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「心の字池」の復活

 よく降る雨だ。

 梅雨入り以来、ほとんど雨模様の南九州。

 昨日、中学生が5人ほど早い時間帯に店舗の一角にあるゲーム機で遊んでいたので聞いてみると、一昨日まで修学旅行だったので学校は休みとのこと。長崎・佐賀・福岡と回ってきたそうだ。―天気はどうだった?と聞けば「雨でした。」

 九州北部も雨模様らしい。「長崎は今日も雨だった」なんて歌もあったっけ。

 この前の日曜日に塗り直して修復した「心の字池」は漏水も無く、3日前に睡蓮を泥と一緒に池の底に植え付けておいたが、どうなっているか―というと、23528sinnojiike2002  雨が池の水面を叩いて波紋が広がる中、どうやら睡蓮は葉を伸ばしてきている。23528sinnojiike2001  排水口近くの一株は大きかったので、茎が四本も伸び、葉を水面に漂わせている。

 もう一株は左手にひょろひょろと遠慮がちに、ようやく一本が水面をうかがっているところ。

 青々とした葉はまだ当分お目にかかれないようだ。梅雨明けごろには池を覆い尽くすくらいになっているのじゃないかと楽しみにしている。

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「心の字池」の修復

 7年前に作った庭の「心の字池」は漏水がひどく、もうここ4年ほど池とは名ばかりで、雑草の繁茂するのにまかせていた。

 今年は心機一転、底の部分からモルタルの塗り直しをやってみた。23522shinnojiike_001  池の底に溜まった泥の養分を吸収して生えていた雑草を取り除き、さらに底土も浚い出し、そのあと水を汲んできてモルタルがよく見えるように底を箒で掃き拭った。23522shinnojiike_002  右下の長方形のくぼみはブロックを置いてその上に睡蓮鉢でも載せようかと計画し、実際にブロックを置いていた場所だ。だが、ここからの漏水が池の致命傷だった。23522shinnojiike_003  よくみると結構なひび割れもある。これじゃ、なおさら水が漏れるわけだ。23522shinnojiike_004  写真を撮っているとモモがやってきて、池の底にゴロンと横になった。ひまだニャー。―忙しければお前の手も借りるんだがな・・・。23522shinnojiike_005  モルタルを塗ったところ。23522shinnojiike_006  3時間ほどしてモルタルが半乾きになったので水を入れた。

 右の凸のカーブのところに炭で水面の高さにラインを入れておいた。

 水面の高さが24時間くらい経っても変化が無ければ、漏水は止まったことになるはず。楽しみにして待つことにしよう。

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千葉県船橋市の読者から

 鹿屋市の北部に合併前の旧輝北町があり、その南半分を「百引(もびき)」という。

 2年ほど前だったかブログ「百引界隈」を書いたが、この連休に千葉県船橋市の方から――それを見てビックリした、19歳まで暮した土地なので手に取るように判る――と連絡を頂いた。

 3日ほど前には大きな封筒で、ご自身の略歴や家族歴をパソコンで印字したものを郵送して来たが、同封の小冊子 『習志野原と日露戦争&旅順港』には興味をそそられた。23521narasinohara_2   これを作成し送ってくださった丸山さんは旧輝北町の百引坂下にほど近い「堂籠集落」の出身で、19歳で自衛隊に入隊、空挺部隊に所属し落下傘降下の大ベテランである。

 退職後の現在は初任地であった習志野の近くの船橋市に居住されているが、習志野原に進出している東邦大学付属学園主催の「習志野と日露戦争」講演会を聴講し、その延長に組まれた<坂の上の雲の世界に触れる―旅順・大連戦跡ツアー>に参加し、それを日誌形式で上のような小冊子にまとめた。

 ツアーが組まれるほど熱が入っているのは、この習志野原には明治時代に陸軍騎兵旅団が駐在し、練習に明け暮れた場所だったからだそうだ。特に騎兵第一旅団の旅団長は『坂の上の雲』の主人公・秋山好古で、後に陸軍大将となる礎がここにあった。

 弟の秋山真之(のちの海軍中将)とともに、対ロシア戦役(日露戦争)で大活躍をしている。日本海海戦におけるバルチック艦隊の無残な敗北は、当時の欧米諸国の衝撃を誘い、また欧米諸国に虐げられていた国々の称賛を浴びた。

