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『徹底検証・ここまでわかった!邪馬台国』を読む②

 ①の続きを・・・

  邪馬台国の場所は倭人伝を素直に読んでいけば畿内ではありえず、九州島内のどこかに帰着する。

 なぜ畿内ではあり得ないのかを論じてみよう。

 邪馬台国に至る行程の中でほとんどの研究者で一致している比定地は帯方郡(韓国のソウル周辺)から船で7000里の狗邪韓国(金海市)と海峡を1000里渡った対海国(対馬)、さらに1000里渡った一大国(壱岐)、またさらに1000里渡った末廬国(唐津市)。この5か所については九州説・畿内説その他の説に於いても一致した見解である。

 そしてこの末廬国までは水行(航路)であり、その総計は10000里であることはどの論者も否定できないはずである。さらにこの10000里については海上の距離を計測する仕組みも機械も当時はなかったから、距離以外の何かを表しているということになる。それは日数である。

 日数なら日数として記録してくれれば分かり易いものをなぜ陳寿はこんな途方もない距離で表したのだろうか。それは当時の魏王朝を世界の中心とする表記に倣ったとしか言いようがない。大陸の陸路による東西南北の同心円的な辺境まで支配領域だと誇張するために距離表記を採用したのだろう。

 その結果、後世のわれわれ歴史研究家を大いに悩ませることになったのだが、しかし一方で編集者の陳寿は邪馬台国の衛星国家群(女王国連盟とも言える)21ヶ国の列挙(斯馬国から始まり奴国まで)の次に邪馬台国に敵対していた南に近接した狗奴国を挙げ、最後に行程記事を締めくくるようにこう書いている

 「郡より女王国に至る、萬二千余里」

 ー帯方郡から女王国までの総距離は12000里である。

 こう書いてくれているのだ。

 この12000里から上に書いた水行10000里を引けば、2000里が残る。したがって末廬国(唐津市)からはたったの2000里のところに邪馬台国(女王国)があることになり、仮にこれが水行の距離とすれば対馬・唐津市間の距離と等しいことになる。この実距離は120キロ程度であり、唐津市から120キロというと九州島の中のどこかの港にしか到達できないので、畿内説の成り立つ余地はない。・・・(A)

 次にこの2000里が陸行の距離としてみればそもそも陸地を離れることはない、つまり唐津からは内陸に徒歩で到達する場所が邪馬台国であるということになり、ここでも畿内説の成り立つ余地はない。・・・(B)

 以上、総距離と各要所間の距離との整合性からは畿内説は成り立たないことが分かる。

 さて、次には日数表記についての整合性を調べてみる。以上のように帯方郡から10000里の水行で唐津市に到着したのであるが、ではその所要日数は何日だろうか。

 それを考えるヒントが海峡渡海の距離数にある。

 それは韓半島南部の金海市から対馬(中心部)までは実距離約100キロ、対馬(中心部)から壱岐(中心部)までの実距離は約75キロ、壱岐(中心部)から唐津市(沿岸部)までの実距離は約50キロであるが、このように4:3:2という大きな違いの距離比である海峡をすべて同じ1000里で表していることである。

 いくら古代は計測技術が幼稚だったから誤差が出た、と言うにしても誤差にも程と言うものがある。1000里・700里・500里くらいな違いは見分けられ、そう書き分けただろう。ーもっとも当時は海上の距離など測れる技術はなかったので実はその心配は杞憂に属するが・・・。

 では全くと言っていいほど違っている距離を同じ1000里としたのはどういうことだろうか? それは日数を表しているのである。

 では何日だろうか? それは一日である他ない。なぜなら海峡の途中で休眠することはできないからだ。そんなことをしたら名にし負う対馬海流の早い流れによって、はるか日本海へと流されてしまうからだ。

 したがってこの各海峡はそれぞれ一日で漕ぎ渡らなければならないのであり、そのことを1000里で表記したのである。

 ここから陳寿が水行一日を1000里という距離表記に換算したことが判明する。

 そうなると帯方郡から半島南部の狗邪韓国(金海市)までの水行7000里は水行七日となり、それに三つの海峡を渡った末廬国(唐津市)までの水行3000里すなわち水行三日を加えた水行十日が帯方郡から末廬国(唐津市)までの所要日数ということになる。

 さて、陳寿は邪馬台国への行程記事の中でこうも書いている。

 「(伊都国から)東南至る、奴国。百里。(中略)東行至る、不彌国、百里。(中略)南至る、投馬国、水行二十日。(中略)南至る、邪馬台国、女王の都する所、水行十日・陸行一月。」

