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伊集院の一宇治城址(鹿児島県日置市)

 日置市伊集院町で研修会があり、午後の現地案内の時に「一宇治城址」に行った。

 ここは戦国時代前期に島津氏の一族である伊集院氏が居城していたが、天文年間になって伊作島津家の出身である貴久が島津本家の後継者となってしばらく住んだ所である。

 また、天文18年(1549)に日本で初めてキリスト教宣教の許可が出された場所でもある。010 イエズス会の創立者のひとりであり修道士かつ宣教師でもあったフランシスコ・ザビエルが東洋布教の途上、たまたまマラッカにやって来ていた薩摩人ヤジローを知り、インドのゴアの修道院で入信させたのちヤジローの先導で鹿児島城下に上陸したのが天文18年の旧盆(旧暦の7月半ば)の頃だったという。

 ヤジローの案内でここ一宇治城にいた島津氏第15代貴久に面会し、南洋や東南アジアの様子などを織り交ぜてイエス・キリストによる救いを中心とする教義の概略を述べ、何とか布教の許可を得たのであった。012 (もう少しで本丸近くに上るところ。そこで貴久はザビエルに会見したと言われている)。017 ほぼ城跡の山頂近くに会見の記念碑が建つ。左側面にはその年月日が「天文18年9月29日」と刻まれている。イエズス会の本部への報告書などにそう記されていたのだろうか。

 鹿児島城下で布教活動に入るとたちまち入信者が100人を数えるほどになったが、福昌寺の若い僧侶までが仏教(禅)を捨てて信者になると仏門側でもこれを問題視し、次第に軋轢へと発展して行った。011_2 (一宇治城址の駐車場横の広場に建つザビエル像)

 危機感を持ったザビエルは一地方の領主(島津氏)よりももっと全国的な領主、つまり天皇家の許可を得れば布教は保証されると考え、九州西岸の平戸辺りにポルトガル船が入港したのを知り、便乗して山口経由で京都に赴いたのだが、打ち続く戦乱のため京都には入れず、やむなく引き返した。

 その途中で山口の大内氏に招かれ、山口でも布教して信者を得ている。

 島津貴久は領国の外で画策する(と映ったであろう)ザビエルの行動を快く思わず、1年ほどで布教許可は取り消した。

 その後、ザビエルは豊後の大友氏や山口の大内氏などの食客となったが、鹿児島と同じく仏門の圧力や民俗的信仰の強い日本人的性格を変え難いと見たのか、まずはその前に日本の知識人が師と仰いでいる中国人(明人)を改宗させるのが先決と考え、大陸に渡った。しかし、布教を果たす前にとある島で亡くなったという。(ザビエルの遺骸はインドのイエズス会修道院にあるようだ。)

 中国の厦門(アモイ)という所にキリスト信者の墓があり、その一つはヤジローのものではないかという説がある。島津領から追放同然に立ち去ったザビエルにはインドのゴアからの従者のほか、ヤジローをはじめ幾人かの薩摩人が付いて行ったはずであり、中国大陸に渡るのも一緒だった可能性は高いからである。

 ところが、ヤジローの墓は伊集院にあるというのである。これには驚いた。001  県道206号線の途中に案内標識が建っている。鹿児島城西高校の東1キロほどの場所である。003 案内者も「伝承ということになっています。ヤジローのその後は全く分かっていませんので・・・」とやや言葉を濁す。005  五輪塔の真中の水輪(すいりん)が抜けた奇妙な墓だ。十字でも刻んであればそれなりに信じられるが・・・。

 布教許可を取り消されると、ヤジローたち信者は一転して白い目で見られる対象となった。中でもヤジローはザビエルを連れて来た張本人であるから、おそらく鹿児島には居られなかったはずで、ザビエルとともにか、ザビエルを追って大陸に渡ったというのが真相だろうと思う。

 もしこれがヤジローのものとすれば、迫害を受けて殺されたか、自害したかであるということになる。その可能性は無くはないが、殉教者の墓ということであれば現在も活動しているイエズス会が放っておかないのではないか?

