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『徹底検証・ここまで分かった!邪馬台国』を読む③

 ①ではこの本の詭弁に驚きのあまり興奮した書きぶりになり、②では自説によってその誤りを正したが、本来はこの本に執筆している論者の所見を取り上げ、逐一反論を掲載しようとしたのであった。

 それでは遅ればせながら、まずは先に触れた第2章「倭人伝全文を読む」の執筆者・田中俊明滋賀県立大学教授の解釈を取り上げてみよう。

 私見では誤謬は多岐にわたるが、ここでは特に最も肝心な「邪馬台国への行程」についてのみ取り上げることにする。

 田中教授のみならず半島から末廬国(唐津市)までの行程はどの邪馬台国論者も一致している。問題はその次の「(末廬国から)東南陸行五百里到伊都国」の解釈である。

 田中教授はこの「伊都国」を福岡県の糸島半島のある地域に比定している。すなわち今日の前原市である。

 実は「伊都国」を前原市に比定するのは邪馬台国畿内説論者には限らない。大方の九州説論者に共通した比定地なのである。

 この前原市にはたしかに多くの遺跡がある。平原遺跡・三雲遺跡・井原鑓溝遺跡が主なもので、甕棺の中から、被葬者は王と言ってよいほどの巨大な鏡や太刀やガラス製品が多数副葬されているのが見つかった。

 それゆえ「伊都国は糸島半島の前原市で決まり!」ということになった。だが、糸島半島の前原市は末廬国の唐津市からは東北に当たるのである。

 また糸島半島であるのならば壱岐からわざわざ唐津に船を着けないで、直接やって来ればよいことである。百歩譲って、唐津に船を着ける必然性があったものとしても、何も唐津で上陸せずにそのまま船に乗って沿岸を糸島まで船行すればいいではないか。壱岐から唐津までの一日行程を思えば、まる一日も必要とせずに糸島半島に到着するはずである。

 昭和42年に発刊された『まぼろしの邪馬台国』(宮崎康平著・講談社)に夢中になって以来、自分なりに考えること25年目に、はっと気づいた疑問であった。

 もう一度「魏志倭人伝」を読み返しながら、唐津からは文字通り東南に歩いてみたら・・・そういうルートがあったのである。そのルートこそその名も「松浦川」にそって東南へ歩き、やがては佐賀平野に至るコースである。

 ところが、「伊都国は糸島半島の前原市で決まり!」と思い込んでいる論者は

 ①唐津から糸島へ陸行するのなら方角としては東北であり、東南ではない。

 ②唐津から糸島へは陸行500里とあるが、糸島から次の奴国(春日市)までは100里とあり、その比は5:1になるのだが、実際の比は1:1である。

 ③糸島なら壱岐から直接船で来ることができ、わざわざ唐津で船を降りる必要はない。

 のだが、このように方角を改変したり、②、③のように自説に都合の悪い部分があると、これを無視する。このような論説は論説に値しないだろう。

 おまけに、糸島について言うと、日本書紀の「仲哀天皇紀」の8年条には次のような記事が見える。

<又、筑紫の伊覩(いと)の県主の祖・五十迹手(通説では「いとて」だが、私見では「いそとて」)天皇の行くと聞きて、五百枝賢木を抜き取りて、船の舳先に立て・・・(中略)・・・。天皇即ち五十迹手をほめたまいて「伊蘇志(いそし)」という。故に時の人、五十迹手の本土を号して「伊蘇国(いそのくに)」という。いま、伊覩(いと)というは訛(よこなま)れるなり。

 また、『筑前風土記』にも同様の伝承が載せられている。

 つまり、糸島はもとは「伊蘇国(いそのくに)」だったのであり、「いとのくに」ではないことがわかる。したがって「伊都国=糸島」説は誤りであり、上の3つの反証を補強してくれる。

 結論は言うまでもなく「伊都国は糸島半島の前原市で決まり!」は誤りだということである。

 この点は大方の九州説論者もおかしている誤りで、「唐津から糸島は東北であるのに陳寿は東南と書いた。実際の方角を90度も南に寄らせて書いているのであるから、南と書いてあるのは実は本当は東の方角なのだ。」と勝手に南を東と読み替えて畿内の方に持って行こうとする誤謬(我田引水)を是認する結果になったのである。