 グラバー商会から購入した鉄砲弾薬で明治維新は完成したが、日露戦争当時の海軍軍艦のほとんどはイギリス製で、その時もまた欧米からの輸入品が後押しした形になった。しかしその後の日本は自国製の軍用艦の製造に励み、驚いた英米はワシントン軍縮会議やロンドン軍縮会議を開いて日本の軍事的伸張の封じ込めを図った。(その後の対英米外交は結果として両者戦端をひらくことになったのは承知の通り。日本は負けたが欧米の支配から抜け出るアジア・アフリカ諸国がひきもきらず、今日見るような独立国家群になった。)

 話を戻すと・・・丸山さんは10人兄弟の真ん中の三男で72歳。自衛隊退職後は自転車が趣味で、日本列島の外周を90パーセントは走っている。自転車で何度も九州に帰ってきているが、大分と佐賀の県庁所在地だけまだ行っていないということで、近じか、回りたいと言う。昭和五年生まれの長兄がまだ百引に健在で、「百引界隈」の写真で載せた小川に架かる小さな「木の橋(実際は竹の橋)」は長兄の作だというから驚かされる。

 百引は鹿屋でももっとも「うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川・・・」の『ふるさと』を思い出させる地域である。<ふるさと遺産>というような制度があれば真っ先に登録されるような素晴らしい自然と、懐かしい風景が残されている。

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緊急仔犬情報!

 別に大袈裟に伝えたいわけではないが、家内がとある店から仔犬をもらって来た。去年の11月に死んだ老犬ビータロウの後任を探していたのだが、インターネットのあるホームページから鹿屋市串良町の食堂で雑種の犬が8匹生まれ、貰い手を探していることを知り、行ってみたところ、メス一頭、オス二頭の3匹が残っていて、そのうちのメスをもらって来たのだった。23517inutoneko_004  勤め先から帰ってご対面だが、寝てまーす。

 でもこれがメス?

 起こしてうちの拾いネコ「モモ」に見せたら、「何だいこの子は。あたしはあんたと何の関係もないよ!」と引かれてしまった。23517inutoneko_001  やだニャー、どうすればいいんだろ? モモはモモなりに悩んでいる様子だ。23517inutoneko_003  三段ボックスのお気に入りの真ん中の段に隠れてそっと覗くモモ。

 モモをお母さんか何かのように見続けていた仔犬だったが、また寝てしまった。不貞寝か!23517inutoneko_002  不貞寝だ。ときどき寝言も言っているぞ!

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かのやばら園2011(鹿屋市浜田町)

 かのやばら園がほぼ満開だった。

 今日の昼前、東洋印刷に大隅史談会のゲラ刷りを受取りに行った帰り、家から4キロほど西にある「かのやばら園」に行ってみた。

 1200円也の一年間フリーパスを先月の下旬に更新してから初めてのバラ園だ。

 上天気とあって午前中から観光客が多い。駐車場の車のナンバーを見ると、目にした中で一番遠いのが千葉県の「習志野」ナンバーだった。そのほか大宮(埼玉)もあった。九州管内では宮崎が圧倒的に多く、次が熊本だったろうか。福岡、長崎、沖縄もあったがごく少なく、大分、佐賀は見られなかった。

 園内に入ると、人でごった返している。23514kanoyabaraen_001  少し行くとペットボトルの並んだ一角に出くわした。23514kanoyabaraen_002  係員に聞くと、キャンドルサービスだという。今日か明日か、開園時間を遅らせてキャンドルに火を点すらしい。キャンドルの明かりに浮かび上がるバラも綺麗だろう。23514kanoyabaraen_008  園内のバラは満開と言っていい。23514kanoyabaraen_003 歩いて行くと素晴らしい名花に出会う。23514kanoyabaraen_004  さらに歩いて行くと、「ばららちゃん」にも出会った。バラ園のマスコットだ。23514kanoyabaraen_006  横にいる女子高校生たちはボランティアで、園内を歩いて子供連れがいたら、ばららちゃんの間に立たせて記念の写真を撮ることを勧めているという。サービス満点だ。ご苦労さん!でも、日に焼けるよ!23514kanoyabaraen_007  以前に来た時は気が付かなかったのか、ポンポン咲きのバラもあったのだ。

 しかし、何と言っても、鹿屋で作出されたプリンセスかのやは見ごたえがある。23514kanoyabaraen_009  妖艶といった趣がある。

 今年のかのやばら園は、寒さのせいで開花が2週間以上遅れ、かねてはゴールデンウィークの頃に見ごろなのだが、今年は今頃ピークを迎えている。

 ばら祭りのこの期間は入場料が600円と高いが、この圧倒的なバラの競演は見る者を飽きさせない迫力がある。

 一度券を購入して入場したら、何度でも出入りができる(認証は必要)ので、霧島が丘公園内の他の施設を楽しみ、再び同じ券で入場することが可能になった。民間活力の導入で来客の便宜は格段にアップした。喜ばしいことである。

