« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

姶良川の風景(鹿屋市吾平町麓)

 連休中、1日半かかってようやく生垣の剪定を終えた。001 北側の裏の民家との境界はレッドロビンという新葉が赤くきれいな樹木だが、日当たりが悪いせいかほとんど赤い葉が出てこない。しかも樹勢の割に葉っぱの一枚一枚が大きく締まりがない。

 丈だけは伸びて3㍍を超える高さなので、垣根としては十分だろう。

 去年もだが、葉っぱに積もった桜島の降灰には手を焼いた。太めの枝を切ろうものなら、数多い葉から灰が降り注ぐ。頭をタオルで覆い、さらにマスクをして作業に当たったが、灰まみれ汗まみれになった。

 東側のヒトツバ(槇の一種)も同じような有り様だったが、こちらは針葉のため灰の溜まり具合が少なかったので、ロビンよりはましだった。

 昼に汗とパンパンに張った腕を楽にしようと久しぶりに吾平の湯遊ランドあいら(銭湯)に行った。(銭湯そのものは“うがやの湯”と言い、吾平山陵に祀られるウガヤフキアエズ尊に因んでいる。)

 ゆうゆうランドに着く前に姶良川にかかる橋を渡る。「更生橋」と名前がついているが、なぜそんな名になったのかいきさつは分からない。

 でもここからの眺めは極めて佳い。003 ここ十日間で3度もあった降霜により、青草が冬枯れ状態に変化したが、かえって姶良 川の流れの清澄さが引き立って見える。004_2 川の左岸の土手の向うには高隈山系が雄大な姿を見せているが、「灰がすみ」が掛かってぼんやりとしている。困ったものだ。ここからは左端の横岳から右端の最高峰・大箆柄岳まで全部が見えるのに…。007_2 反対側の南方向に眼を転じると、姶良川の源流の山々が目に入る。アップしてみると―008 こちらは「灰がすみ」というよりか「灰曇り」だが、それでも八山岳山系の全容が望まれる。

 このあいだ登った「八山岳」(659m)は、この画像では右端から2番目のピークだろう(手前の低いピークの左上)。右手からかなりの傾斜の稜線を持っているとんがりピークで、三等三角点があるのもうなづける。

 さて、八山岳山系の最高峰・本八山岳(もとはっさんだけ=新命名=940m)は川面の真上の屋根の上に見えている。右手にやはり大きな傾斜の稜線がある。その鞍部こそが姶良川の源流である。

 姶良川に架かる更生橋からは中流と源流が一直線上に眺められるわけで、ちょっと珍しい光景かもしれない。

 そんなこととはつゆ知らず、というか、どうでもよい鴨たちは・・・006 橋の下でのんびりともやっている。

 お前たちの古巣は北朝鮮か満州か、はたまた沿海州かシベリアか・・・。冬枯れとはいえ暖かな避寒の地・南九州でゆっくりと羽を休めるがよい。昔はあちこちに鴨取り権兵衛がいたそうが、今は平和そのものだ。

| | コメント (0)

『徹底検証・ここまで分かった!邪馬台国』を読む③

 ①ではこの本の詭弁に驚きのあまり興奮した書きぶりになり、②では自説によってその誤りを正したが、本来はこの本に執筆している論者の所見を取り上げ、逐一反論を掲載しようとしたのであった。

 それでは遅ればせながら、まずは先に触れた第2章「倭人伝全文を読む」の執筆者・田中俊明滋賀県立大学教授の解釈を取り上げてみよう。

 私見では誤謬は多岐にわたるが、ここでは特に最も肝心な「邪馬台国への行程」についてのみ取り上げることにする。

 田中教授のみならず半島から末廬国(唐津市)までの行程はどの邪馬台国論者も一致している。問題はその次の「(末廬国から)東南陸行五百里到伊都国」の解釈である。

 田中教授はこの「伊都国」を福岡県の糸島半島のある地域に比定している。すなわち今日の前原市である。

 実は「伊都国」を前原市に比定するのは邪馬台国畿内説論者には限らない。大方の九州説論者に共通した比定地なのである。

 この前原市にはたしかに多くの遺跡がある。平原遺跡・三雲遺跡・井原鑓溝遺跡が主なもので、甕棺の中から、被葬者は王と言ってよいほどの巨大な鏡や太刀やガラス製品が多数副葬されているのが見つかった。

 それゆえ「伊都国は糸島半島の前原市で決まり!」ということになった。だが、糸島半島の前原市は末廬国の唐津市からは東北に当たるのである。

 また糸島半島であるのならば壱岐からわざわざ唐津に船を着けないで、直接やって来ればよいことである。百歩譲って、唐津に船を着ける必然性があったものとしても、何も唐津で上陸せずにそのまま船に乗って沿岸を糸島まで船行すればいいではないか。壱岐から唐津までの一日行程を思えば、まる一日も必要とせずに糸島半島に到着するはずである。

 昭和42年に発刊された『まぼろしの邪馬台国』(宮崎康平著・講談社)に夢中になって以来、自分なりに考えること25年目に、はっと気づいた疑問であった。

 もう一度「魏志倭人伝」を読み返しながら、唐津からは文字通り東南に歩いてみたら・・・そういうルートがあったのである。そのルートこそその名も「松浦川」にそって東南へ歩き、やがては佐賀平野に至るコースである。

