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田の神と田の神夫婦?

 今年の田植えはどこも2週間くらい遅れているようだ。

 今日の午後、鹿屋市の大姶良川沿いにある田の神を撮影しに行ったのだが・・・001  ここの田の神は嘉永2年(1849年)に造られたものだが、向こうの水神祠とともにもう百年以上、米の出来栄えを見守ってきた。003  体長50センチ余りとやや小型の部類だが、すっきりと瀟洒な田の神である。

 田の神のある道路沿いから大姶良川の土手の方に目を移すと、田植えをしている田んぼが目に入った。まわりの田はすべて植えられているから、この辺りでは最後の田植えだろう。002  道路から畦道を行ってみると、結構な高齢者のようだった。005  失礼ながら年齢を聞いて驚いた。二人とも昭和2年生まれの84歳だそうだ。

「うちは毎年田植えが遅いんですよ」―と奥さん。2枚で18アールの田んぼに、今年はうるち米を15アール、もち米を3アール植えるという。

 息子さん世帯が2世帯(鹿児島市と都城市)あって、自家米を送っている(取りに来る)。

「お父さんはあちこち悪いけど、最近、目の手術をしたらよく見えるようになった」とのこと。すごいことだ。高齢者だからといってあきらめないことが肝心のようだ。見習いたい。007  今日最後の苗を田植え機に補給する。ご苦労さま!

 普通作の場合、田植えは夏至(6月21日か22日)までに植えれば何の問題もないという。

 明日、もう一枚の田んぼの植え付けをしてやれやれひと区切りがつく・・・。

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おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

こんにちわ。
いや~暑くなりました。
お元気そうで安堵。。

それにしても。。。
本当に、人生80年ともなると
皆さんどことなく「たんかんさ~」に
似てきますよね。

「たんかんさ~、にっおいもんど」と
合掌すると屈託の無い笑顔が返ってきます。

投稿: nick | 2011年6月24日 (金) 13時46分

いつまでも心に残る 素晴らしい写真です

坂の上の、薩長土肥のクソ餓鬼共によって、滅茶苦茶に
されて、今日のこの荒廃した列島に、 このような美しい
光景が残って居る事に、 感動させられました。

投稿: | 2011年6月26日 (日) 10時20分

ご無沙汰しております。
拝読のみですが郷里の風土便りを楽しみにしています。

田の神で懐かしく昔を想い出しました。
もう50年も前ですが、我家の裏山裾にも田の神がありました。当時その田の神とは別に村家を持ち回りで祭る田の神が在り、秋の収穫後に持ちまわり引継ぎを兼ねて祭り飲み宴会が行われていました。
当時田の神の研究者野田千尋先生が我家の田の神を調査に来られ、先生と一緒に串良川沿いの田の神調査に同行させてもらったことがあります。
その後先生の田の神研究の御著書は出版されましたが、今では無論絶版であるいは図書館に蔵書されているかと思います。

その田の神信仰と直接関係があるか判りませんが、田植え前の田んぼに水引きの頃、水路の要所要所で3人程の青年団(?)の人達が鐘と太鼓を打ち鳴らして踊りまわって水神を祭っていました。
 カン カン ドン    カン ドン
 カン カン カン   カン ドン 
・ ・・・・・・
あの水神祭は田の神と関係があるのでしょうか?
また確か、荘重な祈り歌が歌われていた様でしたが、あの歌詞は今でも伝わっているのでしょうか?


