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宇宙と田園(肝付町内之浦)

 肝属郡肝付町内之浦に所用で出かけ、ついでに「内之浦宇宙空間観測所」から岸良へと足を延ばしてきた。

 内之浦の中心部は旧内之浦町役場のある北方(きたかた)だが、ここを通り抜けると広瀬川という小流の沖積地に栄えた南方に至る。

 道は上りとなり上がった先に宇宙空間観測所があるのだが、真新しい新道に架かる橋の名が面白く、「マーズブリッジ(火星橋)」「ウラノスブリッジ(天王星橋)」「ジュピターブリッジ(木星橋)」「サターンブリッジ(土星橋)などと太陽系の衛星の名が付けられている。

 中でもジュピターブリッジからの眺めがよく、内之浦中心部がよく見えた。019  上ること5分で峠にあたる場所に「内之浦宇宙空間観測所」がある。030  入り口の守衛所で住所・氏名・人数などを記入して入場が許可された。

 車で2分、観測所内の最高地点(344m)に「衛星ヶ丘展望台」があるからまずはそこから周囲を展望する。020  巨大なパラボラアンテナ(直径34㍍)のある場所は「テレメーターセンター」といってロケットから切り離された人工衛星を追跡する本部である。観測所の心臓部だ。022 「衛星ヶ丘」にも20㍍の巨大アンテナが建っている。

 ここからもと来た道を下り、事務センターのところまで引き返すと向かい側に「人工衛星おおすみ記念碑がある。024 国産初の人工衛星「おおすみ」はここから打ち上げに成功した。1970年のことで世界で4番目という快挙を達成している。028 一度入り口を出てすぐ左手の橋を渡った奥には「М(ミュー)センターがあり、そこには発射台とミューロケット試験機が展示されている。これと同型のロケットで、027 あの小惑星「イトカワ」からサンプルを持ち帰り、何と7年もかかって昨年地球に帰還した人工衛星「はやぶさ」は打ち上げられた。

 このミューセンターは2006年までで運用を停止したのだが、「はやぶさ」が7年間ももたもたしないで1,2年で颯爽と帰還していれば、あるいは運用は継続していたのかもしれない。「後の祭り」いや「後のはやぶさ」だ。

 だが、遅くても帰ってきてよかった。いずれ誰か映画監督がこのはやぶさの超スロー帰還を絡め「あきらめない」をテーマにした映画を作ってくれるといい。031  宇宙空間に思いを馳せたあと、岸良への道をとる。行くこと20分、下り坂の途中から岸良地域独特の色合いをした花崗岩の岸と青い海が見えた。035  奇岩の一つに下りてみると、岩の上に祠が祭ってあった。恵比寿さんらしい。037  岸良を流れる久保田川の河口。砂の色も花崗岩の色と同じく赤味がかっている。042  岸良の町中に入っていくと平野部ではもう稲刈りが行われていた。045  聞くともうあちこちで始まっている――と、恵比寿顔で語ってくれた。

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おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

内之浦ロケット基地や岸良の写真を拝見し、昔日の懐かしい想い出話をひとつ。

確か昭和38年の夏、友人と4人で内之浦から佐多まで3日掛けて歩いたことがある。
内之浦まではボンネットバス行き、それから先はでこぼこの砂利悪路(途中トラックの後荷台にお世話になったが振り落とされるかと怖くて降りた)をテクテク歩き。
岸良の手前か先だったかで、当日日本最初のロケットが打ち上げられのを振返って望観した。当時ロケットの父と言われた東大糸川英夫先生先鞭開発のロケットである。
当日は大浦まで行ったが、実は幸いなことに内之浦役場の紹介で道案内人ができた。何でも2、3年に1度大浦まで牛の飼育指導に行く用がありいつもは鹿屋から根占佐多周りで片道1日掛けだが君達だけでは大浦では警戒されるから案内してくれるとのこと。
聞けば大浦は未だランプ生活でその灯油を町で支給しているがその一部を密売していると疑われよそ者を非常に警戒するとのこと。
さてそのオジサンと5人で岸良の先辺塚(辺塚という地名は佐多にもある)まで来た。この先迂回(今の立派な道路)出来なくもないが近道をしようということで、管理人さんの8、9枚目に写っている正面の山かな?猪道でもない道なき坂を木の根っこに掴まり喘ぎ喘ぎ登った。
やっとの思いで頂上に着き一休みすると、オジサンが傍らの木肌を指して謎賭け、ー
見ると木肌が削られて牛と狐の絵が彫られている。首を傾げていると、「牛は何と泣く、狐は何と泣く?」と。
1年否数年に一度人が来るかと思える山上で誰が刻んだかその遊び心、「はやぶさ」に夢を託した今の科学者の遊び心にひけはとるまい
それから眼下に散在する十戸余りの人家を眺めながら大浦の入江に降りて行き一軒目の家でスイカをご馳走になった。その甘かったこと美味かったこと、オジサンのお陰である。

