« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

「泰清世子」(たいしんせいし)について

 大隅史談会のホームページ『鴨着く島おおすみ』に10月の歴史講座(10月10日)の学習内容をアップしたのだが、その中で日向国・高岡郷にあった「梅樹山香積寺」の項に登場する次の人物について誤認をしていたことが判明した。

 梅樹山香積寺の記述で―

 <…万治3年(1660)2月7日、泰清世子、遊覧したまふ。寺地1段8歩を賜りて、梅  樹の為とす。…>

 ―とある中の「泰清世子」という人物が掴めなかったので、苦し紛れの解釈・・・「泰は大の意味であり、そうすると大清は大清国だろうから、清王朝の世子つまり王子ということになる。だが、清王朝から王子が鹿児島に来た記録はないから、当時清王朝の属国でもあった琉球から薩摩に人質として滞在していた琉球王の後継王子のことではないか?」・・・このように備考に書いておいた。

 ところが、近ごろ三国名勝図会の「索引(別巻)」(青潮社版)を調べてみて、一気に氷解した。

 索引には「泰清公」として載っており、第1巻に3か所、第3巻に1か所、そして第4巻に2か所の都合6か所に登場していた(日向国・高岡郷・香積寺は第3巻の1か所に当たる)。

 泰清公のあとにカッコつきで「綱久、20代光久子、21代綱貴父」とあったので、さっそく手持ちの島津氏系図(「県史」別巻に記載あり)を調べると、確かに光久の子の中に長子として「綱久」がいた。間違いなく「世子(後継者)」である。しかも法名が「泰清院関山良無」で、後世の略称として「泰清公」が使われていたのであった。

 カッコの注記にあるように、この人は早世したため21代にはなれず、子の綱貴が継いだ。42歳まで生きているので早世というのは語弊があるが、なにしろ前代の父・光久が79歳という当時ではかなりの長命で、本人が父より先に死んでしまったから致し方あるまい。

 以上、おおすみ歴史講座10月例会の誤認を訂正かたがた――。

 

| | コメント (0)

堂籠川の竹の橋(鹿屋市輝北町下百引坂下)

 2年前にブログ「百引(もびき)界隈」をアップしたが、今年の春になって千葉県に住むМ氏から、百引は自分の故郷で懐かしく思って読んだが、ブログの最後の方に出てくる「竹の橋」は兄が架けたものではないか――と、手紙と電話で連絡をもらった。

 Мさんは百引を離れたあと自衛隊に奉職し、千葉県習志野市にある「第一空挺師団」に属し、退職後は自転車で日本全国を回るなど悠々自適の日々を過ごしておられるようだ。

 そのМさんから一月半ほど前にまた文書を頂いたのだが、中に入っていたのは「山崎直子宇宙飛行士・打ち上げ見学旅行記」というものであった。はて、スペースシャトルの打ち上げにわざわざアメリカまで行ってきたとは(物好きな)、と思いつつ中身を読んでみて驚かされた。033_2 (写真の左半分がМ氏の「打ち上げ見学旅行記」―A4版で10ページ。右が山崎直子さんのプロフィールの載った記事。)

 何と山崎直子さんの父親はМ氏の属していた第一空挺師団の後輩だという。

 空挺師団が発行する情報誌にこのスペースシャトルの発射見学ツアーが掲載されていたので応募したのだそうだ。

 打ち上げは当初の予定より若干遅れたようだが、2010年の4月6日(アメリカ時間では4月5日)にケープケネディ基地から打ち上げられ無事任務を果たしたことは記憶に新しい。

 М氏は4月5日をはさんだ一週間ほどの日程で出かけている。

 記事を読んでもう一つ驚いたことがあった。それは今を時めく総理大臣・野田佳彦のお父さんも同じ第一空挺師団に属し、少し後輩だったそうである。

 何とも豪華な子女たちである。

 さて、あの竹の橋の様子は今どうだろうか・・・・・。

 というわけで、М氏のお兄さんを訪ねがてら出かけてみた。008  幅7~8メートルの堂籠川(どうごもりがわ)に架かる竹の橋は健在であった。013 健在どころか、太さが10センチは超える孟宗竹を3本束ねて一本の橋とし、同じものをもう一つ並べて以前より強化されていた。

