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鹿屋の花火大会

 大会と名が付いているが、別に競うわけではないのが夏の花火である。

 鹿屋市主催の「花火」が昨日(27日)の午後8時から打ち上げられた。031_2  友人3人と写真に写っているホテルの屋上のビアガーデンに入ろうとしたが、案の定、満席で断られた。

 もう一軒近くの屋上ビアガーデンのある飲食店に行ったが、こちらもダメ。

 仕方なく、1キロほど離れた友人の知り合いが経営する居酒屋へ行った。

 1時間ほど飲み食いをしていると「ボン、ボン」と合図の花火の音が聞こえてきた。

 みんなで居酒屋の外に出て観賞を決め込んだのだが、いかんせん近隣はビルや商店が立ち並び、花火の頭の方しか見えなかったので、肝属川沿いに歩いて、結局は最初に行こうとしたホテルのすぐ側の橋の上で見ることになった。051 赤い花火が上がると、川面も赤くなる。037  酔っていたのでデジカメがしっかり押さえられなかった。ピンボケはご容赦願う。050  東寄りの風がやや強く吹いていたため、花火の花が開くと花びらは向かって右手の西の方向に流れていた。056  1時間ほどして終了近くなると、5百連発などの連続花火が主流になる。066 かくて今年の花火も見納めとなった。

 橋の上のは多くの人が見物に来ていたが、川面を渡る風はもうすっかり秋の気配であった。

 6月の下旬に早々と梅雨が明け、長く暑い夏が続いたが、ようやく朝晩は冷えを感じるほどになってきた。

 大隅史談会の会報『大隅55号』の執筆と編集が目前に迫っている。秋の夜長に、焼酎でも傾けながらぼつぼつ始めることにしよう・・・。

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南隅路を行く(根占ネッピー館)

 「南隅」とは大隅半島南部の南大隅地区のことで、合併前は大根占町・田代町・根占町・佐多町の4ヶ町をそう呼んでいたのだが、合併後は大根占と田代が「錦江町」に、根占と佐多が「南大隅町」となった。

 南大隅町はまさしく以前からの「南隅」を代表するようなネーミングだが、錦江町については大根占と田代にそのような字名があったわけではなく、そうでなければやはり鹿児島湾を「錦江湾」と呼ぶことから名付けられた町名だろう。

 錦江と言えば、古代百済の滅亡直前の王都・扶余の城下を流れる錦江(河口近くでは白村江)を想起するが、これとの関係は後日の宿題にすることにして、さて今日は根占のネッピー温泉に入りに出かけた。

 このごろ夏の疲れか、足に汗疹状の物ができて痒いので、塩湯であるネッピー温泉に浸かりに行ったのである。塩湯は汗疹にはよく効いてくれる有り難い湯である。よく晴れているのデジカメを持って行くことにした。

 案の定、海の眺めは最高だ。鹿屋市の浜田交差点から269号線を南下して根占までの15,6キロを、自分としては「北・南隅路」と名付けたいのだが、交差点から5キロほど行った永目地区を通り過ぎると長い上りがある。

 その峠の頂上にはちょっとした展望所がある。025  ここからは開聞岳fがよく見える。024  しかし峠を越えたところの、トイレ付の展望台はさらに良い眺めが待っていた。023  これから向かう根占への海岸線沿いの「南隅路」が一目瞭然に眺められる。

 左手の高い山々は肝属山地の南部に属する「辻岳」「野首岳」で、700mから850m位の稜線をなしている。根占はその手前の麓で、目的のネッピー温泉は右下の黒々とした半島状の台地の下にある。020  大根占漁港の手前には「城ケ崎展望所」があるが、駐車場が狭く、おまけに草ぼうぼうだった。東屋の向うにうっすらと桜島が見えた。018  根占に着いてから、根占大橋の手前で車を停め、雄川河口を眺める。引き潮らしく川の真ん中に砂州が出来ていた。