その先の旅、貴重な体験をするのだが、次回に・・・

投稿: 隅南風人 | 2011年8月 1日 (月) 02時19分

 私も当時(私が通ったのは、貴殿より10年くらい後かも知れません)そこの道を通った事がありますが、凄い道でしたね~。石がゴロゴロで涸れ川の底を行くような道で何度も引き返そうかと思ったものでした。当時のトラックは六輪駆動のものもあり、乗せてもらっても荷台で体がバラバラになりそうでした。貴方が内之浦辺塚から大浦へ出られたとき見られた山はおそらく、右手に四坂岳、左手に稲尾岳だと思います。私も最近、花瀬からビジターセンターを通って自衛隊の所を通って佐多辺塚の方へ抜けたのですが、木が道に覆い被さるうように生い茂り昼でも暗く、もちろん舗装はされているのでしょうが、道には枯れ枝や椿の実や葉が落ちていて「これは本当に行けるのか」と思っているところへ巨大な蛇が、う!ガスった向こう側に光った目をした大きな猿がこちらを睨んでいます。霊感がびんびん、行くな!これ以上いくな!と言っているようではっきり怖かったのを思い出します。
 でもなんで佐多まで?冒険でしょうか?野宿覚悟で行かれたのでしょう。うちの親父が中学の時、先輩が5人程度のグループで徒歩で中央線を吾平から鹿屋まで行ったと言っておりましたが、どこかで野宿したのか?早朝出れば日帰り可能か?
 いずれにせよ、貴重な体験談、続きがたのしみです。

投稿: わん | 2011年8月 1日 (月) 04時01分

管理人さんへ何時も失礼にも勝手に進入投稿し申し訳ありません。
この度も我田引水自己宣伝気味になってしまいますが、貴重な「大隅風土体験」記に些かなりとも花を添える意味で続けての寄稿をお許し下さい・
ワンさん 早速のレス有難うございます。

さて、この大浦集落についてだが、その後の想い出はその晩大浦海岸でキャンプし飯盒飯に釣った小さな魚(ベラ)を焼いて喰ったことしかない。
が、平成9年にこの地に宿泊した小生の知人平山人(PN;ひらやまと氏)から聴いた話でこの地がかって平家の落人部落であったことと、別の情報でかっては大隅倭寇の基地でもあったことである。
紹介余談だが、平山人氏は小生のHP(http://www.vks-hayato)紹介している。平成13年76歳時に日本列島外海岸道13,040kを日速43kで歩き通すという歴史記録偉業を達成れた方で、この時は岸良から半島南方はカットされたが、平成9年太平洋岸路南下の折は柏原から佐多岬まで2日で歩き途中当地の公民館に宿泊。その晩館長さんの歓迎談で館長さんの家名由来での噺とのこと。

翌日小生等は、カンカン照りの猛暑の中、粉末ジュウスを道崖から滴る清水で薄めのみつつヒイヒイ云いながら歩きはじめた。すると2,3時間も歩いた頃右手頭上30メートル位の崖上林間からターザン出現かと見間違う半裸の大男とその子供二人に見下ろされているに出くわした。この話は長くなるので、小生が寄稿している「サンカ(山窩)を考える」サイトの掲示板、http://www.kumanolife.com/blobee/bbs.cgi?J5po81ycDK6Hx をご覧ください。スクロールすると中程のところに、「現代人の混迷を晴らす縄文古人の感性力を求めて・・・」と、「大隅半島に残っていた!?サンカ人の残映幻想」で書いています。

その地を逃げ去った小生等は佐多辺塚まで人っ子一人出会わなかった。
この道は先の大戦時に開発された軍用道路跡ではなかったろうか。当時車の轍跡も無い狭恐らく人もめったに通らない荒道だった。(大浦の人達は舟での往来だったという)

途中、稲尾岳(960m)の9号目付近の山腹に赤いトタン屋根が2,3軒。あれは営林署の人家だったろうか?あんな高い処で生活水は雨水だったろうか?