 この様子を確認したあと、お兄さんの家を訪ねてみたのだが、あいにく留守であった。また機会を見て訪ねてみたい。

 時間があったのでこの堂籠川をさかのぼってみた。

 2キロほど上流の堂平という藩政時代の百引郷の地頭仮屋(郷役場)があった集落を過ぎ、さらに2キロ行くと荒平橋に行き当たるが、広かった谷地田はここまでで、この上流は次第に狭まって行く。

 さらに2キロ余り、途中から林道が分岐したりする谷沿いの山道を行くと、何と素晴らしく広い谷地田(というより小盆地)に行き当たった。022_2 山中とは思えないほど浅い流れの谷川。その周囲に広がる田んぼ。021_2 目を転じると、今まさに脱穀最中の田があった。その向こうでは脱穀の終わった田んぼに残った掛け干し用の「うま(馬)」を片づけている。

 こんな山中の隠れ里のような所は「桃源郷」と呼ぶにふさわしい(道路沿いの標識には「風呂段地区」とあったから「湯源郷」になるか・・・)。

 これからさらに2キロ上には砂防ダムが造られていてその奥は純然たる渓谷になっている。その2キロの間にも小規模だが谷地田が3か所ほどあった。017  堂籠川は幅7~8メートルの小河川だが、意外に長い谷地田を展開している。藩政時代に百引郷の地頭仮屋が置かれたのもうなづける話である。

 

| | コメント (0)

カダフィ大佐の死

 リビアの最高指導者だったカダフィ大佐が死んだ。NATO軍に属しているフランス空軍による爆撃が原因だった。

 反カダフィ派の国民評議会とそれを支持する民衆は大喜びだろう。これから構築される新リビアはより自由により民主主義になって行くだろう。

 しかし単純には喜べない。なぜならカダフィ大佐はもともと欧米植民地からの開放を目指しながら欧米の手先ともなっていたリビア国王から、欧米の息のかからない本来のリビアを目指したのであって、地域主権の一つの帰結でもあったからだ。

 あのアルカイーダのウサマビン・ラディンもアフガニスタンに侵攻したソ連への対抗勢力として初めはアメリカ(CIA)の援助を受けて勢力を拡大しながら、1989年にソ連が敗退した後は、お役目御免とばかりアメリカの援助は途絶えた。これに怒りを感じない方がどうかしている。その挙句のアメリカ主導の「湾岸戦争」である。イスラムの怒りは心頭に到達することになった。ウサマビン・ラディンは以後、完全な反米主義者となっていったのである。

 アメリカにとっては「反共」で一致していたからこそイスラム教徒であってもビンラディン勢力を支持したのであって、ソ連がアフガニスタンから撤退すれば異教徒で反イスラエルのアルカイーダなど用無しなのであった。

 ここに「欧米列強」の横暴(自己中)が透けて見える。

 カダフィ大佐は2009年の9月23日に国連総会で演説を滔々とぶったが、その要旨はこのような「欧米列強」のやり方への不満であった。

 カダフィ大佐の国連演説については、このブログでも取り上げている。

 カダフィ大佐は――国連憲章ではすべての加盟国の権利は平等である、としながら安全保障理事会は第二次世界大戦の戦勝国で占められ、大き過ぎる権限が与えられているではないか――として国連憲章を投げ捨てたのであった。

 カダフィ大佐のいうことはもっともである。

 しかしながら「国連憲章」は米英の「大西洋憲章」を下敷きに、対ドイツ、対日本を念頭に置いて作成され、特に日本を取り巻くソ連・中華民国を常任理事国としており(国連憲章第5章「安全保障理事会」第一項)、その証拠にいまだにドイツも日本も<敵国条項>から外されていない(…したがって、日本が常任理事国に入るなんてことは絶対あり得ないのだ)。