 ところが、「伊都国は糸島半島の前原市で決まり!」と思い込んでいる論者は

 ①唐津から糸島へ陸行するのなら方角としては東北であり、東南ではない。

 ②唐津から糸島へは陸行500里とあるが、糸島から次の奴国(春日市)までは100里とあり、その比は5:1になるのだが、実際の比は1:1である。

 ③糸島なら壱岐から直接船で来ることができ、わざわざ唐津で船を降りる必要はない。

 のだが、このように方角を改変したり、②、③のように自説に都合の悪い部分があると、これを無視する。このような論説は論説に値しないだろう。

 おまけに、糸島について言うと、日本書紀の「仲哀天皇紀」の8年条には次のような記事が見える。

<又、筑紫の伊覩(いと)の県主の祖・五十迹手(通説では「いとて」だが、私見では「いそとて」)天皇の行くと聞きて、五百枝賢木を抜き取りて、船の舳先に立て・・・(中略)・・・。天皇即ち五十迹手をほめたまいて「伊蘇志(いそし)」という。故に時の人、五十迹手の本土を号して「伊蘇国(いそのくに)」という。いま、伊覩(いと)というは訛(よこなま)れるなり。

 また、『筑前風土記』にも同様の伝承が載せられている。

 つまり、糸島はもとは「伊蘇国(いそのくに)」だったのであり、「いとのくに」ではないことがわかる。したがって「伊都国=糸島」説は誤りであり、上の3つの反証を補強してくれる。

 結論は言うまでもなく「伊都国は糸島半島の前原市で決まり!」は誤りだということである。

 この点は大方の九州説論者もおかしている誤りで、「唐津から糸島は東北であるのに陳寿は東南と書いた。実際の方角を90度も南に寄らせて書いているのであるから、南と書いてあるのは実は本当は東の方角なのだ。」と勝手に南を東と読み替えて畿内の方に持って行こうとする誤謬(我田引水)を是認する結果になったのである。

 糸島ではないのに平原・三雲・井原鑓溝遺跡の「王墓級副葬品」に惑わされた結果、抜き差しならない誤謬の沼に落ち込んでしまったことが、「どこでも邪馬台国!」という目も当てられない珍説の数々を許すことになった元凶なのである。もうそろそろ誤謬に気づかねばなるまい。

  以下に田中教授の帯方郡から邪馬台国までの方角見解と魏志倭人伝の方角記事、および距離に関する見解を列挙しておく。

 1.帯方郡…ソウル近辺(起点)

 2.狗邪韓国…金海市…帯方郡から水行南し東して7000里

 3.対海国…対馬…狗邪韓国から水行南へ1000里

 4.一大国…壱岐…対馬国から水行南へ1000里

 5.末廬国…佐賀県唐津市…壱岐国から水行南へ1000里

 6.伊都国…福岡県前原市…末廬国から東北へ陸行500里(東南を改変)

 7.奴国…前原市から東南へ43キロの春日市…伊都国から東南へ陸行100里

 8.不彌国…春日市から東へ43キロの飯塚市…奴国から東へ陸行100里

 9.投馬国…岡山県(吉備)…不彌国の水行20日(を改変)

 10.邪馬台国…畿内大和…投馬国の水行すれば10日、陸行ならば1ヶ月(を改変)

 以上のように田中教授は1から5までの行程における方角はそのままで改変しないのだが、その次の6では東南を東北に改変し、しかしそのあとの奴国・不彌国への方角は改変せず、さらに投馬国と邪馬台国の場合には再び南を東と改変しているのである。

 そこに一貫性が見られないのは一目瞭然で、原典(史料)改変の愚を犯しているのである。なぜ一応は原点に基づいて方角を改変せずに考えてみようとしないのであろうか。「初めに畿内邪馬台国ありき」の独善的解釈と言えよう。

 しかも距離について見てみると、仮に唐津市から前原市への行程が正しいものとして、原典ではこの距離は500里である。ところが前原市から奴国と比定した春日市までの距離と唐津市から前原市までの距離はほぼ同じなのに、こちらは100里となっているのである。つまり同じ距離を一方は500里、もう一方はわずか100里としている不合理については言及していない。

 それどころか春日市(奴国)の東100里にあるとする不彌国については「100里は43キロであるから、立岩遺跡のある飯塚市がふさわしい」と、今度は1里=0.43キロを採用して詳しい距離を導入して求めている。これをなぜ唐津―前原間には適用しないのだろうか? 適用しようにも1里=0.43キロだと500里は215キロに相当し、前原市に持って行きようがないので敢えて無視をしたのだろう。

 こんな具合に、田中教授の解釈は方角は3か所を自分に都合のいいように変え、距離も自分の都合の悪い部分は無視をするやり方である。原典改変どころかずたずたに切り裂いて、自分の説(畿内大和説)に持って行こうとするのは先にも述べたが「初めに畿内大和説ありき、邪馬台国は畿内で決まり!」という独善以外の何物でもない。

 『徹底検証・ここまで分かった邪馬台国』では第一章を考古学者・森浩一へのインタビュ-に当てているが、この先生の説は「邪馬台国は北部九州にあり、その国が大和地方へ東遷してのちに大和王朝を築いた」というもので、畿内説論者の原典切った貼ったの愚見とは違って常識的な解釈であると言える。

 ただ、森氏は邪馬台国の位置そのものについては述べていない。北部九州とだけ匂わせてはいるが・・・。

 森氏のほかに九州説を書いているのは、佐賀県吉野ヶ里を発掘しそこを邪馬台国と主張している元佐賀県立女子短大学長で考古学者の高島忠平だけで、あとは畿内説の論者ばかりである。この本の寄って立つところは所詮、畿内説なのである。残念な内容であった。

 

 (追記)

 九州説の多くも唐津の末廬国から東南へ500里を「東北へ500里」と読み替えて弥生遺跡の目覚ましい前原市としているが、あくまで東南へ行ったらどこに比定地が見つかるかという「冒険」をおかそうとしない。

 この「東南の東北への読み替え」があったがために、南を東と読み替えても構わないという風潮を生んでしまい、畿内説の跋扈を許す結果となったのである。まずは原典を改変せずに読むという「史料解釈の原点」に立ち返らなければならない。

  

| | コメント (0)

万歳!独裁者が死んだ!