 向こう岸が根占フェリー発着所、河口近くの小山には「戸柱神社」があって出船入船の安全を見守っている。アップすると019  間には開聞岳が顔をのぞかせている。001  ネッピー館はすぐそこだ。

 ネッピー館は根占第1号の温泉施設である。源泉は相当深いらしく、海のそばのため塩分の濃い「塩化物泉」(39、4℃)で、源泉は鉄分交じりで赤いのが特徴。体を温める湯なので冬にはもってこいだ。

 ただし、一般の湯船は塩分や鉄分などは濾過してあるので、源泉は浴場の外の湯船でしか味わえないので注意。

 温泉を出てから、新しく運航開始したという「根占なんきゅうフェリー」の新造船を見て帰ろうと、フロントで時間を確かめ、漁協の裏手005 に行ってしばらく待っていると、戸柱神社の脇から大きな船体がぬっと現れた。007  129トンと聞いていたので大したことはないだろうと思っていたが、結構な巨船であった。010  いったん漁港の側に船首を向け、バックして船尾からフェリー桟橋に横付けしたが、以前の1000トンはあったフェリーに比べると、旋回にさほどの時間はかからなかった。大型バス・トラックも2台は載せられるそうで、乗客に至っては60人とか聞いている。

 錦江湾の入り口で大隅半島と薩摩半島を結ぶ定期航路として定着するのかどうか、期待がかかる。

  リンク:鴨着く島おおすみ

 

 

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4ヶ月のウメ

 我が家に貰われてきた仔犬のウメも生後4ヶ月を過ぎ、見た目には成犬と変わらない姿になってきた。Ume4month1  おい、ウメ。写真を撮るぞ!(警戒しているな。)Ume4month2 ―なんだろう?手に持っているのは、もしかして・・・。Ume4month3  こら、食べ物じゃないぞ。突っかかって来るな。Ume4month4  食べ物じゃないことくらいわかってわよ、鼻は超いいんだから。でも何だろこの四角い物は、気になるなあ。

 と、顔にしわを寄せて迫ってくるウメであった。

 ウメは体はすっきりと短めの毛で、しわなどなくつるんとしているのだが、顔にだけは何本かの深いしわがある。女の子なのに気の毒だな。でも目の周りの深いアイシャドウはなかなかの物だよ。

Ume1month1  生後1ヶ月、貰われてきて三日目のウメがこれだった。

 その頃は体のしわしわもあったのだな。それに比べるとオネーさんにはなってきているんだ。楽しみだな、ウメの成長!

 

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66年目の終戦記念日(歴史を観る目)

 今日は昭和20年8月15日の終戦から満66年目の終戦記念日である。

 この時期になると2週間くらいは「国民に多大な犠牲を強いたおろかな戦争」というテーマで新聞やテレビが書き立てるのが例年の行事になっている。

 昨日の晩はNHKテレビで「軍部という強権のもとで、日本軍が影響力を持つ世界各地で、銀行券が発行されていた」「日本軍の撤収によってそれらは紙屑になった」という内容の放送があった。

 軍部が現地調達する際には「軍票」というものがあって、それは軍部が十分に機能している間はれっきとした紙幣に換えられる「売掛伝票」の類だが、軍部が力を失えば、たちまち流通から外される代物である。

 巨匠・松本清張が若い頃に直木賞を獲得したのが『西郷札』という歴史小説だったと思うが、西南戦争の時に西郷軍が発行した軍票が「西郷札」であった。もちろん西郷軍が壊滅した時点でそれらは紙屑になっている。

 今日の世界で最大・最高の「軍票」が<アメリカ国債>だろう。オバマ大統領が最近、アメリカ国債の格付けが落ちたことに関して、「それはあり得ないことだ。アメリカ国債は常に世界で最高ランクのものである」と大見得を切ったが、軍票が軍部の勢力に依存しているように、実はアメリカも世界の警察官という役回りに就いているがゆえに何とか持ちこたえているのである。

 逆に言うと、アメリカが世界中の「自由の敵」に対して攻撃をしなくなったらたちまちアメリカ国債は下落し、それと同時に天文学的な財政赤字によってアメリカは超大国から滑り落ち、帝政ローマの末期と同じ状態になるはずだ。

 そもそもアメリカが今日の地位を築いたのは、日本が英米を相手に戦い、まずはイギリスのプリンス・オブ・ウェールズを撃沈させてイギリスの凋落を誘ったためである。その結果、アメリカは独自に日本への総攻撃を開始し、結果として日本を降伏させ、連合国軍の占領とは言いながら、ほぼ米軍の思うがままの占領政策を遂行できた。まさにアメリカのひとり勝ちであった。

 その結果アメリカは、当時、国内の黒人たちには全く公民権(民主主義の基礎)にかかわる自由は与えていないにもかかわらず、「戦前の日本の不自由な軍国主義的統制体制を廃止し、アメリカの自由と民主主義を日本国民に与える」との理念で日本の「民主化」を推し進めたのであった。

 全く「あんたには言われたくねーよ」の噴飯ものだが、それでもアメリカ軍の徹底的な残虐な空襲や原爆の恐怖という「こっぴどい鞭」に恐れおののいた国民からすれば、民主主義や平和主義や基本的人権の尊重は「願ってもない飴」だったろう。

 かくしてアメリカは戦後、超大国の地位を思う存分に発揮でき、世界各地の紛争に「自由と人権を守る」という名分で出かけては多大の戦費を遣いながら、アメリカ国債という軍票も濫発できたのである。これがいつまで続くことやら・・・。

 さて、日本が対英米戦に打って出たのには大きな理由がある。それは「欧米列強という白色人種の世界分割・植民地化に対抗し、日本人はじめアジア人が立ち上がらなければ世界の有色人種はいつまでも欧米の侵略の餌食にされ続け、国民としての独立がない」というものである。

 日本はたしかに負けはしたが、1945年以降60年代までに多くの欧米植民地が独立を果たした。これは日本が戦前ではただひとつ非欧米独立国家だったことが可能にした世界史的な成果であり、あの戦争はけっして愚かでも無謀だったわけではないことを証明している。

 戦争被害をただ「バカな戦争をしたからひどい目にあった」ととらえ、被害のみを書き立てるのはもうやめにしたい。大東亜戦争の成果の面も同時に書かなければ片手落ちだ。両面を冷静に取り上げることこそ、歴史を観る目というものである。

 こう言うと読者からは「日本も欧米と同じように、台湾と朝鮮を植民地化したではないか、よく言えるもんだ」とのお叱りを頂くかもしれない。

 しかし台湾にしろ朝鮮にしろ「内地化」したのであって、植民地にしたのではない。

 教育を例にとると、イギリスなどは植民地に師範学校や大学などは設置していない。現地人のうち優秀な子弟をイギリスの大学に留学させて「イギリス化=イギリス風の洗練された紳士に」して、現地に送り返し、イギリス流の統治の手先とする方針をとっている。

 これに対して日本は内地とさほど変わらない教育システムを現地に再現している。要するに現地の台湾人であろうと朝鮮人であろうと日本人と同じ扱いをすることを基本方針としていた。ここに大きな違いがある。

 その当時(戦前)は内地でも四民平等とは言いながら<華族・士族・平民>の差別があった時代である。それを「台湾人や朝鮮人をことさら差別した」と一方的に決めつけるのはどうだろうか?

 以上から、同じひとくくりに「植民地化」といっても欧米諸国のそれと日本のそれとでは雲泥の差があることが分かる。当時、朝鮮王国が欧米列強(特にロシア)や清国の圧力に拮抗して独立を維持できていれば、日本も併合にまで行くことはなかっただろうが、東アジア情勢は風雲急であった。世界史的に見れば無理からぬ選択であったと言えるだろう。

 もう一度言っておきたい。あの戦争を「愚かなバカげた戦争だった」という視点でこと細かに日本軍の「犯した罪」を言いつのるのはやめにしよう。

 今ちょうど甲子園で高校野球が行われているが、それに引き当てて言うと<決勝戦まで行きながら敗れた高校>の監督や熱烈な応援者が、「1回のあの三振は何だ!」「2回のピッチャーのあの四球は何だ、あほらしい」「3回のあのエラーは何だ、ばかばかしい!」・・・などと、敗因を1回からさかのぼって選手に次々に言い立て、腹を立てているようなものだ。

 「準優勝しているのであるから、監督さん、そう腹を立てなさんな」―部外者ならそう言いたいところだが、優勝しか念頭になかった監督にとってはすべてが不甲斐ないように見えるのである。 

 繰り返し言うが、日本はアジア・アフリカの被植民地化の流れの中で唯一非白人国家として独立を果たした国であり、世界史の流れから言って早晩欧米列強と戦わざるを得なかったのである。結果としては負けたが、同時に欧米の有色人種世界植民地化政策への痛烈なカウンターパンチともなったがゆえに、戦後は有色人種国家群が次々に生まれることになった。このことを忘れた「バカげた戦争」観はもうやめにしよう。

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都城歴史散策(宮崎県都城市・三股町)

 昨日、8月7日はおおすみ歴史講座受講生の歴史散策の日。

 今回は23年度に入って学んだ都城を回ってみた。

 8時に鹿屋を車2台で出発し、大隅町の弥五郎の里(道の駅)で大隅町の2名と合流し、まずは末吉町の「檍(あおき)神社」に向かう。15分足らずで到着。

 ここはイザナギノミコトを主神とし、都合26柱の神々を祀っている。イザナギノミコトが禊をしたという「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐ヶ原」だそうだ。009  左手の池は「小戸池」。神社の上の台地から水がこんこんと湧き出している。奥に社殿がある。

 阿波岐ヶ原の「あはき」から「あおき」になったようだが、「あはきがはら」というと山中より海辺を思い出させる地名で、実際に宮崎市の海に近い町名の中に「小戸町」があり、阿波岐ヶ原もある。

 大淀川源流に近いここに26柱もの神が祭られているのは、イザナギノミコトに関する古事記神話と「大祓詞(おおはらいのことば)」から類推はできる。

 そこには <イザナギノミコトが黄泉国(よみのくに)の穢れをうけたので、中津瀬(なかつせ)の水で禊祓いをし、その時に禍津日(まがつひ)やそれを直す神直日(かんなおひ)が生まれ、さらにワタツミノカミが生まれた> と書いてある。

 もともと港や海浜に近いところで海の神を祀っていた航海交易民のような種族が、何らかの理由でこのような山中の清流(中津瀬)に到り、禊祓いのためのいわゆる宗教的施設をここに設けたのではあるまいか。

 「何らかの理由」とはこれから時間をかけて考察して行かねばなるまい。歴史的な経緯が背景にあると考えられはするが・・・。

 次に行ったのは「平季基(たいらのすえもと)の墓」。

 大淀川を渡り、中橋野というバス停の手前を左折、若一王子神社の先の住宅が途切れた原っぱのような場所にある。畑の一角の何の変哲もないようなところに五輪塔の笠の上の部分だけが地面にぽつんと置かれただけのわびしい物である。013

 これが島津庄を開発寄進した先駆者の墓かと思うと、驚きが先に立つ。ここではこれ以上言うまい。

 次がその平季基が都城に居着いていた場所「梅北」の中の中心地「益貫(ますぬき)」を訪れた。旧居は不明だが、季基が伊勢(神宮)から勧請し信仰していた「神柱(かんばしら)神社」の故地に建つのが「黒尾神社」。鳥居の脇に「神柱宮跡」の史跡標柱が立つ。015  神柱神社は明治維新後の明治6年、時の都城県令・桂久武によりここから北へ10数キロも遷された。現在の「神柱宮」がそれである。その跡地に黒尾神社が建てられた。

 次は、「都城島津家墓地」。廃仏毀釈で無くなったが「龍峯寺」という寺の跡でもある。020

 次に行ったのが「都之城跡」。現在は歴史資料館として天守閣風の建物が建つ。展示が見易い―と同行者たちは口を揃えていた。021  次は「都城島津邸」。

 今の市役所と図書館・美術館の敷地は、元和元年(1615)の<一国一城令>によって本城(上の都之城)が取り壊されたあと、都城を私領とした北郷(ほんごう)氏が住んでいた領主館であった。(北郷氏は島津本家4代目の忠宗の6男・資忠が始祖。江戸時代の17代目・忠長の時に島津氏を名乗るようになった)。

 その後、明治維新ののち領主館は都城県庁に転用されたため、早鈴町の現在地に都城島津邸が造られた。広い敷地の中に本宅と伝承館がある。伝承館は歴史資料館でもあり、都城島津家の様々な資料が展示されている。024  次は「早水神社」。島津邸からは北へまず神柱宮へ向かい、立ち寄らずに大鳥居だけを眺めてから東北方向に行き、都城農業高校前の五差路からはほぼ真東に2キロほどで神社に到着。026  なかなか立派な社殿で「仁徳天皇妃となった日向髪長姫とその父・諸県君牛諸井(うしもろい)」を祀る。025  社殿のガラス越しに髪長姫の人形が見えた。大小あり、大は15000円、小は8000円。一桁安ければお土産にしたかったが、ポケットマネーではとても無理とあきらめる。

 次に「祝吉御所(いわよしごしょ)跡」。030  タイル製の説明板(都城教育委員会)によれば、この地は島津家初代・忠久(それまでの姓は惟宗氏)が守護職・総地頭職に任命されたあと、館(御所)を建てた場所だという。また、<島津家発祥の地>ともいうのはここが島津という地名(島津庄の名もそこから来た)であったからという。

 <島津姓起源地>なら正しいが、<島津家発祥地>というのは言い過ぎだろう。

 次に「三俣城跡」。山之口町の「あじさい公園」の天辺にある。032  南北朝時代に三俣八郎と言われた高山の肝付氏本家8代・肝付兼重が築いた城と言われ、現在はかなり急峻な尾根の上に模擬天守閣が建っている。

 中には自由に入れる。人間様だけでなく、フクロウが一羽飛び込んでいた。何人かが手にした資料で窓の隙間から外へ押し出してやった。フクロウには大空のほうが自由だろう。

 ここからは都城盆地が一望できる。033  次は山之口から高城町へ。そこには「月山日和城跡」がある。この城も築城者は肝付兼重である。039  高城町商工会館の駐車場に車を停めて急坂を上るが、前の三俣城ほどではない。ここも模擬天守閣が建つが三俣城の3倍以上の規模で、中は資料館になっている。

 高山(肝付町)からの同行者F氏がその旨を告げると、受付の中年女性の応対はさらに丁寧になった。F氏によれば、高城町の人々は南朝方の雄で高城町の基礎を築いた肝付兼重を尊敬しており、兼重が肝付本家を継いで高山に去った後も「足を高山に向けて寝ることはない」(F氏)そうである。047  道理で資料館一階の一番目立つところに「朝廷から錦の御旗を授けられる肝付兼重(手前の武将姿)」の場面が実物大の人形を使って展示されているわけだ。一言では言い難いが、今でも「南朝精神」が脈打っている。(向うの垂れ幕の紋は「向かい鶴」で、肝付氏の家紋)

 月山日和城の「月」も「日」も、この錦の御旗の上部に縫い込まれている「月と日」に因んで名付けられたようだ。

 この城は南北朝時代に入って間もない延元4(1339)年に、足利方の日向守護職・畠山直顕によって攻略され落城する。直顕のあとは和田氏が城主となり、その後、島津氏、伊東氏へと変遷し、天文3(1534)年、都之城主・北郷(ほんごう)忠相の支配下に入った。庄内の乱前後は一時、伊集院氏が支配するがその後は再び都城島津氏(北郷氏)の城となるが、元和元年(1615)の<一国一城令>によって廃城になった。046  天守4階部分からの展望。都城、高城方面が一望のもとにある。

 次は「東(つま)霧島神社」。

 「東」を「ひがし」と読まずに「つま」と読むのは、「あづま」の「あ」の省略だろう。『三国名称図会』で「つまは端のこと。霧島山の東の端に鎮座するからつま霧島神社とした」とあるが、端(つま)は何も東だけではなく、西・北・南にもあるのだから、割注に別説として書いてあるように「あづま」の「あ」の省略が正しい。

 それはさておき、もう時間も押していることなので神社本殿には上らずに下にある奇妙な「割れ石=神石」だけ見て帰ることにした。055  もう6時を回っていたが、帰路、もう一か所序でだからというわけで、曽於市大隅町柳井谷にある「伝・景清の墓」を訪ねてみた。

 末吉町のしまむら末吉店手前の信号を右折して3キロほど、人家が途切れたあたりの右手の畑に標柱がありやっとそれと分かる辺鄙な場所に「柳井谷古石塔群」があり、その中の一番大きな五輪塔がそれだという。059  真ん中のかなり傷んだ五輪塔が景清墓らしい。

 

 国道269号線で帰路につき、帰着したのが午後7時半。皆さんお疲れさま。

  リンク:http://kamodoku.dee.cc/oosumi-rekisikouza-23-5.html

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星塚敬愛園の夏祭り(鹿屋市星塚町)

 星塚町にある「星塚敬愛園」はハンセン氏病患者の施設だが、毎年夏には夏祭りを行い、一般に開放している。

 いつもは近くの我が家から、祭りの終わりに打ち上げられる花火を眺めるだけだったのだが、今年の祭りに有名な歌手「水森かおり」がゲスト出演するというので出掛けてみた。001  まだ日の落ちない6時過ぎ、入り口から事務所(左手の建物)に差しかかると人々が集まり始めていた。002  小泉元首相が厚生大臣だった10数年前まで、左の姶良野簡易郵便局の奥は一般人の通行はもとより一歩入ることさえ許されなかったのだが、「ハンセン氏病は薬で全治し、感染力は極めて弱いので、隔離したことは誤りだった」と患者に謝罪したことで一般との交流が一気に進んだ。

 今年で33回になるという夏祭りには多数の見物客が近隣から訪れていた。003 004  水森かおりが出演するまでまだまだ先だというのに、野外ステージの前は大混雑であった。010  すっかり暗くなった8時、いよいよ水森かおりが登場する。008  「ひとり薩摩路」009  そして最後はやはり「鳥取砂丘」。やはりこれが一番いい。

 水森かおりのステージが終わると、花火を打ち上げて夏祭りは幕引き。018  見物客の中に若者や中高生が多かったのも印象的な夏祭りだった。

 ハンセン氏病に対する偏見が子供ほど少ないのは、学校教育でも人権問題と絡めて必ず取り上げられるからだろう。

 小泉元首相の功績や大と言うべきか。しかしそれより、そもそもこの施設を昭和10年に国立療養所として誘致した永田良吉という鹿屋選出の代議士のことを忘れてはなるまい。

 「ライ患者なんか連れて来たら、ただでは済まさないぞ」「子供たちがよそから差別される」「娘が嫁に行けなくなるし、嫁も来なくなる」

 などという地元の猛反対を押し切り、「一視同仁」「敬天愛人」(敬愛園の名称はこれに由来する)精神で誘致したのだが、その精神が60数年を経て小泉元首相のあの決断を促したと言えなくはない。

 永田良吉の功績こそ大であった。

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