 何しろ、ヤジローはイエズス会の布教活動初期に創立者のひとりであるザビエルを案内して日本に導いた功労者なのだから。014 (山城頂上は広い。)019 (展望台から見た伊集院中心部。桜島が台地の向うに姿を現す。)018 (西北方面には串木野の冠岳が望まれる。)

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初霜(鹿屋市池園町)

 今日はやや寝坊をして6時50分ころ、ウメを散歩に連れて行こうと玄関を開けたらえらい寒さ。

 モモはいつもウメの散歩の時間に外に出たがるので扉を開け放しておくのだが、今朝はさすがに外を眺めたまま凍りついたように動かない。待っているうちに家の中に冷気がどんどん入るので玄関を閉めた。

 玄関先の寒暖計を見たら1.5℃。もしかしてと思い庭を見るとさほどの霜はなかったが、ブロッコリーの葉の上が白くなっていた。001 散歩道に出てみると、004 隣接する芋畑の畦の枯草の上に霜が降りていた。002 芋畑の中の葉っぱの上や土の部分には降りていないので、本格的な霜とは言い難いが気温の低さは十分だ。去年が12月5日だったので2週間早い初霜となる。007 ウメを散歩させるとき、道すがらの芝畑で散歩用のリードを首から外し、丸めて遠くへ投げるとよく追いかけるので、運動を兼ねて何回か繰り返すことにしている。

 しかし今朝は3回ほどでリードが芝に着いていた露を吸収してえらく冷たくなり、早く帰らざるを得なくなった。持つ手が空気に晒されて痛いのだ。明日からは手袋をして行こう。

 ウメはというと、冷たい露もなんのその走り回っていた。

 犬は寒さにめっぽう強いということが改めて分かった今日の散歩であった。

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庭の菊たち

今年も菊のシーズンがクライマックスを迎えようとしている。

8年前にノジギクの一種と思われる藤色のごく普通の小菊を庭に10株くらい植えたのだが、翌年にはそれらから差し芽で殖やして一気に100株くらいを定植。剪定しなくても丸くドームのように花を咲かせるので庭に無くてはならない重宝な存在だった。

 その後は3年くらい放っておいたのだが、一昨年くらいになると「五族協和」などと名付けるほど多種に分化してきた。今年は大きな見た目の違いは薄れ、色合いに微妙な差のあるものが若干増えたにとどまったようだ。009  一番最初に植えた菊に近い色合いの群落。

 ただし、花弁は八重咲きなのが違っている。すぐ右後ろには純粋なノジギク様の花も出ている。005  交雑した中で、もっともエキセントリックだった愛称「日の出菊」。

 今年は花弁の先までピンク色のものが出現した。003 これをマークしておいて来年は殖やしてみたい。002 西の余り日当たりのよくない場所に種が飛んだのか、4,5株ある中で藤色の大輪が咲いていたのには驚いた。001 完全に黄色の小菊は、他の株とは全く交雑せずに孤高を貫いている。007 今年のニュー・フェイス。

 と言っても菊ではない。「皇帝ダリア」という名称で、3年前からあちこちでよく見かけるようになった。我が家でも今年の初夏に園芸店で2株買って畑に植えておいた。

 調べると、キク科・ダリア属なので、まんざら菊でないことはない。中南米原産で向うでは「ツリー・ダリア」といい、その名の通り木の幹のように太い茎が立ち上がり、高い物では5~6メートルにも成長する。

 我が家のは2メートル位だが見応えは十分だ。006 花弁は8枚が標準で、上品な藤色をしている。

 大味な雰囲気だが、晩秋を彩る花としての希少性はあるだろう。

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「寄らてぃ遊ば」(寄って遊ぼう)

11月13日の日曜日の夜、鹿児島県民交流センターで「第4回沖縄の歌と踊りのつどい」という催しがあったので、見に行ってきた。

 <琉球古典音楽・安冨祖流絃聲会(あふそりゅう・げんせいかい)笹谷正一研究所>と<琉球舞踊・太圭流華の会・笹谷春乃練場>の共催。お二人は夫婦である。

 6時きっかりに三線担当の笹谷正一さんの挨拶があった。001  沖縄の首里城などでは普通に見られる衣裳で緞帳の前に現れた。

 安冨祖流は沖縄の伝統音楽の中でも由緒の古い流派で古典中の古典を守って来たが、鹿児島で普及させるにあたってかたくなに伝統を守るだけではなく、現代にマッチするような取り組みも行っているので、最後まで楽しくご覧ください――というような話をされた。