 

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栴檀の木(鹿屋市吾平町)

 このところ花を咲かせる木はごく少なくなっているが、そんな中で栴檀がどこも満開だ。23511sendan_003  吾平町のとある保育園の門の前に立派な栴檀の木が見ごろを迎えていた。23511sendan_002  花自体は小さくて目立たないが、無数にあればそれなりに賑々しい。

 この保育園はじめ、他の幼稚園や小学校など必ず一本や二本は植えられている。「栴檀は双葉より芳し」の成句にあやかって、子供たちがすくすくと育つよう気持が込められているのだろう。

 無数に着いた可憐な花は、学び舎に集う多くの子供たちを表わしているのかもしれない。

 しかし根っ子の方を見て驚いた。23511sendan_001  何という無骨さだろうか、痛ましいくらいだ。

 でも、大地をがっしりと掴んで離さない迫力はたいしたもの。これも子供たちに学ばせたい。がんばれ、子供たち!がんばれ、未来へ!

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甫余志岳に登る(肝属郡肝付町)

 甫余志岳は太平洋に面する肝属山地の最高峰で968m。錦江町田代の稲尾岳に次いで照葉樹原生林の多い山として知られている。

 5月の連休も終盤になったが、中学校の校長先生と一緒に登ることにした。

 肝付町の川上を目指し、さらに奥の「二俣川キャンプ場」から左折して林道を入って行く。登山口までの中間地点に「清純の滝」があるので、車を停めて右手の林の中を進むと5分で滝に出る。3日からの雨模様で水量が回復したのか、見事な眺めだ。23507hoyoshidaketozan_001  高さ10メートル余り、水が人工の階段のような傾斜を滑り落ちてくる。飛沫まじりの風が心地よい。

 林道に戻ってさらに5分、登山口に着く。23507hoyoshidaketozan_002  木の看板には「山頂まで100分」とある。さあ出発だ。23507hoyoshidaketozan_004  途中、沢を2回渡るたびにおいしい沢水が飲めるから、このコースはどんな暑い時でも登山可能で、今日は弁当と水筒だけという軽装なので100分のところ80分で到着。ただ雲に包まれていたので湿度が高く、かなりの汗をかいた。23507hoyoshidaketozan_005  山頂の石畳の上で昼飯を摂ったあと、しばらく四方山話をした。それぞれの来し方が話題の中心になるのはやむを得まい。そのあとは黒尊岳方面に見られるという「アケボノツツジ」を求めて、稜線を歩いた。ヤブ椿がところどころ花を散らしている好ましい遊歩道だ。23507hoyoshidaketozan_008  どこまで歩いてもアケボノツツジはお目にかからなかった。もう散りきってしまったのだろう。その代わりイワツツジ(ミツバツツジ)でまだ花を着けているのが何箇所もあった。23507hoyoshidaketozan_007  樫の木だと思うが、てっぺんの新葉がまるで白い花のようで面白く、人目を惹いた。23507hoyoshidaketozan_010  3時10分、無事に下山した。ちょうど4時間の行程だった。

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大場昇『評伝 永田良吉』出版記念講演会(リナシティかのや)

 5月6日の夜7時から、鹿屋市のリナシティ大ホールにおいて『評伝・永田良吉』の出版を記念して、著者で東京在住の大場昇氏の講演会があった。

 主催は自治問題研究会という団体で、代表は黒木次夫という元鹿屋市義だった人だ。

 講演者の紹介と講演後に頂いた名刺によれば、著者は鹿屋市田崎町出身で早稲田大学を出た(中退?)後、代議士の秘書などをつとめ、現在は東京で学習塾「敬天学舎」を経営しており、ノンフィクション作家でもある人で、昭和22年生まれの62歳。

 大場氏の田崎町と良吉の家のある永野田町とは地続きの関係にあって、余計に興味を感じ、取り組んだようである。もとより自分の郷里への思い入れが、著者の執筆の大きなモチベーションであろうことは想像できる。

 23506oobanoborukouenkai001  前のほうの席だったのでよく写るだろうと思って撮ったら、逆だった。なんともピンボケで申し訳ないが、風貌は本人曰く「頭との境がなく、やたらに額が広く見える」ようで、子供にもよく言われるらしい。(確かに顔全体が長めで、若干の鼻ひげを蓄えている。)

