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山下家の六地蔵(曽於郡大崎町馬場)

 先週の「おおすみ歴史講座」で、大崎町から通ってくるT氏が、

 「珍しい六地蔵が大崎にはあって、それぞれの地蔵さんの背に由緒らしいものが刻み込まれているんです。以前に採録した人があるのですが、ところどころ意味不明の箇所があるんで・・・」

 と、その由緒書きをパソコンで打ち直したものを私に見せたのだが、現物を見てみないとよく分からない、できれば行って見てみたいですね――とその日はそう言って別れたのだが、昨日、電話の誘いがあり大崎町へ出かけた。

 大崎町役場前でT氏と落ち合い、すぐに現場に向かった。

 大崎町役場から道を右手(北方向)に行き、200㍍ほど行ったところで左への道をとった。そこからまた200㍍ほど、道路右側にちょっとした墓地が見えてきた。そこが「山下家墓地」で、中央に山下家(本家)の墓、左右と奥の方には親族と思しき墓が10基ばかり並んでいる。

 くだんの六地蔵は本家の墓の前に横並びに並んで立っていた。001  六地蔵とは仏教用語で、人間の「六道輪廻」の際にそれぞれの守護仏として現れる地蔵さんのことであるそうだ。

 T氏のくれた資料によると六道とは「天道・餓鬼道・人道・畜生道・地獄道・修羅道」のことで、人間の死後、輪廻して通過する世界を象徴している。

 地蔵さんはその各世界で魂を救済してくれるありがたい存在で、これを刻んで亡者の追善供養を行う。

 一般的には「六地蔵塔」といって笠のある背の高い石灯篭の明かりが入る部分を六角の壁にし、その各壁に守護仏の六地蔵を刻む(レリーフ)のであるが、ここのは一体一体が独立した石仏として刻まれている。非常に珍しい。

 おまけに各地蔵さんの背には文字がびっしりと刻まれている。さらに珍しい。017  6番目の地蔵さん(法印地蔵という)の背に刻まれているのが最後の方で、この六地蔵が建立されたのは「宝暦・丙子・霜月吉日」とあり、宝暦6年(1756年)の陰暦11月のことであったことが分かる。

 それぞれの地蔵さんの背には平均して60字くらいが刻まれているので全体で360字ほどの「六地蔵建立由緒」である。

 ここで全体を解釈するスペースは持たないので、解明した骨子だけを述べると――

――この六地蔵は山下家の出家「常政法印」の娘のための供養仏で、娘の妙念大姉(これは法名で実名は不明)は16歳の時に高隈(富隈?)の郷士・小野田仲右衛門尉實盈(さねみつ)に嫁ぎ、22歳の宝暦6年10月1日の出産時に他界した。

 実の父母はこれをたいそう悼んだ。

 母は遺品とて何もない娘のために小さな墓でもいいから建てて、朝夕のお供え物をし、いつも掃き清めてあげたいと言ったが、父は祖先の墓がたくさんある中に同じような墓塔を建てるより「六地蔵」を建立すれば、娘の供養になるうえ、先祖の守り仏として後代のためにも良いだろう、と言った。

 それで、私財を投じて六地蔵を建立し、霊魂の早い成仏を願ったのである。

 ・・・常政の嫡子・政文がこの由緒書きを作成した。

 おおむねこのような内容の由緒書きである。011

 実父母の娘への愛情がひしひしと伝わってくる文書だが、不審なのは娘はなぜ嫁ぎ先の墓に入れてもらえなかったのだろうか、ということだ。

 実母が「娘には遺品とて何もない」と言ったように書いてあるが、遺品のうちには「子供」も含まれているのだろうか?

 もしそうなら、娘は嫁いで6年目にしてようやく妊娠してわが子を産み落としたのに、わが身は命を落とし、子供の性別が男の子ではなかったのかもしれない。

 初めての子が男の子であれば「世継ぎを産んだ母」ということで、たとえ産後すぐに他界しても嫁ぎ先の小野田家の墓に埋葬されたに違いない。

 産んだ子が女子であったために、実家の山下家へ遺骸が返されたのではなかろうか。つまりは戸籍抹消(除籍)ということに他ならない。

 父母の愁嘆が尋常でないのも、そのような江戸の昔の不条理なしきたりが背景にあるのではないかと思われる。

 しかしかかる大きな愁嘆が原動力となって六地蔵と後背の由緒文を刻ませ、250年もの後世のわれわれに語りかけることになったのである。

             合掌

 

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