 だが、不可解なのは安全保障理事会の常任理事国は戦勝した連合国側の英・米・仏と中華民国およびソ連なのであるが、中華民国が「中華人民民主主義共和国(中共)」に変わり、ソ連が「ロシア」に変わっても、国連憲章を変えることなくそのまま「中共」と「ロシア」が常任理事国として居座ったことである。

 繰り返すが、安全保障理事会の常任理事国は国連憲章の規定では「英・米・仏・中華民国・ソ連」なのであり、「中共」にも「ロシア」にもその資格はない。にもかかわらずそのまま常任理事国に横滑りしている。

 実はそこに対日(反日)という概念を置いてみると、整合性が浮かび上がる。

 つまりは「日本封じ込め」なのである。

 にっくき異教徒でありながら英米に戦いを挑んだ日本を監視し二度と刃向わせないためなら、共産主義(中共)であろうが社会主義(ソ連)であろうが構わないのだ。ウサマビン・ラディンがイスラム教という異教徒でありながらアフガンに侵攻した社会主義国・ソ連をやっつけるために、アメリカの援助を受けたのと構造的によく似ているではないか。

 国連憲章の第一章「目的及び原則』の3項にはこう書かれている。

<経済的・社会的・文化的または人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種・性・言語または宗教による差別なく全ての者のために人権及び基本的自由権を尊重するように助長・奨励することについて国際協力を達成すること。

 国連憲章は1945年の6月に制定されたが、そのころアメリカの黒人には基本的自由権どころか基本的人権さえ保障されていなかったのである。

 よく言うよな、アメリカさん。欧米の特有の「二枚舌外交」がここにも表れている。「国内問題」は別なんだ、と白を切ったつもりかも知らないが、残念ながら化けの皮は剥がれている。

 カダフィ大佐がそのあたりまで深く歴史認識を考察していたかどうか、今となっては分からないが、あの国連演説の主旨は間違っていない。支持する。

 

 

 

| | コメント (0)

山間の収穫風景(鹿屋市下祓川町)

 鹿屋市の北5キロほどの山間にある「長谷観音堂」は古い歴史があるようだ。Hasekannon 伝承によると―むかし何かの事情で都からやって来た男がこのあたりで炭焼きで生計を立てて暮らしていたが、山中から「唐金(からかね)」を発見して都に出て売り出したところ大層な高額で売れたので億万長者になった、という。

 これはかねてから信仰していた奈良の長谷観音による御利益だと思った長者は、長谷寺を分置して丁重に祀ったという・・・――。

 「唐金」とは弥生時代に鉄製品とともに日本へ到来した青銅器のことであるが、この炭焼長者が発見した物は何であったのか、伝承は語らない。

 鹿児島では銅鐸が見つかったことはないから、北九州系の銅矛か銅戈か?銅戈なら志布志市有明町で一本の完形品が出土している。Oozonoizeki  この長谷観音の前を肝属川が流れ、川幅一杯の恒久的な大園井堰があるが、井堰のすぐ下に注ぐ小川をたどると長谷観音の裏山を越えた所に小さな谷間があり、今ちょうど脱穀の最中だった。Dakkokufuukei 今年の普通作はどこも取り入れたあとの掛け干しを終えて脱穀をしているが、実入りは上々と見た。夏の生育期に日照が十分あり、気温も高目だったからだ。Yamakainotanbo_2 山里の秋はまさに酣である。

| | コメント (0)

6年目に入ったブログ「鴨着く島」

 わが「鴨着く島(かもどくしま)」ブログもついに6年目に入った。

 2006年(平成18年)の10月10日に初めてのブログをアップし、以来満五年で540余りの記事を書き込んできた。

 1年で100ブログをアップすることを目標としてきたので、ほぼそれは達成したことになる。自己満足にすぎないが、読んでくれる方々の時々のコメントが励みになった。感謝します。

 

 昨日はうれしいことがあった。

 ここに引っ越してきて以来、どこにしまい込んだか探し続けていた琉球の古典音楽のレコードが押入れの片隅から見つかったのである。003 『沖縄の古典音楽』ジャケット表紙。ビクター音楽産業株式会社制作・販売。1972年。

