『徹底検証・ここまでわかった!邪馬台国』を読む①
新人物往来社の文庫本『徹底検証・ここまでわかった!邪馬台国』―「魏志」倭人伝全文を読む』(2011年6月14日第一刷)を最近読み、「ここまで来てまだ分からないのか!」と叫びたくなった。
この本は新人物往来社の月刊誌『歴史読本』に特集したものを文庫本化したらしいが、通常のいわゆる「邪馬台国特集」と違うのは原典である「魏志倭人伝」全文を載せたことだろう。
大概の「邪馬台国特集」は歴史読本であれ、他のメディアであれ「魏志倭人伝」の一部分のみを筆者(解説者)が取り上げて解釈するというものであるが、これはずいぶん気合が入っている特集と思い、読んでみた。
なるほど第一章には全文が掲載され、それを段落に分けて田中俊明という(1952年生)滋賀県立大学の教授が読解と解説を試みている。この人は朝鮮半島の古代史が専門らしく、以前読んだ『伽耶はなぜほろんだか』という本(1998年3月20日第1刷)に、「大伽耶連盟の成立と展開」という論文を寄せている。
全文の中のハイライトは何と言っても「行程記事(距離・方角)」の部分で、これによって邪馬台国の場所が特定されるはずの条文なのである。もちろん距離と方角の勝手な変更は許してはいけない所である。なぜならそれを許せば各人が自分の持って行きたい場所に邪馬台国を設定できるからである。
ここを厳格にしないと、「研究者の数だけ邪馬台国の比定地がある」という混迷の現状を生み、また追認してしまうことになる。
田中教授の行程記事解釈で問題になるのは「伊都国の場所」「投馬国の場所」それゆえの「邪馬台国の場所」である。
まず、伊都国の場所。
ここを糸島半島(福岡県前原市)としているが、糸島半島なら壱岐国から直接船を向ければよいのに、なぜマツラ国(唐津市)に上陸し、そこから「東南陸行500里」という行程をわざわざ歩かねばならないのだろうか。しかも唐津からは糸島半島は方角では東南ではなく東北なのである。
ここの説明(というか弁明)は一切なく、あたかも「伊都国は糸島半島(前原市)で決まり」という不文律(伝統的解釈)を一切疑っていない。この「東南を東北に解釈してよい」ということで、畿内説を勢いづけることになったのである。(現に田中教授は畿内説である。)
畿内説論者は、「それみろ九州説論者も我々が―距離では畿内しかない―というと―投馬国と邪馬台国は北部九州の不彌国から南にあるのだから、東方の畿内であるはずがない―とは言えなくなった。何しろ東南を東北に読み替えた、つまり方角を90度北へずらしたのだから、我々が南を東に北へ90度ずらしても文句は言えまい」と、大手を振って方角を読み替えたのである。
唐津市のマツラ国まではどの論者もほぼ一致しており、そこから伊都国を糸島半島と比定すれば方角の大幅な変更をゆるし、邪馬台国論争における九州説対畿内説論争の火に油を注いでしまった結果になってしまった。アホくさいことおびただしい。
つぎに投馬国の場所。
不彌国のすぐあとに「南至投馬国水行二十日」とあるので、不彌国から船出して20日の場所にあるのが投馬国と解釈しがちだ。現に田中教授は不彌国を立岩遺跡のある福岡県飯塚市とし、そこから「南に向かって水路を二十日行けば投馬国に到着する。」とし、結論として「投馬国は吉備国が妥当であろう」という。
遠賀川の中流の飯塚市なら南への水路として遠賀川を南下するればたしかに「南に向かって水路を」までは言えるが、どんどん南下すれば源流に行き当たる。船はどうするのか、まさか山を越して瀬戸内海に出たというのではあるまい。仮にそれが可能としても豊後水道に出るから、それを南下すれば日向・大隅の領域に入る。
ここでも教授の「初めに畿内ありき」の結論へ持って行こうとし、南を東に読み替えて瀬戸内海を水行するという解釈。まさに目を覆うばかりの原典改変だ。
不彌国のすぐあとの「南至投馬国水行二十日」は、独立した段落としなければならない。つまり「南至投馬国水行二十日」は帯方郡から南へ水行して20日の場所に投馬国があるという解釈をしなければならない。この理由は次の邪馬台国の場所の解釈と密接なので、後述する。
三つ目は邪馬台国の場所。
投馬国の描写のあとに「南至邪馬台国女王之所都、水行十日陸行一月」とあるので、投馬国からさらに船で10日と1月行った所に女王の都・邪馬台国があると解釈しがちだ。現に田中教授は「南に向かえば邪馬台国に到着する。水路を十日行けば到着する。もし陸路を行けば一月かかる。」とし、吉備国にあった投馬国から水路をさらに南(東と読み替える)へ10日で邪馬台国に行き着くとする。
ここで田中教授は「水行十日陸行一月」を「水行ならば十日、陸行ならば一月」と水行と陸行の合算ではなく「又は」として解釈するが、これも投馬国を吉備国と比定し、邪馬台国を畿内に持って行くための「苦肉の解釈」だろう。漢文からはどう考えても「水行十日し、かつ陸行一月もした」としか解釈できない。
