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『まぼろしの邪馬台国』(新版)を読む

『まぼろしの邪馬台国』は昭和42年に講談社から出版された宮崎康平による邪馬台国論だが、出版されるとたちまちベストセラーになり、同じ年には<吉川英治文学賞>を受賞した。

 同時受賞者に松本清張がいた、というからレベルの高さが分かる。まさに民間人による総合的邪馬台国論の先駆けであり、金字塔といってもよい。今度読んだ「新版」によると出版してから5万通ものファンレターが来たというからすごい。

 以後、民間人のみならず研究者の本も含めると100冊は下らない邪馬台国論が世上に流通したそうである。その中には『まぼろしの邪馬台国』の引き写しや所論の引用が多数あり、いずれも宮崎康平の許可もなく出版したものも多かったらしい。

 自分も高校3年生の時だったか、早速買い求めて読んだが、これまでにない歴史語りの文脈に甚く興奮したものである。

 それまで歴史は同じ社会科目でも地理などと比べて「人間中心の切った貼ったのドラマ」が多すぎて、あまり好きになれなかったのだが、この本で俄然興味を持つことになった。

 ただし、残念なことに大学で歴史を学ぼうという考えには踏み切れなかったが、社会に出てからも折に触れて邪馬台国論の書物を図書館などで借りては読んでいた。今はやりの「オタク」というほどのものではないが、それでもいつかは自分なりに邪馬台国を見つけてみたいものだ―という信念のようなものを植え付けてくれた本であった。

(その思いが凝り固まり、36年後の平成15年に『邪馬台国真論』を上梓した。副題に「まぼろしの月支国」と入れたのは、『まぼろしの邪馬台国』のちょっとしたパクリだが、それだけこの本に敬意を払っている証拠である。)

 さて前置きはこのくらいにして、邪馬台国九州説の本格的論攷としての『まぼろしの邪馬台国』を取り上げてみよう。

 いきなりの結論だが、宮崎康平の比定した邪馬台国は長崎県の諫早地方から島原半島の北部にかけての地域である。

 その他の国々の主なものの比定地を列挙すると、

 末廬国・・・佐賀県の名護屋(松浦半島)

 伊都国・・・福岡県の糸島・前原地域

 奴国・・・福岡市の須玖遺跡を中心とする春日地域

 不彌国・・・福岡県宇美町

 投馬国・・・天草島

 狗奴国・・・鹿児島県出水市~薩摩川内市

 とし、その他の傍国は福岡県の大野城市より以南、熊本県の八代市まで南北に展開していると考えている。

 宮崎康平の比定地で、他の著者と大きく変わっているのは邪馬台国・投馬国・狗奴国の位置で、もう一つ加えれば末廬国だろう。

 末廬国を通説の「唐津市」にしないのは、唐津市から福岡県前原市へは東北の方角だからで、ここの倭人伝上の方角「末廬国からは東南陸行500里で伊都国に到る」の東南を生かすために、あえて松浦半島の北端の名護屋に持って行ったのである。

 名護屋から前原市に行くのであれば、まずは名護屋の「東南」にある唐津市へ歩いて行くから「東南陸行」は満たされる。残りの唐津からの東北行は関係ない―という論理だが、これは無理だろう。そう解釈してよいなら、たとえば宮崎県えびの市から南にある鹿児島空港を利用して福岡市に行くとき「えびの市から南行して(空路)福岡に到った」という表現も間違っていないことになるではないか。

 末廬国から東南陸行500里にある「伊都国」を福岡県前原市と比定するのが誤りであることに気づけば、素直に東南に松浦川沿いの山道を歩かせればよいのである。佐賀県多久市や小城市が「伊都国だよ」と迎えてくれるであろう。(私説では伊都国=小城市)

 伊都国を前原市とした場合、もう一つ論議に上がるのが、糸島なら「壱岐(一大国)」から直接船で行けばいいのに、なぜ末廬国で下船して何十㌔もの難路を歩かなければならないのか―という疑問である。 

 これについて宮崎は、

 「壱岐、名護屋の航路によらず伊都へ直行しようとすれば、距離は2倍近くにのび、しかも波の荒い玄界灘を乗り切らなければならない。それだけ航海日和の選択は不確実となり、追い風が少し西に寄りすぎているので操舵がむずかしく、危険性は倍加する。そこへゆくと名護屋コースは距離も近く、安全かつ最も適確な航路で、より航海に適した日和を多くえらぶことができるのである。そこに名護屋の価値があり、上陸してから少々歩こうと、できるだけ回路を避けたのであった。東南陸行500里という陸行の意味も、実はここにあるのだと思う。」