 これは今から39年前、学生時代にアルバイトをして溜めた金で買った沖縄の古典音楽『御冠船踊り』の二枚組レコードで、東京は上野のレコード店で購入した。

 何でこのような古典を好んだのか、そのきっかけは何だったのかというと明確ではない。そのころすでに沖縄の「安里屋ユンタ」などが巷で流れていたので、その音色や旋律に惹かれたのだろうとは思う。

 それと、また、何でビクターがこんなマニアックな古典舞曲をレコードとして出すことになったのだろうか。当時、そんなことを詮索できたわけではない。

 今、改めてジャケットの中に書かれた解説「演奏者について」を読んでみてようやく合点がいった。それによると・・・

 「文化庁では昭和47年3月、組踊りを国の重要無形文化財として指定し、その保持団体として組踊保存会を認定した・・・(中略)・・・。特に沖縄三味線音楽の主流を占める野村・安富祖両流のトップがずらりと顔を揃えて演奏しているのは圧巻である。」

 昭和47年は西暦1972年であるから、このレコードはまさに「組踊り」が重要無形文化財に指定された同じ年のうちに制作・販売されている。ビクターの素早い対応には驚く。けっして大量に売れるものではなかったはずだ。

 とまれ、去年から始めた三線(さんしん:上の解説の中で「沖縄三味線」とあるが、現在は沖縄言葉の「さんしん」が普通に使われている)学習には大いに励みになる。002

 

| | コメント (3)

降灰は早くも第二弾(鹿屋市池園町)

 今朝のニュースで、昨日は桜島の噴火・爆発が合わせて10回もあったという。一日10回は記録的な回数で、今年になってから746回になったそうだ。

 9ヶ月で746回ということは一日平均2.7回位であるから、10回は確かに多い。

 昨日の午前9時台の噴火がかなり大きくて、折しも吹いていた北寄りの西風に乗って、鹿屋・大隅地域に灰が降り注いだ。所用で午前中に笠野原から串良町方面を車で走ったが、道路にうっすら積もった灰を車が巻き上げていた。

 車から降りて歩くと、風に乗った細かな火山灰が目に入ることもあった。去年も多かったが、去年なら11月以降の現象が今年はひと月も早くから起こったことになる。

(もっとも、先月9月3日には台風12号の影響で北西の強い風が吹き、その日今年の秋の初降灰を記録しているが・・・)

 夕方、ウメを散歩させている最中にも、北西方向から黒雲のような灰の1団が空を覆って来て、細かな灰を降らした。これには驚いた。005  桜島の方向はどんよりした灰色雲、いや「灰雲」に覆われている。ビニールハウスと電線との間にうっすらと輪郭が見えているのは高隅連山。大量の灰が注いているはず。002  我が家の上空まで到達した灰雲。003  さらに南東方向へ流れた灰雲は、見る間に地上に向かって灰を降り注ぎ始めた。明るいオレンジ色は空で、上の灰雲から降る灰の粒子がオレンジ色をぼかしている。

 どうやら我が家の上空から南東へ1~2キロ行った辺りが降灰弾の直撃を受けた模様である。010  直撃はまぬかれたといっても、今朝起きてみると庭に置いていた車はこの通りの有り様。リアガラスも天井も見分けがつかない。009  前のボンネットもこの通り。008_2  ワイパーに溜まった降灰。5ミリは積もっている。

 こんな鹿児島だが、降灰のために車が故障したり事故を起こしたという話は聞かない。車に関して言えば「洗車代がバカにならない」とか「毎日洗うのが大変」というくらいだ。

 日常的には「天気がいいのに、洗濯物が外に干せない」「歩いていると灰が目に入る」などが主たる不便だが、そのために家庭が不和になったり、病院通いが増えたりということも無いようである。

 降灰時は外出を控えなければならないので、外で遊びたい子供には不満かもしれないが―。

| | コメント (0)

横瀬古墳で二重環濠を発見(曽於郡大崎町)

 曽於郡大崎町にある国指定史跡「横瀬古墳」が二重環濠を備えていることが最近確認され、現地でその説明会があった。

 横瀬古墳は低地の沖積地に築かれており、周囲の現況は水田地帯なのでよく目立つ。009  近くの保育園入り口で受付を済ませたあと、係の大崎町教育委員会の文化財担当者による古墳の概要の説明があった。