 今日の昼休みにヤフーのニュースを見ていたら「金正日総書記が死亡した」という。思わず万歳を叫びそうになった。

 金正日については以前にも一度書いたが、早く居なくなってくれないと北朝鮮人が塗炭の苦しみから救われない――という内容であった。

 そうか、死んでくれたか。これで「喜び組」も「悲しみ組」もなくなって行くだろう。

 ・・・・・とはいくまい。なにしろ金王朝が誕生してから65年そのあいだ専制君主の金一族は国民を互いに監視しあう「五人組」のような愚かな政策をとり、「民主主義人民共和国」という建前などどこ吹く風の強権・恐怖政治を貫いてきたのである。

 大きな内乱のようなものが起き、それによって国民が覚醒しなければすんなりと「民主主義」や「人民共和国」にはなるまい。後継者の王朝三代目・金正恩はその事態になったら中国へ亡命するだろう。国民よりおのれが大事だからだ。

  「売り家」 と唐様で書く 三代目

 とは江戸の古川柳だが、金王朝は風前の灯である。

 北朝鮮はおおむね古代の「楽浪」に該当する地域だ。

 3世紀の少し前、遼東半島から楽浪までを支配し、さらに帯方郡を設置して南朝鮮支配への足掛かりにした王朝があった。それは「公孫氏」王朝である。

 初代の公孫度(こうそん・たく)は遼東半島を中心に支配し、遼東王を自任した。その子の公孫康(こうそん・こう)は楽浪の南側の今日では漢江流域一帯を「帯方郡」として自分の領土に編入した。西暦204年のことであった。

 次の公孫淵の時代になると遼東王からさらに拡大して「燕王」を名乗るようになり、魏王朝に対抗して南の呉王朝と手を結んだりした。この魏にとっては目に余る公孫淵を討ったのがのちに「晋王朝」を築いた大将軍・司馬懿で、公孫王朝は三代にして滅びたのである。

 今日の北朝鮮の金王朝は今まさに三代目に入ったが、いったい誰が公孫淵こと金正恩を引きずりおろす「大将軍・司馬懿」になるのだろうか。今度の場合は外部からではなく、おそらく内部から火の手が上がるだろう。

 その時、どれほどの難民が発生するだろうか?日本でも引き受けなければならないだろう。

| | コメント (0)

厳しい霜と初氷(鹿屋市池園町)

 今朝の寒さはこの冬一番で、初氷を観測した。霜の厳しさも本格的な冬の到来を思わせる。

 朝7時、玄関前の寒暖計はマイナス1℃を指していた。ウメの散歩もいつもより早めに切り上げた。おお、寒っ。寒さに強いのは犬だけだ。010  今ちょうど8か月のウメ。体重は10キロ。体高は30センチ、体長60センチというところ。長所は走りがやたらに早いこと。欠点は臆病なことで、いまだに家を訪れる人に吼えることをせず、むしろ小屋に隠れたりすること。だから番犬にはなっていない。

 小屋の後ろの畑が霜で真っ白になっている。また小屋の横に置いてある水入れ(鍋)の中の水が凍っていたので、ウメは怪訝そうにそわそわしながら悪戦苦闘していた。006  畑のブロッコリーとレッドレタスも霜で萎れたようになっている。ブロッコリーは植え付けたのが遅かったせいでまだ花実が出来ていない。年内は無理か。002  家の南側の畑の霜の状態。向うの畑まで真っ白だ。7時半、ようやく肝属山地から朝日が昇る。005  写真を撮っていると横からモモが現れ、そのまま畑に飛び降りた。

 モモ、お前寒くないのか・・・。

 ―寒いニャァ。でもおしっこをしたいんニャ。ホジホジしたけど冷たいニャァ。ああ、やだニャァ。

 後悔するモモであった。

| | コメント (0)

「神州不滅」の碑(鹿児島県志布志市松山町)

 昨日は曽於市末吉町の耳鼻咽喉科(中央クリニック)で久しく念願だった花粉症対策のレーザー治療を受け、足を延ばして都城に初孫の顔を見に行った。

 レーザー治療は鼻腔内の粘膜にレーザーを照射して焼き、花粉その他のアレルゲンが粘膜に付着しても抗体が反応しないようにするという治療方法で、薬で身体の内部から抗体の過剰な反応を抑えるのと違い、いわば花粉症対策の外科的治療(手術)。

 薬で抑える場合、花粉シーズンの前から受診し、シーズン中も何度も医者にかからなければならないのだが、この治療の場合は今回だけで済む。ただし、この一回で永久に花粉症とおさらばというわけにはいかない。およそ3か月後には粘膜が完全に元に戻るので、再び花粉に晒されれば発症してしまう。