この投馬国のあとの「南至邪馬台国女王之所都、水行十日陸行一月」も不彌国のすぐあとの「南至投馬国水行二十日」と同様、独立した段落としなければならない。つまり「南至邪馬台国女王之所都、水行十日陸行一月」は帯方郡から南へ水行して10日かつ陸行して1ヶ月の場所に邪馬台国があるという解釈である。
その理由を示す。
邪馬台国の行程記事のあとは邪馬台国連盟21ヶ国の名称が挙げられ、最後の「次有奴国。此女王境界所尽。」で連盟国の描写が終わり、そのあとには「其南有狗奴国。男子為王。其官有狗古智卑狗。不属女王。自郡至女王国、萬二千余里。」とある。
最後の「自郡至女王国、萬二千余里(帯方郡から女王国に至る、その距離は一万二千余里)。」で、帯方郡から邪馬台国までの距離が示されているではないか。
逆算してみればすぐにわかることである。この萬(万)二千余里から、まず帯方郡から韓半島の沿岸部を航海して狗邪韓国(今日の金海市)までの7千余里を引くと残りは「5千里」(余は省略する)。そこから対馬海峡の行程すなわち対馬までの千里、壱岐までの千里、マツラ(唐津市)までの千里を足した3千里を引くと「2千里」が残る。
つまり帯方郡から女王国までの1万2千里のうち、九州北岸のマツラ(唐津市)に着くまでにすでに1万里を経過しているのである。この1万里はすべて水行であるから、先の「南至邪馬台国女王之所都、水行十日陸行一月」の条文における「水行十日」と合致している。畿内説はここを全く無視する。つまり何とも説明がないのである。片手落ちと言わざるを得ない。
さて、残りの「2千里」こそが「陸行一月」に該当することになる。ということは九州の北岸のマツラ国に上陸したあとは陸行だけで到達するところに邪馬台国があるということになるわけで、邪馬台国は九州島の中にあり、畿内説は全く成り立つ余地はない。
したがって畿内説を唱える研究者には「ご苦労さんでした。お引き取りを」と言うほかない。(―そんな馬鹿な。のちの大和王朝の直接の前王権である卑弥呼女王様の墓は箸墓だろうと考古学者が言っているではないか。新聞報道でも箸墓周辺で「卑弥呼の宮殿跡発見か!」などと取沙汰している!―と思い込まされている人にはこう言いたい。九州に邪馬台国があった時代に、奈良大和に別の王権があっても何らおかしくないのである。吉備にもあったし、越前にも、出雲にもあった。ただ、3世紀の魏志倭人伝上の邪馬台国ではない、というに過ぎない。九州説を採るにしても邪馬台国とは別に狗奴国王権があったし、投馬国王権もあった、と。)
では九州島の中のどこに邪馬台国はあったのか。それを検証してみよう。
唐津市に比定されるマツラ国から東南500里ということであるから、素直に東南に松浦川に沿って行く道を採ればよい。途中、「厳木(きうらぎ)」という「いつき」と読んでもおかしくない町を通り、多久市に入る。ここを抜けると広大な佐賀平野の西の隅、小城市に到る。
私見ではこの小城市を「伊都国」に比定する。ここから東南へ百里の奴国は佐賀市、また東行百里の不彌国は佐賀市大和町と考える。
広大な佐賀平野の東南にある筑後川を渡り、さらに南の八女市界隈が邪馬台国の所在地だろう。6世紀の継体天皇時代、「筑紫君・磐井」の居住地でもあった。筑紫とは今日のほぼ福岡県が該当するが、それ全体を治めていた磐井は邪馬台国に匹敵する一大国家の首長であったことになる。ただ、卑弥呼王権の直接の後継者ではなく、狗奴国王権により侵攻され敗れたあとの後継者と考えられるから、むしろ狗奴国(熊襲系王統)の血筋を引いているのが「筑紫君・磐井」だったろうと思われる。
さて、では投馬国はどこなのか?
投馬国の描写は邪馬台国の直前であったので、投馬国は不彌国と邪馬台国の中間にあると思いがちだが、これも帯方郡からの「南至投馬国、水行二十日」なのである。そう考えないと水行一日が千里に該当したのであるから、水行20日は2万里に換算され、帯方郡から邪馬台国までの1万2千里よりはるかに遠くなってしまう。
これは不彌国―投馬国―邪馬台国という行程記事とは合致しない。
では投馬国はどこに比定されるだろうか?
先に述べたように、帯方郡から水行十日で九州北岸に到達したのであるからそこからさらに水行十日かかる所に投馬国があったことになり、広く南九州が該当することになる。国名で言えば713年までに日向国から大隅国と薩摩国が分離独立しているが、その前の日向国「古日向」がそれに当たる。「投馬国すなわち古日向」は今日の鹿児島と宮崎を合わせた広さを持ち、魏志倭人伝の当時、戸数5万戸の雄大な国であった。
以上で①を終わる。続きは後日!
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