 肝心の講演だが、おおむね一昨年の秋に世に問うた『評伝・永田良吉』の内容に沿っている。大隅史談会の去年の会誌『大隅五十三号』に、寄贈図書紹介で1ページにわたって紹介文を書いたが、とにかくスケールの大きな空前絶後の人物像を何とか纏め切った労作である。

 氏曰く

 「鹿屋が世界でも注目された事柄が三つあった。上海事変以後の攻撃に<渡洋作戦>があったが、あの爆撃機は鹿屋飛行場から発着陸したのです。これが一つ。

 次に終戦後、ミズーリ号上の降伏文書受諾から二日後の昭和20年9月4日、米軍は関東の厚木と鹿屋を最初の占領地と決定したわけですが、鹿屋の高須に上陸し鹿屋飛行場に到着した時、迎えに出た時の鹿屋市長・永田良吉に<カミカゼ・ボーイは居ないでしょうな>と司令官が恐ろしさをこらえて聞いたところ、良吉は高隈山のほうを指差しながら<1000人くらいの特攻崩れが潜んでいるようです>と答えた、とか。しかし良吉自身は極めて温良かつ紳士的だったので司令官はじめ米軍の受けがよく、<潜んでいるカミカゼ・ボーイズ>の脅し効果もあって、鹿屋では他の進駐軍地域では頻発した米軍人による窃盗・乱暴・婦女暴行などの犯罪はほとんど無かった、という。

 三つ目は、先の二つは戦争がらみなのですが、今度の全く平和な話です。それは昭和産業というのを皆さんご存知でしょうか。<かんけん倉庫>はどうです? <かん>は<乾燥の乾>、<けん>は<繭(まゆ)>のことで、寿の寿明院あたりはそんな倉庫が立ち並んでいました。そうです、昭和産業は製糸会社で、カネボウ(鐘淵紡績)の子会社です。広大な笠野原台地に桑を植え、蚕を飼い、繭から糸にまで仕上げる一貫生産体制を採った巨大会社で、最大3000人が働いていました。世界各地から視察者を集めるほど大規模だったのですが、残念なことに昭和4年からの世界大恐慌のため、生糸は値崩れを起こし、たちまち破産してしまいました。惜しいことです。

 当時世界の注目を集めた鹿屋は以上の三つですが、そのどれも永田良吉のアイデアと行動力なしには生まれなかった。しかも良吉はそのどれからも金銭的な報酬など一切無かったのです。三つ目の昭和産業誘致の時などは、土地の買い上げなどの事務処理のため40日も現地に張り付いていたので、終わってからは床についたほどです。」

・・・などなど。

 晩年の永田良吉は生来の一徹さがやや頑固さに変わったといいながら、氏は「良寛さん」にもたとえ、誰にでも優しかったが、特に子供に対しては優しかったと話を締めくくった。

 講演が終わると海上自衛隊、同級生代表などから花束を受けていたが、最後に永田良吉の孫で現在、錦江町の教育長をされている良文さんからも花束を受けた。23506oobanoborukouenkai002  この写真もおかしいが、代わりのものが無いので・・・。

 永田良文さんに挨拶した時、永田家が永野田町で管理・祭祀している「国司塚」の由来をお聞きしたのだが、立ち話ゆえ、詳しくはおっしゃらなかった。こんど改めてお伺いしようと思っている。

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ウッドデッキを作る(3)

 ウッドデッキ作りも三日目の今日、小雨模様だったが何とか続行は出来た。

 昨日までで床を張り終え、残すものは手摺りの仕上げだけとなり、午前中には仕上がるだろうと鼻歌交じりだった。

 しかし、幅の広い柱の間には90ミリ角の柱材を転用して斜め一本とし、2箇所はその半割りの材を使うことにしたが、それが足りなくなってキタヤマに買いに走る羽目になり、その分時間をロスしてしまった。

 だが、どうにかこうにか午前中にはデッキ部分は完成。この時点でかなりの達成感を味わった(めでたし、めでたし・・・)。23504dekkiwotukuru3_005  23504dekkiwotukuru3_006  昼食後は最後の工作「庭に下りる階段」を作った。 23504dekkiwotukuru3_008 階段まで含め、全部が完成したのは5月5日午後2時半だった。幅225cm、奥行き140cmの手摺り付きウッドデッキの完成だ。