また海岸に奇岩現象を発見。波が押し寄せる度に間欠温泉みたいに10メートルほど打ち上げるていた。今も見れるだろうか?

もう一つ海岸発見といえば、もっと先浜尻か竹の浦当りではなかったろうか?
砂浜から水中へ幅1メートル位の2列の石列が伸びていた。先の大戦末期米軍大隅半島上陸に備えての特攻艇の出路跡という。後数年で消えうせるだろうとのことだったが今では無くなっているのだろう。

終戦直前防空ガマの中で超未熟児で生まれ中高時代まで「骨皮スゲー門」といわれた小生、最終大泊海岸に着いた日にはもう俺もこれで終わりかと観念するぼど衰弱。バスで串良まで帰ったはずだがどう帰りついたか全く覚えていない。
それにしても平山人氏は凄い。当時95%の冠動脈で1k歩いては立ち止まり呼吸を整えながら、大隅半島を一周、その後徳之島・沖永良部・沖縄一周まで歩き通したのである。
以上 失礼しました。   隅 南風人 拝 

投稿: | 2011年8月 1日 (月) 13時34分

わん様

>貴方が内之浦辺塚から大浦へ出られたとき見られた山はおそらく、右手に四坂岳、左手に稲尾岳だと思います<
とありますが、小生は内之浦辺塚から大浦へ出る時山は見ていません。管理人さんの8枚目の写真中央、手前の山の奥に雲が架かって写っている山が小生らがよじ登った山ではないか、(或いは写真左端外かな?)右手奥に見えるのが四坂岳ではないかと想像するのですが・・・
撮られた管理人さんに教えてもらうべきかな。

花瀬から佐多辺塚へ山越えされましたか!
Yahoo地図で見ると、途中自衛隊射撃場があるようですが、当時射爆場は確か大中尾小学校の分岐点辺りにあった気がしますが、移転したのでしょうかね。

>うちの親父が中学の時、先輩が5人程度のグループで徒歩で中央線を吾平から鹿屋まで行ったと言っておりましたが・・・<
吾平から鹿屋まで直線で徒歩という意味ですかね?10k位ですかね。
小生の父も明治29年生まれでしたが、串良から鹿屋農校まで10k余りを毎日徒歩で通学していたそうです。当時の人はそれが普通の体力だったんでしょうね。羨ましい。

前文の訂正
「当時95%の冠動脈で」は「当時95%の冠動脈狭窄症」の間違い。
同氏は福岡に帰福後、当地の済世会病院で手術、次の列島分水嶺縦断出発が遅れているとして3日で退院、命の保障は出来ないとの医師の諫止も聞かずにニトロを携帯して出発。
宗谷下の音威子府から鹿児島西郷南洲墓地まで1000m以上の山峠を何度も越えて3600kを100日で踏破されたのでした。


投稿: 隅南風人 | 2011年8月 1日 (月) 15時44分

 う~ん!冷たいようですがその小屋は炭焼き小屋の横にある小屋でしょうね。炭焼きは、焼き物と同じで良い炭を作るには火加減が難しく徹夜になります。当然そこに宿泊することになるのです。終戦前は、あの当たりの山の木を満鉄の枕木に相当使ったようです。錦江町にも木材持ちだし用の小型蒸気機関車が走っていたそうです。コースは奥花瀬から大根占港までだったようです。
 山窩は本当にいたらしいですが、何を山窩と言うのかがはっきりしないので、何もいえませんが、昭和以後は完全にいなくなったと思います。錦江町にも大原、毛下が落ち武者伝説の場所となっています。
 しかし、一番の驚きは貴方のご年齢で、パソコンというのがもっと凄い!

投稿: わん | 2011年8月 3日 (水) 19時14分

 それから、花瀬から佐多辺塚へ山越えの時、もの凄いところと、書きましたが、今冷静に考えてみると、あの時台風が通過した後で、道の両脇の木は道中に迫ってくるし、道自体にも木の枝や葉が沢山落ちていたと言うことでは無かったかと・・・それにガスもかかって昼なお暗いが増幅された感があります。人間、行ったタイミングと切り口が違うと大変な事になちゃいます。

投稿: わん | 2011年8月 4日 (木) 19時04分

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