 それが終わると、3つの班に分かれていよいよ外側の環濠を確認した地点へと向かう。010  水田の一部を掘り込んだところ、微細な土質の層序が現れ、その中でも開聞岳の貞観16年(874)の大噴火の際に降り積もった「紫ゴラ」という名の層が断ち切られず、さらにその下に深い流水路のようなえぐれが確認されたため、その部分が二重環濠の外側の濠に当たると断定された。

 そもそも横瀬古墳の外側の環濠の発見は、横瀬古墳を撮影した航空写真を眺めていた文化財課の担当者の鋭い勘によるものである。

 平成年度に撮影されたと思われる航空写真が役場内から見つかり、それを見た担当者が、古墳の周囲に以前から確認されていた「内濠」の外側にも部分的に周回する帯状の土質の違いを確認し、今回の調査(試掘)につなげた。017_2

 その結果が上の写真であり、表土の下1メートル数十センチの深さの「外濠」部分が明瞭に現れた。幅は3~4メートルとのことである(見物する人々のすぐ後ろに立つ2本の竹の棒が外濠の幅を示している。また掘り込んだ溝の最上部に張られた赤い道糸は海抜6㍍ラインを示している)。

001  これは当日に配られた現地説明会資料から転写したものだが、等高線が刻み込まれた古墳の周囲をまず「内濠」が周回し(やや色の濃くなった部分で、幅は12mから23mあり、深さは1.5m=資料より)、そのすぐ外側には周庭帯(しゅうていたい=内濠と外濠の間を区切る土塁のようなもの)が取り巻き、さらにその外側の溝が「外濠」である。

 内濠(ないごう)は幅も広く、水を湛えていたことは間違いないが、外濠(がいごう)は水を溜めるというより、内庭帯を築き上げるための土を掘った結果としてできた溝なのかもしれない。外濠の横断面を見ると、内庭帯側の側面(のり面)の傾斜が大きいのに対して、外側は緩やかであるという。

 古墳本体の全長は140㍍ほどだが、外濠までを含めると実に200㍍。水田の中にぽつんと単独で無造作に横たわっているが、何ともトンデモナイ古墳である。

 いずれにしても、鹿児島県の古墳で二重環濠は初の登場で、南に4キロほど離れた東串良町の唐仁大塚古墳(180㍍級で一重の環濠の一部が明瞭に残り、周辺には140基位の古墳が群集する)までをセットとみなすと、西都原古墳群の中の男狭穂・女狭穂両巨大古墳を残した勢力に匹敵するような勢力があったことは確実に言えよう。018  外濠の説明のあと、後円部に上る。ちょっとしたハイキング気分。019  後円部の頂上。写真の真ん中が説明を受けた外濠の試堀の場所。また右手の林は前方部で、その延長線上に巨大古墳・唐仁大塚古墳群がある。後背の山並みは肝属山地でその手前の麓を肝属川が流れている。023  石棺らしきものが埋まっていた場所。昔は蓋が開けられた状態で子供が入って遊んだりしていたそうだ。刀剣類や鎧などが出たらしいが無くなってしまっている。

 ただ、周辺から埴輪片や「伽耶式土器」などが見つかっており、畿内政権との関わりが言われているが、被葬者は謎のままである。

(自分としては被葬者の朝鮮半島との直接的な関わりを想定している。)024  今回の外濠調査に活躍した「エスパー」君。電磁波を投射して地下2メートルくらいまでの埋設物のありかを探し当てるという優れもの。

 地元の建設会社の所有で、道路工事などの際に地下に埋められた水道管やガス管などの有無を探査して工事がスムースに行われるよう仕事をしてくれるそうだ。「非破壊検査」と言われるものの一種だろう。

 説明書に、鹿児島特有の地下式横穴墓の探査実験データが載っていたが、地下にぽっかり空いた穴の形が明瞭に浮き出ていた。これからの埋蔵物探査に無くてはならないアイテムになるに違いない。

| | コメント (1)

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »