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大場昇『評伝 永田良吉』出版記念講演会(リナシティかのや)

 5月6日の夜7時から、鹿屋市のリナシティ大ホールにおいて『評伝・永田良吉』の出版を記念して、著者で東京在住の大場昇氏の講演会があった。

 主催は自治問題研究会という団体で、代表は黒木次夫という元鹿屋市義だった人だ。

 講演者の紹介と講演後に頂いた名刺によれば、著者は鹿屋市田崎町出身で早稲田大学を出た(中退?)後、代議士の秘書などをつとめ、現在は東京で学習塾「敬天学舎」を経営しており、ノンフィクション作家でもある人で、昭和22年生まれの62歳。

 大場氏の田崎町と良吉の家のある永野田町とは地続きの関係にあって、余計に興味を感じ、取り組んだようである。もとより自分の郷里への思い入れが、著者の執筆の大きなモチベーションであろうことは想像できる。

 23506oobanoborukouenkai001  前のほうの席だったのでよく写るだろうと思って撮ったら、逆だった。なんともピンボケで申し訳ないが、風貌は本人曰く「頭との境がなく、やたらに額が広く見える」ようで、子供にもよく言われるらしい。(確かに顔全体が長めで、若干の鼻ひげを蓄えている。)

 肝心の講演だが、おおむね一昨年の秋に世に問うた『評伝・永田良吉』の内容に沿っている。大隅史談会の去年の会誌『大隅五十三号』に、寄贈図書紹介で1ページにわたって紹介文を書いたが、とにかくスケールの大きな空前絶後の人物像を何とか纏め切った労作である。

 氏曰く

 「鹿屋が世界でも注目された事柄が三つあった。上海事変以後の攻撃に<渡洋作戦>があったが、あの爆撃機は鹿屋飛行場から発着陸したのです。これが一つ。

 次に終戦後、ミズーリ号上の降伏文書受諾から二日後の昭和20年9月4日、米軍は関東の厚木と鹿屋を最初の占領地と決定したわけですが、鹿屋の高須に上陸し鹿屋飛行場に到着した時、迎えに出た時の鹿屋市長・永田良吉に<カミカゼ・ボーイは居ないでしょうな>と司令官が恐ろしさをこらえて聞いたところ、良吉は高隈山のほうを指差しながら<1000人くらいの特攻崩れが潜んでいるようです>と答えた、とか。しかし良吉自身は極めて温良かつ紳士的だったので司令官はじめ米軍の受けがよく、<潜んでいるカミカゼ・ボーイズ>の脅し効果もあって、鹿屋では他の進駐軍地域では頻発した米軍人による窃盗・乱暴・婦女暴行などの犯罪はほとんど無かった、という。

 三つ目は、先の二つは戦争がらみなのですが、今度の全く平和な話です。それは昭和産業というのを皆さんご存知でしょうか。<かんけん倉庫>はどうです? <かん>は<乾燥の乾>、<けん>は<繭(まゆ)>のことで、寿の寿明院あたりはそんな倉庫が立ち並んでいました。そうです、昭和産業は製糸会社で、カネボウ(鐘淵紡績)の子会社です。広大な笠野原台地に桑を植え、蚕を飼い、繭から糸にまで仕上げる一貫生産体制を採った巨大会社で、最大3000人が働いていました。世界各地から視察者を集めるほど大規模だったのですが、残念なことに昭和4年からの世界大恐慌のため、生糸は値崩れを起こし、たちまち破産してしまいました。惜しいことです。

 当時世界の注目を集めた鹿屋は以上の三つですが、そのどれも永田良吉のアイデアと行動力なしには生まれなかった。しかも良吉はそのどれからも金銭的な報酬など一切無かったのです。三つ目の昭和産業誘致の時などは、土地の買い上げなどの事務処理のため40日も現地に張り付いていたので、終わってからは床についたほどです。」

・・・などなど。

 晩年の永田良吉は生来の一徹さがやや頑固さに変わったといいながら、氏は「良寛さん」にもたとえ、誰にでも優しかったが、特に子供に対しては優しかったと話を締めくくった。

 講演が終わると海上自衛隊、同級生代表などから花束を受けていたが、最後に永田良吉の孫で現在、錦江町の教育長をされている良文さんからも花束を受けた。23506oobanoborukouenkai002  この写真もおかしいが、代わりのものが無いので・・・。

 永田良文さんに挨拶した時、永田家が永野田町で管理・祭祀している「国司塚」の由来をお聞きしたのだが、立ち話ゆえ、詳しくはおっしゃらなかった。こんど改めてお伺いしようと思っている。

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