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6年目に入ったブログ「鴨着く島」

 わが「鴨着く島(かもどくしま)」ブログもついに6年目に入った。

 2006年(平成18年)の10月10日に初めてのブログをアップし、以来満五年で540余りの記事を書き込んできた。

 1年で100ブログをアップすることを目標としてきたので、ほぼそれは達成したことになる。自己満足にすぎないが、読んでくれる方々の時々のコメントが励みになった。感謝します。

 

 昨日はうれしいことがあった。

 ここに引っ越してきて以来、どこにしまい込んだか探し続けていた琉球の古典音楽のレコードが押入れの片隅から見つかったのである。003 『沖縄の古典音楽』ジャケット表紙。ビクター音楽産業株式会社制作・販売。1972年。

 これは今から39年前、学生時代にアルバイトをして溜めた金で買った沖縄の古典音楽『御冠船踊り』の二枚組レコードで、東京は上野のレコード店で購入した。

 何でこのような古典を好んだのか、そのきっかけは何だったのかというと明確ではない。そのころすでに沖縄の「安里屋ユンタ」などが巷で流れていたので、その音色や旋律に惹かれたのだろうとは思う。

 それと、また、何でビクターがこんなマニアックな古典舞曲をレコードとして出すことになったのだろうか。当時、そんなことを詮索できたわけではない。

 今、改めてジャケットの中に書かれた解説「演奏者について」を読んでみてようやく合点がいった。それによると・・・

 「文化庁では昭和47年3月、組踊りを国の重要無形文化財として指定し、その保持団体として組踊保存会を認定した・・・(中略)・・・。特に沖縄三味線音楽の主流を占める野村・安富祖両流のトップがずらりと顔を揃えて演奏しているのは圧巻である。」

 昭和47年は西暦1972年であるから、このレコードはまさに「組踊り」が重要無形文化財に指定された同じ年のうちに制作・販売されている。ビクターの素早い対応には驚く。けっして大量に売れるものではなかったはずだ。

 とまれ、去年から始めた三線(さんしん:上の解説の中で「沖縄三味線」とあるが、現在は沖縄言葉の「さんしん」が普通に使われている)学習には大いに励みになる。002

 

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

  継続する事は、出来るようでなかなか出来ることではありません。私も、布袋さんや、我が胸の萌ゆる思い、内之浦系・・・等々もことごとく砕け散りました。今では扇香の里や内之浦の一部、佐多の探訪さん、錦江町の一部(これもややお疲れ気味のようで)ぐらいが何とか生き残っております。続けることは、知識をはき出すのではなくて、知識に磨きをかけさらに吸収することだと思います。これからも頑張ってください。
 私には、韓国のぬぐえない蔑視があったのですが、チャングムを見てからそれがすーっと無くなって、いかに自分が勉強不足であったか思い知ったものでしたが、最近、これも、あまり言いたくありませんが、同じく沖縄の文化に対するぬぐえない蔑視(お前は何様だ?)があったのですが、と言いますかあの変な踊りに嫌悪感すらあったのですが、NHKのテンペストを見てからこれもすーっとそれが無くなった事に驚きました。相手を知るには、相手の文化を学ぶことがいかに大事か実感したことでした。シエクスピアのテンペストならぬベートベンテンペストをケンプで
http://www.youtube.com/watch?v=LfjD-DQ5REk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=VCcAN7xmPb4

 

投稿: わん | 2011年10月13日 (木) 21時02分

わんさん、コメントありがとうございます。
沖縄の変な踊りとは「エイサー」のことでしょうか?
それだったら自分もあまり好きではありません。
とにかく琉球古典舞曲が第一です。
 
 白村江の戦で倭人の水軍が完敗するまで、南朝鮮の歴史は倭国とくに九州島の歴史とパラレルでした。『魏志韓伝』を読むと馬韓(今日の光州以北ソウルまで)、辰韓(今日の慶尚北道・忠清道)、弁韓(今日の大邱以南金海・釜山まで)の南朝鮮のうち弁韓は完全に倭人国家であり、馬韓・辰韓の構成員は倭人だったようです。
 12世紀に編纂された『三国史記』の「新羅本紀」によると、新羅建国初代の重臣(家老)は瓢公(ホコウ)といい、倭国から海を渡ってやって来たと書いてあります。
 また新羅王の第4代は「脱解(ダッカイ)」といい、倭国の東北1千里の「多婆那(たばな)国」生まれとも書かれています(たばなは玉名でしょう)。12世紀の朝鮮史官「金富軾」はかなり客観的に書いてくれています。

 白村江の戦いで唐に敗れたあと、倭人は半島から引き上げたり、多くは向うに土着したわけですが、その後倭国との通交が途絶えがちになり、それに代わって倭国も新羅も唐という超大国との国交に精力を注ぎました。その結果半島人と倭人との間に情報欠落という大きな隔たりが生まれ、お互いによそよそしくなっていきます。
 これは対米戦争に完敗した日本がかっては半島をも支配していたのに、急によそよそしくなってそれぞれが超大国アメリカとの国交に精力を注ぎ、つい最近まで交流も情報も少なく大きな隔たりがあったのと驚くほどよく似ています。
 歴史は繰り返す―というが、まさにぴったり当てはまります。

 倭人と朝鮮半島のかかわりについては、ホームページ「鴨着(ど)く島おおすみ」を参照してください。

投稿: kamodoku | 2011年10月16日 (日) 00時01分

継続は力ですわね。
最近、天智天皇伝承を追いかけてます。
志布志辺りに再度お伺いしたいものです。

投稿: より | 2011年11月 4日 (金) 15時38分

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