 5月3日の午前中23504dekkiwotukuru3_007_2 に資材の買い物に出かけてから二日半。久し振りにやったー!という気分になった。でも疲れたので、県民健康プラザの銭湯兼プールに行って汗を流すことにした。

 

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ウッドデッキを作る(2)

 昨日は雨が降ってやりにくかったが、今日は朝の濃霧から次第に晴れていったので仕事ははかどった。

 午前中にはすべての柱が立ち、根がらみで固定し、一部では床板を載せる根太(ねだ)を取り付けるまで進んだ。23504dekkiwotukuru2_001 昼食後、すべての根太を取り付け、床板を打ちつけ出した。

 キタヤマで借りたインパクトドライバーの威力はすごい。もし普通に手でドライバー を使ってネジを取り付けていたら、相当な時間を食ったであろう上に、疲労も相当なものになっていただろう。

 そんなこんなで何とか床を打ち終わり、手すり部分に一本筋交いを入れたところで5時半になっていた。疲労も溜まってきたので今日はこれまで。23504dekkiwotukuru2_003  やれやれ・・・。

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ウッドデッキを作る(1)

 2月の半ばに業者を頼んで6畳間の南側にテラスを作った。その下にデッキを作りたいと思っていたが、やっと5月3日からの連休が取れたので挑戦してみることにした。

 まずは資材を購入するために、午前中、鹿屋では大工道具から資材・家庭用品と何でも揃うキタヤマに行った。

 資材のコーナーでインターネットで手に入れた「ウッドデッキの設計図」をもとに仕入れを開始。資材係のアドバイスを受けながらてきぱきと購入し、木材から根石・ネジなど一切合財が1時間ほどで揃った。ついでに「インパクトドライバー」のリースも頼んで、総計がちょうど3万円だった。

 キタヤマでは、こういった資材を購入した客にはトラックを無料で貸してくれるので、2トントラックを貸してもらい家まで運んだ。

 昼飯のあと、早速デッキ作りに取り掛かった。23503dekkiwotukuru_001

 今日の予定は、基礎の根石を据え、そこに束柱を取り付け、さらに「根がかり」という柱同士を結びつける家で言えば桁のような役割の板を張るところまで行くはずだったが、根石に束柱を取り付けるボルトが大き過ぎて仕事にならず、結局、キタヤマまで一ランク小さいボルトを買いに走ることになったり、雨がやまないこともあってはかどらず、夕方5時に本日の行程は終了・・・。23503dekkiwotukuru_002

 今日やったこと・・・資材の購入。根石を水平に4個置き並べる。3メートルの90ミリ角材(束柱用)を寸法に合わせて4本切断する。

 以上。たったそれだけってか?  まだまだ、時間はたっぷりあるわな・・・。

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平成23年度「おおすみ歴史講座」開講の案内

 所属している大隅史談会では、これまで2年間、「三国名勝図会から学ぶおおすみ歴史講座」と銘打って鹿屋市立図書館で学習会を開いてきたが、今年度からリナシティに場所を変えて講座を継続することになった。

 昨年度までで曽於市以南の大隅半島の各地域については学び終わったので、今年度は宮崎県南部の旧薩摩藩の歴史・地理を学習する。年間学習計画については「h23-oosumi-rekishikouza-annai.doc」をダウンロード

 まずは都城を2回にわたって学習する。

 都城はむかし都島とよばれた時期があり、そこから島戸が派生しやがて「島津」となったという。島津氏の始祖「島津忠久」が近衛氏の被官だった関係で、藤原氏に寄進された島津の荘園の地頭となったことが島津姓の起源である。

 島津氏は源頼朝の庶子であるというのが島津本家の主張だが、そうではないと言うのが研究者の言い分で、実は惟宗氏の出身だという。少し前までは忠久の父は「惟宗広言」とされていたが(広言は文官であり『三国名勝図会』都城之一「島津御荘」の項によれば忠久の母「丹後の局」は忠久を生んだあと忠久を連れて民部大輔だった惟宗広言に嫁いだ)武官の「惟宗忠康」こそが父だろうと言われるようになった。

 首尾に一貫性がないように感じられるが、いずれにしても頼朝後胤説は否定されている。そして広言か忠康の違いはあるにしても本姓は「惟宗」で、惟宗姓の前身は「永原忌寸」という四国は讃岐に領地を持っていた渡来系氏族であった・・・。

 ・・・云々。

 こうした話が登場する「おおすみ歴史講座」にどうぞ!

 

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