 プログラムを見ると、しょっぱなから『かせかけ』『高平良万歳(たかでぃらまんざい)』という古典舞踊であった。003  『かせかけ』は女性のたしなみである機織りの仕事を表現した踊りだが、優雅この上ない。004  『高平良万歳』は親の仇を討つために、子供が万歳姿に身をやつして敵地に入り込み、見事に果たすという内容で仇討がテーマの古典である。

 演者は笹谷春乃師範その人であった。

 明治までは古典舞踊の舞い手はすべて男であり、これはその男舞いの中でも最も男舞いらしい所作の多い舞踊だが、さすがに師範の所作はきびきびしている。008 師匠・弟子勢揃いの斉唱。009 013  舞い手が高校生くらいなら弾き手にもずいぶん若い子がいる。016 『本貫花(むぅとぅぬちばな)』

 恋人を偲ぶ優雅な舞。これも師範が演じている。019 こちらは『貫花(ぬちばな)』。

 明治以降になって新しく作られた民衆の「雑踊り(ぞうおどり)」の中に「貫花」を持って踊る踊りが大層人気があり、古くからあった本来の『貫花』がかすんでしまったので「本」を付けて『本貫花』として区別したという謂れのある踊りだ。

 幕間の解説でこのことを初めて知ったのは収穫だった。ありがたい。

 古典的な三線の唄と踊りで2時間が経ち、仕上げは三線にドラム、ギター、キーボードを取り入れた<アロハ・チャンプルーズ>に早変わりして、ポピュラーな沖縄音楽を中心に演奏があった。024

022 ここでも若手が目につく。琉球音楽が鹿児島に根付くかどうか危惧するのは杞憂かも知れない。

 あと一曲で終わろうかというところで、帰りの最終バスの時刻(山形屋前20:58発)が迫ったので残念ながら会場を後にした。

 鹿児島と鹿屋を繋ぐ直行便は一日6往復で運航されている。鹿屋から鹿児島(県庁前・中央駅・天文館・山形屋などに停まる)まで垂水フェリー便代を含めて約2時間で片道1300円である。

 特に鹿屋からの場合、朝1番の便は7時には出るのでこれに乗れば鹿児島からの最終便までにはちょうど12時間くらいあるから、鹿児島でいろいろな用事を済ませることができる。025 山形屋前のバス停付近。クリスマスが近いからか、山形屋の建物全体がライトアップされていた。

 

 

 

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かのやバラ園の秋

かのやバラ園の秋の開花シーズンも大詰めを迎え、今日で秋祭り期間が終わる。020

 3日前に入場してみたのだが、例年になく花数が少ない。その理由というのが報道にもあったが「除草剤が悪影響を与えたのだろう」というものだ。しかし管理しているローズリングかのやという団体は「除草剤は使っていない」そうである。

 そうなると誰かが、ひそかに5~6ヘクタールという大面積に故意に散布したと考える外なく、いったい誰が何のためにと思わざるを得ない。001  花数が少ないと言えば言えるが、草体自身が枯れているわけではない。そこそこに咲いているものも多い。003  鹿屋市で作出したプリンセスカノヤの群落は強剪定した結果か、かなりの花数であった。もちろん春とは比べるべくもないが―。007  今日回った中ではこの群落が一番だった。008  フランスで作出された何とかいうのだが、プレート(名札)も写しておけばよかった。010  雨模様の中、滴る水のため俯いているようにみえるのも、風情がある。

 どの株も傷んでいるようには見えないので、除草剤犯人説はどうも首肯できない。

 それより、夏の高温とひでりがかなり長く続いたことが真因ではないかと思う。いつもなら台風がらみで夏から秋にかけてはまとまった雨が降るのだが、今年は一個の台風も来ず、毎日がうだるような暑さだった。

 新品種の作出国がフランスやドイツ、イギリス、ベルギーというように、バラはもともとかなり緯度の高いヨーロッパが栽培の中心であることから考えれば、本来、暑さには弱い植物ではないだろうか。

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秋と夏の狭間

ここ数日は全国的に気温がかなり高く、ここ鹿屋でも昨日今日と最高気温が26~7℃と夏日を記録している。

 去年も11月8日だったか、立冬とは思えぬ高温で、夏の花であるセロシアと秋の花・ノジギクが同時期に華麗を競ったが、今年も夏の花・ポーチュランカ(松葉ボタンの一種)と野路菊が並行して咲いている。002  仕事から帰った5時半、気温はまだ24℃もあり、半袖でちょうど良いくらいだ。005  ポーチュランカのレッドはまだまだ旺盛だ。