 なんだ、たった3か月で元の木阿弥じゃないか―となるが、花粉シーズンの3か月の間に6~7回通院する面倒と費用を考えると、一度はやってみたかったのである。さらにこれはひそかな期待だが、粘膜が元に戻る、つまり再生するということは花粉への過剰反応もリセットされるのではないか。そうなれば、しめたもの。

 再生が完了する前にきちんと花粉防除対策を立てておけば、花粉に過剰反応しない粘膜になってくれるのではないか、そんな淡い期待を抱いているのだ。花粉症歴23年目の強い願いでもある。このシーズンはどうなるか、興味津々である。

 都城・三股の嫁の実家にいる初孫(女児)はまだ産後25日。「聖奈(せな)」と名付けられた。4時少し前に見舞ったところ、「ばあちゃんも、本人も、赤ちゃんもどうも風邪気味で、これから医者に行くところ」とひい婆ちゃんの話。

 やがて姿を現した。しばらくあやすと時折り笑顔になる。欠伸かな・・・。002 今月末には初宮参りだ。

 30分ほどいて帰路に着く。途中、松山町の道の駅の隣りにある「松山城址」を訪ねてみた。

 以前に一度来たことがあったが、城の麓しか見て回らなかったことを思い出したので、昨日は模擬城まで上がってみた。屋根は瓦葺のちょっとした天守閣になっている。016 ここは二の丸の址だから天守閣はおかしいが、大隅半島の古城跡でこのような模擬でも造られているのはここだけだ。隣の都城市域には「三股城(あじさい公園)」と「高城(高城町)」の二つもある。

013 天守の中はら旋階段になっており、10㍍ほどの高さがある。最上階は吹き抜けで四周が見渡せる。010 西方面。街並みの向うは大隅町の「八合原」で、戦時中は特攻基地になった。011 南方面。松山町の中心部を見下ろす。役場や学校が見える。

 東は山並みで、志布志市の北部が望まれ、北は総合運動公園が見下ろせる。021 その運動公園の一角、体育館前の陸上トラックから少年たちのの大きな掛け声が響く。どうやら小学生のソフトボールクラブの走り込みのようだ。5時を回ってしんしんと冷えてきた山里。たった6,7名の小さなチームらしいが寒さにめげず頑張っていた。007 「天守閣」の前には「神州不滅」の碑が立っている。太平洋戦争の最末期にここが米軍主導の「志布志湾上陸作戦(オリンピック作戦)」を阻止するための最前線基地だった―とある。008 第86師団の当時の師団長は芳仲和太郎・陸軍中将。中将自らが一師団長に任命されるということは、やはり負け戦だったのだろう。人材が底をついていたのだ。無理からぬこと・・・。

 神州、つまり皇国日本は不滅―そう信じて軍人は戦った。たしかに骨抜きにはなったがどっこい日本は今でも生きている。立派な独立国家だ。ただ、対日戦勝国アメリカの様々な頸木はあるが・・・。

 これをしかたがないと見るか、いやこのままでは困ると思うか、の論争は決着がついていない。

 戦敗国が戦勝国の言いなりになるのは当然と言えば当然だが、沖縄の米軍基地は誰がみても多すぎる。常識外れだ。

 私見では、戦前の日本が、中国の親日派だった汪兆銘政権と手を組もうとしたのと同じように、今日の日本と中国が手を結んだら大変なことになる―というアメリカ側の憂慮(というか対アジア戦略)が日本と中国の中間にある沖縄にかくも多大な軍隊を置いている理由だと思っている。

( 中国の周恩来政権と国交回復し、今でも「井戸を掘った恩人」として中国から評価されている田中角栄が、ロッキード受託収賄事件で葬り去られたが、これはアメリカ側の関与が濃厚である。) 

 話は飛んでしまったが、この松山城址がこんな歴史を背負っていようとは思いも寄らなかった。

 さて、松山城址は今は改変されて二の丸跡しかないが、見事な山城だったようだ。、築城主は平重頼で、文治4年(1188)という。詳しくは説明板で。018

| | コメント (0)

「八山岳」地名考

659mの八山岳か、940mの八山岳が正しいのか、手元にある地形図を調べてみたが、やはり940mの方に軍配が上がるようである。

 <昭和41年測量、昭和63年修正測量(注記:1.使用した空中写真は昭和61年2月撮影 2.現地調査は昭和63年4月実施)、平成11年部分修正測量>

 という国土地理院発行の「半ヶ石」の25,000分の1地形図には、940mのピークを八山岳と記載してある。003_2 真ん中やや右手に「八山岳:940.5m」とある。この地形図を基にして発行された昭文社の「分県地図:鹿児島県版」はもっと分かり易く書いてある。002_2 黒線で囲ってある下の方から「八山岳:941m」、左上に名無しの「659mピーク」が見える。

 この地図が発行された昭和63年には、確かに941mのピークが「八山岳」であった。

 それがいつの間にか「659mピーク」のほうが「八山岳」になり、肝心の940mのピークは「大尾岳」と書いて「うおだけ」と読ます山になっている。いったいどういうわけなんだろう?錦江町の大根占地区には「大尾(うお)」という集落があることにはあるが、半ヶ石からはかなりの距離にある。それならいっそ「半ヶ石岳」にしたら分かり易い。

 659mピークはたしかに940mピークの尾根続きにあるから「八山岳山系」には属している。この山の方が有名になり、名無しでは困るので「八山岳」とひとまず命名したのかもしれないが、本家を差し置いてはもっと困る。

