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平田靭負の子孫が講演(鹿屋市高須町)

鹿屋市高須町出身で、あの木曽川治水工事の総奉行(薩摩藩家老)であった平田靭負(ゆきえ)の9代目の母方の子孫という平田靭久氏の講演が高須学習センターの集会室で開かれた。

 ルーツは鹿児島市内伊敷町にあり、そこは靭負の子孫が代々いた所であったが、いつしか男子が絶え、鹿屋市の高須町の岩元家に嫁いだ娘の子で平田家に入籍したのがすなわち今日の講演者・平田靭久氏である。

 現在は姉の嫁ぎ先の大阪のバネ製造会社に役員として属し、かたわら木曽川治水を行い、辛酸のうちに完成させた「薩摩義士」の物語を説いて回っている。003_2 それも「紙芝居形式」を採用して、迫真の演技を見せてくれた。これなら歴史に関心の薄い小学生などにはもってこいのアイテムだ。004_2 開始直前、何を取り出すのかと思ったら武士の月代だった。001 今日は「開設30周年記念講演会」ということで、高須出身で平田靭負ゆかりの人を講師に呼んだということである。008 講演終了後、高須の「刀踊り保存会」会長が挨拶とお礼にマイクを握った。

 講演の骨子は「木曽川治水により薩摩藩はそれ以前にあった70万両という借金に加えてさらに40万両の借財を生じさせた責任を取り、総奉行・平田靭負は江戸幕府が完成の検分をし、これでよし、との回答を得た翌日、割腹して果てた。」というもの。

 江戸時代、幕府は外様で規模の大きい大名の力を削ぐべく、各地の治水や城の修築などに駆り出した。いわゆる「御手伝い普請」といい、この木曽川治水の規模は前代未聞の莫大なもので、出費した40万両は薩摩の自弁、幕府が出したのはわずか1万両ほどだったという。

 工事への度重なる嫌がらせ、食事の粗末・・・耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、という言葉通りの難事業だった。ゆえに幕吏への怒りを隠忍自重し、耐えられなくなって自害するもの53名、不衛生な食事によって赤痢などで命を落とすもの30余名という犠牲を払い、検分に来た幕府方役人をうならせるほどの出来栄えだったという。

 「全く自分の利益にならないことへ精力を注ぎ、その結果が他者の役に立つ」というのを「義」というが、薩摩藩士はその通りのことを成し遂げたのである。よく「赤穂義士」などと言うが、あれは「義士」ではない。わが家の恨みを晴らしたに過ぎない。たしかに2年余もかかって見事に主君・浅野内匠頭の敵討ちをした業績は認めるが、それはあくまで主君への忠節を貫いたということであって、仇討によって当事者以外の誰かが利益を得たわけではない。

 そこに「薩摩義士」との大きな違いがある。薩摩義士は自腹で本来地元である美濃・尾張の大名がやるべき治水をやらされ、見事に完遂した。その結果は薩摩藩に何の利益もない。まさに「義」を実行したのである。永遠に語り継がれるべき業績だろう。(合掌)

 追記:旧日本軍60万がソ連によって強制連行され、酷寒のシベリヤでインフラ整備や建設に従事した挙句、6万もの死者を出したのも、「義」だろう。木曽川治水とは規模も死者数も違うが、義挙であることに違いはない。それにしてもソ連とはひどい奴らだ。感謝も知らぬ。



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コメント

初コメント失礼します(・ω・)/タギシミミさんのブログよませてもらってます(-^□^-)ファンです(笑)活気お普段はあまりコメントはしないんですけど、結構チェックさせてもらってるのにコメントしないのもアレかなって思いまして(苦笑)今日はコメントしてみました(照)というかココログ会員じゃなくてもコメントできるんですね…知らなかった(汗)もしよかったらメアド載せとくのでメールしましょー(*^ー^)ノタギシミミさんとお友達になれたら嬉しいです( ̄▽+ ̄*) marikoweeds@docomo.ne.jpだよー('-^*)/

投稿: まりこ | 2012年2月17日 (金) 23時19分

まりこさん、コメントはありがたいですが、このブログ上でしか応答はしないようにしています。(すべてのコメントに返信しているわけではありませんが)
悪しからず…。ブログの閲覧は大いにして下さい。感謝します。
ホームページ「鴨着く島(かもどくしま)おおすみ」も見て下さいな。

投稿: kamodoku | 2012年2月18日 (土) 09時58分

自然、野鳥、歴史大好きなので時々おじゃましてます。身近な史跡もなかなか1人で足を運ぶ機会ないです。おかげで、まるでそこに言ったような気分です。平田氏の記事も興味深いでした。

投稿: うずら | 2012年2月20日 (月) 16時00分

京都伏見の大黒寺(薩摩寺)に平田靫負の墓があるのを想い出しました。同寺は寺田屋事件にて粛清された有馬新七らの墓所として知られていますが、たしかに薩摩義士の顕彰碑もありました。 家老・平田靫負は美濃で切腹し、その遺骸は この伏見大黒寺まで運ばれ埋葬されたそうです。その義士の長たる平田靫負の末裔が大阪にいらっしゃるのですね。興味深いことです。

平田家当代はなかなか面白い御方とお見受けします。ところで、武士の「月代」は読めない人が少なからず、と思います。今後とも、ど素人にも読めるよう振り仮名などお願いできれば...と思う次第です。

投稿: Oさん | 2012年2月21日 (火) 11時37分

Oさん、月代は「さかやき」と入力して漢字変換すると「月代」と表示されたので一般的かと思っていました。今後、なるべくそのようにします。ありがとう。

投稿: kamodoku | 2012年2月21日 (火) 22時44分

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