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石平講演会(鹿屋市リナシティ)

今日1月30日、鹿屋市のリナシティで石平講演会があった。

開演は6時半、主催が肝属地区法人会とあって会社や個人企業の経営者などがたくさん聞きに来ていた。450人くらい入る会場は八分の入りだったように思われた。

法人会会長の「新春講演会はいつやるんだ―という会員の要望に応えるべく最適の講演者をお願いした」との挨拶ののち、講演者の石平(せき・へい)氏が登壇した。201230 石平(セキヘイ)という人は4年ほど前に日本に帰化した中国人で、5,6年前に『中国はなぜ日本を嫌うのか』というような題の本を出している。

 本の内容には触れないで、彼の生い立ちから日本に来るまでを語ったのがメインの講演会であった。

  この人の生れは中国でも内陸の四川省の首都である成都で、1962年1月30日が誕生日で、今日がまさに50歳の誕生日だそうだ。

  両親は大学の先生で一人息子らしい。生まれて4年目に中国で巻き起こった文化大革命により知識人の多くが下放、つまり農山村へ追放されたが、両親も四川省の山奥に追いやられ、とある農場に行かされ、豚の世話に明け暮れることになったという。

  4歳だった石平氏は母方の家に預けられ、文化大革命が毛沢東の死によって終焉した1976年まで、山奥で自然児として暮らしたが、中学生の時に解放された両親と再び暮らすようになり、高校を出て北京大学の哲学科に入学し、卒業後は四川に戻り大学の講師となった。

 ところが26歳の時に日本に留学していた友人の招きで日本に来ることになった。一年間日本語を学んだあと、神戸大学の大学院に入学し、博士課程まで終え、その後も日本で暮らすようになった。

 なぜ日本に暮らすようになったかのきっかけは、当時留学生には日本人の保証人が必要だったそうで、来日して一年後に友人の勧めで保証人に会いに行った時の衝撃的な出会いであったそうだ。

 その出会いとは、保証人になってくれた人の家を訪れた時に、そこの奥さんが玄関まで出迎え、両手をついて「ようこそいらっしゃいました」と言ってくれたことだそうである。保証人と言えば威張って自分を迎えるものと思っていたのが、丁寧至極の挨拶を受けて戸惑うと同時に日本にはまだ「礼儀」というものが残っている―と大感激したのだった。

 翻って、中国では2500年前の儒教の祖・孔子が最も大切にしたのが「礼」であった。中国ではあの文化大革命で孔子の教えは完全に否定され、礼は失われて行ったのであるが、何と現代の日本にはまだ孔子の望んだ「礼」が生き続けているではないか!

 あの3.11東日本大震災の時に、中国でも大々的に報道されたのだが、一般市民の反応として「反日教育」の成果でもあるのだが、「中国に侵略し、残虐なことをした日本め、ザマアミロ」というような意見もある中で、何と中国で最も権威ある新聞が一面にある写真を載せたことから、日本人に対する見方が変わったという。

 その写真とは東北の悲惨な状態ではなく、東京在住の中国特派員が撮影した東京駅での一コマであった。多くの会社員が帰る手段を失って最寄りの駅や公共施設で一夜を明かしたのだが、東京駅ではあふれ返る人たちがパニックになることもなく整然と一夜を過ごしていた。床に座りきれずにエスカレータにまで腰を下ろす人々が多かったのだが、何とエスカレーターの真ん中を開けて、人が上り下りできるようにしていたのだった。

 写真はその光景を撮ったものが、日本人の他者への思いやり(道徳心)にいたく感動したというような記事だったので、中国人もそれを読んで「残虐な日本人」像を改めつつあるという。

 日本人は中国の儒教の教えもインドの仏教の教えもいまだに守っている。つまり東洋文明の最大の庇護者であるということを自覚し、これからも守り続けてほしい。今の政治はなっていないが、庶民の中にはこのような東洋らしい思いやりのある生き方が息づいているので心配はしていない。

――おおむねこのような講演であった。

 他国から見た日本人の特質をわれわれ日本人は再度確認し、古き良き日本的なものを守り、また失われつつあるものを回復したいものだ、とつくづく考えさせられる素晴らしい講演だった。

 

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「この国」とはどこの国?