 と答えている。(同書180ページ)

(別の著名な論者で邪馬台国北部九州説の古田武彦は末廬国を同じ松浦半島の呼子に比定しているが、宮崎の説と大同小異である。)

 ここでさらなる疑問がわく。というのは壱岐―糸島(伊都国)間の距離は、対馬―壱岐間の距離とほぼ同じ。また金海市(狗邪韓国)―対馬間の距離よりははるかに短いのである。波の荒いのは対馬暖流が流れ込むこの三つの朝鮮海峡のどこも同じようなものであり、格別に壱岐―糸島間だけが荒いわけではない。

 また仮にもし異常に波が荒いのだとしても、何も下船はせずに唐津湾内を南下して湾岸沿いに渡り、糸島までも海岸沿いにゆっくりと船行すれば問題ないではないか。おそらく、どうのんびり漕いで行っても二日とかかるまい。

 「航海に適した日和の選択」などというのはその前の二つの海峡でも同じことで、そんなことなら二つの海峡は永遠に渡れないだろう。どうみても上の説明は「はじめに伊都国=糸島・前原ありき」による牽強付会としか考えられない。

 なぜ、多くの九州説論者は末廬国から「東南陸行500里」という倭人伝の説明に素直に従わないのだろうか? いや百歩譲って、なぜ考えてみようともしないのだろうか。不可解でならない。

 たしかに前原市には目を奪われるような古墳が多々あり、それを近畿に負けぬ先進性ととらえることによって「畿内偏重の史論に対抗させたい、させなければならぬ」と考えるがゆえに伊都国を糸島(前原)に持って行きたい気持ちは分からないでもないが、古代を考える際の考古学偏重の戦後史論の欠陥がここに如実に表れていると言えよう。倭人伝はあくまでもそのような主観を排して読み取らねならないのである。

 九州説論者が伊都国を末廬国の東北に位置する前原市に比定したことによって俄然元気を得たのが邪馬台国畿内説である。

 「九州説は末廬国から東南陸行とある伊都国を東北にある前原市に比定した。つまり角度を90度北寄りの地に比定した。それなら南を90度北寄りの東と考えてよいことになる。そうすると邪馬台国は不彌国から水行30日プラス陸行1月の畿内だ。やったー。」

 邪馬台国比定地論争に畿内説が大手を振ってまかり通るようになったのは、この一点からである。

 九州説論者が伊都国を前原市と比定して何ら疑いを挟まないでいるうちに、畿内説がどんどん論旨を拡大し、ありもしない卑弥呼の墓=箸墓古墳説を大真面目に取り上げだしたのである。その結果、15年くらい前は箸墓は4世紀の中期の築造だろうとされていたのが、近年は築造年代がどんどん繰り上がってちょうど卑弥呼の死亡年代に築造されたことになってきた。ご都合主義というほかない。

 投馬国と邪馬台国の位置について宮崎は、

 「倭人伝を忠実に読めば読むほど、どうしても南へ水行しなければならない。このことで私は実に長い間苦労を重ね、研究をつづけた結果、遂に邪馬台国時代には博多湾と有明海の間に水道が通じていたことをつきとめた。つまり博多湾と有明海はつながっていて、この時代には自由に航行ができたのである。だから水行二十日、水行十日と、投馬国や邪馬台国へ直接博多湾から船で達することができたのである。」

 と書く。(邪馬台国への「南水行十日陸行一月」を宮崎は「水行で10日だが陸行では1ヶ月かかるとしている。)

 ここに至って宮崎は驚天動地の「博多湾―有明海運河説」を展開する。

 福岡県二日市市に「水城址」があり、ちょうどそこは地峡になっており、かっては運河だったと推理しているのだ。

 この運河を通って「伊都国から南へ船で20日」が投馬国で、そこは天草島であるとし、「伊都国から南へ船で10日」が邪馬台国で、そこは諫早湾沿岸地域であると比定している。

 しかし天草に当時5万戸の大国・投馬国があるわけがないし、また諫早湾岸が邪馬台国ならば唐津で下船せずとも、西回りで平戸海峡から大村湾に入れば波穏やかなうえに三日もあれば到着できる位置である。

 このことからも投馬国、邪馬台国は天草島や諫早湾岸ではないことが言える。残念ながら比定地を誤ったという他ない。

 尊敬する宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』だが、結論としては承認できないのである。

 

 

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