 気象の異常はもう慣れっこになったが、植物は気候にあわせて正直に咲いている。

 今日、仕事先で家庭菜園にまだヘチマが成っているのを見たが、普通、夏の終わりごろには見えなくなる生り物なので、つい溜め息をついてしまった。

 これからはこういう光景が当たり前になるのだろう。

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岩戸神社秋の例祭(鹿屋市大姶良町)

 鹿屋市大姶良町に鎮座する岩戸神社で11月3日、秋の例祭があった。

 岩戸神社は天の岩戸とは無関係で、岩戸神社のある麓からは5~6キロ横尾岳への林道を上ったちょっとした尾根筋にある大岩をご神体として祭ったのが由緒で、元来はそこに参拝するのが祭りであった。

 ところがおそらく戦国時代ではないかと思われる時代に道の険しい山中に上がって祭るのが困難になったのか、現在地に御神霊(祭神はオオナムチノミコト・アメノヒワキノミコト)をうつしている。いわゆる「里宮」である。

 旧社殿の棟札に『永禄二年、願主・鳥越刑部左衛門藤原岩吉』というのがあり、永禄2年は1559年であるから、現在地に里宮が建立されたのは1559年以前、つまり少なくとも450年は経つことになる。003

 午後2時少し前に着くと、間もなく神事が始まった。007  こじんまりとした祭りであるが、神主は3名で執行された。011  神主の祝詞奏上。神紋の入ったうす紫色の垂れ幕の左隅に「鳥越」という姓が染め抜かれている。上記の「鳥越刑部左衛門」の子孫が奉納したのだろうか。009  拝殿の中に小さな社殿が入り込んでいる。神主に聞くと「参河神社」を仮に相殿としているとのこと。大姶良麓の参河城にあったが事情があって今ここに移っているのだそうである(理由は後述)。018_2  参列者が玉串奉奠をし神事が終わろうとしたとき、神主がある方向に向いて「八幡神社を拝礼します」と言い、皆に二拍手一礼を促した。

 八幡神社は大姶良麓の中心的な社で、大姶良本城のすぐ南にあるが、八幡神社の祭礼が途絶えているので「代祭」の意味だろうか。022  参列者と神主が境内に出て少し待っていると、御神木と思われる大きなクスの傍らから「棒踊り」の一行が現れた。025  久しく途絶えていた棒踊りが復活し、去年から再び奉納されるようになったという。大姶良西地区に伝承されていた棒踊りだ。030  小学生と中学生の総勢12名ほどが、結構激しい動きで棒や模擬刀を振り回して踊り続ける。神社社殿の横では老人がふたり、景気付けの唄を大声で歌い回す。

 少年たちの棒と棒とがぶつかり合う「カチッ、カチッ」という音が、やや気温が高いものの秋日和の境内に気持ちよく響く。子供たちの身のこなしも鮮やかだった。

 帰る途中、大姶良麓集落に差しかかったところで右手に見える八幡神社。040  田んぼと左手の小高い岡の間を流れる平岡川の向うの小丘が八幡神社のあるところで、この神社は島津氏第6代氏久がここの本城で生まれた第7代元久のために建立した(左手の岡こそが大姶良本城)。

 生まれたときに産湯を奉納した近くに住むお百姓が、感謝されて「繁昌」という姓をもらったと言われている。今でも繁昌姓はあるから面白い。041  大姶良麓の旧武家屋敷群の通りを過ぎようとする場所に「参河神社」の石柱標識がある。

 この上の岡は大姶良十三城の一つの参河城跡で、廃城後にここの城主であった「伊集院参河守(三河守)」が祀られた。

 伊集院参河守は秀吉の起こした朝鮮の役(1回目の文禄の役)の際、肥後国で反乱を起こした梅北国兼に連座して誅殺されたのであった。

 おそらく秀吉政権が没落したころかの反乱軍が再評価され、それに伴い伊集院参河守も浮上したのだろう。

 上まで登ろうとして近所の人に止められた。岩戸神社に仮に遷されたのは途中の参道がシラス採取のために崩れ去ったためとのことであった。何でもここの宮司が採取業者に許可を出したのだが、業者は許可範囲以上に大きく抉ってシラスを採ったのだという。

 そのため神社に参拝できなくなり、やむなくここから御神体の入った社殿だけを岩戸神社に遷し置いてもらっている状態のようである。困ったことだ。

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