―(伊都国から)東南百里に奴国がある。東行百里で不彌国至る。南へ水行二十日で投馬国に至る。南へ水行十日、陸行一ヶ月で邪馬台国という(倭の)女王の都に至る。

 邪馬台国についての所要日数「水行十日、陸行一月」を畿内論者は投馬国からの所要日数とみているのだが(九州説も大方はそう誤解しているのだが)、これは上記で証明したように「帯方郡から邪馬台国へは12000里、そのうちの10000里は郡から末廬国(唐津市)までの水行であり、その所要日数は十日である」を適用すると、<帯方郡から南へ水行十日、陸行一ヶ月で邪馬台国に至る>ということでなければならない。

 つまりここの「南至る、邪馬台国・・・」は前文からの続きではなく、段落を変えて改行して読み取らなければならないのである。魏志倭人伝をはじめとする三国志の記述では段落(改行)など全くしないで延々と書き綴っているから注意しなければならない。

 以上のように読み取ると、邪馬台国への距離表記記事「郡から12000里」と「水行十日、陸行一月」とは同じことを表していることが分かり、完全に整合性が得られたことになる。

 そうなると日数表記による行程記事によっても畿内説は成り立たないことになり、上述の距離表記による畿内説不成立(A)または(B)と合わせて、畿内説は完全に成り立たないことが言えるのである。

 以上から①でも述べたように畿内説は「もうお引き取りを願いたい」のだが、畿内説論者に言いたいのは、「確かに邪馬台国は畿内に無かったが、その同じ時代に畿内、特に大和地方に何もなかったわけではない。おそらく葛城地方や巻向地方には邪馬台国に匹敵するような王権が存在したはずである。それを考古学的に証明しつつあるのが今日の巻向(箸墓)ブームであって、それはそれで極めて重要なことで、のちの大和王権の成立解明に一歩一歩近づきつつある状況である。しかしそれは魏志倭人伝上の邪馬台国とはあくまでも別の王権であって、何でも邪馬台国(特に卑弥呼女王の墓・宮室)を引き合いに出すのは学問的ではない。」ということである。

 ところで九州説も大きな誤りを犯しているのだが、その点については次回③で・・・。

 

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コメント

 理路整然!ロジカル!スマートアンドシンプル!
本ぬ出しゃい!

投稿: デラ富樫 | 2011年12月14日 (水) 08時29分

デラ富樫さんへ。
 邪馬台国に関する本は書いています。骨子はここで述べたことですが、「倭人伝」全文のほか、「韓伝」も全文解釈しているのが売りです。書名は
 『邪馬台国真論』です。もう書店には無く、アマゾンの古書にはあるようです。
 なければ手元に10部くらい残っていますので買ってやってください。送料込みで2000円です。
 郵便振替(02000-2-11027)で「大隅史談会事務局」宛てにどうぞ。住所は
 〒893-0042
 鹿児島県鹿屋市池園町2245-5

投稿: kamodoku | 2011年12月14日 (水) 23時20分

 「邪馬台国真論」は是非読みたいです。「韓伝」も全文解釈しているのが」これも超~魅力ですね~。そこで私の隠れ家の温泉の超ミニ図書館に寄贈しそこで気楽に読むことにしましょう。そこの温泉は、岩風呂が3個、飛び上がるほど超~熱い檜風呂とその隣のぬるめの岩風呂がある温泉です。そこのローラーマッサージ器は、ネンカだったかな?でグリグリやるだけでなく、上下をコマンダーで調整出来、グリグリ~と背中を押すとき体中の毒が出ていく感じです。入り口にオオプンテラスの本格的なコーヒショップがあり、その奥に2間休憩室があるのですが、そのほかに、知る人ぞ知る広大な休憩場が川の畔にあり、ここで温泉の入浴の疲れを寝て取ることが出来るのです。温泉は結構体力を消耗するのです。さらに優れているのは、この奥に、10脚ほどの長いすに寝そべって読める図書館があるのです!ここに寝そべって川の音を聞きながら読書をすると、う世間のゴチャゴチャは完璧に消えるような気がします。話が付きましたらいずれ、話が付きませんでしら特にご連絡もうしあげません!
          う~~~ん、まちどおしい!

投稿: デラ富樫 | 2011年12月19日 (月) 22時45分

 中古も探しましたが、無かったですね~!残念!市立図書館にも無かったですね(がいちらけちょきました!)国会図書館の手も御座いましたが、やはり隠れ家でロマンにしたるのが一番かと!

投稿: デラ富樫 | 2011年12月19日 (月) 22時52分

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