 登山愛好家の中には940mのピークこそが八山岳であるという前提で、登山にやって来る人がいるかもしれないのである。路頭に迷ってもらっては気の毒だ。

 今名付けられている659mのピークを八山岳と押し通すつもりなら、940mの方は「奥八山岳」か「本八山岳」というように昔からある「八山岳」を織り込んだ名前にしたうえで、こちらの登山情報も忘れずに提供するのが親切というものだろう。

| | コメント (0)

八山岳に登る(肝属郡錦江町)

 半月前に娘から「八山岳(はっさんだけ)に登ったけれど、山頂まで1時間くらいで行けた」と聞いて唖然とした。

 以前に登った時は2時間近くかかったように記憶しているので、参ったな負けたなと思った。若いと思っていたのだが・・・。

 ところがどこから登ったのか聞いてみると、錦江町の半ヶ石からだと言う。嘘だ、八山岳は吾平町の神野地区からしか登れないのに――と言うと、娘は携帯で撮ってきた写真を示した。

 紛れもなく、そこには「八山岳山頂」という標識が写っていた。だが、標高を見て驚いた。659.3mしかない。自分の登った八山岳は940mほどあったのである。

 狐につままれるとはこのことかと、今日の午後、その「八山岳」に登ってみた。

 娘に言われた通りの道を行く。錦江町の半ヶ石(はんがいし)は旧大根占町に属し、もっとも山奥の集落である。自宅からはまず吾平町に行き、そこから南大隅中央線という田代から佐多に通じる県道を南下する。

 途中、池田小中学校を右に見ると間もなく壱崎を経て半ヶ石に入る。半ヶ石を流れる神ノ川の源流に架かる橋の少し手前の道路沿いに、田の神と水神様の祠が建っているからそのすぐ脇を左折する。031_2 電柱の「八山岳登山口」の看板が立っている。この道を途中2か所の分岐を標識に従って上ること約4キロ。右手に登山道案内図が見える。008  左脇からいきなりの急登となる。 010  ひたすら登り続けること20分。杉の植林を脱し、自然林が見えてくると尾根は近い。012  尾根筋を右手にとり歩く間もなく巨大なイスノキが出迎える。直径は1.3㍍くらい、周囲は5mはあるだろう。いったいどうしてこのような姿なのか、気根が束になったものだろうか、圧倒される。

013  10分も行くと岩石交じりの登り道となる。026  途中、椎の巨木に出会う。それも見事に二股に分かれている。027 一本の椎の木では考えられないほど空を覆い尽くしている。024 山頂まであと15分くらいになると木製の柵が導いてくれるようになる。014 山頂に到着。なるほど「八山岳山頂・標高659.3m」だ。首をかしげつつ周囲を見渡す。016 北には鹿屋市との境を画する横尾山系がなだらかに横たわる。019 東に中岳が見える。別名「吾平富士」と呼ばれるように吾平の町中から望むと円錐形の形の良い山だが、ここからはピークがいくつかに分かれて見える。023 東南方向に眼を転じてみると・・・、右上の丸いピークのさらに奥に見えているではないか。以前に登った「八山岳・940m」に間違いない。

 ではこの山は何だろう。誤認か? 確かにれっきとした独立峰ではあるのだが、地図には659.3(三等三角点)とあるだけで名前はない。最高峰の八山岳の東北・南・北西の三方向に伸びた尾根筋にあるピークなので「八山岳山系」の一つには違いないのだが・・・。

 釈然としないまま山を下りた。途中、半ヶ石に湧き出る名水で久しぶりに喉を潤したが、うまかった。033

| | コメント (3)

『徹底検証・ここまでわかった!邪馬台国』を読む②

 ①の続きを・・・

  邪馬台国の場所は倭人伝を素直に読んでいけば畿内ではありえず、九州島内のどこかに帰着する。

 なぜ畿内ではあり得ないのかを論じてみよう。

 邪馬台国に至る行程の中でほとんどの研究者で一致している比定地は帯方郡(韓国のソウル周辺)から船で7000里の狗邪韓国(金海市)と海峡を1000里渡った対海国(対馬)、さらに1000里渡った一大国(壱岐)、またさらに1000里渡った末廬国(唐津市)。この5か所については九州説・畿内説その他の説に於いても一致した見解である。

 そしてこの末廬国までは水行(航路)であり、その総計は10000里であることはどの論者も否定できないはずである。さらにこの10000里については海上の距離を計測する仕組みも機械も当時はなかったから、距離以外の何かを表しているということになる。それは日数である。

 日数なら日数として記録してくれれば分かり易いものをなぜ陳寿はこんな途方もない距離で表したのだろうか。それは当時の魏王朝を世界の中心とする表記に倣ったとしか言いようがない。大陸の陸路による東西南北の同心円的な辺境まで支配領域だと誇張するために距離表記を採用したのだろう。

 その結果、後世のわれわれ歴史研究家を大いに悩ませることになったのだが、しかし一方で編集者の陳寿は邪馬台国の衛星国家群(女王国連盟とも言える)21ヶ国の列挙(斯馬国から始まり奴国まで)の次に邪馬台国に敵対していた南に近接した狗奴国を挙げ、最後に行程記事を締めくくるようにこう書いている

 「郡より女王国に至る、萬二千余里」

 ー帯方郡から女王国までの総距離は12000里である。

 こう書いてくれているのだ。

 この12000里から上に書いた水行10000里を引けば、2000里が残る。したがって末廬国(唐津市)からはたったの2000里のところに邪馬台国(女王国)があることになり、仮にこれが水行の距離とすれば対馬・唐津市間の距離と等しいことになる。この実距離は120キロ程度であり、唐津市から120キロというと九州島の中のどこかの港にしか到達できないので、畿内説の成り立つ余地はない。・・・(A)

