« 堂籠川の竹の橋(鹿屋市輝北町下百引坂下) | トップページ | 岩戸神社秋の例祭(鹿屋市大姶良町) »

「泰清世子」(たいしんせいし)について

 大隅史談会のホームページ『鴨着く島おおすみ』に10月の歴史講座(10月10日)の学習内容をアップしたのだが、その中で日向国・高岡郷にあった「梅樹山香積寺」の項に登場する次の人物について誤認をしていたことが判明した。

 梅樹山香積寺の記述で―

 <…万治3年(1660)2月7日、泰清世子、遊覧したまふ。寺地1段8歩を賜りて、梅  樹の為とす。…>

 ―とある中の「泰清世子」という人物が掴めなかったので、苦し紛れの解釈・・・「泰は大の意味であり、そうすると大清は大清国だろうから、清王朝の世子つまり王子ということになる。だが、清王朝から王子が鹿児島に来た記録はないから、当時清王朝の属国でもあった琉球から薩摩に人質として滞在していた琉球王の後継王子のことではないか?」・・・このように備考に書いておいた。

 ところが、近ごろ三国名勝図会の「索引(別巻)」(青潮社版)を調べてみて、一気に氷解した。

 索引には「泰清公」として載っており、第1巻に3か所、第3巻に1か所、そして第4巻に2か所の都合6か所に登場していた(日向国・高岡郷・香積寺は第3巻の1か所に当たる)。

 泰清公のあとにカッコつきで「綱久、20代光久子、21代綱貴父」とあったので、さっそく手持ちの島津氏系図(「県史」別巻に記載あり)を調べると、確かに光久の子の中に長子として「綱久」がいた。間違いなく「世子(後継者)」である。しかも法名が「泰清院関山良無」で、後世の略称として「泰清公」が使われていたのであった。

 カッコの注記にあるように、この人は早世したため21代にはなれず、子の綱貴が継いだ。42歳まで生きているので早世というのは語弊があるが、なにしろ前代の父・光久が79歳という当時ではかなりの長命で、本人が父より先に死んでしまったから致し方あるまい。

 以上、おおすみ歴史講座10月例会の誤認を訂正かたがた――。

 

|

« 堂籠川の竹の橋(鹿屋市輝北町下百引坂下) | トップページ | 岩戸神社秋の例祭(鹿屋市大姶良町) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 堂籠川の竹の橋(鹿屋市輝北町下百引坂下) | トップページ | 岩戸神社秋の例祭(鹿屋市大姶良町) »