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都城歴史散策(宮崎県都城市・三股町)

 昨日、8月7日はおおすみ歴史講座受講生の歴史散策の日。

 今回は23年度に入って学んだ都城を回ってみた。

 8時に鹿屋を車2台で出発し、大隅町の弥五郎の里(道の駅)で大隅町の2名と合流し、まずは末吉町の「檍(あおき)神社」に向かう。15分足らずで到着。

 ここはイザナギノミコトを主神とし、都合26柱の神々を祀っている。イザナギノミコトが禊をしたという「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐ヶ原」だそうだ。009  左手の池は「小戸池」。神社の上の台地から水がこんこんと湧き出している。奥に社殿がある。

 阿波岐ヶ原の「あはき」から「あおき」になったようだが、「あはきがはら」というと山中より海辺を思い出させる地名で、実際に宮崎市の海に近い町名の中に「小戸町」があり、阿波岐ヶ原もある。

 大淀川源流に近いここに26柱もの神が祭られているのは、イザナギノミコトに関する古事記神話と「大祓詞(おおはらいのことば)」から類推はできる。

 そこには <イザナギノミコトが黄泉国(よみのくに)の穢れをうけたので、中津瀬(なかつせ)の水で禊祓いをし、その時に禍津日(まがつひ)やそれを直す神直日(かんなおひ)が生まれ、さらにワタツミノカミが生まれた> と書いてある。

 もともと港や海浜に近いところで海の神を祀っていた航海交易民のような種族が、何らかの理由でこのような山中の清流(中津瀬)に到り、禊祓いのためのいわゆる宗教的施設をここに設けたのではあるまいか。

 「何らかの理由」とはこれから時間をかけて考察して行かねばなるまい。歴史的な経緯が背景にあると考えられはするが・・・。

 次に行ったのは「平季基(たいらのすえもと)の墓」。

 大淀川を渡り、中橋野というバス停の手前を左折、若一王子神社の先の住宅が途切れた原っぱのような場所にある。畑の一角の何の変哲もないようなところに五輪塔の笠の上の部分だけが地面にぽつんと置かれただけのわびしい物である。013

 これが島津庄を開発寄進した先駆者の墓かと思うと、驚きが先に立つ。ここではこれ以上言うまい。

 次がその平季基が都城に居着いていた場所「梅北」の中の中心地「益貫(ますぬき)」を訪れた。旧居は不明だが、季基が伊勢(神宮)から勧請し信仰していた「神柱(かんばしら)神社」の故地に建つのが「黒尾神社」。鳥居の脇に「神柱宮跡」の史跡標柱が立つ。015  神柱神社は明治維新後の明治6年、時の都城県令・桂久武によりここから北へ10数キロも遷された。現在の「神柱宮」がそれである。その跡地に黒尾神社が建てられた。

 次は、「都城島津家墓地」。廃仏毀釈で無くなったが「龍峯寺」という寺の跡でもある。020

 次に行ったのが「都之城跡」。現在は歴史資料館として天守閣風の建物が建つ。展示が見易い―と同行者たちは口を揃えていた。021  次は「都城島津邸」。

 今の市役所と図書館・美術館の敷地は、元和元年(1615)の<一国一城令>によって本城(上の都之城)が取り壊されたあと、都城を私領とした北郷(ほんごう)氏が住んでいた領主館であった。(北郷氏は島津本家4代目の忠宗の6男・資忠が始祖。江戸時代の17代目・忠長の時に島津氏を名乗るようになった)。

 その後、明治維新ののち領主館は都城県庁に転用されたため、早鈴町の現在地に都城島津邸が造られた。広い敷地の中に本宅と伝承館がある。伝承館は歴史資料館でもあり、都城島津家の様々な資料が展示されている。024  次は「早水神社」。島津邸からは北へまず神柱宮へ向かい、立ち寄らずに大鳥居だけを眺めてから東北方向に行き、都城農業高校前の五差路からはほぼ真東に2キロほどで神社に到着。026  なかなか立派な社殿で「仁徳天皇妃となった日向髪長姫とその父・諸県君牛諸井(うしもろい)」を祀る。025  社殿のガラス越しに髪長姫の人形が見えた。大小あり、大は15000円、小は8000円。一桁安ければお土産にしたかったが、ポケットマネーではとても無理とあきらめる。

 次に「祝吉御所(いわよしごしょ)跡」。030  タイル製の説明板(都城教育委員会)によれば、この地は島津家初代・忠久(それまでの姓は惟宗氏)が守護職・総地頭職に任命されたあと、館(御所)を建てた場所だという。また、<島津家発祥の地>ともいうのはここが島津という地名(島津庄の名もそこから来た)であったからという。

 <島津姓起源地>なら正しいが、<島津家発祥地>というのは言い過ぎだろう。

 次に「三俣城跡」。山之口町の「あじさい公園」の天辺にある。032  南北朝時代に三俣八郎と言われた高山の肝付氏本家8代・肝付兼重が築いた城と言われ、現在はかなり急峻な尾根の上に模擬天守閣が建っている。

 中には自由に入れる。人間様だけでなく、フクロウが一羽飛び込んでいた。何人かが手にした資料で窓の隙間から外へ押し出してやった。フクロウには大空のほうが自由だろう。

 ここからは都城盆地が一望できる。033  次は山之口から高城町へ。そこには「月山日和城跡」がある。この城も築城者は肝付兼重である。039  高城町商工会館の駐車場に車を停めて急坂を上るが、前の三俣城ほどではない。ここも模擬天守閣が建つが三俣城の3倍以上の規模で、中は資料館になっている。

 高山(肝付町)からの同行者F氏がその旨を告げると、受付の中年女性の応対はさらに丁寧になった。F氏によれば、高城町の人々は南朝方の雄で高城町の基礎を築いた肝付兼重を尊敬しており、兼重が肝付本家を継いで高山に去った後も「足を高山に向けて寝ることはない」(F氏)そうである。047  道理で資料館一階の一番目立つところに「朝廷から錦の御旗を授けられる肝付兼重(手前の武将姿)」の場面が実物大の人形を使って展示されているわけだ。一言では言い難いが、今でも「南朝精神」が脈打っている。(向うの垂れ幕の紋は「向かい鶴」で、肝付氏の家紋)

 月山日和城の「月」も「日」も、この錦の御旗の上部に縫い込まれている「月と日」に因んで名付けられたようだ。

 この城は南北朝時代に入って間もない延元4(1339)年に、足利方の日向守護職・畠山直顕によって攻略され落城する。直顕のあとは和田氏が城主となり、その後、島津氏、伊東氏へと変遷し、天文3(1534)年、都之城主・北郷(ほんごう)忠相の支配下に入った。庄内の乱前後は一時、伊集院氏が支配するがその後は再び都城島津氏(北郷氏)の城となるが、元和元年(1615)の<一国一城令>によって廃城になった。046  天守4階部分からの展望。都城、高城方面が一望のもとにある。

 次は「東(つま)霧島神社」。

 「東」を「ひがし」と読まずに「つま」と読むのは、「あづま」の「あ」の省略だろう。『三国名称図会』で「つまは端のこと。霧島山の東の端に鎮座するからつま霧島神社とした」とあるが、端(つま)は何も東だけではなく、西・北・南にもあるのだから、割注に別説として書いてあるように「あづま」の「あ」の省略が正しい。

 それはさておき、もう時間も押していることなので神社本殿には上らずに下にある奇妙な「割れ石=神石」だけ見て帰ることにした。055  もう6時を回っていたが、帰路、もう一か所序でだからというわけで、曽於市大隅町柳井谷にある「伝・景清の墓」を訪ねてみた。

 末吉町のしまむら末吉店手前の信号を右折して3キロほど、人家が途切れたあたりの右手の畑に標柱がありやっとそれと分かる辺鄙な場所に「柳井谷古石塔群」があり、その中の一番大きな五輪塔がそれだという。059  真ん中のかなり傷んだ五輪塔が景清墓らしい。

 

 国道269号線で帰路につき、帰着したのが午後7時半。皆さんお疲れさま。

  リンク:http://kamodoku.dee.cc/oosumi-rekisikouza-23-5.html

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