投稿: 隅 南風人 | 2011年6月30日 (木) 12時36分

 6月19日の「田の神と田の神夫婦?」には3名の方からコメントをいただき、伝統・伝承が今に生きている風土の豊かさを改めて思うことでした。

 最後の隅南風人さんのコメントについて、手もとの『高山郷土誌』を見ると
 「本町の水神際、八月踊りは旧暦の8月18日(現在はその日程は一定していない。)に五穀豊穣無病息災を祈願して行われてきた行事である。」(同誌936ページ)
 とあり、水神祭り=八月踊りとの見解で、さらに
 「座元における水神祭は、戦前は(中略)。戦後は(中略)集会所で行われている。神前には米・酒・・(中略)が供えられ、祝詞が奏上された後、座元の戸主が玉串をあげ(中略)、各家々の水神には色紙を切ってつないだ五色の紙旗を供える習わしであった。
 この祭りが終わると、青年全員で法楽を奉納する。法楽は鉦が大小二つ、太鼓が一つで輪をつくって腰に手を当て歌いながら(中略)それぞれの場所に移るときは鉦・太鼓で道行の<トントンカラリ>を奏でながら移動する。(中略)この神事が終わると八月踊りが始まる。」(同誌936~937ページ)
 隅さんのいう「カンカンドン」がこれでしょう。田の神祭ではなく水神祭の行事ということになると思います。
 荘重な祈り歌も水神祭(八月踊り)に歌われる法楽のことだと思われます。その歌の数もかなりい多く、高山の八月踊りでは14曲もあり、同誌には
 1出端(では) 2五尺手拭い 3おはら万女 4お久米口説き 5ひとつとの 6万次郎口説き 7平佐口説き 8船頭衆
9思案橋 10大阪京町 11はなえ万女 12淀の川瀬 13笹なんで 14坂田節 (937ページ)
 などとなっています。
 踊り手の衣裳も派手なことはなく、歌詞の内容の割には控え目な演奏が坦々と続いていきます。胡弓の音色が入るためでしょうか、哀調を帯びた曲調であり踊りです。
 田の神祭りはこれとは別に2月に日を選んで山からお迎えて五穀豊穣を願い、11月にもやはり日を選び、五穀豊穣を感謝して山へお送りするという祭りであり、水神さまとは区別されているようです。同じように五穀豊穣を祈るので、混合している面があるのかも知れません。

投稿: kamodoku | 2011年7月 2日 (土) 11時17分

早速のご教示レス有難うございます。

やはり田の神祭りと水神祭とは別ですか。
ただ水神祭=八月踊りについては「?」です。
あるいは高山町郷土史にある方が大隅地方各地で戦前まで行われていた古型なのかもしれませんが、小生が串良で見た水神祭りはお植え前用水路から水を引く前準備に無事を祈念する為だったようでしたが、あるいは別途収穫後に八月踊りの前後にも水神に感謝する祭りも行われていたのかもしれません。

串良の八月踊りといえば、「八月ドウ」(「6月ドウ」ともいったかな?)といって秋に行われ昭和20年代までは串良の村集会所でも盛んに行われていたようですが、昭和40年頃は殆ど行われなくなっており、例の「カン カン ドン」の水神祭りとは違い村中総出の収穫祭だった様です。
余談ですが小生当事帰郷の折10数年振りの復活祭を古老の踊り歌を録音して企画協力したことがあります。(任務放逸して2升もラッパ飲みして踊り潰れて迷惑を掛けてしまった)

その踊り歌の曲調は今でもはっきり覚えているのですが、歌詞を全く覚えておらず残念至極。確か田仕事中の恋歌もあった様ですが串良郷土史にでも残っているのかしらん?
その踊り仕草が忘れがたい。男衆は殺気・妖気をさえ漂わせる黒覆面の黒装束、女衆も網笠を深くかぶり気品ある哀調優美な踊りで櫓太鼓に合わせて静かに踊り廻る。

富山の「おわら風の盆」踊りは有名だが( http://www.yatsuo.net/kazenobon/ )、その源流古形は南九州にあったのではなかろうか?
東北以北沿岸の「追分」と同じく、「おわら」は「オハラ節」の流れで対馬海流に乗って海の民が伝えて行ったものではなかろうか?

お写真にある夫婦の田の神さあは、老御夫婦が田畑耕作の伝統を必死に守り貫かんとされているお姿を優しく見守っている様に思えますが、
戦後60余年東北大震災に顕われている、自然を共感する感性力を失ったわれわれ現代日本人の心の動揺ぶりをどのよう観ておられるのであろうか?


投稿: | 2011年7月 4日 (月) 16時46分

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