 次にこの2000里が陸行の距離としてみればそもそも陸地を離れることはない、つまり唐津からは内陸に徒歩で到達する場所が邪馬台国であるということになり、ここでも畿内説の成り立つ余地はない。・・・(B)

 以上、総距離と各要所間の距離との整合性からは畿内説は成り立たないことが分かる。

 さて、次には日数表記についての整合性を調べてみる。以上のように帯方郡から10000里の水行で唐津市に到着したのであるが、ではその所要日数は何日だろうか。

 それを考えるヒントが海峡渡海の距離数にある。

 それは韓半島南部の金海市から対馬(中心部)までは実距離約100キロ、対馬(中心部)から壱岐(中心部)までの実距離は約75キロ、壱岐(中心部)から唐津市(沿岸部)までの実距離は約50キロであるが、このように4:3:2という大きな違いの距離比である海峡をすべて同じ1000里で表していることである。

 いくら古代は計測技術が幼稚だったから誤差が出た、と言うにしても誤差にも程と言うものがある。1000里・700里・500里くらいな違いは見分けられ、そう書き分けただろう。ーもっとも当時は海上の距離など測れる技術はなかったので実はその心配は杞憂に属するが・・・。

 では全くと言っていいほど違っている距離を同じ1000里としたのはどういうことだろうか? それは日数を表しているのである。

 では何日だろうか? それは一日である他ない。なぜなら海峡の途中で休眠することはできないからだ。そんなことをしたら名にし負う対馬海流の早い流れによって、はるか日本海へと流されてしまうからだ。

 したがってこの各海峡はそれぞれ一日で漕ぎ渡らなければならないのであり、そのことを1000里で表記したのである。

 ここから陳寿が水行一日を1000里という距離表記に換算したことが判明する。

 そうなると帯方郡から半島南部の狗邪韓国(金海市)までの水行7000里は水行七日となり、それに三つの海峡を渡った末廬国(唐津市)までの水行3000里すなわち水行三日を加えた水行十日が帯方郡から末廬国(唐津市)までの所要日数ということになる。

 さて、陳寿は邪馬台国への行程記事の中でこうも書いている。

 「(伊都国から)東南至る、奴国。百里。(中略)東行至る、不彌国、百里。(中略)南至る、投馬国、水行二十日。(中略)南至る、邪馬台国、女王の都する所、水行十日・陸行一月。」

―(伊都国から)東南百里に奴国がある。東行百里で不彌国至る。南へ水行二十日で投馬国に至る。南へ水行十日、陸行一ヶ月で邪馬台国という(倭の)女王の都に至る。

 邪馬台国についての所要日数「水行十日、陸行一月」を畿内論者は投馬国からの所要日数とみているのだが(九州説も大方はそう誤解しているのだが)、これは上記で証明したように「帯方郡から邪馬台国へは12000里、そのうちの10000里は郡から末廬国(唐津市)までの水行であり、その所要日数は十日である」を適用すると、<帯方郡から南へ水行十日、陸行一ヶ月で邪馬台国に至る>ということでなければならない。

 つまりここの「南至る、邪馬台国・・・」は前文からの続きではなく、段落を変えて改行して読み取らなければならないのである。魏志倭人伝をはじめとする三国志の記述では段落(改行)など全くしないで延々と書き綴っているから注意しなければならない。

 以上のように読み取ると、邪馬台国への距離表記記事「郡から12000里」と「水行十日、陸行一月」とは同じことを表していることが分かり、完全に整合性が得られたことになる。

 そうなると日数表記による行程記事によっても畿内説は成り立たないことになり、上述の距離表記による畿内説不成立(A)または(B)と合わせて、畿内説は完全に成り立たないことが言えるのである。

 以上から①でも述べたように畿内説は「もうお引き取りを願いたい」のだが、畿内説論者に言いたいのは、「確かに邪馬台国は畿内に無かったが、その同じ時代に畿内、特に大和地方に何もなかったわけではない。おそらく葛城地方や巻向地方には邪馬台国に匹敵するような王権が存在したはずである。それを考古学的に証明しつつあるのが今日の巻向(箸墓)ブームであって、それはそれで極めて重要なことで、のちの大和王権の成立解明に一歩一歩近づきつつある状況である。しかしそれは魏志倭人伝上の邪馬台国とはあくまでも別の王権であって、何でも邪馬台国(特に卑弥呼女王の墓・宮室)を引き合いに出すのは学問的ではない。」ということである。

 ところで九州説も大きな誤りを犯しているのだが、その点については次回③で・・・。

 

| | コメント (4)

神野のイルミネーション(鹿屋市吾平町神野)

 吾平町の山奥にイルミネーションが灯ったというので行ってみた。

 吾平町の神野地区は吾平町の中心部から約5キロ、姶良川を遡ったところにある。021 吾平町の中心部ではだいぶ前から町の通りに沿ってイルミネーションが飾られている。写真は町の商工会の前のイルミネーション。