 国会での野田首相の施政方針演説を聞いていると、気になる言葉が出てくる。

 「この国の未来を創るために・・・」という一節である。

 

 おやおや、日本の首相までが自分の国のことを「この国」と言い出し始めたんだ。

 

 他に言いようがないわけじゃない。「わが国」か「日本」があるではないか。

「わが国の未来を創るために」あるいは「日本の未来を創るために」と、どうして言わないのだろうか?

 

 誰が自分の家族のことを「この家族は」などと言うだろうか?

 

 いや、使えないことはない。それは家族を卑下するか見くびった場合には使えるだろう。

「この家族には、もううんざりだ」―などのように。

 

 してみると、首相は日本を見限ってあのように言っているのだろうか? しかし演説を聞いていいる限りでは、そう考えてはいないようだ。

 

 野田首相がたとえば日産自動車の最高経営責任者カルロス・ゴーンのようにどこか外国から雇われて日本の首相になったのだったら言えるかもしれないが、野田首相は日本人の生え抜きであり、日本人による選挙の信任を得て衆議院議員になり最高指導者に上り詰めたことははっきりしている。

 

 ならば「この国」などと言わずに「わが国」と言って欲しいものだ。たぶん司馬遼太郎の『この国のかたち』あたりから人口に膾炙し始め一般化した用法だと思うが、小説の世界ならいざ知らず、生な現実世界を担当する政治家が使うべき言葉ではない。

 

 野田首相の「社会保障と税体系の一体改革」は支持するが、「この国」という用法は支持できない。

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リーダーはどうしたら出るのか?

いまNHKで「シリーズ・日本新生―リーダーを生む条件―」という番組をやっているが、プレゼンテーター諸氏の論点の最大公約数は、「違いが分かる・違いに寛容な人間を育てることで新しい時代のリーダーが生まれるだろう」のようだ。

 

 確かにそのことに誤りはなく、ますます国際化していく世界にあってリーダーの資質としてそれは必須の条件であろう。

 

 しかし戦後は「経済一流、政治は三流」と言われて来た。明治以降の政治家にあった「日本独自の道を歩む」という気概のある政治家は出なくなったのである。

 強いて言うならば、政治の分野で際立った政治家として吉田茂佐藤栄作、それと田中角栄が挙げられる。面白いことにこの3人は共通して、「戦勝国アメリカに物申す」ような事績を残している。

 

 吉田茂は朝鮮戦争を受けてアメリカが「日本もアメリカの軍事力におんぶしないで独自の武力を持つべきだ」というアチソン国務長官に対して、「そんなことはできない。やったら戦後の疲弊した経済が回復できない」と突っぱねたのであった。

 

 佐藤栄作はアメリカ占領下にあった沖縄返還をもぎとり、国際的評価としてノーベル平和賞を受賞している。

 

 田中角栄は佐藤栄作が沖縄返還を勝ち取った同じ年に政権を引き継ぎ、中国との国交回復(日中国交回復共同声明)を果たした。アメリカにとっては苦々しい事態であった。

 

 世界から一定の評価を受けている戦後日本の政治家はこの3人くらいしかいない。しかも3人とも言わば “アメリカに楯突いた”政策を実行しているのである。実行したからこそ佐藤栄作はノーベル平和賞を貰った。

 

 ここまで来れば賢明な人はお分かりだろう。要するに戦勝国アメリカの頸木を離れればよいのである。国際的に何か言う前にアメリカの顔色を伺うようでは日本独自の政策は出ようがない。

 

 上の3人の総理大臣はそこを突き抜けて行ったのである。今度生まれるリーダーはアメリカのオーバープレゼンスから自由になることが求められる。その時が日本の真の自立であろう。

 今の国際連合安全保障理事国が対日戦勝国で固められている以上、日本の国際的な提言はなかなか採用されないだろうが、安全保障理事国以外の世界170国は日本の提言に耳を貸す国が非常に多いので、いつかは受け入れざるを得なくなるに違いない。

 