 糸島ではないのに平原・三雲・井原鑓溝遺跡の「王墓級副葬品」に惑わされた結果、抜き差しならない誤謬の沼に落ち込んでしまったことが、「どこでも邪馬台国!」という目も当てられない珍説の数々を許すことになった元凶なのである。もうそろそろ誤謬に気づかねばなるまい。

  以下に田中教授の帯方郡から邪馬台国までの方角見解と魏志倭人伝の方角記事、および距離に関する見解を列挙しておく。

 1.帯方郡…ソウル近辺(起点)

 2.狗邪韓国…金海市…帯方郡から水行南し東して7000里

 3.対海国…対馬…狗邪韓国から水行南へ1000里

 4.一大国…壱岐…対馬国から水行南へ1000里

 5.末廬国…佐賀県唐津市…壱岐国から水行南へ1000里

 6.伊都国…福岡県前原市…末廬国から東北へ陸行500里(東南を改変)

 7.奴国…前原市から東南へ43キロの春日市…伊都国から東南へ陸行100里

 8.不彌国…春日市から東へ43キロの飯塚市…奴国から東へ陸行100里

 9.投馬国…岡山県(吉備)…不彌国の水行20日(を改変)

 10.邪馬台国…畿内大和…投馬国の水行すれば10日、陸行ならば1ヶ月(を改変)

 以上のように田中教授は1から5までの行程における方角はそのままで改変しないのだが、その次の6では東南を東北に改変し、しかしそのあとの奴国・不彌国への方角は改変せず、さらに投馬国と邪馬台国の場合には再び南を東と改変しているのである。

 そこに一貫性が見られないのは一目瞭然で、原典(史料)改変の愚を犯しているのである。なぜ一応は原点に基づいて方角を改変せずに考えてみようとしないのであろうか。「初めに畿内邪馬台国ありき」の独善的解釈と言えよう。

 しかも距離について見てみると、仮に唐津市から前原市への行程が正しいものとして、原典ではこの距離は500里である。ところが前原市から奴国と比定した春日市までの距離と唐津市から前原市までの距離はほぼ同じなのに、こちらは100里となっているのである。つまり同じ距離を一方は500里、もう一方はわずか100里としている不合理については言及していない。

 それどころか春日市(奴国)の東100里にあるとする不彌国については「100里は43キロであるから、立岩遺跡のある飯塚市がふさわしい」と、今度は1里=0.43キロを採用して詳しい距離を導入して求めている。これをなぜ唐津―前原間には適用しないのだろうか? 適用しようにも1里=0.43キロだと500里は215キロに相当し、前原市に持って行きようがないので敢えて無視をしたのだろう。

 こんな具合に、田中教授の解釈は方角は3か所を自分に都合のいいように変え、距離も自分の都合の悪い部分は無視をするやり方である。原典改変どころかずたずたに切り裂いて、自分の説(畿内大和説)に持って行こうとするのは先にも述べたが「初めに畿内大和説ありき、邪馬台国は畿内で決まり!」という独善以外の何物でもない。

 『徹底検証・ここまで分かった邪馬台国』では第一章を考古学者・森浩一へのインタビュ-に当てているが、この先生の説は「邪馬台国は北部九州にあり、その国が大和地方へ東遷してのちに大和王朝を築いた」というもので、畿内説論者の原典切った貼ったの愚見とは違って常識的な解釈であると言える。

 ただ、森氏は邪馬台国の位置そのものについては述べていない。北部九州とだけ匂わせてはいるが・・・。

 森氏のほかに九州説を書いているのは、佐賀県吉野ヶ里を発掘しそこを邪馬台国と主張している元佐賀県立女子短大学長で考古学者の高島忠平だけで、あとは畿内説の論者ばかりである。この本の寄って立つところは所詮、畿内説なのである。残念な内容であった。

 

 (追記)

 九州説の多くも唐津の末廬国から東南へ500里を「東北へ500里」と読み替えて弥生遺跡の目覚ましい前原市としているが、あくまで東南へ行ったらどこに比定地が見つかるかという「冒険」をおかそうとしない。

 この「東南の東北への読み替え」があったがために、南を東と読み替えても構わないという風潮を生んでしまい、畿内説の跋扈を許す結果となったのである。まずは原典を改変せずに読むという「史料解釈の原点」に立ち返らなければならない。

  

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