 ここから姶良川に沿って5キロ。途中吾平山陵への道を左に見て3キロほど行くと目指す「吾平自然公園」に到着。015 入り口の駐車場から見たイルミネーション。親子三人連れが今しも公園の中に入って行く。(といっても三人の姿はほとんど見えない。真ん中の鶴が羽を広げたようなイルミネーションのすぐ手前に黒い三人の影が見えているのだが…。)007 左回りに入って行くとのっけから素晴らしいフィギュア・イルミネーションだ。黄色く光っているバンビ2匹は首を振っているのだが、残念ながらビデオではないので…。002 イルミネーションランプで縁どられた東屋の中に光るクリスマスツリーがしつらえてあった。ここでクリスマスイブを祝うのもいいかもしれない。013 公園内に置かれたベンチにもイルミネーションが。014 こちらは神野小学校のPTAが作った「猫バス」。左のピンク色のがトトロだろうか。019 神野地区を貫通する道路から眺めると、イルミネーションが手前を流れる姶良川の川面に反射していた。

 何事もない歳末であって欲しいものだ。

| | コメント (1)

『徹底検証・ここまでわかった!邪馬台国』を読む①

 新人物往来社の文庫本『徹底検証・ここまでわかった!邪馬台国』―「魏志」倭人伝全文を読む』(2011年6月14日第一刷)を最近読み、「ここまで来てまだ分からないのか!」と叫びたくなった。

 この本は新人物往来社の月刊誌『歴史読本』に特集したものを文庫本化したらしいが、通常のいわゆる「邪馬台国特集」と違うのは原典である「魏志倭人伝」全文を載せたことだろう。

 大概の「邪馬台国特集」は歴史読本であれ、他のメディアであれ「魏志倭人伝」の一部分のみを筆者(解説者)が取り上げて解釈するというものであるが、これはずいぶん気合が入っている特集と思い、読んでみた。

 なるほど第一章には全文が掲載され、それを段落に分けて田中俊明という(1952年生)滋賀県立大学の教授が読解と解説を試みている。この人は朝鮮半島の古代史が専門らしく、以前読んだ『伽耶はなぜほろんだか』という本(1998年3月20日第1刷)に、「大伽耶連盟の成立と展開」という論文を寄せている。

 全文の中のハイライトは何と言っても「行程記事(距離・方角)」の部分で、これによって邪馬台国の場所が特定されるはずの条文なのである。もちろん距離と方角の勝手な変更は許してはいけない所である。なぜならそれを許せば各人が自分の持って行きたい場所に邪馬台国を設定できるからである。

 ここを厳格にしないと、「研究者の数だけ邪馬台国の比定地がある」という混迷の現状を生み、また追認してしまうことになる。

 田中教授の行程記事解釈で問題になるのは「伊都国の場所」「投馬国の場所」それゆえの「邪馬台国の場所」である。

 まず、伊都国の場所

 ここを糸島半島(福岡県前原市)としているが、糸島半島なら壱岐国から直接船を向ければよいのに、なぜマツラ国(唐津市)に上陸し、そこから「東南陸行500里」という行程をわざわざ歩かねばならないのだろうか。しかも唐津からは糸島半島は方角では東南ではなく東北なのである。

 ここの説明(というか弁明)は一切なく、あたかも「伊都国は糸島半島(前原市)で決まり」という不文律(伝統的解釈)を一切疑っていない。この「東南を東北に解釈してよい」ということで、畿内説を勢いづけることになったのである。(現に田中教授は畿内説である。)

 畿内説論者は、「それみろ九州説論者も我々が―距離では畿内しかない―というと―投馬国と邪馬台国は北部九州の不彌国から南にあるのだから、東方の畿内であるはずがない―とは言えなくなった。何しろ東南を東北に読み替えた、つまり方角を90度北へずらしたのだから、我々が南を東に北へ90度ずらしても文句は言えまい」と、大手を振って方角を読み替えたのである。

 唐津市のマツラ国まではどの論者もほぼ一致しており、そこから伊都国を糸島半島と比定すれば方角の大幅な変更をゆるし、邪馬台国論争における九州説対畿内説論争の火に油を注いでしまった結果になってしまった。アホくさいことおびただしい。

 つぎに投馬国の場所

 不彌国のすぐあとに「南至投馬国水行二十日」とあるので、不彌国から船出して20日の場所にあるのが投馬国と解釈しがちだ。現に田中教授は不彌国を立岩遺跡のある福岡県飯塚市とし、そこから「南に向かって水路を二十日行けば投馬国に到着する。」とし、結論として「投馬国は吉備国が妥当であろう」という。

 遠賀川の中流の飯塚市なら南への水路として遠賀川を南下するればたしかに「南に向かって水路を」までは言えるが、どんどん南下すれば源流に行き当たる。船はどうするのか、まさか山を越して瀬戸内海に出たというのではあるまい。仮にそれが可能としても豊後水道に出るから、それを南下すれば日向・大隅の領域に入る。

 ここでも教授の「初めに畿内ありき」の結論へ持って行こうとし、南を東に読み替えて瀬戸内海を水行するという解釈。まさに目を覆うばかりの原典改変だ。

 不彌国のすぐあとの「南至投馬国水行二十日」は、独立した段落としなければならない。つまり「南至投馬国水行二十日」は帯方郡から南へ水行して20日の場所に投馬国があるという解釈をしなければならない。この理由は次の邪馬台国の場所の解釈と密接なので、後述する。

 三つ目は邪馬台国の場所

 投馬国の描写のあとに「南至邪馬台国女王之所都、水行十日陸行一月」とあるので、投馬国からさらに船で10日と1月行った所に女王の都・邪馬台国があると解釈しがちだ。現に田中教授は「南に向かえば邪馬台国に到着する。水路を十日行けば到着する。もし陸路を行けば一月かかる。」とし、吉備国にあった投馬国から水路をさらに南(東と読み替える)へ10日で邪馬台国に行き着くとする。