 最近耳にした野田首相の「太平洋憲章」は戦前の対枢軸国(日・独・伊)向けの「大西洋憲章」を下敷きに作成したようだが、アメリカ側は必ずしも歓迎はしないだろう。

 しかしながらアメリカからの自立を果たすことで、日本に真に新しいリーダーがおのずと生まれてくるはずである。

 

 

 

 

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今町一里塚址(宮崎県都城市今町)

都城に所用があり、その帰りにかねてからゆっくり見物したいと思っていた「今町一里塚址」の所で車を停めた。

 

 今町の一里塚は鹿屋市から国道269号線を行き、末吉町を過ぎて県境を越えて宮崎県に入って約1キロほど行ったところにある。逆に都城市からは今町小学校を過ぎて1キロ余り鹿児島県寄りに走れば、国道の右手にちょっとした小山があり、看板と標柱が立っているのが分かる。005 国道269号線は鹿屋市との幹線道路であり、また志布志市との交通路でもあるので、車はひっきりなしに走っている。道の両脇に目印の榎(エノキ)らしい老樹が立つ。001 ちょっとした小山の上には石柱が立っている。006その石柱の正面には「史跡 今町一里塚」とある。横には史跡に指定された年月日が「昭和十年十二月二十四日」と掘り込まれている。

  説明板によると一里塚で現存するのは九州でもここしかないらしい。そういう貴重な文化財ということで国の史跡になったものだろう。007 そもそも一里塚の起源は江戸時代にさかのぼる。江戸幕府は諸国への街道敷設を第一義とかんがえ、敷設ののちは一里ごとにこのような塚を築いて目印とし、大樹を植えたようである。

  ここもエノキが両側に残るが、残念ながら江戸時代生れの木ではなさそうだ・・・。

  かって昭和10年頃までは、このような街道筋には必ず松並木があり、景観に資するとともに緑陰を提供していた。江戸時代に日本を訪れた西洋人が「日本は美しい国だ」と称賛したというが、その理由の一つが街道に植えられた松並木だった。ところがその後、松はばっさばっさと切り倒されてしまった。というのも例のあれのせいのようである。
 

 

 あれと言ってもピンとこない人がほとんどだろうが、太平洋戦争の時、アメリカからの石油がストップされ、その代わりに苦肉の策として身代わりとなったのが「松根油(しょうこんゆ)」で、松の根に含まれる油が石油の代用となったのであった。

 ともあれ、「今町一里塚」は残った。江戸時代を偲ばせる貴重な文化遺産であることは間違いない。

 

 

 

 

 

 







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今朝の寒さかな。(鹿屋市池園町)

夜中から明け方にかけて随分冷え込んだのだろう、足元が冷えて目が覚めた。脚を右へ曲げ、左に曲げて、凌ぎしのぎしているうちにトイレに起き立ち、時間を見ると6時半だった。

ウメの散歩の時間に遅れてしまった。慌ててたくさん着込み外へ出ると、全くの無風。昨日は終日風が強いうえ桜島の灰が飛来して町中が煙ったような状態だったのだが、一転して何事もなかったようにシーンとしている。

風が無いのでさほど寒いとは感じなかったが、あたり一面が真っ白に覆われているのがすぐに分かった。まだ薄暗い中を例によって「道草」ならぬ「道芋」を拾いながら歩くウメを、途中の芝生畑では鎖を外して思う存分走り回らせ、15分ほどして帰ってくると、何と心の字池が全面氷結。001 これまで外に出してあるウメの水入れや外水道のバケツの水が凍ったことは4,5回はあったが、池の方が凍りついたのは初めてだ。004 少し割ってみると厚さはせいぜい2ミリほどか。それでも池の表面に浮かんでいた落ち葉のサンドイッチが出来ていた。0051年と3か月前に死んだ老犬ビータローの墓の周りに植え込んだ花キャベツも縮込まり、葉脈が白く浮き立って見える。008家の東隣りの畑もその向こうの芝生畑も真っ白だ。

 去年の晩秋、荒れ放題だった東隣りの畑に人の手が入り、藪がきれいに払われたのですっきりした。ここに家を建ててから8年間の間、春から晩秋までの間に7、8回は境界沿いに幅2メートル・長さ30メートルほどを自分の手で刈り取ってきた。そうしないとつる性の葛の類の雑草が我が家の庭に侵入してくるのだ。

今年からはその手間が要らなくなるのだろうか・・・。期待している。

 それにしても・・・今朝の寒さかな。(7時過ぎに玄関前でマイナス4℃!)





 

 

 

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『まぼろしの邪馬台国』(新版)を読む

『まぼろしの邪馬台国』は昭和42年に講談社から出版された宮崎康平による邪馬台国論だが、出版されるとたちまちベストセラーになり、同じ年には<吉川英治文学賞>を受賞した。

 同時受賞者に松本清張がいた、というからレベルの高さが分かる。まさに民間人による総合的邪馬台国論の先駆けであり、金字塔といってもよい。今度読んだ「新版」によると出版してから5万通ものファンレターが来たというからすごい。

 以後、民間人のみならず研究者の本も含めると100冊は下らない邪馬台国論が世上に流通したそうである。その中には『まぼろしの邪馬台国』の引き写しや所論の引用が多数あり、いずれも宮崎康平の許可もなく出版したものも多かったらしい。

 自分も高校3年生の時だったか、早速買い求めて読んだが、これまでにない歴史語りの文脈に甚く興奮したものである。

 それまで歴史は同じ社会科目でも地理などと比べて「人間中心の切った貼ったのドラマ」が多すぎて、あまり好きになれなかったのだが、この本で俄然興味を持つことになった。

 ただし、残念なことに大学で歴史を学ぼうという考えには踏み切れなかったが、社会に出てからも折に触れて邪馬台国論の書物を図書館などで借りては読んでいた。今はやりの「オタク」というほどのものではないが、それでもいつかは自分なりに邪馬台国を見つけてみたいものだ―という信念のようなものを植え付けてくれた本であった。

(その思いが凝り固まり、36年後の平成15年に『邪馬台国真論』を上梓した。副題に「まぼろしの月支国」と入れたのは、『まぼろしの邪馬台国』のちょっとしたパクリだが、それだけこの本に敬意を払っている証拠である。)

 さて前置きはこのくらいにして、邪馬台国九州説の本格的論攷としての『まぼろしの邪馬台国』を取り上げてみよう。

 いきなりの結論だが、宮崎康平の比定した邪馬台国は長崎県の諫早地方から島原半島の北部にかけての地域である。

 その他の国々の主なものの比定地を列挙すると、

 末廬国・・・佐賀県の名護屋(松浦半島)

 伊都国・・・福岡県の糸島・前原地域

 奴国・・・福岡市の須玖遺跡を中心とする春日地域

 不彌国・・・福岡県宇美町

 投馬国・・・天草島

 狗奴国・・・鹿児島県出水市~薩摩川内市

 とし、その他の傍国は福岡県の大野城市より以南、熊本県の八代市まで南北に展開していると考えている。

 宮崎康平の比定地で、他の著者と大きく変わっているのは邪馬台国・投馬国・狗奴国の位置で、もう一つ加えれば末廬国だろう。

 末廬国を通説の「唐津市」にしないのは、唐津市から福岡県前原市へは東北の方角だからで、ここの倭人伝上の方角「末廬国からは東南陸行500里で伊都国に到る」の東南を生かすために、あえて松浦半島の北端の名護屋に持って行ったのである。

 名護屋から前原市に行くのであれば、まずは名護屋の「東南」にある唐津市へ歩いて行くから「東南陸行」は満たされる。残りの唐津からの東北行は関係ない―という論理だが、これは無理だろう。そう解釈してよいなら、たとえば宮崎県えびの市から南にある鹿児島空港を利用して福岡市に行くとき「えびの市から南行して(空路)福岡に到った」という表現も間違っていないことになるではないか。

 末廬国から東南陸行500里にある「伊都国」を福岡県前原市と比定するのが誤りであることに気づけば、素直に東南に松浦川沿いの山道を歩かせればよいのである。佐賀県多久市や小城市が「伊都国だよ」と迎えてくれるであろう。(私説では伊都国=小城市)

 伊都国を前原市とした場合、もう一つ論議に上がるのが、糸島なら「壱岐(一大国)」から直接船で行けばいいのに、なぜ末廬国で下船して何十㌔もの難路を歩かなければならないのか―という疑問である。 

 これについて宮崎は、

 「壱岐、名護屋の航路によらず伊都へ直行しようとすれば、距離は2倍近くにのび、しかも波の荒い玄界灘を乗り切らなければならない。それだけ航海日和の選択は不確実となり、追い風が少し西に寄りすぎているので操舵がむずかしく、危険性は倍加する。そこへゆくと名護屋コースは距離も近く、安全かつ最も適確な航路で、より航海に適した日和を多くえらぶことができるのである。そこに名護屋の価値があり、上陸してから少々歩こうと、できるだけ回路を避けたのであった。東南陸行500里という陸行の意味も、実はここにあるのだと思う。」

 と答えている。(同書180ページ)

(別の著名な論者で邪馬台国北部九州説の古田武彦は末廬国を同じ松浦半島の呼子に比定しているが、宮崎の説と大同小異である。)

 ここでさらなる疑問がわく。というのは壱岐―糸島(伊都国)間の距離は、対馬―壱岐間の距離とほぼ同じ。また金海市(狗邪韓国)―対馬間の距離よりははるかに短いのである。波の荒いのは対馬暖流が流れ込むこの三つの朝鮮海峡のどこも同じようなものであり、格別に壱岐―糸島間だけが荒いわけではない。

 また仮にもし異常に波が荒いのだとしても、何も下船はせずに唐津湾内を南下して湾岸沿いに渡り、糸島までも海岸沿いにゆっくりと船行すれば問題ないではないか。おそらく、どうのんびり漕いで行っても二日とかかるまい。

 「航海に適した日和の選択」などというのはその前の二つの海峡でも同じことで、そんなことなら二つの海峡は永遠に渡れないだろう。どうみても上の説明は「はじめに伊都国=糸島・前原ありき」による牽強付会としか考えられない。

 なぜ、多くの九州説論者は末廬国から「東南陸行500里」という倭人伝の説明に素直に従わないのだろうか? いや百歩譲って、なぜ考えてみようともしないのだろうか。不可解でならない。

 たしかに前原市には目を奪われるような古墳が多々あり、それを近畿に負けぬ先進性ととらえることによって「畿内偏重の史論に対抗させたい、させなければならぬ」と考えるがゆえに伊都国を糸島(前原)に持って行きたい気持ちは分からないでもないが、古代を考える際の考古学偏重の戦後史論の欠陥がここに如実に表れていると言えよう。倭人伝はあくまでもそのような主観を排して読み取らねならないのである。

 九州説論者が伊都国を末廬国の東北に位置する前原市に比定したことによって俄然元気を得たのが邪馬台国畿内説である。

 「九州説は末廬国から東南陸行とある伊都国を東北にある前原市に比定した。つまり角度を90度北寄りの地に比定した。それなら南を90度北寄りの東と考えてよいことになる。そうすると邪馬台国は不彌国から水行30日プラス陸行1月の畿内だ。やったー。」

 邪馬台国比定地論争に畿内説が大手を振ってまかり通るようになったのは、この一点からである。

 九州説論者が伊都国を前原市と比定して何ら疑いを挟まないでいるうちに、畿内説がどんどん論旨を拡大し、ありもしない卑弥呼の墓=箸墓古墳説を大真面目に取り上げだしたのである。その結果、15年くらい前は箸墓は4世紀の中期の築造だろうとされていたのが、近年は築造年代がどんどん繰り上がってちょうど卑弥呼の死亡年代に築造されたことになってきた。ご都合主義というほかない。

 投馬国と邪馬台国の位置について宮崎は、

 「倭人伝を忠実に読めば読むほど、どうしても南へ水行しなければならない。このことで私は実に長い間苦労を重ね、研究をつづけた結果、遂に邪馬台国時代には博多湾と有明海の間に水道が通じていたことをつきとめた。つまり博多湾と有明海はつながっていて、この時代には自由に航行ができたのである。だから水行二十日、水行十日と、投馬国や邪馬台国へ直接博多湾から船で達することができたのである。」

 と書く。(邪馬台国への「南水行十日陸行一月」を宮崎は「水行で10日だが陸行では1ヶ月かかるとしている。)

 ここに至って宮崎は驚天動地の「博多湾―有明海運河説」を展開する。

 福岡県二日市市に「水城址」があり、ちょうどそこは地峡になっており、かっては運河だったと推理しているのだ。

 この運河を通って「伊都国から南へ船で20日」が投馬国で、そこは天草島であるとし、「伊都国から南へ船で10日」が邪馬台国で、そこは諫早湾沿岸地域であると比定している。

 しかし天草に当時5万戸の大国・投馬国があるわけがないし、また諫早湾岸が邪馬台国ならば唐津で下船せずとも、西回りで平戸海峡から大村湾に入れば波穏やかなうえに三日もあれば到着できる位置である。

 このことからも投馬国、邪馬台国は天草島や諫早湾岸ではないことが言える。残念ながら比定地を誤ったという他ない。

 尊敬する宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』だが、結論としては承認できないのである。

 

 

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本八山岳に登る(鹿屋市吾平町神野)

正月三日。

 明日から仕事が始まるが、歳末から正月にかけて飲み過ぎ、食べ過ぎが続き身体がなまってきたので、去年に続いてこの日に山登りをしてみた。

 登る山はいま懸案となっている「八山岳」だ。ただし、ネットでは八山山系の三等三角点のある659㍍のピークのほうを八山岳と言っているが、こちらは八山山系の最高峰なので「本(もと)八山岳」(940.5㍍)と呼ぶ。

(別のホームページではこの山を「大尾岳(うおだけ)」としているものもあるが、このような名称は古地図類に一切ないので、いったいどうしてそう呼ぶのか不審である。)

 午前10時前に家を出、神野に着いたのが10時25分。それから姶良川源流沿いの難路を、さらに25分かけて上がると登山口だ。入り口の前には2枚の看板が立つ。001 向かって右は「林木遺伝資源保存林」の説明で、これから登る登山道沿いには13ヘクタールにわたって保存林が展開していることを述べている。また左のは「大隅半島緑の回廊」の説明で、ここから稲尾岳を経由して内之浦(肝付町)へ至る天然林の回廊が示されている。

 説明を読んでいると、何となく気が引き締まってきた。手つかずの自然に飛び込むのだ。023 登山道に入ると間もなく巨大なイスノキやアカガシのお出迎えだ。005 6,7分で花崗岩むき出しの沢を渡る。022 しばらくは尾根筋までの急な登りが続き、15分ほどで尾根に出る。向うに傾斜した斜面には人工林(ヒノキ)が見える。人工林はわずかにここだけだった。009_2 尾根から次の尾根へと徐々に高度を上げていくうちに渓流に出会った。苔むした岩をえぐった流れが面白い。ここで水を補給。014 渓流は姶良川の源流で、浅い谷が1キロほども続いた頃、奇妙な形の岩に出会った。まるで恐竜の卵の化石のようだ。015 「恐竜の卵」まで来ると渓流に水はなく、程なくして道しるべに行きあう。森林作業用の道しるべらしい。林道の表示だけでは山登りの道案内にはならない。幸いにも縦棒に誰かがボールペンで書いてくれていた案内で、このまま真っ直ぐ登ればよいことが分かった。ここまでで50分。016 道しるべからは細い山道になり、20分ほどで山頂に着いた(ちょうど正午)。三等三角点がある。向うの角柱は半分腐っていたが、昭和62年7月に基本測量をした記念の杭であった。以前来た時はここに「八山岳山頂」という様なものがあったような気がするが、山名の表示は何もない。とあるホームページに出ていた「大尾岳」の表示もない。ミステリーだ。027 帰路は全く同じ道を引き返し、里に出たところに鎮座する「大川内神社」に詣でた。何と新築されている!028 神社の周りも広々として清々しい。一部朱塗りの柱が残してあるが、瓦屋根にマッチした色調の社は落ち着きがある。参拝して当地と家内の繁栄を祈願した。

 (祭神は、主神が吾平津姫(古事記では阿比良毘売=神武天皇の妃)で、神武東征には加わらず、当地に残って東征の成就を祈りつつ没したそうだ。合祀されているのはホホデミ命、ウガヤフキアエズ命、タマヨリヒメ、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)とある。

 神武天皇と一緒に東征した子のタギシミミ命が祭られていないのは不審だが、綏靖天皇紀によればタギシミミは反逆を企て皇統から抹殺されたので祭るのは憚られたのだろう。しかし主神の吾平津姫にしてみればその息子も加わった東征の無事を祈っていたのであるから、タギシミミを除外するのは気の毒という他ない。)

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柏原海岸の初日の出(肝属郡東串良町)

当ブログをご覧のみなさん、明けましておめでとうございます

平成も24年(2012年)目を迎えました。ますます昭和が遠くなっていくのは少々さびしい気もしますが、天皇の代替わりごとに年号が変わることの意味が感慨深く思われてなりません。

まさしく年を取ったせいでしょうナ。(初孫が生まれて爺さんになったせいもあるけれど…)

 

 ところで、昨日の元旦は天気予報通りの午前中の曇り空で、初日の出は無理。こんな時に限って正確に当たった予報に、内心舌打ちしながらも拍手を送ることでしたよ。

 今朝の上天気を愛犬ウメの6時過ぎの散歩で確認したので、朝飯前に日の出を見に車を走らせて東串良町の志布志湾に面した柏原海岸(漁港)へ行ってきました。013 7時15分ごろ、漁港に到着。舫っている漁船の一隻に竹のマストが立てられ、日の丸と大漁旗が付けられていた。016 望遠で拡大すると、向かいの肝属半島最東端の海に突き出た稜線の、ちょっとしたピークから太陽が上がって来るらしい。023 待つこと10分。ピークの上に太陽が顔を出す。7時30分頃には完全な姿を現した。

 本年二回目の日の出だ。家内安全・健康を祈る。

 帰りに漁港の裏手にある「戸柱神社」を参拝。024 柏原の海岸通りから石段で60段ほど、比高にして10㍍の砂丘の上に鎮座する。025 ここには1000年前の平安時代中ごろに遷座してきたという由緒を持つ。それ以前は「皇神山(こうじんやま)」にあったというが、その山はどこであるかは書いていない。

 「皇神山」を「降神山」とも言う―とあるので、天孫降臨的な原始信仰を持つこの辺りではランドマーク的な権現山(320m)がそれかもしれない。権現山は串良川を挟んで肝付町側の河口にそびえる秀麗な山である。029 汐入川に架かる柏原橋から南方向に望まれる権現山。この右側の土手の向うに肝属平野を潤す串良川が流れ、権現山の真下で志布志湾に注いでいる。権現山の麓にも同じ名前の戸柱神社がある。

 「権現」とは神仏混淆時代の表現で、「○○仏(本地仏)が仮に神としてこの世に現れる」という信仰であり、この権現山こそが神仏混淆以前の素朴な伝承では「皇神(降神)山」だった可能性が高い。

 「神武東征」は史実であり(ただし、私見では神武の子とされるタギシミミという投馬国王こそが東征の主役)、ここ柏原一帯の田園地帯がまだ干潟湖(ラグーン)だった時代に、向うの肝属山地から無尽蔵に伐採される船材を使って船団を造ったはずである。

 先の戸柱神社の岡の一角には、最後の薩摩藩主・島津忠重公の筆による「神武天皇御発航伝説地」という立派な御影石の碑が建つ。027  これはいわゆる「紀元2600年紀念」という昭和15年に建立された物であり、太平洋戦争遂行の戦意高揚のために建てられた―というわけで、敗戦となった時点で「無用の長物」化したのだが、これを「投馬国王タギシミミ御発航伝承地」と読み替えれば史実としてよい。

 ゆめゆめ「盥の汚れた水だけを捨てようとして赤ん坊まで捨てる」という愚を犯してはなるまい。

 当ブログ読者のみなさん、今年は邪馬台国・投馬国をみっちりと考えていきますのでよろしくお付き合いのほどを。

ホームページ「鴨着く島おおすみ」もよろしく。

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