発にも大打撃を与え、未だに収束の兆しは無い。気の毒なのは原発の20キロ圏内で津波の被害に遭遇した人たちで、いくつかの町では放射能に阻まれて大地震の被害状況が把握されず、救助隊も現地入りができないでいる。

 天災が人災に転化した、いや、天災に人災が添加されたのだ。つまりダブルパンチを受けているのだ。気の毒なことである。

 これを奇禍として、政府は原発依存から思い切って太陽光発電へと政策を切り替えてほしいものだ。もし復興住宅を建てるのなら、すべての住宅の屋根に太陽光パネルを無償で据え付け、作られた電気を国が買い上げ、さらに復興資金として、また既存の原発の廃炉への資金として活用したらどうか。

 加えて、過疎の田舎の荒れた土地にも太陽光パネル付きの復興住宅をどんどん建てれば、過疎地もよみがえるだろう。

 それはさておき、息子の勤務先の仙台工場と営業所の被害は死者4名と確定した。行方不明10名のうち8人は無事だったそうだ。最小限で済んだと言うべきだろうか、亡くなった方々のご冥福を祈る。

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