 ここで田中教授は「水行十日陸行一月」を「水行ならば十日、陸行ならば一月」と水行と陸行の合算ではなく「又は」として解釈するが、これも投馬国を吉備国と比定し、邪馬台国を畿内に持って行くための「苦肉の解釈」だろう。漢文からはどう考えても「水行十日し、かつ陸行一月もした」としか解釈できない

 この投馬国のあとの「南至邪馬台国女王之所都、水行十日陸行一月」も不彌国のすぐあとの「南至投馬国水行二十日」と同様、独立した段落としなければならない。つまり「南至邪馬台国女王之所都、水行十日陸行一月」は帯方郡から南へ水行して10日かつ陸行して1ヶ月の場所に邪馬台国があるという解釈である。

 その理由を示す。

 邪馬台国の行程記事のあとは邪馬台国連盟21ヶ国の名称が挙げられ、最後の「次有奴国。此女王境界所尽。」で連盟国の描写が終わり、そのあとには「其南有狗奴国。男子為王。其官有狗古智卑狗。不属女王。自郡至女王国、萬二千余里。」とある。

 最後の「自郡至女王国、萬二千余里(帯方郡から女王国に至る、その距離は一万二千余里)。」で、帯方郡から邪馬台国までの距離が示されているではないか。

 逆算してみればすぐにわかることである。この萬(万)二千余里から、まず帯方郡から韓半島の沿岸部を航海して狗邪韓国(今日の金海市)までの7千余里を引くと残りは「5千里」(余は省略する)。そこから対馬海峡の行程すなわち対馬までの千里、壱岐までの千里、マツラ(唐津市)までの千里を足した3千里を引くと「2千里」が残る。

 つまり帯方郡から女王国までの1万2千里のうち、九州北岸のマツラ(唐津市)に着くまでにすでに1万里を経過しているのである。この1万里はすべて水行であるから、先の「南至邪馬台国女王之所都、水行十日陸行一月」の条文における「水行十日」と合致している。畿内説はここを全く無視する。つまり何とも説明がないのである。片手落ちと言わざるを得ない。

 さて、残りの「2千里」こそが「陸行一月」に該当することになる。ということは九州の北岸のマツラ国に上陸したあとは陸行だけで到達するところに邪馬台国があるということになるわけで、邪馬台国は九州島の中にあり、畿内説は全く成り立つ余地はない。

 したがって畿内説を唱える研究者には「ご苦労さんでした。お引き取りを」と言うほかない。(―そんな馬鹿な。のちの大和王朝の直接の前王権である卑弥呼女王様の墓は箸墓だろうと考古学者が言っているではないか。新聞報道でも箸墓周辺で「卑弥呼の宮殿跡発見か!」などと取沙汰している!―と思い込まされている人にはこう言いたい。九州に邪馬台国があった時代に、奈良大和に別の王権があっても何らおかしくないのである。吉備にもあったし、越前にも、出雲にもあった。ただ、3世紀の魏志倭人伝上の邪馬台国ではない、というに過ぎない。九州説を採るにしても邪馬台国とは別に狗奴国王権があったし、投馬国王権もあった、と。)

 では九州島の中のどこに邪馬台国はあったのか。それを検証してみよう。

 唐津市に比定されるマツラ国から東南500里ということであるから、素直に東南に松浦川に沿って行く道を採ればよい。途中、「厳木(きうらぎ)」という「いつき」と読んでもおかしくない町を通り、多久市に入る。ここを抜けると広大な佐賀平野の西の隅、小城市に到る。

 私見ではこの小城市を「伊都国」に比定する。ここから東南へ百里の奴国は佐賀市、また東行百里の不彌国は佐賀市大和町と考える。

 広大な佐賀平野の東南にある筑後川を渡り、さらに南の八女市界隈が邪馬台国の所在地だろう。6世紀の継体天皇時代、「筑紫君・磐井」の居住地でもあった。筑紫とは今日のほぼ福岡県が該当するが、それ全体を治めていた磐井は邪馬台国に匹敵する一大国家の首長であったことになる。ただ、卑弥呼王権の直接の後継者ではなく、狗奴国王権により侵攻され敗れたあとの後継者と考えられるから、むしろ狗奴国(熊襲系王統)の血筋を引いているのが「筑紫君・磐井」だったろうと思われる。

 さて、では投馬国はどこなのか?

 投馬国の描写は邪馬台国の直前であったので、投馬国は不彌国と邪馬台国の中間にあると思いがちだが、これも帯方郡からの「南至投馬国、水行二十日」なのである。そう考えないと水行一日が千里に該当したのであるから、水行20日は2万里に換算され、帯方郡から邪馬台国までの1万2千里よりはるかに遠くなってしまう。

 これは不彌国―投馬国―邪馬台国という行程記事とは合致しない。

 では投馬国はどこに比定されるだろうか?

 先に述べたように、帯方郡から水行十日で九州北岸に到達したのであるからそこからさらに水行十日かかる所に投馬国があったことになり、広く南九州が該当することになる。国名で言えば713年までに日向国から大隅国と薩摩国が分離独立しているが、その前の日向国「古日向」がそれに当たる。「投馬国すなわち古日向」は今日の鹿児島と宮崎を合わせた広さを持ち、魏志倭人伝の当時、戸数5万戸の雄大な国であった。

 以上で①を終わる。続きは後日!

 

 

| | コメント (0)

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »